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●『BIOMBO/屏風 日本の美』
風ばかりを並べる展覧会は珍しい。10数年に一度ある程度だろう。先月12日に人に会う約束があって、その前に天王寺の美術館で見た。



●『BIOMBO/屏風 日本の美』_d0053294_1143428.jpg日本美術における屏風の変遷を知るのによい機会で、今回はタイトルが示すように、日本が海外に贈った重要なもののひとつに屏風があったということを再認識させる意図があった。「ビオンボ」とは、チラシの説明によると、『…日本の代表的な美術工芸品である金屏風は、中国、朝鮮、遠く欧米諸国へも贈答品として届けられました。ヨーロッパへ渡った屏風は「BIOMBO(ビオンボ)」と呼ばれるようになり、今日でもスペイン語やポルトガル語で使われています。屏風は国際交流の仲立ちを務めてきたのです。…』とある。屏風は「風をさまたげる」の意味であるから、実用的なところから日本で独自に発展して来たものだ。だが、明治や、戦後はますます欧米化した生活と家屋が定着し、隙間風だ困るということもなくなり、屏風の必要はなくなった。一方、屏風は単に風を防ぐだけではなく、襖絵のように絵を描いて壁際あるいは空間を飾る意味合いに与えられたから、その側面だけはまだ現在の屏風作品にも生きていると言ってよい。今回のように屏風を100点ほど集め、それらすべてをガラスケースに収めて鑑賞するというのは、「美術工芸品」の「美術」の部分にだけ着目し、実用とは切り離した考えに基づくもので、屏風にとっても鑑賞者にとっても本当は不幸なことだが、そうした時代屏風を飾る空間がもはや存在しないも同然の日本では仕方がない。そうした現代の生活とは縁遠くなった屏風は、骨董市場でも人気がなく、形の大きさの割りには予想外に安価で取り引きされる。ふたつ折りの金屏風といったものは、かつては家庭の必需品と言ってよく、結納や結婚式などの儀式に使用された。そうしたものはしばしば骨董市に出るが、折り畳めて収納にさほど場所を取らないものとはいえ、モノが溢れ始めた戦後はよほどの大きな家でなければ無用の長物と化した。ふたつ折りの屏風でさえそうであるから、今回展示された大方の6曲1双は、こうした展覧会ででもない限りは見ることも出来ない。ついでに書いておくと、筆者は屏風作品をしばしば染める。これは日展系の展覧会で染色作品がキモノでは駄目で、100号以上のパネル作品とする暗黙の了解に沿ったものだ。日本画でも同じように縦横180センチ程度の大きさの画面がどの公募展でも常識的なサイズとなっている。染色では生地幅の限界があるので、縦横180センチとなると、1枚の布で染めることは出来ず、そのためそれを縦半分にして、2枚折りの屏風に仕立てる。つまり、素材から導かれた制限だ。そうした作品は畳んでも畳1枚と同じか、まだ大きいので、作品がたくさんたまって来ると収納場所に困る。制作意欲はあっても、物理的に保存出来なくなっているのが実情だ。
 今回の展覧会は、副題が「日本人の誇り 黄金の文化遺産」とある。これは江戸時代までの屏風の話で、現在もなお屏風作品を作り続ける者がいることすら一般の人は知らない。それは屏風がもはや美術展でしかお目にかかれない過ぎ去った文化のひとつであることを示してもいる。住環境が豊かになったのかどうかは知らないが、変化したことだけは確かで、今や日本ではヨーロッパ調、アメリカ調、何でもあれで、日本特有の住居にこだわる人はごく少数派で高級旅館くらいなものだろう。人は自由であるから、どんな生活スタイルを洗濯することも出来るが、日本ではそれがおそらく世界一と言えるほど無節操で、屏風が部屋にある生活をイメージ出来ることは皆無となった。であるので、「日本人の誇り」と書かれると、ぎょっとするが、その次に「黄金の文化遺産」と断ってあるので、なるほど「遺産」という形でしかもう認識出来ないのだなと納得する。となれば筆者は遺産的作家で、無駄をし続けている狂気人ということになるか。江戸時代までの日本絵画を扱う展覧会となれば、屏風や掛軸が中心となるから、今さら屏風ということもないが、屏風だけを集めて展示するのは意味がある。だが、屏風は日本の発明ではない。日本に伝わる最古の屏風は、今回当然展示されなかったが、正倉院の「鳥毛立女屏風」だ。8世紀半ばのもので、唐で流行したものを日本の鳥の羽を使用して作っている。材料が日本と考えられるので日本製と思われるが、画題は完全な中国で、中国や新羅からやって来た工人が作ったものかもしれない。中国や朝鮮に同様のものが残っていないのは、異民族間の戦火が絶えなかったことが理由で、それだけ正倉院の計り知れない重要性がある。それはさておき、「鳥毛立女屏風」だけではなく、正倉院には鳥の羽で文字を装飾した屏風もある。そこに屏風が最初から絵具だけではなく、モノを貼りつける工芸的な技法を駆使していたことがよく示されている。それを日本は独自に変化させ、やがて室町や桃山期になると金箔を多様した工芸品的なものが生まれた。一方で水墨屏風も僧の間ではもてはやされたが、今回は金の使用が多いやまと絵系のものが中心になった。また、「鳥毛立女屏風」は1000年後の江戸時代に修理されたが、その時は6扇をつなぐことはせず、各扇がばらばらのまま保存されて今に至っている。当時の屏風は各扇が独立していたか、あるいは2扇が対になって周囲に額縁のような枠取りがされていたが、やがて絵師は6扇全体つまり横長画面全体でひとつのつながった絵を描き、枠はその6扇のまとまりに施すようになった。その枠さえもやがて重視されなくなり、画面を目いっぱい絵で表現することになる。当初、各扇のつなぎ方は紐を使ったり、金具を使っていたが、その後紙による蝶番いが普通となった。このことも、6扇全体が折り目で密着し、ひとつの大画面とみなすのにつごうよく働いた。
 中華料理店に行くと、今でも漆を塗った板に多色のめのうなどの石を貼りつけた衝立がしばしば飾られていて、屏風の形を採ったものもあるが、当然金具の蝶番いであるので、今回の展覧会で見られたような屏風とはそうとう趣が違って、欧風でもある。金具の方がしっかりして、度重なる開閉にも本当はいいが、紙の蝶番いであれば、それは絵の下に完全に隠れ、折り畳み箇所をほとんど気にせずに絵がつながる。それに畳んだ時、蝶番いが外にわずかにはみ出るということもない。脆弱ではあっても、美を優先したと言ってよい。ここには金属をあまり住環境には使用せず、もっぱら紙と木だけを目に見えるようにと考えた意識がある。紙の蝶番いであるので、手荒に屏風の開閉をすればたちまち折り畳み箇所が破損して用をなさなくなるが、手荒にモノを扱うような意識のある人はそもそも屏風など無縁の生活を送っていたから、紙の蝶番いであってもさほど困ることはなかった。それでも屏風は消耗品であるから、正倉院には残っているのに、平安や鎌倉時代のものはほとんど伝わっていない。それらは絵巻物に描かれる屏風から推察するしかない。室町になると数十ほどは発見されているので、そこから大体の時代的変遷は推察出来る。また、畳めてコンパクトになる屏風は移動にも便利であるから、襖絵よりは多くは伝わった。屏風は障壁画より先んじているが、これは中国から来た屏風が次第に日本の生活に馴染み、やがてその広い平面を絵で飾るという意識が襖や壁にも応用されたものだ。そのため、襖絵はしばしば屏風に改変されたが、襖絵を処分するのがもったいなくてそうして保存したのではないだろうか。逆に屏風を襖にする例があるのかどうかだが、屏風は1扇は襖1面より通常は寸法が小さいので、それはほとんどないだろう。そう思えば、襖絵より屏風の方がまだ現代には適合し、表現の可能性が残されている。移動や収納に便利という利点は、日本人が長い年月の中で発展させたもので、それは現代もあらゆるところに生かされているが、屏風は1扇だけでも畳1枚ほどの大きさがあるので、やはり貧乏人には無縁のものだ。さて、今回の展覧会は6つのセクションに分けられ、ちょうど半分見終わったところで満腹になったが、後半は前半のように国宝や重文がほとんどなく、かなり見劣りしたせいもあって、ほとんど素通りにしたのに近かった。まず各セクションのタイトルを書くと、1「屏風の成立と展開」、2「儀礼の屏風」、3「BIOMBOの時代 屏風に見る南蛮交流」、4「近世屏風の百花繚乱」、5「異国に贈られた屏風」、6「海を越えた襖絵と屏風絵」で、この順序どおりに作品の面白度が高かった。つまり、古いものほどよいということになるが、それは単に古いからだけではなく、おおらかな感じが強いからだ。それらは後の屏風に比べると表現が素朴で、技術的には劣るように見えるが、圧倒的な力と言えばよいか、見ていて飽きない何かがある。
 室町時代から屏風は貿易で海をわたったが、桃山時代にはスペインやポルトガルとその交易において漆器と同様に南蛮屏風が輸出された。織田信長は天正遣欧使節に「安土城屏風」を託したそうだが、熱心な研究者の追跡にもかかわらず、ヴァチカンのどこからも発見されないと言う。あまり重要視されなかったのか、あるいは脆弱なものなので、破れがひどくなるなりして破棄されたのだろう。日本の風土に合った表具がなされたものであるので、空調設備のない時代や場所では破損は促進される。南蛮屏風を含む3のセクションは見物で、たとえば「泰西王侯騎馬図屏風」は日本では描かれたと思えない欧風表現に今さらながらに感心する。それは「鳥毛立女屏風」と同じように、海外の様式をすぐに模倣出来た日本人の特性をよく物語っている。だが、そうした欧風様式の絵画は長続きしなかった。そこにもし秀吉が天下を取っていればどうであったかと思ってしまうが、日本の欧風化は明治まで待つ必要があり、しかも戦後は怒濤のようにそれ一辺倒になった。そのことによって「泰西王侯騎馬図屏風」が改めて身近なものに感じられるようになったかと言えば全くそうではなく、ごく一時期の日本が採り得た特異な表現であることをますます強く感じる。その点では南蛮人を描いた南蛮屏風も同じことで、当時の絵師が何でもすぐに様式化出来てしまえた能力に感心し、その一方で限られた情報の中で描くしかなかったゆえの一種の滑稽さを面白く思う。南蛮屏風におけるカピタン一行を見ていると、屏風に多くの人物を描く細密描写の側面があることを知るが、それは4のセクションにおける「洛中洛外図」や「豊国祭礼図」といったものにもっと極度に示される。そうした屏風は小さな図版では細部が皆目わからず、現物を間近で長時間鑑賞する必要があるが、ガラス越しではそれもかなわない。そのため、どうしても印象は深くならない。屏風に描くのに最適な画題の大きさというものがあって、それを最もよく知っていたのが狩野派であったように思う。適当に大きく描き、また適当に省くところは省いて見栄えよくする術を熟知していた。それは次々と舞い込む注文に応じる必要もあったし、また武将の注文となれば、豪放さが求められ、あまりちまちました表現はふさわしくなかったからであろう。狩野派は中国絵画に倣いながら、やがてやまと絵も摂取して、水墨でも金箔を使用した色鮮やかな屏風でも何でも来いといったように進化する。だが、狩野派だけが屏風の世界を牛耳ることが出来ず、新たな才能が加わって屏風における表現を多彩なものにした。
 2のセクションを忘れていた。屏風に描く表現は水墨と、金箔や金泥を多様した華麗な着色のふたつだけではない。白絵屏風という特異なものもある。これは絵巻に画中画としてよく確認されるが、実物はほとんど2作ほどしか伝わっていないらしい。白い下地に胡粉と雲母を使用して松竹梅や鶴亀などの吉祥画題を描くもので、出産の場に用いられた。生まれて来る子どもを祝福する意味合いとしてはとてもふさわしい。生まれたばかりの目の見えない子どもであっても、無機質な病院の壁よりめでたい白い絵の方がいいのに決まっている。そうした温かい心を江戸時代までの人々は保っていた。何でも合理的に考えてよいものではない。出産とは逆に臨終においては、屏風を枕元に逆さに立てかけた。そういう時に用いられた屏風は画題は決まっておらず、文字だけのものものあった。同じセクションでは婚礼調度のひとつとしての金屏風も展示された。これは名所絵や物語絵など古典的教養を求められた江戸時代の公家や将軍家、大名家の女性が輿道具として持たせられたもので、源氏物語を題材にしたものが多かった。このセクションの屏風は現代ではことごとく無用のものとなった。まだ画題の開発の余地があるのは、百花繚乱にさまざまな内容のものが描かれた4のセクションで、その一部は現代に置き換えて描くことも不可能ではない気がする。だが、「洛中洛外図」にしても、また「京大坂図」「四天王寺住吉大社図」にしても、内容を現代の風俗に描き変えると漫画的情景になって、人々には趣味の悪いパロディとしか思われないだろう。建物や服装の変化が激しい現代では、わざわざ美術工芸品として細密に描いておく意味合いは乏しい。となれば残された画題は花鳥画ということになる。筆者が染色の屏風でやろうとしているのも本当はそういうことと言ってよい。だが、飾る空間が一般家庭にほとんどないとすれば、美術館かそれに相当するような公的な場所を想定するしかないし、そうした場所からお声がかかる見込みのない筆者としては、作家としての苦闘はさらに大きい。また、そもそも屏風は時代が進むにしたがって優品はみな美術館に入って大切に保存されることになるはずだが、そうなればなったで、さらに生活から乖離したものとなって、それを作る表具師の技術も伝承されにくくなる問題も抱えている。職人が減れば技術が衰え、やがて完全に姿を消すだろう。消えなくても、かつてのような立派な仕事が出来なくなり、その点において全体的な価値が低下し、それに連動して、屏風に見合った表現が出来る画家もいなくなる。実は今回の展覧会でそれを如実に感じたのはセクション5の「贈答屏風」だ。
 去年は朝鮮通信使400年記念であったが、日韓の現在の微妙な状況を示すのかどうか、ほとんどたいした展覧会は開催されなかった。それを多少思ってのことか、セクション5に充てられた最初の小さな部屋では、特別に木製のちょっとした門が設えられて、朝鮮通信使の紹介があった。日本にやって来た通信使の一行に日本側が屏風を持たせたのはよく知られることで、その中の1点が里帰り展示されていた。屏風は朝鮮にもあるので、どれほど重用されたのかはわからない。展示作は画題が雁に秋草を描いたもので、経年変化もあるのか、金を多く使用して光輝くといったものではなく、李朝の儒教にはふさわしい内容に思えた。次の部屋には、オランダ国王ウィレム3世から贈られた蒸気船「スームビング号(観光丸)」の返礼として、幕府が御用絵師に金屏風10双を新調して贈答したものが一堂に会して展示されていた。部屋は妙に寒々しい空気が漂っていたのは印象的で、それは鑑賞者が少ないというのが理由ではなく、狩野中信以下9名の狩野派の絵師の手になる金箔を三重に貼った上に上等の絵具で描いたというそれらの屏風が、どれも土産店に並ぶ安っぽい感じがぷんぷんしていて、幕末の狩野派の硬直化して想像力がすっかり衰えた事実を明確に示していて無残であったからだ。保存がよいのは、それだけオランダもたいした作品と思わず、そのまま倉庫の奥に保存していたからであろう。芸術と言うより、先人の作を模写的あるいは様式をそのまま引用して描いた月並みで無個性の工芸品で、幕末において屏風がすでにそうした表現しか獲得出来ていなかったことを示す反面教師的作品として貴重と言える。何事も末期とはそういう形で現われる。その後天心が出て来て、新しい「日本画家」が次々とそれまでにない屏風を描く時代が到来したが、そのせっかくの伝統もまた戦後はほとんど消失した。それを思ったのは、セクション2の最初に飾られた高山辰雄の「主基地方風俗歌屏風」だ。これは新しい天皇の即位に際して描かれるもののひとつだ。平安時代をそのまま思わせる霞取りの俯瞰的様式に高山の個性そのままの得意とす筆致の画題をそのままつぎはぎした作品で、同様のものを東山魁夷も描いたが、作家の個性と伝統的様式の統合の困難さ、いや不可能さがこれ以上にはっきりと出た作例はないと言えるほど、画面として調和を欠いている。だが、加山又造のほとんどの作品もそうだ。屏風の歴史は和と漢という相対する様式をどううまく統合するかであったと言い換えてもよいが、そこに欧米が加わって、さらに事情は複雑になったのが現代で、まだまだその混沌としたつぎはぎ状態は続くほかない。そして、一気に室町や江戸の伝統そのままに回帰しようとしても、それもまたおかしなことになるのは、先の「贈答屏風」が証明している。
by uuuzen | 2008-01-03 11:44 | ●展覧会SOON評SO ON
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