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●市立枚方宿鍵屋資料館
ゴムで束にしたチケットの半券を数えてみると、今年は60少々の展覧会を見た。いや、半券のないものもあるし、個展も含めるともっと多い。このカテゴリーで紹介したのはその半分以下だ。



●市立枚方宿鍵屋資料館_d0053294_056854.jpg記憶を辿ってそれらの感想をみな書くことが出来ないわけではないが、今日はもう大晦日でもあり、最も気になっていたものを書いておく。筆者はあまり他人のホームページを積極的に見ることはないが、大阪のことを調べていた時、osakawalkerという人のホームページに何度か行き当たった。今も「お気に入り」に登録しているが、そのホームページによって枚方に鍵屋という江戸時代に有名であった宿が保存されていることを知った。それで早速5月27日の日曜日に出かけた。天気がとてもよく、よい思い出となった。撮影して来た写真を間もなく加工もしたが、なかなか文章を気分になれず、長い間そのままにしていた。気分が乗らなかったと言うより、ほかに理由があるのだが、それは書かないでおこう。ともかくその理由は最近ようやくクリアしたので、ようやくここで書いておくこと気になった。osakawalkerさんは大阪府下の各地を盛んに歩いて写真を撮られているが、とてもそんな行動力は筆者にはない。歩くのは嫌いではないが、仕事上、そう毎日遠方に出歩くことは許されない。大阪で成人するまで住んでいたとはいえ、筆者はもう京都での生活の方が長く、大阪でも知らない場所は多い。osakawalkerさんも大阪府下をくまなく歩いて、どの地も均等に撮影しているかと言えば決してそうではない。人間、どうしても好きな場所、性に合うところというものがあって、偏りは出る。その偏りは個性ともなるもので、別に悪いことではない。ともかく、大阪に関心のある人がosakawalkerさんのホームページを見れば、何らかの新発見があるはずで、自分もまたカメラを持ってあちこち出歩いて写真をネット上に発表することに多少は影響を与えるであろう。さて、鍵屋はよくぞ枚方市が買い取って保存を決めた施設で、末永く同じ形で残すべき重要な文化財だ。鍵屋を訪れるには、京阪電車に乗って枚方公園駅で下車する。この駅で下りるのは息子が幼少の頃に菊人形を見るために枚方公園を訪れた時以来だ。だが、公園は駅から西の山辺方向にある。鍵屋のある東側を歩くのは初めてのことであった。このように、よく聞き知っている名前の街でも、ほとんどが歩いたことのない場所であるはずで、人間は面より線的に移動するものであることを再認識する。枚方の菊人形は昔から有名であったが、2年ほど前だったか、ついに廃止になった。伝統芸がまたひとつ絶えた。菊人形で表現される歴史上の人物といったものにあまり若い人が感心しなくなったのだ。それに菊の花には葬式につきものの抹香臭いという観念がある。菊を愛でて、大輪のものを咲かせる趣味は、老人にふさわしいもので、若い人はそれが家の前で鉢植えで豪華に咲き誇っていても気にもとめないだろう。となれば、鍵屋などにも関心を抱いてわざわざ訪れるということもないかもしれない。
●市立枚方宿鍵屋資料館_d0053294_0565847.jpg 駅から淀川方面に向かって鍵屋のある街道を目指す途中、下水や雨水のマンホールの蓋のデザインが面白い。まずそれを写真に撮った。古い街道が今もそのまま健在であるというのは嬉しい。江戸時代にはなく、新しく作られた道というのは、とかく味気ないもので、合理的に直線が多く、しかも道の両側には歴史の感じられない建物が並んでいる。その点、鍵屋が面する街道は淀川にほぼ沿いつつも、かなり細かく蛇行している。縮尺の大きな地図で見るとそれがわからないが、実際に歩いてみると、次々と景色が変わるようで飽きない。建物の古さもまたよく、近場であっても遠方に観光に来た気分になれた。江戸時代はその街道を紀州の大名が行列したり、長崎にやって来た象までが京都から江戸へと旅する途中に歩いた。建物は当然建て変わっていても、道幅もその位置も変化はなく、寺や過書船の番所のあったところなどはそのまま面影が保たれているので、歴史のあるところであることがはっきりとわかる。想像をちょっと働かせれば、江戸時代にいる雰囲気を味わえる。そうした場所は京都の神社仏閣を中心に比較的よく残っている。本当によく残っているのは、中心地よりもむしろそれを外れたところで、当然観光客もあまり歩かない。そうした地区には旧街道があって、地元の人の生活道路、あるいは歴史に特に関心のある人にのみよく知られる存在となっているが、osakawalkerさんは大阪府下のそうした道をくまなく踏査して写真に記録している。同じ試みが各県、各街で行なわれ、それらがネット・ワークを形成すると、ホームページやブログも本以上の重要な情報媒体になるだろう。話を戻そう。マンホールの蓋を撮影した後、そのまま直進すると、淀川が近いことが明らかにわかる場所となって、鍵屋を紹介する看板が目についた。旧街道にぶつかったのだ。その看板前の道を右手に折れると北上、つまり京都方面だが、1、2分歩くと鍵屋はすぐにあった。教育委員会が保存し、資料館として公開しながら、別棟の2階の大広間は宴会場として今も利用出来るようであった。そうでもしないともったいない豪華な空間だ。街道に面する入口から20メートルほどの石畳が、別棟にある受付まで続いている。入館料は200円だ。訪れた人はまず別棟から見ることになる。別棟は街道に面した主屋からは数メートル離れて建つ独立した建物で、係員からは主屋よりうんと新しいものと聞いた。2階は大広間のみで、そこから見える淀川は遠くにかすんでいる。建物のすぐ目の前は京都と守口をつなぐ府道で、自動車が盛んに走って少々興醒めだ。江戸時代の淀川はこの別棟ぎりぎりまで岸が迫っていたが、上流から運ばれた土砂によって埋まってしまった。その分堤防を高く築いたので、洪水の不安は去った。
●市立枚方宿鍵屋資料館_d0053294_0574741.jpg

 大阪から鍵屋まで遡上する観光船が運航しているが、船底はごく浅い構造になっている。枚方は大阪府下の都市であるので、そうした大阪からの観光船の営業が可能になっているのどうか。京都から同様の観光船は出ておらず、ここに行政の提携が出来ていないことが推察出来る。大阪には市内の大川を走るアクアライナーという観光船があって、江戸時代からの水都大阪のイメージ作りと、それを売りにする観光路線を少しずつにしろ拡張しているが、京都は淀川に頼らずとも観光客がわんさか押し寄せるので、同様の船の営業は今後も難しいだろう。それには淀川を絶えず浚渫する必要もある。おそらくその費用が馬鹿にならず、淀川を運航する観光船だけの利益では到底賄えないだろう。鍵屋が有名なのは、京都と大阪をつなぐ三十石船に関係してのことで、展示においてもその側面に大きく光が当てられている。三十石船の出発は伏見であるから、京都市でも伏見区が三十石船を通じた提携をもっと積極的に枚方と結べばよいと思うが、伏見は伏見で独自に三十石船をごく近隣地区のみ運行していて、双方の街の交流はほとんどないのではないか。ここには京都と大阪の仲の悪さという事情も反映している。よく言われるように、大阪人は京都をよく訪れて、京都のことを知っているが、京都人はほとんど大阪には行かず、また街を知らない。大阪を見下しているからだ。京都と大阪は淀川によって強く結ばれているはずであるのに、三十石船に荷や人の運搬を頼る必要がなくなった明治以降、淀川によく絆は急速にうすれて今に至っている。せっかく鍵屋まで運行する観光船があるならば、なぜそれを橋本、あるいは伏見まで延長しないのか、また伏見側でも鍵屋まで下らないのか、もったいないことだ。他県がうらやましがる観光資源があるというのに、それを開発、活用する術をしらない。と言うより無視している。電車で40分で京都、大阪を結ぶという速さもいいが、のんびりと淀川を下って風景を楽しみたいと思う人は少なくだろう。それこそが余裕で、文化というものではないか。そうした府を跨いだ事業には知事の考えを始め、淀川を管理する機関の考え、そして観光的に採算が取れるかどうかの問題もあろうが、やろうと思えばそんなに困難なことではないと思える。ぜひとも伏見大阪間の観光としての三十石船などの復活を望みたい。船中で落語の「三十石船」などを楽しめるというのであれば、きっと観光客は他県からも押し寄せる。20年近く前だったと思うが、一度そういう試みがあって新聞に載ったが、なぜ本格的な運行に発展しなかったのか、理由はわからない。先頃、日本は観光庁を設置して観光立国を目指すという方針がニュースにあった。京都大阪の旧街道を歩いて楽しいものに整備し、その一方で三十石船を運行するというアイデアは真先に考えられてよい。京都では保津川下りが有名で、確か大人4000円だったと思うが、それでもあまりに盛況なため、30年ほど前だったか、ほとんど年中運航することになって今に至っている。古代から江戸に至るまで日本文化形成の大きな役割を担った淀川が、今のようにただ水が流れるだけで堤防によって人々の生活から大きく切り離されているのはあまりにさびしい。
●市立枚方宿鍵屋資料館_d0053294_1104054.jpg 別棟の1階は、鍵屋の歴史、発掘された枚方宿、昔日の鍵屋、枚方宿と街道、淀川の舟運といったように順に部屋ごとに資料やパネルが展示されている。最後の淀川の舟運を見る頃には、1階の床下に「くらわかんか舟」のマネキン人形が乗った実物大模型の展示が見える。この舟は三十石船に食べ物や酒を売ることが認められたもので、売り手が「くらわかんか」といった柄の悪い言葉を使用しても許された。同じような舟は、先の保津川下りの船が最終地点の嵐山に近づいた頃にも接近して来るので、江戸時代の様子は想像出来る。だが、くらわかん舟では料金後払いもあったのか、茶碗をこっそりと川底に捨てて料金を支払わなかった者があって、今でもそれがたまに引き上げられる。受付の売店には資料館の展示案内の冊子が500円だったか、1000円だったか、オールカラー印刷のものが売られていた。それによると、鍵屋の創業は天正年間(16世紀後半)で、400年の歴史がある計算だ。主屋は19世紀初頭の建築で、江戸時代の船宿の様式をよく伝える。平成9年に別棟とともに解体修理をして資料館になった。19世紀初頭と言えば、そんなに古くはないが、木造でもあって、解体修理は欠かせない。冊子によると、幕末から明治にかけての間取りは、敷地は現在と同じであるものの、主屋以外はかなり違っていた。まず、街道から面して別棟に至る石畳には、6畳の部屋がふたつ並ぶ独立した建物があった。そのため、玄関は少し南にずれて、現在の主屋において茶色の暖簾がかかっているところとされていた。また、現在の別棟に相当する建物と主屋は、廊下でつながって一体化していた。それでも現在の様子からこの間取り図を見ると、江戸時代がどうであったかは容易に想像出来る。こうした建物が、80年代終わりのバブルのおかしな時期に業者によって買い取られ、とっくにマンションに化けていたとしてもおかしくなかったが、よくぞ残したものだ。鉄筋コンクリートの味気ないマンションが鍵屋のある旧街道沿いに林立すれば、いったい誰が枚方を観光で訪れるだろうか。冊子を見れば、展示パネルにある情報はみな網羅されているので、ここで詳しく書くこともないが、冊子には載っていないものとして、模型があった。これは江戸時代の資料を元に作り上げたものだが、古文書の平面図を見るよりはるかに楽しく、また現実味があってよい。写真に撮って眺めると、まるで本当の光景を撮影したものと勘違いするほどだ。鍵屋が淀川に面していた様子を模型で再現した写真は冊子には載っていないので、ここに掲げておこう。
●市立枚方宿鍵屋資料館_d0053294_0585790.jpg

●市立枚方宿鍵屋資料館_d0053294_115423.jpg 主屋は平屋で、客間など部屋が8つほどある。かまどが並んだ土間もあって、時代劇の撮影に今すぐ使用出来そうだ。ふと髷を結った人が顔を覗かせるような気配があって、人の住まない家独特の不気味さのようなものがあった。階段箪笥などはもともと鍵屋にあったものかどうか知らないが、そうした古い家具は古い建物の内部にあってこそ本当に似合う。土間から暖簾を見ると、その向こうの街道からの光が透けていて、きっと江戸時代でも同じことであったろうと、まるで時間が止まっているような気がした。暖簾は茶色に染め、鍵の紋章が入っていて、なかなか渋くてよい。こうした布ひとつで建物全体ががらりと生きて来るから不思議だ。染色品の魅力はそういうところにある。つまり、人間的なのだ。温かいのだ。太くて黒光した梁や柱の重厚感はよいに決まっているが、そうした動かないものばかりでは空間は死んだものに感じられる。白く紋を染め抜いた布地の暖簾は風にそよぎ、人が通るたびに揺れる消耗品だが、そうしたものが重厚なものと助け合って和の情緒を形つくる。だが、そういう味わいを多くの人々が知らなくなった。暖簾の代わりにネオンなどのどぎつい看板の時代だ。主家に入る前に、元教員といった風貌の男性係員とあれこれ会話したが、訪れる人が少ないので手持ち無沙汰に見えた。観光バスで押し寄せるような場所ではないので、それはきっと普段の光景なのだろう。主家を見学した後、鍵屋を後にしてひとつ京都寄りの枚方市駅まで歩いて行くことにした。入口前の街道に立つ制服姿の警備員に訊ねると、訛りがきつかったが、15分程度の距離という。枚方公園駅に戻る方が早いが、せっかく初めて来た場所だ。同じ道を歩くのは面白くない。途中に問屋場跡、本陣跡、大きな石造りの常夜燈といった歴史的遺物を挟みながら、ギャラリーや面白そうな店がいくつかあった。鍵屋のような古い平屋を利用したイタリア・レストランがあって、そこで立ち止まった。若い男女がふたり表に出ていて、何か催しでもしているのかと訊ねると、演劇をしているとのこと。なかなかいいではないか。15分など一瞬で、すぐに駅ビルが見えたのでがっかりした。もっと道が楽しく続いて、そのまま伏見まで辿り着くことが出来ればどれほどいいだろう。いや、osakawalkerさんのように、この旧街道をそのように踏破している人はきっといることだろう。忙しい忙しいと言いながら、家に閉じ籠もってばかりいる筆者は何と不幸なことか。本当の贅沢は、思った時に思ったように見知らぬ道をぶらりと歩くことの出来るような生活だろう。京都と大阪に挟まれて、あまり認知度の高くない枚方だが、鍵屋とその前の街道は一度は訪れてみることを勧める。そして訪問者が増加すれば、伏見と鍵屋をつなぐ三十石船が復活することもあるかもしれない。
by uuuzen | 2007-12-31 01:00 | ●展覧会SOON評SO ON
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