話を長く引き延ばしているようだが、明日までZPZの日本公演について書き、その後はZPZのDVDなどの話に移る予定だ。
さて、ツアー・パンフレットでDweezilは楽譜を読めないことを告白しているが、これは昔から語っていたことだ。父親と大きく異なる点はそこだ。そのため、ZPZはフランク・ザッパの音楽の部分しか再現出来ない。つまり、管弦楽曲に関しては無視するしかない。どうせFZファンはそうした難解な曲をほとんど聴くことがないので、それでも何ら困ったことにはならないと言ってよい。それに、そういう曲の演奏はアンサンブル・モデルンがしっかりとやれる。と、Dweezilが思ったかどうか知らないが、現実的にはそうであって、Dweezilにないものを求めても始まらない。だが、Dweezilもそれなりに頑張っていると思えるのは、FZがギターでは演奏しなかった「G-Spot Tornado」を大阪ではアンコール曲として演奏したことだ。これはアンサンブル・モデルンによる管弦楽アレンジは10数年前からお馴染みであったが、ロック・バンドで聴くのもなかなかスリルがあってよかった。そこで思ったのは、たとえばアンサンブル・モデルンが丸ごと演奏した『ザ・イエロー・シャーク』をそのままロック演奏でやったり、あるいは蔵で眠っているシンクラヴィアの未発表曲をいち早くステージで演奏するなど、FZが試みなかったことをZPZがやることだ。そうなれば、FZとZPZの新曲ということにもなって、いかにみシンクラヴィアの思想を具現化もして面白い。そう考えると、ZPZの今後の企画はいくらでもあり、またFZのやった仕事は死によってぷつりと分断されたものではなく、生死は曖昧なまま今後も続く気がする。今日は2月1日で、ちょうど32年前にFZが東京浅草で演奏した日だが、長い休暇を取っているだけでまだ死んだことは実感としてない。それはそうと、先日間違ったことを書いた。FZ・マザーズの日本公演は大阪が最初だと思っていたが、前述のように2月1日の東京であった。で、12月にK氏と話をした時、K氏はDweezilが父親の遺したテープを各トラックごとに聴くことが出来てカヴァー演奏がしやすい立場にあってずるいと笑いながら語ったが、これは息子の特権ないし義務でもあって、ずるいという言葉はふさわしくない。だが、K氏もN氏もとても気持ちのよい温かい人で、もう会うことはないかもしれないが、筆者は出会って語った時のことを今もかみしめ、楽しい思い出として心に刻んでいる。FZファンの中には変な奴もいるが、結局はそうした人々が業界を支えているのは全く頼もしい。上の写真は、Dweezilに会う直前、誤ってデジカメのシャッターを押して写ったN氏のピンボケ写真だ。記念に掲げておく。
DweezilがZPZをやろうとしたのは、ツアー・パンフレットに書かれるように、父の音楽がoverlookされて来たからだ。これはignoreとはニュアンスは違うが、それでもあえて言えば「無視」に等しい。これだけの凄い仕事を、これだけの凄い量も成し遂げたというのに、それはないだろうという一種の義憤だ。それは肉親であるかならなおさら強いものだ。ようやくDweezilも自分の子どもを持ち、そういう見方が出来るまでの年齢に達したのだ。そして知れば知るほど父は偉大であったと正直に思え、またなぜ生きている時にもっと訊ねておくべきことがあったのにとも悔やんでいる。だが、えてして父と息子はそういうもので、筆者のように、息子が成人したような人間にとっては、そうでない人よりもDweezilの行動に寄せる思いはまた違うと思う。それはそうと、コンサートが終わった後、会場出口のところでK氏に声をかけられ、その時筆者が最初にK氏に訊ねたのは、K氏がFM802でDweezilの来日に絡めた特集を放送したかどうであった。12月に3人で会った時、宣伝のひとつとして、FMでの特集番組が考えられていた。誰と誰を呼んで対談するかなども話になったが、筆者もその中に入っていて、それで呼ばれたのかなと思っていたが、結局その後連絡もなく、また放送があったことも知らなかった。K氏は『1週間前にやりましたよ。短い曲を7、8曲詰めて…』と言ったので、1時間番組の中でFZの曲を流したようであった。そういう機会は皆無に等しいほどあり得ないので、まずはよかった。もうひとつ書いておくべきことがある。N氏と実際に会う前の12月6日に、メールで推薦文を依頼され、すぐに書いて送った。ノー・ギャラと断りがあったが、それはどうでもよい。おそらくスポーツ新聞にでも載ったのだろう。メールには、他に上原ひろみ(ジャズピアニスト)、オダギリジョー(俳優)、宇川尚弘(映像アーティスト)、鈴木博文(ミュージシャン)に推薦文を依頼していることが書かれ、また『この人もいいのではという推薦、ご紹介して頂ける方がいらっしゃいましたらお知らせください。』と続けてあった。無名の筆者など屁のつっぱりにもならないが、推薦が多いほど賑やかでいい。それで次のような推薦文を書いた。『有名な親を持つ2代目の苦労というものがある。フランク・ザッパの長男ドゥイージルが、父の音楽を演奏するツアーをするのは、父への尊敬と、父を越えるために通過すべき試練だ。それに正面から取り組む態度に真面目さを感じるが、実はそれこそがフランクが息子に伝えた最も重要なことではないか。そして、もしフランクが生きていたとしても、ライヴを求めるファンに対して、今回のような息子代役のツアーを企画したと思う。』
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●2002年9月8日(日)深夜 その5簡単な食事もできるし、おにぎりや飲み物も売っている。今年のその古書市の児童書の売り場横ではおやっと思わせられた。それは「土メンコ」をその場で焼いて、色づけを自由にしてもらうコーナーであった。これは伏見人形にもそのままあるもので、500円硬貨ほどの大きさで、厚さは8ミリほどだ。お多福や鬼、それに丸に文字を表現したものなど、教育的な目的も多少あるデザインだが、土を型で抜いて、しばし乾燥させ、それを七輪でまとめて素焼きすると、充分な固さのものになる。一見すると干菓子そっくりで、思わず口に放り込みたくなる。土メンコの遊び方の説明書きも置いてあったが、紙製のメンコとおはじきやビー玉の機能をチャンポンにした遊び道具だ。ポスターカラーで数人の小学生がカラフルに色塗りしていたが、係のおじさんは定年退職した優しい小学校の先生といった雰囲気をたたえていた。話しかけようと思ったが、テントをたたみ始めているなど、慌ただしい様子にそれを躊躇した。さて、久保田のミニ土人形に話を戻すが、無数の形があるように思えて、じっくり見るといくつかのパターンがあることがわかる。どれも手びねりで即興的に作られたはずだが、それでもその即興を繰り返すと、やがてパターンが現われる。ザッパのギターの即興も同じだ。どれも異なるとはいえ、作家の癖のようなものが形成されてパターンが出来て、それが当の作家性と判別し得る個性となる。30万体全部を見なくとも、おそらく無作為に選んだ300点をじっくり見ればそのこの人形作家の全貌がわかるのではないか。どれも甲乙がつけ難い作風であるからだ。こういう表現は民芸作家に特有のものだが、数をこなすことで妙な技巧を駆使する傾向に陥っておらず、その健康さは長崎の風土には似つかわしい。心がほっとするのだ。柳宗悦が見ればどう言ったであろう。作品1点で3ヵ月という筆者の友禅染はその対極にあるが、それはそれ、これはこれであって、芸の道もさまざまだ。とはいえ一気に作品ができてしまう技法というものに憧れはある。友禅染にも一発勝負的なところがあるにはあるが、それでも1秒で閃いたイメージを実際に目で見て触れる作品とするのに3ヵ月を要するでは、当初のイメージの持続が困難で、制作途中の気分の弛緩が入り込みやすい。思った瞬間に形にできるような作風が最もよいと思うが、残念ながらそれはなかなかあり得ない。彫刻家のミケランジェロはよくこつこつと彫ったことと思う。写真家のメイプルソープは、とてもそんな時間がないとばかりに、彫像のような写真を撮ろうと考え、それを実行し、そしてエイズで若くして死んだ。展示部屋の片隅のテーブルに感想ノートが置いてあった。座ってぱらぱらと見ると、若い人がほとんどで、たいしたことを書いていない。中には意味不明の落書きすらある。中が涼しいこともあって、休憩がてらに人形9点を原寸大でハガキ大写生本に描いた。館を後にする前に手洗い所で顔のべっとりとした汗を流し、鏡で日焼けした鼻のてっぺんを眺めた。まるで久保田の人形みたいな顔だ。