集金に来た新聞屋が珍しくも祇園会館の映画招待券を2枚くれた。早速ネットで調べると、有効期間の向こう3か月ほどの間、たいして観たい映画はやっていなかったが、正月休みにやっている『ロッキー・ザ・ファイナル』と『ダイ・ハード4.0』の2本立てに行こうかと考えた。
ならばもう1枚入手して息子と3人、家族みんなで鑑賞し、その後どこかで食事するのがいいかと計画した。今までそんなことをしたことがないので、安上がりでもあるし、ちょうどいい機会になると踏んだのだが、結果は3人で食事はしたが、映画は息子は別の日に観た。息子は2本の映画とも全く期待しておらず、相変わらずやっているようであるパチンコに行くついでであったようだが、帰宅後に感想を訊くと、なかなかよかったといった顔をした。それで家内と一緒に先週観た。筆者と同じように正月休みを安上がりで済まそうと考えている年配者が多いようで、満員であった。2番館の正月映画としてはよく計画され、その予想が当たったのだ。映画の内容を調べもせず、またどちらを先に見るかを決めずに出かけ、『ロッキー…』を最初に観た。もう1本の『ダイ・ハード4.0』もそれなりに面白く、2本はともにシリーズものであることのほかに、世代間の考えの相違といったこともテーマにさり気なく織り込み、日本にも言える現在のアメリカ社会を端的に示している点で共通していた。「映画は時代とともに」だが、これは映画に限らず、音楽や文学、美術、人の作るものすべてがそうだ。であるから、古い作品をじっくり味わうには、その時代のことを知る必要があるだが、たいていの人は日常を過ごすのに忙しく、過去のあれこれに強い関心を抱くことはない。そのため、過去にいくら名作があろうとも、絶えず新作が作り出される必要がある。古い人間にすれば、そうした作品が過去の焼き直しに過ぎないものに思えても、若い世代には新鮮に映る。そこで古い人間が新しい作品に対して酷評ばかりするというのは、頭の古い人間を証明しているようで、新しい人間には相手にされない。そういうことを直観、あるいは論理ではよくわかっている古い人間は、新作品を無条件で賛美したり、ただ若者の仲間入りをしたいがために、若い世代が手放しでもてはやすものを絶賛する場合があって、それもまた見苦しい行為に思える。ではどういう態度が新世代に対して好ましいと映るかだが、これは古いことをよく知っていて、その中の本質を見抜き、その本質に照らして新世代の作品をわかりやすく分析出来ることではないだろうか。評論家とはそういうことをうまくやる人間を言うが、逆に言えば、評論が出来るようになるには古いことをいろいろと知る必要がある。
また、古い、新しいと、世代は単純に二分出来ない。1歳ごと差のあるあらゆる世代が共存するのがこの世であり、しかも新世代ともてはやされてマスコミを賑わせる人物の背後には、より旧世代の人物がプロデューサーとして君臨していたりするから、新世代は新世代だけで独立していることはなく、必ず旧世代と密接につながり、恩恵を被りもしている。だが、そうとばかりは言えない観点もある。それは絶対的な若さというもので、たとえば17、8歳のかわいい女性はいつどんな時でも地上に存在するが、そういうことをよく知る男性は、老齢になればなるほど、その絶対的若さというものを、本人は強く意識していなくても、心のどこかで眩しく思う。そうした絶対的若さから年々遠のくが運命であって、それはよくわかっていても、いやよくわかっているからこそ、老齢に達してもそれなりに格好よくありたいと思う。その格好よさとは、人によって考えが異なるので、それこそ絶対的なものはないが、絶対的若さのひとつの象徴でもある、たとえば若者らしい服装や髪型、言葉などを表面的に真似しても、衰えた肉体ではなかなか格好よくは見えない。そんな表向きの格好ばかり気にする大人を格好よいと思う若者や年配者もいるだろうが、もっと格好よいのは、内に秘めた信念とでも言うべきものだ。その内面の思いは顔つきにも出て来る。これは本当に不思議なもので、人間は外見とは言うが、その外見は内面に大きく支えられているから、結局人間は内面と言い変えてもよい。だが、その信念というものも人さまざまで、先に書くような、表面的な若さにだけ憧れ続ける信念もある。だが、服装や髪型、持ち物といったものを若者に近づけるのはたやすいことで、それをひとまず信念と呼ぶことには値しない。そこで言葉を加えると、より実現困難なことに信念を抱くところに格好よさがあるとなる。だが、そうした実現困難な夢に信念を抱くのは、いつの時代でも将来が長い若い世代の特権だ。老いるほどに可能性がどんどん縮まり、老いの当初はそうではないと踏ん張ってみても、やがて自分の程度を思い知り、まだ金でもそこそこあれば別でも、いずれ実現させたい希望をなくすか、小さなものにしてしまう。そんな現実をうすうす知っている若者、あるいはすでに知ってしまっている中年や老人に、映画を見ている間、あるいは映画を見てしばらくは夢を見させることは、社会的には大いに必要なことで、この「ロッキー…」は見事にその役割を果たしている。映画が終わってエンドロールが流れている間、筆者はこの映画をアメリカの国宝に指定したいと思ったが、200年ほど先、おそらくそのくらいの評価はなされていることと思う。この映画にはアメリカらしい単純で率直、前向きの活力が、苦み混じりながらみなぎっており、しかもそれがアナクロニズムには陥らず、現在という時代を見据えながら物語を作り上げていることにも、主演と監督をしたシルヴェスタ・スタローンの見事な手腕を見る。
シリーズもので第6作目に当たるこの作品は、1976年に作られた最初の『ロッキー』から30年も経って制作で、その息の長さにまず驚く。大ヒットした第1作目の後、78、82、85、90年と、数年ごとに映画化されて来て、筆者はそのうちどれをいつどこで観たか記憶にないが、映画館で観たことはなく、TVでたまに接していた程度であったと思う。単純な内容であるので、観てもすぐに忘れたか、あるいは最初から馬鹿にしてまともに観なかった。また、有名な主題曲は今でもよく耳にするので、そのことでこのシリーズ映画の本質を知った気になっていた。最初の『ロッキー』は制作費が100万ドルほどの低予算であったのに対し、アメリカだけの興行収入がその100倍あったビッグ・ヒットで、さきほどネットで調べると、89年から始まったアメリカ国立フィルム登録簿とやらに去年登録された。これは10年以上前に作られた映画を対象に毎年最大25作を選ぶ、いわばアメリカ映画の殿堂入りだが、『ポパイ』や『トイ・ストーリー』といったアニメも入っていて、また半分程度は日本未公開の戦前の映画だが、現在450本が指定されている。これは今までにアメリカが作った映画からすれば微々たる数で、そこに登録されることは、国宝扱いを受けたのと同様だ。つまり、『ロッキー』はそれほどの名作で、450本と言わず、その半分に絞ってもその中に選ばれるだろう。シリーズものとなってからは当然制作費の割りに収入は伸びず、批評家に酷評もされることになるが、90年の第5作でついに最後と宣言し、それまでの5作を収録したDVDボックス・セットも発売された。にもかかわらず、また16年後に新たに「ファイナル」とは何事かと思うが、スタローン自身が第5作目に満足していなかった。55歳の時に今回の「ファイナル」を撮りたかったそうだが、それは年齢からしていつの頃だろうか。ともかく脚本を数年寝かせたおかげで、より充実した内容となった。その粘りというものを筆者は讃えたい。満足の行くものを最後に提出したいと考えるのは、芸術家とは当然のことで、スタローンは俳優や監督を越えて、芸術的センスをふんだんにもった希有の才能だ。今回の作は副題に「never give up」(諦めるな)とあるが、これはスポーツ根性物につきものの陳腐な言葉としても、その陳腐さが『ロッキー』のシリーズものにはきわめてよく似合い、しかも滑稽ではないところが素晴らしい。そういうことはなかなか世間では稀で、特に人々が白け切った世紀末からこっちの時代、なおのこと、そういう題目を唱えた映画は古臭く感じてしまうが、白けていてしかも複雑になって出口が見えない時代であるからこそ、そうした単純明快で問答無用の言葉を歓迎、期待する向きもある。また、見方によれば、第1作から回り回って元の時代に直結するようなそのレトロ感覚が素直に面白いと感じられたのだろう。興行収入は制作費の数倍程度で、しかも第1作に比べてはるかに低いが、筆者としては、映画を観ることの楽しみの本質がこれほどストレートに表現されたものは珍しいと思えた。
シリーズものは、前の作品との関連で楽しめる側面がある。この「ファイナル」にしてもそうで、過去の作品から引用した場面がいくつもあるらしい。去年夏、新聞にこの映画の紹介が載って、それを興味深く読んだ。ロッキーの妻エドリアン役が役割を与えられず、スタローンと半年も口をきかなかったとあったが、第1作目で出会ったペット・ショップに勤務するエドリアンをこの最終作でなぜ登場させなかったかについて考えると、そこには現実の苦みをそのまま映画に表現したいと考えたスタローンの意識がよく見え、筆者は賛成したい。人は死ぬものであるし、最愛の妻もまた早く世を去ることがある。そのように、ロッキーを家庭的にも見放された存在としてまず捉え、その中でロッキーがどういう夢を抱いて、それをかなえるために立ち上がるかに的を絞った。映画は最初ロッキーがエドリアンの墓を訪れるシーンから始まる。これがなかなかしみじみした映像でよかった。他のちょっとした夜の街のシーンにしても、映像は美しく、心に染みた。美しく撮影しようという意識がわざとらしく伝わらないのがかえってよかったのだろう。墓場のシーンでは背後には「ロッキーのテーマ」を変奏したジャズっぽいピアノ曲が鳴っていたが、それもまた見事な手際で、画面の隅々から音楽の断片にまで練りに練っている様子がいきなりよくわかった。名作はそのように最初からすぐにそれが伝わる。さて、妻に先立たれたロッキーは地元フィラデルフィアで小さなイタリアン・レストランを経営している。そこには往年のロッキーを知るファンが訪れ、ロッキーはかつての試合を客席の前で身振りを交えながら回想して人気を得ている。その設定は現実的で、引退したボクサーの生活のあり方をふと垣間見る気がしたが、そのように小市民的な生活を送れることはまだましな方で、レストランにはかつて対戦した相手が落ちぶれて手伝いに来ていたり、またエドリアンの兄が精肉屋をくびになって飲みに来たりなど、とにかく栄光が衰退した後の現実感がさまざまに描写される。そういうように暗い現実を描きつつ、そこからロッキーが夢よもう一度とボクシングの試合に出ることを決意する筋立ては、今ひとつ説得力に欠けるうらみはあるが、ボクシングをやることが命のロッキーであるし、また純文学作品の映画化でもないのであるから、そこは大目に見る必要はある。暗い現実はほかにも用意されている。まずロッキーには息子がひとりいて、スーツを着てビル街に勤務するホワイト・カラーになっている。だが、息子は父のロッキーがかつて有名であったということで人から特別視されることに我慢がならず、ロッキーとはあまりうまく行っていない。この設定は、その後息子があっさりと会社を辞めてしまい、ロッキーの試合に協力する役割となるので、あまり熟考されたとは言い難いが、ひとつ感心したのは、息子が会社を辞めたと言って前に現われた時、ロッキーはそのことを非難しなかったことだ。普通なら、「お前、会社を辞めてほかに何かすることがあるのか?」と詰め寄るだろうが、ロッキーはそうは言わなかった。その理由は映画では描かれなかったが、含蓄ある場面で感心した。
もうひとつの暗い事情と言ってよいのは、さびれたフィラデルフィアの一角だ。その辺りでロッキーはレストランを経営しているのだが、かつて通ったことのある馴染みのバーにたまたま通りかかって入ったところ、そこにたむろしている若者がロッキーの前にやって来て過去の人間と罵る。それと前後してロッキーはバーテンダーの中年女性相手に少し話をするが、その女性はかつて第1作でロッキーに同じように罵声を浴びせたことがある設定だ。同じ俳優を使っているのかどうか知らないが、シリーズものとしてのつながりをうまく生かしている。彼女はその後結婚して息子を設け、今は離婚して親子で住んでいるが、ロッキーは彼女を車で家まで送って行き、その後また家を訪れたりする。ロッキーは彼女の家の前にバスが走っていると思っていたのに、彼女は20年前に廃止になったと言う場面がある。そして彼女の家は隣が火事に逢ったのか、いかにも郊外の荒れた地区であることが示される。そうした映像もまた栄光から見放されたロッキーの置かれる立場の暗示に役立ち、老いということと重なって現実感を強調していた。また、ロッキーはその女性に別に恋心を抱いたというほどでもないのに、自分の息子と同じように息子がいて、しかもその息子が働いていないことを知って自分のレストランに来いと言う。ここはなかなか親分肌ぶりを描いて気持ちがよい。素直にやって来たその息子を連れてロッキーは捨て犬の管理局に赴き、1匹の見すぼらしい犬をもらって来る場面がある。これは第1作でエドリアンがペット・ショップに通っていたことからすれば、巧みな設定で、捨て犬をもらうところに、ロッキーがボクサーとして再起することの暗示が重なる。ロッキーは見捨てられた者の悲哀がよくわかる人間になっているのだ。やがてその女性も、レストランに欠員が出来たこともあって働きに来ることになるが、ロッキーとの仲はそれ以上に発展しないし、ほのめかされもしない。下心があってロッキーはその親子に親切にしたのではないことが映画では強調される。それは不自然ではない。人間にはそういう関係はいくらでもある。しかも妻を亡くしたロッキーにすれば、人に親切にすることで自分の感情を豊かに保つということはおかしくない。エドリアンへの絶大な愛は相変わらずスタローンにはあって、そのことは本作でも示されるが、すでに肉体的な愛への欲求は去っており、今は性を越えた人間愛とでも言おうか、そういう人間的厚みを持った人物としてロッキーは登場している。つまり、最初に書いた点に絡めれば、人間として格好いいのだ。そうした点は若者よりも、むしろロッキーと同世代か、それ以上の老齢の人にはなお実感としてわかるのではないだろうか。ともかく、第1作の、まだ若いロッキーであった頃とは違って、本作では50代後半の年齢になっているのであるから、かつて若い頃に「ロッキー」を観た、今は中年以上になった人に主にターゲットを絞って作られている。そのため、映画が単なる夢物語に終わらず、かといって現実の苦みばかりを強調するのではなく、人生の悲哀の部分をより色濃く描き、その中においても不屈の夢を抱き続けることの大切さを実にわかりやすく伝えている。それはスタローンとロッキーが二重写しになるからでもあって、第1作以降、シリーズものを作り続けて来て、しかも16年ものブランクを設けて世に送ったという大変な粘りによる風格の賜物だ。途中で凡作、駄作と評されるものがあったにせよ、それがあったからこそ、この「ファイナル」が生まれたから、シリーズ全体、スタローンのこれまでの生涯全体を、詳しくは知らぬとも、一方で眺めわたしながら、本作を見るからこそ人々は率直に感動する。
さすがスタローン、あるいはロッキーも、50代後半になってボクシングをすることの無謀を知ってか、試合のなり行きは第1作と同じように終わる。その現実性もまた人には受け入れられるだろう。試合中にばったりと死んでしまったでは、以前このブログに書いた韓国映画『チャンピオン』のようになって夢も希望もない映画になるし、かといって圧勝するでは漫画になる。試合をする前の、黒人の連戦連勝の若いチャンピオンと顔合わせの席上、ロッキーは舐めた言葉を吐かれるシーンがある。また試合中であったか、相手から老齢をからかわれる場面もあって、その時すかさずロッキーは「お前もいずれそうなる」と答える。これは筆者がこのブログでよく「若者もすぐに老いてしまう」と書くのと同じで、みんな必ず老いて不格好になるのであって、そうした不格好さを少しでも避けたいと考えるからこそ、この映画が筆者のようなロッキーと同世代にも歓迎される。そして、もっと書けば、絶対的若さを持っている若者でも不細工な連中は多く、老齢でもロッキーのようにとは言わないが、それなりに格好いい人がいくらでもいて、結局格好よさは絶対的若さだけに負うものではないのだ。でなければ老人はみな若者より格好悪く、生きている意味のない存在と思われかねない。それは野獣の世界ではそうだろうが、人間は野獣以上の何かであるだろうし、そうありたいと進化して来ているはずで、そんなことさえもこの映画は教えてくれると言ってよい。ロッキーがフィラデルフィアに生活する人間と設定したのは、自由の国アメリカをなおのこと示したい思いからであったろう。そこにはイタリア系のアメリカン・ドリームの根本を支える精神のありどころでもある。第1作が黒人対イタリア系ロッキーとの対戦であったように、本作もまた同じ設定にされているのは、見方によればイタリア系は黒人並みに差別を受けているということだ。フランク・ザッパやスティーヴ・ヴァイもそうだが、遅れて来た移民であるイタリア系はスポーツか芸能界しか活躍の場が残されていなかった。同じことはどの国のマイナーな民族にもある程度は言える。本作で試合に臨む前にロッキー陣営が鳴らす音楽はシナトラであったが、それもまたイタリア系讃歌であって、この映画にはそうしたアメリカの微妙な民族問題が影を落としている。そんなことはさておいて、この映画は祇園会館のような大きいスクリーンで観たことがよかった。TVでは同じ感動は得られなかったように思う。特に映画後半の試合場面のダイナミズムがそうだ。また、最後のエンドロールは、フィラデルフィア美術館前の大きな階段で、ロッキーが練習したのと同じようにボクシングの格好をする一般の多くの子どもたちが画面右端のスペースに小さく順に映ったが、それはロッキーが国民的ヒーローになっていることをよく示し、本編以上に感動的であった。まさにアメリカの国宝的映画、スタローンとロッキーは分かち難い存在として永遠に人々に愛され続けるだろう。だが、これだけのロッキー・シリーズ、スタローンがもっと老いた時、また時代を見据えてもう1作撮ってくれないかな。邦題の「ファイナル」は原題にはなく、それには含みがあるのかも。