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●『外骨-稀代のジャーナリスト』
か月以上は伊丹市立美術館に行っていなかった。久しぶりに訪れると、新しい店が出来ていたり、また館内にも新しいコーナーが出来ていた。それに頼山陽の因む館のシンボルである柿の木も枯れて抽象彫刻のようになっていた。



●『外骨-稀代のジャーナリスト』_d0053294_1121583.jpg外骨展のチラシを入手したのは、去年12月に神戸市立博物館を訪れた時だったと思う。裏面に1月19日に赤瀬川原平と南伸坊の対談があることを知り、ぜひその日に見に行きたいと考えた。そして実際行って来た。今年に入ってから、伊丹市美のホームページを見ると、赤瀬川が病気のため、対談相手は吉野孝雄という人に変更になっていた。それでも南伸坊が来るならいい。対談は2時からだった。昼前に家を出たので、どこかで昼食を食べる必要があったが、時間的に中途半端で、阪急の伊丹駅で下りて美術館に向かうまでのちょっとした商店街のようなところにある立ち食いそば屋に入った。そういう店でてんぷらうどんを食べるのが筆者は好きで、300円程度にふさわしい味と量であっても、熱い汁に浮かぶてんぷらかすがとてもおいしく感じられる。そそくさと食べ終えた後、時計を見ると、1時半で、これなら先着100人の定員の中に充分入ると思ったが、そこか5分で到着した美術館に入ってびっくりした。筆者が知る限り、最大の混雑ぶりで、すぐに整理券をもらったが、128と印刷してある。結果的に200強の人が学校の教室を少し大きくした程度の講堂内に立ち見を含めてびっしりと詰まった。せっかく訪れた人をなるべく締め出さず、ぎりぎりいっぱい見させようとの思いには好感が持てる。杓子定規に定員100人と限って、その100人をゆったりした気分で聴講させようとするのは、あまりに役所的で、京阪神では反発を食らう。だが、あまりに詰め込み過ぎたため、とにかく暑く、南伸坊は対談の途中で暑いですねと言いながら黒い上着を脱いでいた。南はTVにもたまに出演するので人慣れしているせいか、とにかくいきなり人を飲み込む貫祿のようなものがあった。相手の吉野氏は実は宮武外骨の身内で、これは対談で知ったが、小学3、4年生の時に最晩年の外骨と暮らしたことがある。89で外骨は死ぬが、床擦れを起こして、体に骨が覗いている箇所があったらしい。子どもの吉野氏はよく外骨から買物の用事を言いつけられ、どじょうやうなぎを買って来たという。また、小さな木造の家に、高級な車が横づけされ、中から出て来た人が外骨にぺこぺこして先生と呼ぶことを不思議に思ったそうだが、そういう偉い外骨のことを友だちに話しても誰も知らず、そのうち吉野氏は外骨について話さなくなった。そんな吉野氏がなぜまた外骨に興味を抱いたかと言えば、外骨の墓の管理をしていて、自分がなくなれば次は自分の子どもが管理せねばならず、そのためには外骨のことを知っておく必要があると考えたからだそうだ。
 一緒に暮らす身内でも、まだ自分が幼い頃に世を去れば、長じてからは自分の生活に忙しくなって、なかなか興味は抱きにくいだろう。また普通の人ならば、調べようにも、写真がある程度で、そのほかは何も残していない場合が多い。父親ならまだしも、おじいさんくらいになると、そしてそのおじいさんがごく普通人であれば、もう孫は関心を抱かない。であるから、3代もすればそれ以前の家系はみな他人同然と言ってよい。であるので、家柄などを自慢するのは馬鹿げたことだ。家柄はあってもそのほかに何の才能もない人は多い。対談で南は、まず去年死んだ渡辺和博を引き合いに出し、「人の記憶」というものについて話し始めた。80年代半ばだったか、渡辺の著書『金魂巻』が大ヒットし、渡辺の名は一躍有名になって当時TVにも盛んに登場した。同書は間もなく続編が出たが、今では正編ともども、古本で100円で売られても誰も見向きもしない。渡辺のへたうまのイラストはなかなか味があって、筆者は今までよく記憶するが、南は今の若い人に渡辺のことを訊ねても、誰も知らないと答えることに、今さらながら15年、いや10年も経てば、どんなに偉い人であっても人々の記憶から消え、話題にされることがなくなると言うのであった。これは外骨もそうであったことに絡めた話で、そういう現実があるからこそ、没後に再発見され、ふたたび人々の記憶に新たに刻まれる面白さがあるということも言い含んでいる。実際外骨は吉野氏や、赤瀬川、南らの活動によって80年代に再発見され、当時大きなブームになって今に至っている。対談があるぞとチラシに印刷すれば、若い人がどっと来るほどにまだ外骨の有名度は健在だが、『金魂巻』もずっと先にまた見出す人があるかもしれない。結局人は生きている間にそれなりの独創的な仕事をしていれば、いずれ再発見される可能性がある。だが、生きている間にそういうことと無縁では、孫の記憶にも残らない。人間の99パーセント以上がそのような無名の人々であるので、名前と功績が後世の人々に伝わるのは、よほど人間として普遍的な何かを表現した場合に限るが、それはかなりの部分は時代が生むものでもあって、名は残そうとして残せるものではない。そんなことを考えずにただよく生きることに努めればいい気がするが、それはあまりに浮世を知らぬおめでたさで、積極的に売り込み、名前を残すことに執着しなければ残るはずがないとの見方をする人もある。だが、先に書いたように、当人が死ねば、すぐに忘却が始まり、今まで成したことが正統に評価され始め、生前の有名度には関係なく、今の時点で見て、それがどれだけ面白いものであるかが問われ続ける。有名とは自分が勝手になるものではなく、他人が仕立て上げてくれるものであるから、他者に共感してもらえるものをどれだけ多く獲得するかにかかってもいる。
●『外骨-稀代のジャーナリスト』_d0053294_1142679.jpg バッハの音楽はメンデルスゾーンが再発見して、名前を不朽のものにしたが、偉大な何かを再発見することで、発見した当人もまた歴史に名前が刻まれることが往々にしてあり、赤瀬川もある意味では外骨発見でより有名度が高まった。そうした再発見を待っている人物は無限に存在するが、無名な人がいくら個人的に発掘しようとしても有名には至らず、何か後押しするものが欠かせない。外骨に出会う前に赤瀬川はすでに有名であったが、つまり、有名人が珍しい何かを再発見すると、一大ブームになる場合が多い。筆者が外骨を知ったのは赤瀬川の紹介によるが、確か雑誌『写真時代』での紹介ではなかったかと思う。当時赤瀬川は、外骨が作った『滑稽新聞』という有名な新聞がいかに面白いかを述べた単行本も出したが、先ほどその本を探そうとして断念した。ここだと思ったところになかったからで、ほかを調べ始めるとそれだけで1日が終わる。そのため、今は展覧会のチラシとわずかにして来たメモを手元に置いて書いている。そうそう紙袋に年譜の事項を屏風折りした紙に印刷したものが3種入れられたものが図録代わりに1500円で売られていたが、買わなかった。そのような中途半端な図録の代用品は不満だが、外骨は新聞に真骨頂があるので、館内の展示は全体に地味で、『滑稽新聞』の面白いページの両面を見せるといった程度で、かつて外骨を知った人には満足の行く深みがなかった。だが、これは美術館や外骨のせいではなく、当時の新聞や雑誌が現在から見ればあまりに素朴な印刷で、その中身のアイデアを楽しむしか面白味が伝わらないからだ。その意味で、まだ外骨を知らない若い人が見れば、明治大正の印刷物の色合いや、その江戸時代をまだ引きずっているような絵が新鮮に思えるだろう。風刺をテーマにイギリスやフランスの銅版画や新聞を収集している伊丹市美としては、20周年記念事業ということで、それなりに外骨は早くから収集の対象になって展覧会の準備を進めて来たのであろう。対談が終わった後、質問の手が3つほど上がり、その中に、『滑稽新聞』の現物がどこで入手出来るか問うものがあった。質問者によれば、古書店では同新聞1枚が1000円で売られているそうだが、赤瀬川が発見した当時は、まだまだ安く、結局赤瀬川は全部集めることが出来た。今では到底無理で、全部所有するのは外骨が資料として入れた東大の「明治新聞雑誌文庫」程度だろう。『滑稽新聞』は明治34年の創刊当時、朝日新聞よりよく売れて7、8万部も刷ったそうだが、新聞という消耗品であるため、伝わる数は少ない。たまにネット・オークションで見るが、状態が悪くても1部数千円ほどしている。全部となると、数百万円でも無理かもしれない。赤瀬川が発見したのは、赤塚行雄が面白い新聞が古書店にあると赤瀬川に伝えたからで、まだ貧しかった赤塚が自分では買わずに、赤瀬川に買わそうとしたらしい。また、普段なら優柔不断である赤瀬川が、その時は閃きがあってすぐに買ったが、それから収集が始まり、そしてやがて紹介するに至る。このように、物事は出会いがあり、その出会いに際してけちらないで思い切ることで、その後の大きな仕事が来るか来ないかが左右する。赤瀬川の場合は、その賭に買った例で、今回の展覧会に展示された新聞はみな赤瀬川のものであったと思う。
 『滑稽新聞』は筑摩書房が全5冊だったか、何万円かの価格で発刊したことがあるし、ほかの著書も別の出版者から全集が出ているはずだが、筆者はそれらをまともに手に取って読んだことがない。そのため、外骨の年譜的事項がわからないが、チラシから引用すると、慶応3年(1867)に今の香川県に生まれた。名前を亀次郎といったか、その亀は骨が外で肉が内にあることから、外骨を名乗り、戸籍を変えて本名にした。当然「がいこつ」と読むが、後年「とほね」と読ませるようになり、それが「とぼけ」ではないかと、阪急の創設者で支援者でもあった小林一三に言われたりした。そういうことを言い合える間柄であったのだが、一三もなかなか洒落ている。慶応3年には漱石も生まれている。先日の新聞に漱石は世界に誇れる小説家という文章があったが、それを言えば外骨も世界にに誇れる人物で、筆者なら外骨の方が会ってみたいと思う。外骨の思想的なことはほとんど知らないが、権威に媚びへつらわない、平等主義という点からは外骨の方が実行的であった気がする。関東大震災の後に民衆がデマを信じて朝鮮人を殺したり、亜ヒ酸を飲ませたりしたことを、外骨は自著に書いているが、そういう底辺の人々に対する社会的な眼差しが漱石にあったであろうか。反骨という言葉がよく似合う外骨の方が人間的にはもっと大きな魅力があったように筆者には思える。外骨は庄屋の出で、10代の青年時代に何百円もする輸入の自転車を購入し、それで高松の街を走ったところ、日本一の大馬鹿者と呼ばれたから、生活には困らなかった。そういう人が最晩年に小さな家で床ずれで苦しんでいたというのは、何だかとても清潔な生き方をしたように思える。ともかく若い頃から珍しいものが好きな外骨であったのだろう。その自転車に乗った写真が展示されていて、後輪が背の高さくらい大きなものだ。そういう高価なものをぽんと買うところに外骨の図太さがあり、その性質はその後の行動を見るとさらによくわかる。つまり、最初から何か目立つ大きなことをやる人物であった。これは香川の田舎育ちであったから、都会に対するコンプレックスがあったためであろうか。それはよくわからないが、世の中で西洋化して行く中、今の人々以上に大きな世に出てやるという意識が強かったのかもしれない。また、何か大きなことをして一発当てることの出来る時代でもあって、今以上にそうした機会が多かったのは確かだろう。若い頃に早くも出版に興味を示し、6角形の小さな本を出すが、そこにも人が驚く顔を見たいといった自己顕示と、サーヴィス精神が見られる。
 『滑稽新聞』の創刊は明治34年(1901)で、これは大阪のことであった。外骨は20歳頃に上京し、そこで新聞や雑誌を作り、天皇を骸骨に見立てた挿絵によって不敬罪を宣告され、獄中に入るなどしたが、やがて借金が嵩み、台湾に逃亡した。そこで養鶏などをして挽回を目指し、やがて日本に戻って来たが、東京より大阪を選び、天下茶屋聖天山南に住んだ。自宅は木造の3階建ての新築で、それを写した絵はがきを作って関係者に送った。大阪には当時朝日や毎日新聞があったが、外骨はそれらにには不満で、対抗し、茶化す意味もあって『滑稽新聞』を発刊した。その編集精神は紙面トップの左右欄外に縦書きで印刷される『天下獨特の肝癪を經とし色氣を緯とす過激にして愛嬌あり』と『威武に屈せず富貴に淫せずユスリもやらずハッタリもせず』の2行に示されたが、「ユスリ」は極太のゴシック体で印刷され、この言葉が新聞の文中に登場する時も必ず同様の極太ゴシックで印刷する念の入れようであった。説明によると、この3字は特別に大量に活字を注文し、新聞に何度出て来ようとも必ず極太で印刷出来る態勢を取ったというが、そういうイチビリ精神は大阪人は大歓迎するもので、『滑稽新聞』が大阪で受けたのはよくわかる。また表紙はいつも淫猥さをかもすような写真や絵にしたこともよく売れた理由だろう。つまり、エロさ加減があって、男にはよく売れたに違いない。今から見ればアホらしいものだが、当時もそう映ったはずで、そのアホらしさをアホらしいと喜びながら見るのがまた楽しい。大阪の漫才師にはまだかろうじてそういう笑いを取れる者がいる。『滑稽新聞』はその名前からして滑稽だが、記事はどの新聞ともだぶらないので、他紙とともに講読してほしいとか、また広告をパロディにしたものを載せるなど、現在では考えられないほどのおおらかさがある。結核を治す薬を売ると称する人物を毎号執拗に揶揄し続けることも、今では訴訟問題に発展して大騒ぎになるだろう。『滑稽新聞』は月2回の発刊で、明治41年(1908)10月20日に「自殺号」を出し、『大阪滑稽新聞』と改題して11月3日に創刊した。1905年3月の第91号から見られるようになった「肝癪と色氣」の文字は、「趣味と実益」に変更になり、また当初は『滑稽新聞』の表紙のデザインを引き継いだが、少しずつ変化する。1909年末にはジャーナリズム全体が閉塞状況を迎え、続いて大逆事件について述べた第55号が発禁処分となって、1911年2月に外骨は滑稽新聞社から身を引いた。その後1913年9月15日の第116号で終刊となった。
 20歳頃に東京に出た外骨だが、けっこうませていて、その前に数百円を持って年下の女性と駆け落ちのようなことをしている。東京に憧れたのは、明治10年代に人気のあった『団団珍聞』という面白い新聞に関心があったりしたからで、外骨はそれをまねたような『屁茶無苦新聞』というのを作って発刊するが、たちまち発禁処分を受ける。この頃からすでに後年の波瀾ある活動は予想される。次は会員制の『頓智協会雑誌』なるものを作り、その会員には三遊亭円朝や魯文が名を連ねたから、外骨の有名度がわかる。支援者には生涯恵まれたようだが、そうした人物がいなければ次々と新聞や雑誌を創刊することは出来なかった。たとえば大阪では、小林一三に梅田駅東側にバラックを建ててもらい、そこを使用して『滑稽新聞』を作り、また駅で新聞を売るというアイデアを生み出しもした。『滑稽新聞』は現在のグラフィック・デザイナーからすれば、ヒントの大きな源泉ではないだろうか。だが、それも80年代以降に使い尽くされたかもしれない。そこで言えるのは、現在新しいと思えるもののほとんどが『滑稽新聞』にすでに実行されていたことで、もっと遡れば、さらに古い人間にも知られていた。つまり、人間の考えることは100年や200年では全く変化しない。むしろ、今は反骨反逆がはやらなくなり、『滑稽新聞』に見られるさまざまな新しい工夫、アイデアは、骨抜きにされた形か、あるいはほとんど使用もされない。『滑稽新聞』に描かれる挿絵は、何人かの画家が担当したが、彼らはみな外骨がOKを出すことを念頭に知恵を絞った。そのため、『滑稽新聞』の面白さの神髄は、本当は外骨ひとりのものではなく、アイデアを出した人々のものだが、そうした人々は外骨という編集長がいたおかげで、能力を最大限に発揮することが出来た。なぜなら、外骨は『滑稽新聞』のほかにも多くの新聞や雑誌を出したが、それらはみな携わった人違っていても、外骨色で統一されており、ここに長たる人物の存在の大きさがある。外骨はフランク・ザッパと通ずる部分が多いが、嫌悪する人種として政治家があった。政治家が家庭を訪れて挨拶することを拒否する張り紙を印刷して新聞の付録にしたこともある。だが、外骨自身が落選することを見越して立候補したこともある。それは「肝癪」を経とする基本的精神から出た行為だろうが、『滑稽新聞』では外骨の頭のてっぺんがぱっくり割れて、中から脳みそお破片が飛び出ているようなイラストが頻繁に描かれた。この肝癪もまた現在の若者からは大きく失われたもののように思える。外骨は戦争中は軍部に協力せず、引き籠もって釣りと絵はがき収集とその整理に没頭したが、敗戦後に『アメリカ様』と題する本を書いた。筆者は未読だが、それは日本がアメリカによって民主国家になって、国民がみな「半日本人」となったことを韜誨的に著したものらしい。今でもみな「半日本人」、いやみんな英語をしゃべろうとして「4分の1日本人」みたいなものか。
by uuuzen | 2008-01-24 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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