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●『失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展』
口龍夫展で係員に文句を言ったのにはもうひとつの理由があった。同展を見た後、三宮に出てこの展覧会を見る予定で、焦っていたからだ。そしてどうにか4時少し過ぎに博物館に着いた。



●『失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展』_d0053294_020564.jpgそこで驚いたのは100メートルほどの列が出来ていたことだ。日曜日であり、ルミナリエを見る人がついでにこの展覧会も見ようと決めていたのだ。筆者もそうであった。こんなに行列があってはもう30分も鑑賞出来ないと思った矢先、特別に8時まで開場しているとわかった。それなら河口龍夫展を慌てて流し見する必要はなかったのだ。博物館前からはまだ点灯はしていないルミナリエの正面が見えていた。事情を知らない人は展覧会を見た後、ちょうどうまい具合にそれが光っているところを見ることが出来ると思ってしまう。実際筆者のすぐ後ろに並んだ若いアベックは、ルミナリエと博物館がこんなに近くてラッキーと話していたが、ルミナリエをもう数回見たことのある筆者は口を添えた。博物館の出口はこの正面ではなく後方にあって、そこからルミナリエを見るために元町まで強制的に誘導され、また三宮まで歩いて、さらに元町というように1時間以上も歩かされてこの博物館付近にようやく辿り着くことになると。それを聞いてびっくりしていたが、当夜は博物館を出てからルミナリエの入口に到着するまで2時間ほど歩かされ、帰宅すると11時近かった。光の輝きを見に行ったのか、人にもまれに行ったのかわからない。震災の翌年から始まって今年で13回目、しかも来年からは資金難もあって危ういという噂が新聞に載ったこともあって、初めて訪れた人は少なくなかったであろう。毎年同じ規模、同じようなデザインなので、一度見ると充分と言ってよいが、つい展覧会のついでもあって見てしまう。近年は自宅で発光ダイオードを使うなりして、「家ナリエ」が流行しているが、ルミナリエは赤、橙、臙脂、青、緑、紫、白の豆電球以外は使用しない。これでは電気代も馬鹿にならないはずだが、イタリアのデザイナーがそれに固執しているのだろう。今年は、入口から入って100メートルほど行ったところのひとつのアーチ左側が電気が全く灯っていなかった。係員は気がつかないはずはない。急いで直すべきだったと思うが、そのまま放置されていた。また、ひとり100円の募金を訴えていたが、訪れた人全員が応じてもルミナリエの経費の数分の一しか賄えない。ルートを作って誘導されるのであるから、強制的に料金を徴収することはたやすいはずなのに、それをしないところが、見る人の良心に任せるという紳士的な態度なのだろう。100円は安いものだ。ルミナリエを見た後、人は神戸であまりお金を落として行かないというから、来年もし実施されるなら100円は鑑賞料として徴ってもよい。
 ルミナリエの話はこの展覧会とは関係がない。だが、チラシはまるで太陽の輝きに見えるデザインが使用され、ルミナリエを連想させないでもない。その太陽の輝きの見える物は、文字を持たなかったインカの人々が色のついた紐をたくさん束ね、そこに結び目をつけることで数を数えたもので、インカについて書くどのような本でも必ず登場する有名なものだ。今回はその出品の説明書きには、数だけではなく、文字情報も伝えていたとあった。研究は日進月歩であるので、10年前にわからなかったことが新たに判明したりする。そのため、またインカやマヤ、アステカの展覧会かと思っても、切り口が違っていたりする。昔見たことがあってもまた訪れて損はないということだ。だが、インカとマヤ、アステカを一堂に展示するのであるから、総花的な展示内容で、子ども連れの家族で見るのにふさわしいものであることは予想出来た。会場は子どもが多かった。これは教育的な点からは望ましい。展示室を出たところの特別設置の売店はとても大きく、何と今回の展覧会の目玉で、TVでも盛んに紹介されていたインカのミイラ2体のフィギアが売られていた。ミイラは土器や翡翠の仮面、石像と同様の完全な展示物に過ぎないという扱いで、人をモノとして見る感覚がすっかり定着している気がする。そう言えば、今大阪で人体をそのまま解剖展示して見せる展覧会がおよそ20年ぶりにまた開催されているが、同展が日本中をくまなく巡回し、どこもかなり盛況であるのは、恐ろしくても、人のモノ的なところを、文字どおりさまざまに「展開」して見たいという欲求に沿っているからであろう。そこには、展示されている元の人の魂といったところに馳せる鑑賞者の思いはない。南米のミイラは、当時の人々の思いのひとつの結晶だが、その思いの意味はなかなか現在でも研究し尽くされているとは言い難い。今回は体内にトウモロコシやジャガイモが詰め込まれたミイラの紹介があって、ミイラの意味が当時の人にとって変遷したことを紹介していた。ともかく他の出土品と同様にモノとしてミイラを扱って展示しようという態度で、そこには、同じ人でありながら、消えた文明と今の文面との断絶が横たわっている。そのことには現代人からはあまりに理解し難い別の理由の存在が絡む。アステカでは、有名なように、人の心臓を生け贄として太陽神に捧げる風習があった。それをやって来た西洋人が野蛮として否定するが、西洋化した今の日本では、同じ感覚を同文明に抱きがちではないだろうか。だが、会場ではある年配者がひそひそと話していた。『日本でも人柱と言って、人間を生け贄のように捧げて神に祈ることは江戸時代まであった…』。つまり、アステカ人の心臓を抉る儀式が野蛮とはとても言えない。また、生け贄とされる者は、恐怖のあまりそれを拒絶したとは決められない。麻酔のようなものを施されて恐怖は減退していたろうし、また神のもとに行くこととして、選ばれた人であるという誇りを喜んで受け入れたかもしれない。死は怖いが、それを上回る何かがあったことは現代人でもよく想像出来る。
 話は少し変わる。ジョルジュ・バタイユはそうした生け贄に興味を強く抱き、同様のことを実行しようとして、仲間のロジェ・カイヨワと袂を分かった。カイヨワは夢を理性的に分析する研究でも知られるように、どこまでも理性的であろうとしたが、バタイユは死の寸前の精神的な状態がどのようなものか、それは最高の陶酔をもたらすものではないかといった限界的な心に関心があった。今の日本では自殺者は増加しているが、それは死体を見ることもなく、家で家族の死に立ち会うこともほとんどなくなって、死をイメージしにくくなっていることもどこかに原因があるだろう。だが、一方では大集団が一気に事故で死んだり、あるいは国家によって殺されるなど、さまざまな死は伝えられる。それは映像を伴ってはいても「軽い」情報であって、個人に直接響いて来て実感を伴うものではない。死は軽くなっているのだ。あるいは、少なくもインカやアステカの人々とは死が生者に与える意味というものが違っている。集団が生き残って行くためには恵みの太陽神を鎮める必要があり、それゆえ生け贄を捧げ続けるというのは、現代から見れば、迷信もはなはだしい愚行に過ぎないとしても、では現代がそうした時代より迷信が減って、人々がみな幸福感を得て生きているかと言えば全くそうではない。むしろ迷信や妄信、不幸感、絶望感は増加しているだろう。でなければなぜ自殺者が年間何万人も出るのか。もうひとつインカで不思議なのは、発掘される頭蓋骨に変形が施されたものがあることだ。これは生まれて間もなく、頭に板を当てるなどして、恣意的に変形を作り出したものだが、そんなことをすれば内部の脳に悪影響を及ぼしてよくないのではないかと思うのは現代人の常識ではあっても、当時は身分の差を示すなど、何らかの理由でそうすることが「流行」したのだろう。それを単に野蛮な行為と笑えない。頭蓋骨の変形ではないにしろ、現代では整形手術はあたりまえに行なわれ、日本の若い女の子でも顔を真っ黒に化粧したり、あるいは平気で入れ墨をする。インカと似たりよったりで、むしろ肉体改造への思いは増している。このように、インカやマヤ、アスカに関する展覧会は、現代とは著しく異なる文明を垣間見て、それを自分たちの文明と照らし合わせてさまざまなことを考えてみる機会を与えてくれる面白さがある。そこには、中南米の古代文明は、モンゴロイドがわたって行って作ったものだという、一種の親近感も作用する。また、スペインによって壊滅的に滅ぼされた文明に対する、人間としての贖罪の意識も少しは湧くからか。ともかく、滅亡した文明はその完結性と謎によって現代の人々にロマンを与える存在であり、今後も定期的に日本で同様の展覧会が開催され続ける。
 図録は2300円で黄色の布状の袋がついていたが買わなかった。筆者の手元に中南米古代に関する展覧会図録は数冊ある。保存しているチラシによれば、染織関係のものを除いて、『コロンビア黄金美術展』(1968)、『赤道直下の古代文明展』(1980)、『栄光のインカ帝国展』(1984)、『黄金の都 シカン発掘展』(1994)の4冊だ。大半の展覧会は見たが図録を買わなかったものとして、『大アンデス文明展 よみがえる太陽の帝国インカ』(1989)、『マヤ文明展』(1990)、『古代メキシコ至宝展』(?)、『ペルー黄金博物館展』(?)、『歴史と民族の十字路 マヤ』(1993)、『ペルー黄金展』(?)、『悠久の大インカ展』(2000)があり、京阪神以外の地域ではこのほかにも同様の展覧会はあったはずだ。そう言えば今年は『ナスカ展』があったが、これは見なかった。ともかくほとんど毎年どこかで開催されている。NHKが世界遺産がらみもあって、特集番組を作ることも人気の理由となっているが、日本人が南米に移住したり、研究家が住んでいたりすることや、それにアンデス地方の哀愁を帯びた民俗音楽の愛好家が多いといったことも理由だろう。チラシを見ていて知ったが、先の『ペルー黄金展』は日本とペルーの国交締結125周年記念というから、古くから国交があることに驚いた。そう言えばフジモリ元大統領の例を思えばよいではないか。さて、何度見てもわかったようでなかなか正確に把握出来ないのがインカ、マヤ、アステカで、これらは現在の国境で分断出来るひとつの特定の地域の文明ではなく、繁栄時期もまちまちだ。先の『コロンビア黄金美術展』は、現在のコロンビアの国に属する地域の古代文明、『赤道直下の古代文明展』はエクアドルを扱ったが、コロンビアは南米の北西端の国で、エクアドルはその南隣に位置する。そして、エクアドルの南隣にが細長くペルーが存在するが、インカはそのペルーの中央アンデスにおいて紀元前2000年頃から、西海岸部から高地に至るまでさまざまな小国家が出来ては滅びしていたところに、15世半ば頃に誕生した最初の統一国家だ。それが16世紀にスペインが入って来て、わずか50年少々征服されてしまった。インカにはいくつかの都市が点在して、崖縁の人がひとり通れるほどの細い道によってつながっていて、文物が流通した。この道をインカ・ロードと言う。何万キロだったか、とにかく網の目のように都市を結んでいた。現在のペルーの首都はリマだが、インカ帝国の首都はリマ南東500キロのクスコで、そこは隙間が全くない石組の壁があることでよく知られる。これも現代から見ればどのようにして作ったものか見当がつかない精巧なもので、インカ文明のとてつのなさをよく物語る。リマの南300キロほどにナスカ平原がある。そこの地上絵はUFOブームで一気に有名になった。また、今回の展覧会では精密な大型模型が展示されたマチュピチュの遺跡は、クスコ北300キロにあって、70年代以降から人気が出たが、世界遺産の中でも飛び抜けて謎めいたものでもあって、訪れたいと思う人は少なくない。
 コロンビアやエクアドルの古代とも共通して、インカでは金や銀の細工品が豊富に作られた。これらはスペイン人がインカの王を人質に取るなどして何トンも奪って金塊に融かしてしまったため、めぼしいものはことごとく消え去った。現在博物館で展示されるのは墳墓から発掘されるものだが、それらとてスペイン人は狙ったから、幸いにも伝わったと言うべきだ。スペイン人の黄金に対する執着はすざまじく、エル・ドラード(黄金の人)の伝説を頼りに南米を探検する人々が絶えず、そのために南米の森林に隠されていた文明のことがいろいろとわかった。略奪と解明が一体化していた。これはどの古代文明でも言えることだろう。次に、マヤ文明の遺跡は今のメキシコ南部にあって、インカとは何千キロも離れている。そのためインカ文明とは関係がないようだが、彩色土器の模様や石像を見ると、よく似た点が少なくない。古代において人々がある程度行き交っていたのであろう。マヤは金属文化を持たなかったから、インカのように金や銀の細工物はない。その分、巨大なピラミッドなど、石の文化が発達した。それを証明するのが、今回展示された翡翠の仮面のような豪華な石細工品だ。それらは見ていて少々不気味な感じを与えるもので、顔につけるには少し小さ過ぎるものもあって、どういう用途があったのかと思う。また、アッシリアやエジプトによくあるような、戦士を彫った大きなレリーフが展示されたが、それらは横に掲げられた線を起こしたイラストと交互に見なければ何がどう彫られているのか即座には飲み込めない込み入った様式をしている。その様式は立像にも共通して見られるもので、マヤの数字にも登場する。組紐模様を取り込んだような複雑な装飾性だ。それはアステカにも共通するが、アンデスには見られない。マヤはカリブ海に近い地域から内部の森林地帯まで遺跡が散在し、まだ発掘が進んでいないところもある。石造りの巨大なピラミットを建設したことは、それだけ数学も進んでいたことを証明するが、アステカやインカもうそうであった。マヤ地域の文明は紀元前2000年から紀元後1500年まで続いた。グアテマラとの国境の密林で発見されたヤシュラン文明は、6から7世紀のマヤ最盛期のもので、20世紀末期に発見されるまで1000年も眠っていたそうだ。発掘もままならず、まして研究はまだまだ途上にあるとすれば、今後どういうことが明らかになるかわからない途方のなさがある。また人間が今からは想像も出来ない文明や文化を選択し得る柔軟性を持っていることに対する信頼感に似たものが湧き起こるし、雨を願って神に祈り、そのことを、暦を正確に知ったうえで神殿の全体的な形にまで表現した文化に対してロマンを感じるからこそ、人々は展覧会に足を運ぶのだろう。
 アステカはマヤから西700キロほどの中央高原の文化で、インカのように、同地では最も新しくて14から16世紀にかけて繁栄した。つまりマヤと同時期に別の地域で起こった。小部族が散在していたとすれば、当然想像されることはそれらが時に敵対して戦争があったことだ。先の戦士の浮き彫りはそうしたことを端的に示す。インカ帝国が出来たのは、小国家をまとめ上げる強力な王が出現し、それに反対する者を抹殺するなどしたからだが、アステカ文明もそのようにして出来上がった。そうした戦いを繰り返していた中、スペインがやって来てアステカを簡単に滅ぼしてしまうが、外来の見たことのない文明にはさっぱり手が出なかった。日本が江戸末期に同様のことにならなかったのは、少しずつ情報が入って来ていたからにもよるだろう。心の準備が出来ていたのだ。アステカは今のメキシコ・シティに位置するティノチティトランを中心に王国を築いたが、湖上にあったようで、その模型が今回は展示されていた。壮大かつ広大な石造の神殿群で、そこで生け贄の心臓を抉る儀式が行なわれた。時に3000人が殺されたこともあったと残される絵図が示していて、その血生臭い光景を想像すると、まるでハリウッド映画を見ている気分になる。たくさんの人が殺されるのは戦争ではつきものであるし、もっと多くの人が無意味にも殺されたことがカンボジアでつい30年ほど前にあった。アステカが残酷一点張りの国であったとは到底言えない。アステカの石造神殿はアステカ人が最初に生み出したものではない。先のマヤは6、7世紀に同様のものを建てていたし、メキシコのテオティワカンはもっと巨大なピラミッドで、紀元前1世紀から7世紀に至るまで栄えた都市の遺跡だ。テオティワカンが滅亡して11世紀にチチメカ族が入り込み、その一派のアステカ族がティノチティトランをつくった。スペインに征服された後の現代のメキシコは、そうした古代からの文明を色濃く残しているのは当然であって、そう簡単に西洋文明一辺倒にはなってしまわない。最後に会場でせっかく取って来たメモを少し披露しておこう。アステカの暦に日々の吉凶を占うトナルポワリなるものがある。これは大小ふたつの歯車のかみ合わせを思えばよい。数字の1から13と、20種の記号を組み合わせて1日を表わすのもので、260日で一巡するが、この暦を365日暦(シウポワリ)と組み合わせて52年の大周期を作っていた。20種の記号を順に書けば、「葦、ジャガー、鷲、コンドル、動き、フリントのナイフ、雨、花、ワニ、風、家、トカゲ、蛇、死、鹿、ウサギ、水、犬、猿、草」だが、どれが最初かはわからない。52年周期は還暦の60年とは8年の開きがあるが、52歳で人生の一区切りという感覚の方が正しいように思える。となれば筆者はそれを1年過ぎてしまったな。アステカ人はルミナリエの輝きを想像も出来なかったろうが、それでも毎晩ルミナリエ以上に感動的な星空を見ていたはずで、いったいどっちが幸福であったやらだ。
●『失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展』_d0053294_0214836.jpg

by uuuzen | 2007-12-30 00:22 | ●展覧会SOON評SO ON
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