オーストラリア公演は3都市で計6回で、去年12月4日に終えたZPZだったが、本来なら1976年に来日したFZがそうであったように、そのまま日本にやって来てもよかったと思える。だが、会場のつごうがつかなかったのだろう。
本当は春に来たかったそうだが、年が明けて真冬の平日になったのは、N氏によれば、日本のミュージシャンが1年前からいい日を押さえてしまって、空いた日がなかったからだろうとのことだった。オーストラリア公演を済ましたZPZは、クリスマス休暇を経て、一旦気分を取り直してからの日本公演で、そのまままたどこかの国で演奏するのでもなく、日本だけのために来たのであるから、なおさら出費が嵩んだ。また、せっかくなら、FZが来日した2月上旬の節分頃にZPZが来日していれば、それこそFZの蘇りのようでもっと感慨深かったが、そういうことを思ったファンが当日は何人いたであろう。筆者の前の方に、ぴしりとスーツで決めたいかにもサラリーマン然した50代後半とおぼしき人がいたし、また頭の禿げ具合から見て60前半くらいの人もいて驚いたが、筆者も含めてFZの来日公演を経験した人はみなそんな風貌になっていて、当夜は2割程度は混じっていたのではあるまいか。ところで、韓国で公演して人気もあるSTEVE VAIとは違って、ZAPPAの名称はアジアではまだ日本どまりだ。マーケットの拡張を考えた場合、やり方によっては今後期待が持てるはずと踏むか、あるいはそのまま知る人が少なくなってしまうのを見つめているだけかとなれば、おそらくザッパ・ファミリーとしてはフランクの遺産を家族がもっと広めなければ、誰がそれをしてくれるのかといった気持ちがあって、とにかく新たな市場開拓を目指して強気に出ていることはよく伝わる。日本公演にしても、やるだけやってみるという前向きの思いがあってこそで、ZPZが今後どういう展開をするか楽しみが出来たと言える。だが、その姿はおおよそ想像出来る気もする。いずれZPZのオリジナル曲も混ぜて演奏するということになる可能性もあるが、それならZPZの名称は嘘になるので、当分はそれは分けて考え、ZPZでは父の曲のみ演奏するだろう。
そのひとつの面白い試みは、賛否あるが、筆者はフランクの映像とともにバンドが演奏することだ。これは当初からZPZがやって来た試みで、今回はそれが新たに3曲追加された。映像の編集がなかなか巧みで、しかもFZと息子との、30年以上隔たった音が違和感なくつながっていて、今ではこんなことが出来るのかと驚いた。そこで誰しも想像するのは、フランクが録音テープの一部のトラックを新たな演奏に置き換えたことを、今度はDweezilがやることだ。筆者はそんなアルバムがDweezil個人のギター演奏によって1点くらい作られても面白いと思うが、目下のところDweezilはライヴで丸ごと父の演奏を再現することに執心している。スタジオでFZのマスターをいじることなどいつでも出来るから、まず生で完璧に演奏出来るまでになろうとする姿勢は正しい。また、LIVEは日本でめったにフランクの曲をライヴで耳にすることのないファンにとってはありがたい機会で、そのライヴ演奏という点を大いに宣伝すべきと筆者は12月のN氏、K氏との会合で話した。普段CDやDVDで音楽を楽しむことに馴れていると、生演奏の迫力はなかなか実感出来ないが、今回の来日公演が、耳が痛くなるほどの大音量もあって、圧倒的な印象を刻印したことは前にも書いたとおりだ。DVDは1枚がすでに出ているが、Dweezilは別のものをまた出す予定で、しかもCDもだ。筆者が若干意外であるのはCDだ。DVDで充分と思えるが、何か差別化を図る思惑があるのかもしれない。また、LIVE CDが出るとして、その次に思い至るのは、やはり先に書いたように、父のマスター・テープに介入した仕事ではないだろうか。ビートルズのアルバム『LOVE』が行なったようなことは、本来はフランクが得意とする分野の仕事で、その意味でDweezilはビートルズより豊富なネタを大量に持ちながら、まだそれにはほとんど手つかずの状態にある。いずれそれを使わない手はないと考えているのではないだろうか。そうなれば、フランクの遺産は新たな形でサイボーグのように蘇り、実は死んではいなかったのだといった感覚がファンの中に芽生えたりするかもしれない。とにかく時代に合った、あっと言わせる試みをどんどんしてほしい。
※
●2002年9月8日(日)深夜 その4先にグラバー園内のポスターに古賀人形を説明しているものを見ていた。そこには「年に1200ほどしか作らないので注文しても3年ほど待たされる」などと書いてあった。今は1件しか作っていないのであるから、その生産量は当然だ。量産してもさほど売れるものではないし、その程度の数の方が価値が出てよいのだろう。土産店のおばさんが言ってくれたのは長崎人形と呼ばれるもので、古賀人形に似てはいるが、もっと歴史が新しい。その長崎人形を売る店は見つけたが、表のウィンドウを見ただけで中には入らなかった。それで次は中古レコード店の番だが、これがなかなか見つからない。だいたい裏通りのビルの上にあったりするもので、そうした嗅覚を頼りにあちこち歩いていると古本屋にぶつかった。古本屋はたいてい1階にあるものだが、珍しくビルの2階だ。主はアイ・マックのコンピュータでデータを熱心に打ち込んでいた。ざっと店内を回って、美術本コーナーをじっくり見たが、買いたいものはなかった。少しの時間だけその店で冷を取った格好で、ふたたび外へ。さきほど調べた電話帳の住所が間違っているのかと思いつつ、諦めて平和公園に行くつもりで通りを下っていると、はたと目指す中古レコード店に出食わした。予想とは違って表通りの、しかも1階の大きな間口で店はあった。入口近くはCD、奥はLP棚がずらりとある。ザッパのコーナーを見ると、数もごく少なく、たいしたものはない。LPでは『金こそ目当て』のライコ・アナログの英文字が印刷された盤や、どういうわけか『ギター』と『オン・ステージ・サンプラー』が3枚ずつあった。後者は所有していないので買ってもよかったが、これもかさばるので止めた。3枚もストックがあるところ、よほど人気がない。それに2000円の売値では大阪でも買える。主は若いヒップホップ系のファンション・センスの男で、筆者の顔を2度ほど見た。初めて見る顔で、しかもおっさんが客として来るのは珍しいのだろう。日本の西の果ての、文化がチャンポン状態の長崎で、チャンポン音楽のザッパのアルバムを見るのも乙なものだが、予想どおりにその数は貧弱なものであった。長崎にどの程度の数のザッパ・ファンがいるのか知らないが、そうしたファンはザッパの数あるアルバムをどのようにして入手しているか。名古屋のFさんも、「文化レベルの低い名古屋では珍しいアルバムを入手するのは苦労する」と話していたから、長崎ではさらにそうであろう。あるいはそんなに珍しいアルバムを入手して喜ぶということ自体が不健康なのかもしれない。そんなものがなくても充分に人生は楽しく送れるはずで、モノや情報を極力少なくして生きるのも案外楽しいだろう。とはいえ江戸時代は長崎の出島は日本における外来文化の窓口であったし、珍しい博物学的な物は全部そこから入って京都や江戸に伝わった。若冲の絵も、ただ頑固に自分の身の周りの自然だけを相手にして写生したものではなく、当時最先端の珍しいモノに惹かれて、写実を無視した絵も描いた。白い象を中心に龍や麒麟などの動物を描いた有名な屏風はその代表だろう。若冲の絵は華麗であり、自分にとって未知な情報は貪欲に取り入れた。それもすべて絵のためだった。グラバー園の中に、麒麟ビールの商標の元になったという石像があった。そのことから見ても日本文化に占めるかつての長崎の重要性がわかる。そういったことを考えながら、現代の日本の情報洪水社会で、どのようにすれば独自のものづくりができるのか、炎天下を歩き回り、こうして日記をこつこつとつけるばかり。
長崎市の南部を見学した後は市中心のアーケード街を3往復ぐらいした。眼鏡橋近くを2、3度通りがかりながらもまともに眺めず、またすぐ山辺の祟福寺や坂本龍馬の銅像などには立ち寄らず、次に北部の平和公園を見ようと考えた。その前にアーケード商店街を歩いている時、休憩用の床机の傍らに数種のチラシを入れた看板を見かけた。チラシを見つけると必ずそれを確認したくなる性質。早速1枚ずつもらうことにした。グラバー園の夜間公開といった観光用のものに混じって、「頓珍漢人形」と大書した1枚を見つけた。久保田馨(かおる)という男が作った小さな土人形の展示だ。ぴんと来たのは先月に書いた、例の子どもに小さな土人形を配り続けて最期は百貨店の屋上から飛び下り自殺したという土人形作家のことだ。しかしチラシの土人形の写真を見ると作風は全く違う。入場料100円。ただしグラバー園前のバス停まで戻る必要がある。5時まで開館しているからまだ間に合う。平和公園は後回しにして先にこれを見ようと思ってバスに乗った。旧香港上海銀行長崎支店記念館の2階に展示室があった。またもや誰も客はいない。立派な石造りの建物で、すぐ近くにべっ甲博物館もあったが、これはパス。元銀行であっただけに重厚な造りで、内部もしっくりしている。こういう建物の広い1室に、わずか数センチの高さの小さな土人形がたくさん展示されている。京都では古い伏見人形の常設展示さえままならぬというのに、長崎は造形作家にとっては天国か。久保田は昭和3年に愛知に生まれ、27年に長崎に来た。市内の土産店で数十円といった安価な価格で販売されていたらしく、42歳で亡くなるまでの14年間に30万体の人形を作ったそうだ。その作風は「縄文」「地中海ラテン」「ユーモア漫画」のチャンポン風といった感じで、素朴かつ洗練味がある。岡本太郎の「太陽の塔」のイメージの源流にも連なるだろう。また原爆で壊れた人の顔を表現した不気味な仮面もあって、それらも含めて人形には原爆への怒りと平和への願いが込められているという。その点が久保田の人形がわざわざこのように立派に展示される理由でもあろう。どれもみな人体や動物を細くひょろりと表現したものだが、サイズはだいたい同じだ。色彩は黒や赤を中心にごくわずかで、古賀や伏見人形のように全体をべったりとは塗らず、大部分は茶色の土肌をよく生かしている。