超満員の地下鉄の電車とすれ違った。天保山にあるサントリー・ミュージアムに行くには、大阪港駅で下車するが、そのひとつ手前辺りですれ違った車両を見た時のことで、13日の日曜日のことだ。

明日14日も休みであったので、すぐ隣にある水族館の海遊館に行った人か、あるいは別の大きな催しがあったのだろうと思った。地下鉄の中央線は、大阪港に近くなると、暗いトンネルを抜けてビルの高さほどの空中を走る。そこから見る光景が好きで、殺風景な天保山地区のまたその端に位置する美術館に行くことの面倒さが少しは軽減される。天保山は淀川を浚渫した泥を積み上げて江戸時代に出来た。その頃と今とは賑わいがどう違うのかを考えると、江戸時代の方が花見客が押し寄せて楽しかったのではないかと思う。今は山は平らにされて完全に姿を消し、名物となるような桜の木もなく、若者がデートをする場所になっている。海を埋め立てた、だだっ広い感じがあり、商業施設の周辺には、まだ昭和30年代を思わせる古い建物が多少残っている。そういう建物には、デザインがどこか社会主義的な集合住宅もあるので、ウラジオストックかモンゴルの都市部のような外国に来た感じもする。そう地には行ったことがないのでそれは妄想かもしれないが、それでも大阪の市中にはない独特の空気が漂っている。それは港であることが関係している。筆者は天保山には小学5年生の時に、妹ふたりと一緒に叔父に連れられて、ちょうど今頃と同じ真冬の季節に一度訪れたことがある。その時、中央通りを車で走り、あちこち地下鉄工事の真っ最中であったことをよく記憶している。大阪港に近づくにつれてますますさびしい光景に変わり、帰り道は夕焼け色に景色が染まった。その日見た夕焼けは長く記憶に残り、2、3年後の美術の授業で思い出して描いたことがある。また、ムンクの『叫び』を教科書でまじまじと見入ったのもその頃だ。天保山に行ったのは、そこで父親と7、8年かぶりで会うためだったが、不思議と会った記憶は全くない。だが、叔父が撮った写真が1枚残っている。筆者にとってその頃はもう父親はいないものとすっかり諦めていたので、会っても感動はなく、甘えも出来ず、何を話してもいいかわからなかったのだ。当時の天保山、つまり大阪港の風景はどうであったかも記憶にないが、今と同じようなだだっ広い感じの、大阪市中にはない外国のような感じが少し漂っていた。現在のサントリーの美術館や、海遊館、それにその付近の商業施設や大きな橋、地下鉄、食堂など、大きな建築物を全部取っ払い、あるのは船くらいの光景を思い浮かべればよい。だが、その船も今はあまり見ることが出来なくなっている。南港の方に主に港としての機能が移ったからだ。
地下鉄の話だった。家内と一緒に出かけたが、電車の中で髪の毛がほとんどブロンド色の小さな女の子がいた。西洋人との混血のように見えたが、顔はさほどでもなかった。その子の髪を見て、家内は筆者の妹ふたりも小さな頃は同じだったでしょうと小声で言ったが、実際筆者もその女の子を見て、妹が小さな頃同じような髪の毛をしていたことを思った。妹は、今はそうではないが、染めているに違いないとよく学校でいじめられ、先生までも不信がった。目立つ者は嫌われる。今のいじめも同じ構造だ。筆者の髪の色は妹ほどではなかったなく、また今は白が多くなってしまったが、元はかなり茶色い方であった。肌の色も妹と同じように色白で、きっと北方の血がどこかで混じったのだろう。父方には、鼻が筆者同様に高い男がよくいる。さて、すれ違う地下鉄の車両が満員である理由は、美術館に辿り着いてわかり、そしてびっくりした。ロシア絵画という地味な展覧会は、ほとんどがらがら状態であると高をくくっていたが、全くその反対の超々満員で、おそらくこの美術館始まって以来の長蛇の列が出来ていた。待ち時間90分と言われたが、海べりの寒い中、それだけ待っていれば完全に風邪を引く。会期中、かなり人気があったのか、長蛇の列の人々が寒がらないように、またテントが風に吹き飛ばされないような頑丈に固定されていくつも張られたようだ。そのテント内をぐるぐる蛇のように訪れた人は並び、そして芋虫のようにゆっくりと進んだ。おそらくその日の疲れと寒さのために筆者はすっかり風邪を引いた。それが完全に治ったと思えるようになったのはようやく昨日のことで、病院に行かず、薬も飲まず、自力で治したが、風邪に免疫はないから、油断するとまた逆戻りする。列に並んでいる間、すぐ隣に、とても立派な身なりとは言えない、庶民的なおじいさんとおばさんがいた。ふたりは違う名字で呼び合っていたし、年齢は10は違うように見えたが、夫婦はではなく、茶飲み友だちであったのだろう。まるで恋人同士のように仲がよく、見ていて微笑ましかった。退屈なので筆者はおじいさんと多少世間話をしたが、おじいさんもあまりの人に驚いていた。それでもなお次々とやって来て、筆者は閉館まで後30分という6時半に展覧会を見終えて表に出たが、暗い中、まだ同じように館の外のテント内に人が並んでいた。あの調子では閉館時間を延長しなければ、とうてい全員が見ることは出来なかった。列に並ぶ人を見ていると、普段あまり美術館を訪れないような人もかなりいた。TVや新聞の宣伝効果が大きいだろうが、一方で珍しいロシア絵画の展覧会で、しかも驚くべき写実的な技法で描いた写真のような絵ばかりがたくさん並ぶので、絵を見慣れない人にもわかりやすかったからだろう。実際いつもフランス印象派ばかりでみんな飽きが来ている。それと、芸術を日本に貸し出して稼ごうというロシア側の意図が大きくなったのだろう。今回は「初公開」と大きくチラシに印刷されているが、ロシア絵画の展覧会は決して初めてではない。たとえば、手元に1993年夏に奈良県美で開催された『ロシア近代絵画の至宝』展のチラシがある。トレチャコフ美術館の作品を持って来たもので、「知られざるロシア民衆のくらしと歴史…」という副題がある。今回のように大量の人が展覧会に押し寄せると、ロシアはきっと今後もっと積極的にロシア絵画展を日本で開催するようになるだろう。
そこには微妙に現在のロシアの政治を正当化する考えも潜む。ロシアは300年間ロマノフ王朝が続いたが、民衆の悲惨な生活苦は頂点に達し、ついに20世紀に入って革命が起こってソ連という共産国家が生まれ、それもまた分裂して今はロシアになった。ロシア絵画は王朝崩壊前に黄金期を迎えたが、当時の貧しい人々をリアルに描く絵画は、現在のロシア政権にとっては自分たちの治世を正しいものであると間接的に宣伝するのに格好の素材ではないだろうか。そんな穿ちは少し意地が悪いかもしれないが、為政者のやることはいつの時代でも人心を巧みに操ることであるから、ロシア絵画の展覧会というきわめて教育的で害のないような内容に思えても、そこにロシア側にとってつごうの悪いことは隠し、つごうのよいことを積極的に紹介しているのだと考えておく方でちょうどよい。さて、絵を写真のようにリアルに描くというのは、今でも人々にとっては最も単純に驚くことの出来る能力だ。これはおそらく永遠に変わらない人間の本質だ。カメラがあるから,もはやそういう絵は不要と割り切る人もあるだろうが、人が手と目を持つ存在である限り、精密写実に描く行為はなくならない。だが、一方で、カメラが登場して以来、そういう絵は職人的で、カメラに任せておけばよく、人間は人間しか描けない抽象画をこそ描くべきでそれこそが最高の絵画とする意見もある。つまり、人間が頭と手を切り離しにかかり、頭が他人よりよく働いて優れているように見える人の作品が、職人的なものよりもてはやされるようになった。ロシア近代の写実絵画は、イタリアやフランスの美術の歴史からすれば、写実一辺倒で田舎臭いものに見える。それは土地がヨーロッパの辺境に当たるので当然でもあるし、その辺境ということを逆手に取れば、独自の芸術を生むことになる。音楽ノストラヴィンスキーもそういう中から出て来たし、文学ではドストエフスキーにトルストイもそうだ。ロシア絵画の楽しみはそういった、ヨーロッパ主流から外れながら、それなりに風格のある作品を感じ取ることにある。有名画家はせいぜいイリヤ・レーピン程度で、筆者も日本初のレーピン展を1978年に奈良県美で見て以来、ほとんど系統立てたロシア絵画の展覧会を見たことがない。80年代だったか、東京のある画廊にロシア絵画専門を扱うところが出て、一時かなり人気を博したが、文化庁が動かなければ本格的なものは開催されないし、マーケットも形成されない。だが、日本では30年代にロシア民謡のブームがあったから、潜在的にロシア芸術に関心はある。それが領土問題やらいろいろで、冷え切って来て、またソ連から美術作品を借りて来るとしても、大半はフランスやイタリアの画家の作品、あるいはピカソやマティスの近代絵画で、日本が狙っていたのは決してロシア絵画ではなかった。これは新聞やマスコミの共産党嫌いが影響しているだろう。もし日本が共産党国家になれば、たちまち毎年のようにロシア近代絵画展をやるに決まっている。展覧会は国の政治によって内容が変わるのだ。そして人々はそんな事情に影響される中で美術というものの序列をつけている。
展示は4部構成になっていた。チラシには、『約40万点のロシア美術のコレクションを誇り、10世紀から現在までのロシア美術史を網羅した世界最大のロシア術の美術館です。…約85点の油彩絵画と彫刻、工芸わあせて約100点により、18世紀後半から20世紀初めまでのロシア美術を日本で初めて紹介します。…』とある。図録は分厚いのが2100円であったが買わなかった。人に押されながら、パネル説明を多少書いて来たので、それを引用しながら書く。最初のセクションは、1「古典主義の時代」(様式と規範-肖像画の確立と風景の誕生)だ。女帝エカテリーナ2世(在位1762-96)の専制政治下、農奴が急増し、その生活は悲惨をきわめた。各地で暴動や反乱が頻発したが、格差は広がる一方で、経済は発展、領土は拡大した。エカテリーナはヨーロッパの啓蒙思想の影響を受け、近代国家機関の編成に着手し、文芸復興を図った。その結果、文化、美術は当時のヨーロッパ諸国に呼応して発展し、特にフランス美術の、ロココから新古典主義、ロマン主義に至る芸術思潮を追った。主流は古典主義で、18世紀後半から19世紀前半まで続いた。肖像画の分野で優れた画家を輩出し、ロシア特有の感傷主義を取り入れた。これはチャイコフスキーの音楽を思い浮かべるとよく納得出来る。その感傷主義が、普段はあまり美術に関心のない人を喜ばせるに足る条件だ。肖像画は大型の全身像を描く公式なもの(パラードヌイ)と、小型の家庭的で親密な半身像を描くもの(カーメルヌイ)があり、双方に名手が出た。また、18世紀末には風景画が誕生し、イタリアのカナレット風に描く巨匠も出現した。そういう画家の名前を書いてもほとんど誰も知らないので書き写さないでおく。2「ロマン主義の時代」(詩と感情-ロマン主義の発展とリアリズムの萌芽)は、19世紀前半の作品を扱う。パーヴェル1世(在位1796-1801)の後を継いだアレクサンドル1世(在位1801-25)の時期、国内は以前として農奴性の圧政下にあった。1812年にナポレオン侵攻によって祖国戦争が生じ、民族意識が覚醒してヨーロッパ諸国の近代性に遅れていることも気づいたが、続く専制君主ニコライ1世(在位1825-55)の反動政治によって、後進性は決定的となった。19世紀初頭のロシアは「プーシキンの時代」と言って、理想ではなく、現実の世界に生きる人間が登場した。美術ではロマン主義が発達し、前時代の古典、次世代のリアリズムと相互浸透を図りつつ、折衷主義を広げて独自の肖像画、感傷的、瞑想的な人物画が描かれた。また民族性溢れる意匠の織物製品や工芸品、家具が生産された。これは日本の民藝発見と呼応しているだろう。このセクションでは、普段建物から大阪湾を遠くに臨める場所が区切られて、海洋風景を描く特大サイスの油彩画が3点展示された。海を遮って見えなくしたので、ちょうど海の絵ということだが、チラシに印刷された海洋画家として有名なイヴァン・アイヴァゾフスキー描く「アイヤの岬」(1875)を見ると、イギリスのターナーとはまた違い、ハリウッド映画の一場面をそのまま見るような、悪く言えば看板のような感じがある。
3「リアリズムの時代」(人間と自然-批判的リアリズムと移動派の画家たち)は、アレクサンドル2世(在位1855-81)と3世(在位1881-94)の時代、19世紀後半を取り上げる。1861年に農奴性は廃止されるが、不平等であったため、諸悪の根源の解決にはならず、政治の旧体制は存続し、民衆の苦しみは限界に達した。1870年代はインテリゲンチャ(批判的知識人)による社会変革運動「ヴ・ナロード(民衆の中へ)」が起こるが、未組織の農民には浸透せずに挫折し、保守と革命派の抗争はやまなかった。トルストイやチャイコフスキー、ムソルグスキーといった世界的巨匠が出たのはこの時代のことだ。美術では、社会に敏感に反応した社会的リアリズムという、ロシア独特の美学が生まれた。フェドートフがその創始者で、現実の悲惨を直視し、社会矛盾を追求し、人間の尊厳をうたい上げた。この思想を組織的かつ広範囲に展開したのが「移動派」で、ミャソエドフの提唱を指示したクラムスコイ、ペロフ、ゲーらが移動展協会を創設し、ロシア各地を巡回して展覧会を開いた結果、民衆に絵画が近づいた。クラムスコイの作品はチケットに印刷された「ソフィア・クラムスカの肖像」(1882)を見れば、その実力のほどがわかる。いかにもロシア女という顔つきで、これがまたよい。ロシアの近代絵画で女性を描いた作品には同様の名作が多く、肖像画であるにもかかわらず、そこからロシアの大地が感じられる。レーピンもこのひとりで、ヤロシェンコ、マコフスキー、マクシモフらは人間の内奥に迫り、シーシキン、ヴァシーリエフ、レヴィタンは自然に対峙、ポレーノフはありふれた風景にロシアの心を見た。筆者が面白いと感じたのはこのセクションで、おそらく大半の人も同じであろう。シーシキンの「冬」(1890)は、雪が降り積もった森を描く横長の画面だが、写真そっくりなその光景は、リアリズム絵画の凄さを再確認させる。レーピンの「何という広がりだ!」(1903)もまた写真を応用して描いたような作品で、若い男女が荒れ狂う海の波に飲み込まれないのか、衣服が汚れないのか、そんな心配にさせる映画を見ている気にさせられる。今回はレーピンの作品が数点来ていて、その中に画家の妻となったベーラの、14歳の正面顔を描いた肖像と、その10年後くらいの、より落ち着いた表情をした肖像があった。大変な美人というわけではないが、真面目で清楚な賢い表情をしていて、見比べていると、まるでその人物の声が聞こえ、身振りが見えて来そうな気がした。1978年のレーピン展には、今回の14歳のと、今回は来なかった22歳の時の肖像が展示された。ついでながら、レーピンはベーラとは1900年、つまりベーラ45歳の時に離婚し、レーピンはデカダンの傾向を持った女流作家ノルドマンと再婚するが、その14年後にノルドマンは結核で病死する。レーピンは86まで生きるが、貧窮のうちに死んだ。レーピンは肖像画に巧みで、強く印象に残る絵を描くが、ウクライナの民族衣装を来た若い女性を描いた油彩「S.M.ドラゴミロワの肖像」(1889)を今回見た時、すぐにかつて見たことを思い出した。78年のレーピン展に来たのだ。口髭がうっすらと生えているように見えるが、ロシアでは小説にもそういう女性が美女としてよく登場する。また、このセクションでは乞食や貧しい人々を描いた絵がいくつかあったが、そういう作品はそうした境遇を経験して画家になった者の手になっている場合があって、それを知った途端、ロシアの長編小説を一気に読んだ気分になった。

4「転換期の時代-伝統と革新-新しい美術表現をもとめて」は、20世紀初頭を扱う。ニコライ2世(在位1894-1917)はロマノフ王朝最後の皇帝で、即位と同時にアレクサンドラ・フョードロヴナと結婚した。この様子をレーピンは描いている。レーピンには晩年のミュシャに似たところがあって、歴史的な事件を大画面に描くことをよくした。さて、20世紀初頭のロシアは、1904年に日露戦争、その10年後に第1次世界大戦、1917年には2月革命と10月革命(ロシア革命)を経験し、ついにロマノフ王朝は終わった。こうした転換期に、芸術では印象主義、象徴主義、アール・ヌーヴォーなどが盛行し、文学では19世紀初頭のプーシキンの「金の時代」に対して「銀の時代」と呼ばれる第2期の黄金時代が到来した。美術では、「芸術世界」「青薔薇」「ダイヤのジャック」といったグループが勃興し、レーピンの弟子セロフはリアリズムを保ちつつも「芸術世界」派に加わり、移動派の歴史画家スリコフは派を脱退して世紀末芸術表現に向かった。ペトロフ=ヴォトキンは「青薔薇」派の象徴主義に近い画風を示し、「芸術世界」派のクストージエフはロシアの伝統的風俗を装飾豊かに描いた。と書いても、作品を見ないことには何のことがわからない。20世紀に入ってからはまた別のまとまった展覧会が必要で、その後のロシア構成主義も同様で、政治形態が激変すれば芸術もまたすっかり新しいものが生まれることをロシアほどよく物語っているところもない。会場の若いアベックが、この第4のセクションのほとんど最後に近い場所のある絵の前に立ち止まって、色がとてもきれいだと感心していた。それはドイツの社会派リアリズムに近い、抽象絵画一歩手前の単純化した形と、鮮やか過ぎる原色の色合いをしていて、そうした作品にもまた、ロシア特有の大地感が色濃く表われているのだが、レーピンの写実が明らかに遠い時代のものとなった感があって、今の若い人は、やはり現在により近い作品の方を感心するのかなと思ませられた。この第4セクションに属する作品は、たまに日本にやって来るが、あまり有名な画家がいないため、ほとんど注目されず、同時代に外国へ出たシャガールひとりに相変わらず人気が集まる。ロシアは寒いので、皮下脂肪をたくさん蓄える必要があり、美人の条件として丸々太ったことが重要のようで、それは先の若者が感心していた絵や、またその次に展示されていた女性全身像にも表現されていたし、振り返ればエカテリーナ2世の肖像画もそうであった。だが、同じように太ってはいても、一方はいかにも労働者的であり、労働者が主役のロシアを謳歌している作品となっていた。雪積もる丘をいくつものトロイカが走り回っている童画のような作品も、筆者には面白かった。そこには春の到来に新時代を重ねた二重の喜びが溢れているように見えた。共産主義になって、新たな貴族と言える身分の人々が登場して政治を司るようになったが、国家をいつでも根幹で支えるのはそうした労働者で、今回はそうした人々の生活を描く絵がことに印象に残った。