物販がどのようになるのか、それが楽しみであったが、筆者が期待したようには、BARFKO-SWILLから通販されるCDやDVDが並ばなかった。
東京のVIDEOARTS MUSICが協力していたから、FZの紙ジャケCDなどが並ぶと思っていたが、別の会社のSTEVE VAIのものを少し並べるだけであった。Uさんによれば東京ではFZのCDが並んだから、VIDEOARTSはわざわざ大阪には来なかったのだろう。とにかくTシャツやタオルなど、繊維製品が目立ったが、それらがBARFKO-SWILLから販売されているものかどうかは知らない。種類が多くて何となく海賊商品に見えたが、Tシャツは普段に着るなら何となくもったいないし、かといって飾るほどのものでもないし、収集しても価値が上がるということはない気がする。CDとは違って、そうしたものは仮にオフィシャル商品であっても、ザッパの音楽とは直接には関係なく、さほどありがたくは思わない。だが、列を作っている人はみな何点か買っていたようだ。アルバム『アポストロフィ』のジャケットに印刷されるFZの大きな顔をプリントした大型ポスターが目についたが、コンサート後に耳にしたところ、それはバス・タオルで、完売したそうだ。もう1点別の小型のタオルも全部売れたと聞いたが、東京や横浜の分は別にしてあったのかどうか。筆者が買ったのはパンフレットのみだ。これは確か2種類あると聞いたが、今回持って来たのは新しく作ったものだろう。帰りの電車内でゲイルやドゥイージルの文章を読んだが、なかなか言いたいことをよくまとめていて、ZPZの姿勢がわかる。横32、縦23cm、24ページで、黒地の表紙はFZの髭がくり抜かれている。全ページは同じ紙でつるつるしているので、指の汚れが目立ちやすい。各メンバーに続けてBOZZIO、VAI、RAYの3人のゲストを写真入りで紹介しているから、今後新たなゲストが参加すると、また内容が一新される。その新たなゲストとしては、ヴォーカルのアイク・ウィリスが期待されるが、そうなればレパートリーは80年代中心になる。だが、パンフレットに書かれるように、DweezilはFZの70年代半ばの曲が最も好きであるため、すぐには実現しないだろう。欲を言えば、最後のページにFZのこれまでのディスコグラフィーを掲載してもよかった気がする。『ZAPPA\WAZOO』などの通販CDが続々と出ているので、そうした資料はほしいところだ。2000円は少し高い気もするが、オール・カラーで、写真満載であるし、BARFKO-SWILLから買うと送料などがもっと高くつくことを考えると安い。それで思うのは、なぜ、通販CDをまとめて持って来なかったのだろう。BARFKO-SWILLで買うのは面倒であるから、日本ではまだFZの通販CDを全部揃えている人は多数派ではないだろう。あるいは、そうしたCDを日本で直接売ることが出来ない制限があるのかもしれない。それとも繊維製品の方が利幅があると考えたか。
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●2002年9月8日(日)深夜 その3孔子廟への道のりをガイドブック片手に歩いていた時、小顔のあるおじさんが「どこへ行かれるのですか?」と声をかけて来た。結局、廟の入口まで連れて行ってくれたが、その途中にオランダ坂の入口を示す標識が目に入った。廟を後にしてその標識のところまで戻り、そしてオランダ坂を北上し、この日本百歩道のひとつに選ばれたという道を最後まで歩いた。92年にロンドンの長いアビー・ロードを歩き通したことをふと思い出した。どこか写生できるところがあればと思ったが、かんかん照りであるし、その気が一方では失せた。坂を抜けてオランダ通りに入り、ある商店のウィンドウに目を留めた。1枚の紙に切れ目を入れて山折りと谷折りを施し、建物を立体的に表現する紙細工の店であった。ウィンドウをのぞくと、大浦天主堂を含む長崎名所が3点で200円とあった。中に客はいないが主がいる。30秒ほど迷って、土産にはよいとばかりに思い切って店内に入った。同じようなペーパー・クラフトはフィレンツェでもあったと記憶する。東京でもあったと思うが、そのことを話すと、主は「○○先生のお弟子さんが東京にはたくさんいますから、そうした人の作品でしょう」と語った。折り紙もそうだが、紙細工の道で先生と呼ばれる有名な人があって、その弟子がさらにそれを発展継承して伝統をつないでいる。主は東京のUさんそっくりの風貌であった。年齢も近い。よく喋る人で、話が終わらない。こちらも話好きではあるが、当日は時間が限られていた。まだまだ訪れたいところがあるので、適当なところで切り上げた。もっと時間があれば楽しく話せる人であるのに少々残念だ。店はいかにも暇な様子で、筆者以外にその日は客が訪れたであろうか。一等地あって経営が成り立つのだろうか。しかし店内の壁にはオーロラを撮影したスナップ写真が数枚貼ってあり、そういった旅行のできるところ、経済的心配はさほどないのだろう。
そろそろ空腹を感じたが、あたりに飲食店はない。大阪ならば飲食店はどこでも目白押しに並ぶが、ここは別の地だ。そういうわけには行かない。ガイドブックを見るとすぐ近くに洋画家の野口弥太郎記念美術館がある。旧英国領事館を使用している。野口は長崎出身ではないが、長崎に逗留して制作したので、それにちなんでいる。絵は木の床ががたがたと鳴る数室に展示されていた。多くはないが、画風を知るには充分な量だ。入場者は筆者のみ。ひとり100円では全く儲からないはずだが、観る方にすれば実に得難い体験でありがたい。京都や大阪なら、コンクリート製のもっと立派な建物にさっさと造り変えてしまうところを、古い建物のままを使用しているのは好感が持てた。そういう空間に入ると、時間が一気に昔に戻ったような気がする。本当と自分が生まれてもいなほどの昔かもしれないが、不思議なことにその昔が体感できる気がするのだ。自分の生まれてもいない昔にあたかも自分がいたかのように感じることは、デ・ジャヴ感とは言わないだろうが、奇妙な時間感覚は共通する。先の二十六聖人殉教記念碑のある丘もそうだし、大浦天主堂も同じような思いをさせる場所だ。そしてもっと手軽なところでは1個の古い伏見人形があるだけでもそれは味わえる。昭和初期に造られた伏見人形ならば簡単に入手できるが、実はその頃に自分の母親が生まれたと思うと、とんでもなく古い時代であるのに、一方でその古さが手元にそのままあることに、そして一気にその昭和初期が身近に感じられることに永遠と一瞬が交錯して、一瞬頭がおかしくなったかのような感覚に囚われる。まるで自分の母が赤ちゃんになってそこにいるかのような気がする。古いものに接することは時空を一気に越えることであり、それはつくづく人間の思いの不思議さを再確認させてくれる。自分がそれだけ老いて、過去へのパースペクティヴがより鮮明に認識できるようになったからでもあろう。それはまたどこか悲しさを知ってわびしいことでもある。
昼食のために繁華街に出なくてはならない。アーケードのある商店街があるのかと、グラバー園を出た土産物店で聞くと、ガイドブックの地図でそのあたりを指してくれた。昼食の後は古賀人形と中古レコード店を探すことにしよう。何を食べればよいかと考えてあちこちうろうろしていると、スーパーのダイエーの前に来た。入口前には10人ほどのおばさんたちが野菜や魚の切り身を売る露店を開いていた。魚は日中の大変な暑さで大丈夫なのだろうか。石のような皮や肌色の肉の水分がきらきらしていた。長さ1メートルほどの鮫を中央で真っ二つにしたものも売っていたが、どのようにして食べるのだろう。薩摩芋などはとても安そうであったので、一皿分を買ってもよかったが、あまり荷物を入れていないのに肩に普段以上の重さを感じる鞄がさらに重くなっては困る。これは前にも書いたと思うが、いつも街中をうろつく時は、レコード屋のぱりぱりと鳴るLPのポリ袋を三重にして鞄代わりに持ち歩いている。それが最も軽くて丈夫だからだ。母や妻はそれを見るたびに浮浪者のようだとうるさいが、不労者のようだと言ってほしい。さて、露店を越えてさらに行くと中華街の大きな門に来た。それをくぐって、とても高級には見えない店でチャンポンを頼んだ。700円ほど。筆者の嫌いな桃色のカマボコがどっさりと載った皿が出て来て閉口したが、とにかく全部平らげた。あまりおいしくはなかったが、ま、こういう味なのだろう。「チャンポンはちょっと味が足りないと思うぐらいがちょうどよい」とガイドブックに書いてあるからそれを信用しよう。炎天下を歩き通して、すでに自販機で何度となく茶や水を買っているが、店では水を3杯も飲んだ。てきぱきと食べ終わって店を出た後、古賀人形を売る店を探したが、ついに見つからなかった。