師走に拾った話。12月になると落ち着かない。ジョン・レノンの命日は8日であるし、ザッパの誕生日も命日も12月で、気になる日がざわざわして混んでいる。とはいえ、そうした日を個人的に祝うことはないし、むしろ気づいた時には過ぎていることが多い。
日本ではジョン・レノンの命日頃、ミュージシャンが集まって大きな会場で恒例のコンサートをしているようだが、筆者はそういう動きには何の関心もない。ジョン・レノンのファンであっても、むしろそうした群れを見て嫌悪に似た感情すら湧く。ジョンは、ギタリストのことを群れることが好きと発言していた。そこにはジョンは自身はギタリストではないという思いと、群れることの拒否があった。ジョージ・ハリソンは生前友人つき合いを豆にしていたせいもあって、没後1年であのように記念すべきコンサートをしてもらえたが、ジョンの場合、それは考えにくい。ポールの場合はまた話は別で、追悼公演をしてもらえる交際がないだろう。人はそれぞれ生前の言動にしたがって没後それに応じた扱いがされる。ジョンはヨーコ一辺倒であったから、そのヨーコがジョンの没後にやることは、すべてジョンの意思を代弁した公式な行為としてファンは思うしかないし、筆者はそのヨーコのジョン絡みの行為に文句を言ったり反対意見を述べるつもりはない。また、一方でジョンは40歳で亡くなって、それはそれでよかったと思わないでもない。もし命があれば、それなりに音楽活動をしてアルバムを次々と出していたが、ロックンロールをやりたかったジョンにすれば、その仕事は40まででほとんどなし遂げたはずで、その後は次第に老醜を晒すと言っては何だが、ファンとしては受け入れ難い行為や発言をしたり、あるいは凡作、駄作でしかないアルバムを出すこともあったに違いない。ファンによって銃殺されるというショッキングな出来事の物語性まで獲得して、ジョンの孤高性は完璧な姿で歴史に刻まれることになったし、老醜を見ないで済んだことは、ジョンをなおさら神格化させている。限りなく前進してロック界を牽引し続けたことも考えられるが、その可能性は低かったであろう。また、ビートルズを再結成して、ワールド・ツアーをやったかもしれないが、それとてポールの同じ行為を見ていると、失望感を与えないわけには行かなかったと思う。あるいはそういう否定的とも言える言動や行為があったとしても、40で亡くなってしまうよりはるかにましという考えもある。老醜を晒したところで、それもまた人間の真実であるので、それも含めてジョンの迫力ある姿を見続ける楽しみはファンにもたらされ続けた。だが、事実としてはジョンは1980年に死に、その時点までの言動や行為によって生涯が凝固してしまった。そして、寒い季節がやって来れば落ち着かず、そしてふと悲しくなるが、そのようにしてひとりでジョンのことに思いを馳せることで供養になる気がしている。
12月中旬に、95年に3倍速で録画した1本のビデオテープを3日ほどかかって見た。途中のコマーシャルもそのまま入った番組『ビートルズ・アンソロジー』だ。小宮悦子が司会をしている。もう12年も経ってしまったのかという思いを強くする。『ビートルズ・アンソロジー』のDVDはまだ見ていないが、600時間ほどあるようで、筆者が録画したものの倍の長さがある。だが、番組で一挙に放送された5時間半、正確にはコマーシャルを省けば5時間に満たない内容でも充分な気がする。いずれDVDは中古ででも入手したいが、ふと同番組を見ながら、筆者は死ぬ間際にそれをひとととおり全部見たいなと思った。筆者は中学生時代が最も楽しかったが、その中学時代はビートルズと切り離せない日々であったからだ。話のついでに書くと、『ビートルズ・アンソロジー』のCDも聴き直した。その中でつくづく面白いと思う曲は、最初のシリーズの最初に入っている1958年にリヴァプールで録音された「That’ll be the day」と「In spite of all the danger」だ。ここにはまだ有名になる前の素朴なビートルズの歌声がある。そののんびりとした空気がたまらなくよい。同じ空気は同時代のアメリカ南部の黒人のブルースにあるが、ビートルズは意識せずにそれを体現しているのが、何事も時代が刻印されることの実例を見るようだ。ジョンはEMIからレコードを発売し始める以前のライヴ録音の最もよいものは録音されなかったと発言しているが、きっとそうであったことだろう。ビートルズはオリジナル曲とは別に、ロックンロールのカヴァー演奏がまるでビートルズのオリジナルであるかのように手慣れて演奏したが、それらはまとめて聴くと、オリジナル曲の演奏とは違う魅力が大いにに溢れている。そこにビートルズの出発点があることを忘れてはならない。『ビートルズ・アンソロジー』を見て、ジョンは自分の父親のことを少し話していることに改めて気づいた。家を留守がちにして、結局帰って来なかったが、ビートルズが有名になるとこの父親が出現して、また悶着があったことはよく知られている。ジョンには何か刺々しく、ザラザラしたものがあって、ビートルズを知った中学生の筆者でもそれはよくわかった。生まれ育ちというものは体全体から滲み出る。筆者がジョンに共鳴したのは、筆者も同じように、数歳の頃に父が遠いところに行ったきり帰って来なかったという精神的な何かが共通していたからであろう。
筆者は父がいなくなった当時の消失感は記憶していないが、それほどに心の奥底に深く刻んで蓋をしているからかもしれない。父がいなくなってさびしく思っていた幼い筆者に今の筆者が同情するというのではない。表向きにはさびしいとすら意識しなくなったその後の筆者の姿にむしろ今の筆者は思いを馳せてみるし、その姿はこうして書く今も続いている。そういう中で時にジョンのことを考えてみると、ヨーコと出会ったことの幸運と幸福に救われる気がしてならない。ジョンがヨーコべったりになった理由には、親の愛をほとんど知らないという事情が大きく反映しているであろう。ビートルズが有名になったのは、ジョンがよく語っていたように、労働者階級の出で、それだけ大多数のそうした人々の共感を得たからだが、孤独な少年ジョンがロックンロールをやることになったのは、大声で叫びたい何かを鬱屈して内に抱き続けていたからで、ビートルズ時代やソロになってからもその叫びを忘れることはなかった。この叫びはポールの歌声にもあるが、むしろポールは囁きが似合っている。『LET IT BE』のアルバム・ジャケット裏面にギターを抱えて歌い叫ぶジョンの白黒写真があって同アルバム・ジャケットの中では最も強烈な印象を与えているが、叫びがあるとその反対に沈黙も大きいし、囁きも切実になるのが道理で、ジョンの静かなバラード調の曲はポールには決してないヒリヒリした切実感がある。作り事つまり虚構の活用がうまいポールに対して、ジョンは常に自分の内部の事実から出発して作曲した。きわめて個人的であるからこそ訴求感が強く、聴き手の心に染み込むとなかなかそれは消えない。だが、ジョンの格好よさというものは、才能云々より前に、生い立ちに強く結びついているもので、ある意味で社会的な弱者と言える人しか持てない何かと言ってよい。捨て身のと言えばよいか、ジョンは有名になって大金持ちになっても、本質は変わらず、いつも何かを削ぎ落とした油気のなさを保っていた。日本の芸能人ではなかなかそうは行かない。貧しい者が大金持ちになると、ふたつの方向がある。育ちの悪さをそのまま拡大したような悪趣味に進んでぶくぶく肥満するタイプか、あるいは仕方のない育ちの悪さがあって、時に悪趣味と思われかねない態度や行動をするが、決して金を自慢せず、それに無頓着である、あるいはそのように自然に振る舞うことの出来るタイプだ。ジョンは、いやビートルズの4人は不思議とみな後者で、これは労働者階級であっても、結局は育ちがよかったというべきなのだ。ここが通常は誤解される。貴族であっても下品な奴らはいるし、ドン底の食うや食わずで育っても貴族以上の気高さを持つ者がある。ジョンはそういう真実を暴いたと言ってよい。今の日本は下品な者ばかりが政治を司り、そしてTVに頻繁に出て得意気にしゃべり続ける。「品格」という言葉が去年ははやったが、そういう言葉が死語になるほど、日本はいつの間にか大きく変わってしまった。そして先の話に戻れば、ジョンが生きていたならば、そのあたりのこととどう関係した言動や生活をし続けたかと思い、80年に亡くなったことは、それはそれでよかったと思える。
さて、ジョン・レノンのアートワーク展ということで、さして期待はせずに、展覧会はこれのみを見る目的でクリスマス・イヴ・イヴの23日に大阪の心斎橋に出かけた。去年見た最後の展覧会だった。会場のすぐ近くに教会を模した新しい結婚式場の建物があり、そこは2年前に家内の姪の結婚で訪れた。付近一帯は京都にはない雰囲気を保っていて、古くて味のあるビルが比較的残っているが、そんなひとつで開催された。展覧会と言うより、むしろ展示会で、即売も兼ねていた。入場時にもらったふたつ折りのちょっと豪華なリーフレットに説明があるのでそれから引用する。『「アートもコミュニケーションのひとつであるから、自分の描いたものを皆と分かち合いたい。」という希望を強くもちながら、生前はそれが実現できなかった。その遺志をオノ・ヨーコが引き継ぎ、1986年よりアートワークを発表開始した。原画はすべて白黒だが、当初より、色がついたものの要望が多かった為、作品の彩色はオノ・ヨーコが施し、二人の共作として発表している。各作品は全世界で300エディション(300部)の限定。…日本における点数は最大で50部。…』。版画はリトグラフやエッチング、シルクスリーンにされていて、色づけはコンピュータを使用したと思える部分もあった。実際にジョンが描いたものを原寸で再現しているのかどうかはわからない。部屋に飾るには大きいと言ってよいものばかりで、ひょっとすれば原画を拡大しているかもしない。会場の説明に、ジョンは800点描いたとあった。これは予想外に多い。それを全部収録した本が発売されているのかどうか知らないが、分厚い本になるだろう。サン・テグジュペリの画集に匹敵するかそれ以上のものとなるはずで、ぜひ全画業の収録本を見たいものだ。『ビートルズ・アンソロジー』のDVDを見ていて、ジョンが65年に『In his own write』という初の著作ですでにたくさんのイラストを収録している様子が少し映った。その一部はビートルスのCDジャケットに使用されているが、どちらかと言えば直線が多くてまだ表情は固い。今回展示されたものはソロになってからのもので、よく言えばもっと自在、悪く言えば手が荒い。ジョンはリヴァプールの美術カレッジで絵を学んでいるので、ポールやジョージと知り合うことがなければ、またロックンロールがまだ発明されていなければ、絵の方面に進んでいたかもしれない。そうだとしても名を上げたことだろう。『In his…』はよくある日本のタレント本の走りを思わせるが、ビートルズとして多忙な当時、とにかく書かずにはいられない思いがあって出来たもので、そこに詩や絵を書く才能がジョンにはとにかく強かったことを感じさせる。そう言えばビートルズが来日して日本に滞在した時、やることがないのでホテルで絵を描いた。そこからも暇を持てあまして何か表現せずにはいられない性質が見える。ポールも絵が上手で色彩感が豊かだが、素描の力はジョンよりかなり劣る。
前述の説明にあるように、ジョンは白黒の絵、つまり線描きが得意であった。用具はペンであったり筆であったりするが、筆はヨーコから教えられた日本の毛筆であって、そこにはヨーコから教えられたものが非常に大きかったことがよく見て取れる。そうした姿は日本盤のアルバム『イマジン』における帯で筆者は初めて知ったものだ。ヨーコとふたり並んで書道をしている姿がそこには写っていた。最近ジョンの紙ジャケCDが発売されたそうで、そのことを去年秋にMSIからの電話で知ったが、会場出入口横の売店ではそれらのCDが何種か置かれていて、帯まで縮小して再現していることに感心すると同時に、『イマジン』の帯に見られるジョンとヨーコの書道をしている写真を久しぶりに確認した。ビートルズとしてそのまま活動していると、そのような時間の余裕があったかどうか。ヨーコと一緒になって、ジョンはヨーコから日本的な文化をいろいろと教えられた。鋭いジョンはたちまちのうちにその本質を読み取って、独自に吸収、消化した。そのことが端的にわかるのがジョンの描く絵と言ってよい。また、ジョンはよくギター片手に録音し、そうして出来た曲にバックの演奏の厚みをつけるという方法を採ったが、その素朴なギター1本と歌だけの演奏は、去年秋に『アコースティック』と題するアルバムとして世に出た。AMAZONで予約受付をしていることを知っていたが、結局買わなかったところ、会場でその実物を初めて手にした途端、急にほしくなって、自宅に戻ってAMAZONから買った。そして届いたものをBGMにしながらこれを書いている。このCDと同じような内容の曲はすでにジョンの4枚組のボックス・セットに収録されていたから、あまりありがたみはないが、何も加えない音でジョンの名曲を聴いてみたいというファンの思いからすれば納得は出来る。その何も加えない素の音というのは、70年頃にもよく言われたように、日本の俳句に似て力強い印象をもたらす。ヨーコの話す英語がおそらく比較的簡単な言葉を使用したものであったことも作用して、ジョンはソロになった当初、単純でわかりすい歌詞を書き、しかもそれをヨーコの真横でギター1本でつまびいて歌ったに違いない。まさにヨーコあっての仕事と言うべきだ。その無駄を削ぎ落とした音楽とパラレルの関係にあるのが、ジョンの黒1色のドローイングで、あまりよく知られないにしても、そこには音楽と同じほどの率直な心境を吐露する名人芸と言うべきものが宿って当然だ。
有名なものはよく紹介されているので、今さらという気もするが、ある程度まとまった数をまとめて見ると、そこには音楽からは伝わるのとはまた別のジョンの自由さ、気楽さ、正直さが感じられる。ジョンの正面顔の有名な写真を元にした色違いの版画を別にすれば、後はみなジョンのドローイングで、そのほとんどピカソかマティス並みの才能と讃えてよいほどの見事なものは、余技として見ていいのかどうか戸惑いを覚える。特に筆者が感心するのは、ほとんど仙厓の画風を思い出させる毛筆で描いたジョンとヨーコが一体化した様子を描く何点かで、限界にまで省略されたその表現は、描くのに数十秒といった即興特有の自在感を如実に示しつつ、ジョンとヨーコの特徴を完全に把握している。それらは何度も描き直して、手慣れるようになってからものにしたものかどうか、そこが知りたい。とにかく素晴らしいの一言に尽きる。線が少ないこともあるせいか、ふたりが一体になった部分には比較的大きな空白部分ず生まれているが、その空間がまた絵には欠かせない効果として機能している。これは完全に日本の絵画の理念を知っていたからにほかならない。そのことをもしヨーコから短期の間に教えられ、また自ら進んでその後獲得した表現とすれば、ジョンは何と本物の天才であったかことか。去年の9月頃だったか、新聞で内田裕也が吉行淳之介について書いた文章が載った。なかなか味のあるいい文章で、その中で内田は、ロックンローラーは相手がどんな人間か直観で見抜く力であるといったことを書いていた。これは名言だ。ジョンはそこまでは言い切らず、『ビートルズ・アンソロジー』の映像でも時として人を見誤ると正直に言っているが、ビートルズが有名であることに乗じてあらゆる人種がおこぼれを頂戴するために接近したはずで、そうした中で少しずつ人を見抜く力を磨いたことであろう。話を戻して、ジョンのドローイングの一部が仙厓を連想させるとすれば、それはジョンが禅の精神をよく知っていたこととも言える。ジョージがインドに魅せられたすれば、ジョンはその後インドからヨーコ、そして禅といった精神の遍歴を重ねたと言えまいか。ジョンの禅への理解が底が浅かったものかどうかはこの際問わない。悟ったと思えてもまた疑念が湧くのが人間であろうし、ジョンはそのことを隠そうともしなかったのではないか。会場に展示された作品は50数点とたいして多くはなかったが、ショーンをひとり描いたものや、ジョンとヨーコの顔の間にショーンを置いたものなど、いかにも幸福感溢れる作品は、少年時代にさして幸福を味わえなかったジョンを考えると、とても救われる気がする。その家族とのごく普通の生活は、音楽活動よりもっと重要であったというのはよく理解出来る。
800点の作品の中には、69年のハネムーンの時に描いたヨーコとのセックスを表現するものがあって、70年にギャラリーに展示したところ、卑猥のかどで没収された。そうした何事も隠すものがないというあけすけな表現を、恥知らずと謗るのではなく、それほどのめり込んだふたりを眩しく思う人もある。それらの作品はかつて雑誌で紹介されたことがあるので、どんな内容かは知っているが、今の少女漫画の方がよほど猥褻であるだろう。売り物の版画にはみな「蛇雲玲音」の4文字を刻んだ落款があって目を引いた。それはジョンのアルバム『マインド・ゲームズ』のジャケットを知る者には嬉しい。だが、別に彫ったゴム印に近い印象があって、それが少々安っぽい。広くない会場は、中央に床がガラスで下に収められたガラス細工のようなものが見えていて、その上に乗るのが何だか怖い気がしたが、上に乗らねば見えないものがいくつかあった。そのひとつは、訪れた人の鑑賞ノートで、中を見るとみなきちんと何かを書いていることに感心した。たいていの美術展でもそういうことはほとんどなく、落書きが目立つのに、ジョンの絵をすらすらと模倣したイラストを挟みながら、率直な感想を書いていることに、正直に告白すれば一瞬目頭が熱くなった。小さな子どもを連れたまだ若い女性が多く、家族連れで見に来ている人々が多いことも特徴で、ジョンが世代を越えて指示されていることがよくわかった。それはジョンが本当に裸になっても真実そのものであることを音楽や絵で証明し続けたからだと思える。何が人生で一番大切か、家族愛も含めてそれをジョンは身を持って発言した。その小さな家族を大切にする思いが広がれば世界に国境がなく、争いも減ると考えるのは、あまりに夢見る人の考えで否定する意見もあるが、誰かがそのピエロ的な役割をする必要がある。斜にかまえてあらゆる物事に文句をぶつけて粋がることは簡単なことだ。むしろ、人から石を投げられかねない率直な言動をする方がどれほど困難なことか。ジョンは後者を選んだ。会場奥には小さなステージがあって、その前に椅子が数十並べられていた。毎日異なるミュージシャンが1日3、4回ほど演奏するようで、その日会場に入った時、40代とおぼしき男性がギター1本で男性ひとりが歌っていた。席はほとんど空いていて、筆者は絵を見るのに熱心でほとんどちらりとも見なかったし、最後の演奏曲だったようで、わずか2、3分しか聞こえなかった。ジョンの演奏と声をよく知る者からすれば、そんな生演奏よりジョンのCDを大きく流した方がよいように思った。4時20分頃にまた案内があって、椅子に座ることが出来たが、すぐに埋まった。もともと席に着くつもりもなかったが、いくら待っても演奏は始まらない。外に出たところ、5時から演奏が始まることがわかった。入場料が1300円であるので、それを考えればミニ・ライヴがないことには人はあまり入らなかったかもしれない。図録は50数点の版画図版を収録する薄い冊子が売られていた。3700円ほどしていたのにはびっくりした。50代半ばであろうか、あるいはもっと若いかもしれない。売れないミュージシャン活動を一時していたような風貌の大柄な男が1冊買っていた。