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●『河口龍夫-見えないものと見えるもの-』
とんど同時期に兵庫県立美術館と名古屋市美術館とで開催された。こういうことは初めてではないだろうか。



●『河口龍夫-見えないものと見えるもの-』_d0053294_256720.jpg作品にはだぶりがなく、2か所とも見ないことにはこの作家のことがよくわからないかもしれないが、普段用いられるA4の倍の用紙の両面に印刷したチラシを見ると、似た感じの作品が並んだようで、ひとつの会場でも充分かもしれない。それで16日の最終日に兵庫県美で見た。筆者はジャンルを問わず、見境なしに展覧会を見ることにしているから、この展覧会にしても期待して出かけたのではない。自分の知らない作家の展覧会はそうではないものより関心が強いから、その分は見たいと思った程度のことで、前もってこの作家について調べたりはしなかった。見て来た後でも調べていないので、以下に書くことは全くの感想に過ぎない。最初の部屋は『陸と海』と題された組写真で、かつてそれを見たことを即座に思い出した。今図録を引っ張り出した。1983年12月に京都国立近代美術館で開催された『現代美術における写真』と題する展覧会で、ちょうど24年前のことだ。同展はなかなか刺激的な内容で、比較的よく記憶している。海外の作家はハミルトン、ホックニー、ラウシェンバーグ、ローゼンクイスト、ウォーホルで、日本人作家は17人選ばれた。その中に、去年だったか、西宮大谷記念美術館で大きな展覧会があった植松奎二も含まれているが、ほとんどの名前は知らない。河口は植松と同じ神戸の生まれで、現在は京都造形大学で教えるが、17人はみなそれなりに同様の定収入と肩書のある落ち着き場所を見つけて作品を作り続け、生存中に立派な美術館で個展が開催されるほどの力をつけているのだろうか。おそらく四半世紀経って、さほど変化がなかったり、あるいは逆に作家として先細りする者もあるはずで、そこには経済的な問題というものが大きい気がする。特に現代美術をやっている者は作品が売れることはほとんどないはずで、どう食べて行くかを考えると、パトロンがない限り、学校で教えるしかない。少なくとも日本ではそうではないだろうか。だが、その学校も次やその次の者が指をくわえて待っていたりしてなかなか狭き門だ。作品の質の競争とは別に、人脈や発言力の戦いがきっとあるのだろう。したがって、美術館というもの、そこでの展覧会というものは、美大や芸大を出て、またそこに勤める者が牛耳っていると言ってよく、そういうところから弾かれた者は、無名の、つまり存在しなかった者という認識を受けて世の中から大半が消えて行く。そう考えると、急に日本の現代美術など全くつまらず、見なくてもちっともかまわないものに思えて来る。
 そのことの別の理由は、現代美術作品におけるコンセプチュアルな部分が、日本の風土から生まれて来た独自性ではなく、必ずと言ってよいほど、海外の有名前衛芸術家に何かヒントを得たようなところが見受けられたりすることだ。これは別の日に書いたが、日本車はうまく外国の車のいいところをデザインや性能も模倣し、最初はそれを大きく非難されたが、効率がよい、きわめて合理的であるといったことによって、次第に人気を博して来た。剽窃から始まって普遍に至ったと言ってよく、同じようなことが芸術の面でも生じているはずであることは誰にでも充分に想像出来る。確かに日本の現代美術家の全部がそうした海外の先駆者の模倣からスタートしているとは言わないが、美術の歴史が古代から連続し、常に先を進んで来た西洋からすれば、どうしても日本は後手になるのは仕方がない。その距離は近年はますます縮まって来てはいるだろうが、それでも根本のところで根なし草を露呈してしまう気がする。その根なし草的なところを逆手に取ってそれを表現の核に見据える方法もあろうが、それは抹消的な行為にとどまって、決して欧米の前衛をびっくりさせはしないのではないだろうか。さて、そんなことを思うのは、河口の作品を見て連想するのがヨーゼフ・ボイスであるからだ。あるいはキーファーも含めていいかもしれないが、ともかくドイツの現代美術への志向があるように見える。もうひとり河原温を思い出したが、河原もドイツに長く住むので、河口はドイツに住んだか、人的なつながりがあったのであろうか。図録を買わず、年譜も見ていないのでそのあたりのことがわからない。だが、ボイスやキーファー、河原を即座に思わせることは、作家としては二流ということになる。コンセプチュアルな部分が勝負どころになる現代美術においてこれはよくない。だが、この展覧会のタイトルにあるように、そう見えているだけで、作家はそう見てほしくなく、別の意図がきっとあるのだろう。とはいえ、「見えないものと見えるもの」とはなかなかうまく名づけた題名としも、見える見えないは個人差があるし、それだからいいと言える。このように見てほしいと作家が思っても、必ずそのように伝わる保証のないのが美術であり、であるからこそ面白い。つまり、作家から手を離れた作品は、どのような思いで鑑賞されようと、また評価されようと、作家が力を及ぼすことは出来ない。特に現代美術作品は、工芸作品のように手技による細部の仕上げを誇るものではなく、思いつきが優先し、同じ行為を繰り返すことになりやすく、それは悪く言えば美術に縁のない人からすれば、詐欺のようなものに見られかねないところがある。ボイスの人気が賛否相半ばしたのも、そうした人を食ったような側面があったからで、どこからどこまでが作家の真実で虚構かわからないところがあった。だが、そのボイスは第2次世界大戦で飛行機がソ連軍に撃墜されて負傷した後、遊牧民によってフェルトや脂肪にくるまれて傷を癒し、その後その経験から作品にそうした素材を積極的に使うようになったという、まことに物語好きな人々にとって恰好の経験をした、あるいは作り上げたことが、作品に輝きを大きく付与したと言ってよい。つまり、自分の大きな体験に則して独自の題材を見つけて来たという強みを持っている。これはどんな作家でもそうあるべきで、優れた作家ほどそうした独自なシンボルになる何かを必ず人生のある時期に決定的に発見する。
 ざっと見て河口の作品におけるそうしたシンボルが何かと言えば、最初の部屋の写真作品よりも、チケットやチラシで灰色の姿を見せている鉛で包み込まれた植物の種子だ。フェルトや蝋も使用するが、それはそのままボイスが頻繁に使用した素材で、二番煎じの感は否めない。また電気を利用して発熱させたりする作品『関係-エネルギー』が第2室にあったが、それもまたボイスにあった熱への関心にそのまま結びついている。そして鉛はキーファーの飛行機を模した大きな作品を思い出させるし、名古屋で展示された背の高いひまわりをそのまま鉛で包んで1本ずつ箱詰めした作品もまたキーファーを思い出さずにはいない。だが、河口には初期のキーファー作品にあったような、ドイツの現代の歴史を強く意識したのと同じような政治的な概念があるのかどうか、どうもそうではないように思える。会場でもらったチラシを見ると、蓮の果実や種子がよく用いられているのは、それが植物としては比較的大きいという理由からで、そのついでに仏教的でもあるといった見方を導き出したように思える。名古屋ではひまわりの種子を使用した作品が並んだが、ここにもひまわりでなければならないという積極的な思想があったようには思えない。ボイスにおけるフェルトや脂肪、蜜蝋が、自身の決定的な体験を通じて重要な素材として昇華して行ったのとは違い、河口には日本画家的な叙情性と、作品を見せるうえで単に形として最適という考えからそうした素材を選んだように見える。これはボイスに照らすと欠点となるが、曖昧さを売りとする日本的観点から見ると、別のファンを獲得するだろう。また、ボイスは誰でも芸術家になれると言っていたから、自分に似た素材を似たように仮に駆使する作家が出現しても、そこには自ずとその作家独自の個性が表われるとして謗ることはまずなかったであろう。ただ、問題は見る人の側にあって、ボイスを連想させる点において河口を亜流と思う人は思うし、全く別の味噌臭い日本的感性を見て、それを讃える人もあろう。現代美術はだいたいそのように、コンセプトも含めて基本的表現手段は概ね出揃っている。後はそれを適当に組み合わせ、少し位相をずらし、何かにうまくこじつける程度のことだ。それを面白いと見るかそう見ないかは自由であり、こんなもの自分はもっとうまく出来ると思う人はどんどん参加すれ。ただし、繰り返すと、日本では有名な芸大や美大を出ていない限り、全く相手にもされない。コンセプトや表現技術の前に、まずどこを卒業したかだ。それゆえに、日本の現代美術は底が見えていて面白くない。話を戻して、河口が鉛を使用するのは、展性がよいという物理的な面が理由であったようだ。これは蓮やひまわりの種子が大きくて作品に使用するにはよいということと通じている。本物の植物の種子をどのようにして鉛でそっくり包み込むのかどうかは知らないが、鉛は融点が低く、融かした湯に浸して引き上げるのだろうか。それは説明されていなかったが、そこに河口の発見や工夫があると言えるし、仕上がりに腐心するという工芸家的な態度もあることだろう。つまり、それなりに苦労しているに違いない。
 種子そのままを裸で展示してはどこかの前衛華道の作品と同じようなことになってしまうし、美術館に現代美術作品として強固な彫刻的印象を付与するためには、金属を用いる必要があり、それでよく展びる鉛を選択したものか。また、鉛でくるむのは、チーズ・フォンデュやチョコ・スナックからの発想であったかもしれない。蓮やひまわりの実をチーズやチョコでくるんでも前衛芸術とは思われないのに、金属となればすぐにそうなって美術館に似合うのであるから、身の周り普通に存在するものの中に現代美術のヒントなどいくらでも転がっている。いや、そうしたデペイズマンの手法を取らない限り、人々は美術作品としてあっと驚かない。そこには美術館が美術作品の質を保証するという現代性がある。河口の作品をどこかの古物商の店先に置くと、おそらく誰もそれを現代美術作品として鑑賞はしない。美術館に飾られると、おそらくどんなものでも一気に聖なるアウラを獲得する。だが、美術館で現代美術作品にあっと驚いた後に何か深遠な思い残るかどうかは別問題で、鉛を見るよりチョコレートを見る方が楽しいという人はいることだろう。もちろんそういう人は美術館に足を運ばず、百貨店の地下に行って菓子作りを眺めるが。だが、その菓子作りの何かをちょっと別のものに変えれば、すぐに美術館での展示にふさわしいものになる。ともかく、美術館は一般からの厳しい目に絶えず晒される必要がある。鉛が放射能を遮り、そうした保存された種子は遠い未来で発芽するかもしれないという物語の提出は、地球環境や人間の所業に関連させた芸術を思わせ、筆者にはやはりボイスを思い出させたが、一方で趣味の悪いこじつけも感じた。まず、鉛に毒性があるという一般的な思いがある。それで種子を包み込むことが保護になるのかどうか。むしろ種子の息の根を止めているように思える。種子によっては翌年でなければもはや芽を出さないものも多く、植物は毎年必ず発芽して開花することを望んでいる気がする。少なくとも自宅の裏庭で毎日植物をぼんやり眺めている筆者にはそう思える。鉛が放射能を遮るとしても、それは厚みによる。ごくうすいとその効果も低い。蓮の種子や鉛を選んだのは、先にも書いたように、作品として成立させやすい物理的事情が優先したのであって、放射能を防いで未来における発芽を期待するといった詩的で壮大なコンセプトが最初にあったのではないように思える。最初の思いつきから作品が具現化し、次にこじつけを行なったという感じが強くする。そこがボイスとは逆だ。「見えない」放射能が怖いぞと河口は原子力発電に対して警告の意味を持って、種子を「見えなく」する表現にしたのかどうかは知らないが、世間に対して抗議行動で訴えるといったことは何もしていないのではないだろうか。もしそうだとすれば、そこが底の浅さとして作品に影響する。若い頃のキーファーは第三帝国を検証するために、体を張って行動的作品を発表したが、そうした政治に関心を示す態度を日本の現代美術は御法度と思っているのかどうか、ほとんどないように思う。またそうした動きを続ける作家は、きっとどこの芸大や美大からも教授の声がかからず、美術館で展覧会が企画されることもない。その意味で、日本の現代美術家はどうしても小粒ないし、日和見主義にも見えて来る。
 最初の部屋の『陸と海』だが、これはボイスとは関係がない。須磨の海岸で撮影された26枚組の写真で、4枚の長い板が浜辺に並べ置かれ、潮の満干によってそれが水面下に沈んで行く様子が順に撮影されている。3日要しての定点撮影で、定点撮影に関心のある筆者には面白かった。そのため24年経ってもよく記憶していたのであろう。4枚の板とは、1や2、3ではその数に意味が込められてしまうからで、板の数が作品には無関係であることを示す最低限の数が4であるところから決まった。潮の満干を組写真にするのであれば、板はあった方がわかりやすい。海岸線は時間によって移動する、海と陸との関係は固定化したものではないなど、この組写真から読み取れることさまざまあるが、写真を一部屋の四方にぐるりと囲って展示することで、潮の満干の循環性がより強調され、また写真に写る細部に着目すると、撮影時の作家の用意周到性も垣間見えて来る。会場では次の部屋は「関係-エネルギー」と題されて、床一面に電気のコンセントに差し込まれた電球がニクロム線などが点在していた。鑑賞者はあまり作品に接近してはならないと注意されたが、感電するのかと訊ねたところ、そうではないが電気が通っているのでと返事された。見えない電気のエネルギーが、目に見えるニクロム線の発熱具合になったり、小さな扇風機が回転したり、ブザーの音が鳴ったりするということなのか、先に書いたように、これはボイスの作品における熱に関するコンセプトの変奏のような気がする。さて、次の部屋は近頃流行の鑑賞者参加の作品で、面白いことの好きな筆者はじっくり順番を待って参加した。部屋がふたつあって、どちらも内部は真っ暗だ。右側はペン・ライトを持って入り、壁にかかる素描画をそのライトをかざして鑑賞する。停電になった家で何かを見る雰囲気がある。素描は河口が暗闇で描いたもので、点や線が連なった抽象画といったもの。左側の部屋は、画用紙に鉛筆で自由に描くという、右側の部屋の素描を自分でも試みるというものだ。この2部屋の前には係員がいて、順番待ちを名前を紙に記す。右を見てから左に記入せよということで、右はペン・ライトが8本あって、同時に8人が鑑賞出来るのに、左は河口の指示によってひとりずつしか入れず、なかなか順番が回って来なかった。ひとり2、3分と掲示にあるのに、係員は時計で計ることもなく、5分以上入っていたアベックがいた。ひとりずつであるはずなのに、連れはいいとのことだ。だが、本当に中は真っ暗で、誰も入って来ないから、若いアベックにすればいちゃついて過ごすのに最適な空間であった。
 中に入ってみると机と椅子が4つずつあって、同時に4人まで描けるはずなのに、基本はひとりであったから、せっかく試したい人が待ちくたびれて取消をしたりしていた。筆者が頭に来たのは、1時間も前に名前を書き入れていて、その間作品を全部じっくり鑑賞し、またコーナーに戻って来て横入りが許可されていたことだ。つまり並ばなくてもよかったのだが、そのことはどこにも書かれていなかった。筆者の前で3人ほどがどこかからやって来て割り込んだ。そういう横入りが可能ならば、そのことを掲示に示すべきだが、真面目な筆者はずっとそのまま列に並んで待っていたし、同様の人はたくさんいた。部屋にはどんどん人が溢れ、みな順番を待とうとしている。3人目の横入りがあった時、ついに筆者は抗議した。「順番が回って来た時、少なくともこの部屋にいない人は権利を抹消すべきではないですか。でないと、この部屋にこれほどたくさん待っている人は、横入りされる人のために待ち時間が無駄になって、残り時間で別の部屋の作品が見られなくなるでしょう?」 筆者と同じように感じて抗議した人がいないとすれば、みんなよほどどうかしている。この美術館は展覧会の入口まで5分ほど歩かされるため、日本で最悪の不親切なものだと、何度かこのブログで書いたが、どうやら係員もそのようで、鑑賞者の立場というものを全く理解出来ないらしい。筆者が訪れたのは最終日のしかも午後3時過ぎであったから、そんな文句を言ってもどうせ残り1時間ほどしかなく、係員が態度や方針を改めてもどうにもならなかった。さて、左側の部屋に入る直前、係員から白のB3サイズの画用紙を1枚手わたされる。そして引率されて明かりのついた状態で椅子に座り、鉛筆を1本を与えられる。係員が出ると電気が消される。描き終わると、右手のチャイムを鳴らして係員に明かりをつけてもらう。筆者は描くものを決めていた。自画像を描くしかないではないか。もちろん暗闇で光るマニマンだ。画用紙を置いて四隅を指で確認し、待っている人が気の毒でもあるから、1分ほどで画面いっぱいにはみ出ることなく、素早く描いた。最後に画面左下隅に「DARK DRAWING」と書いたが、これは見たばかりの河口の素描に倣った。描いている時、鉛筆がかすれた音を何度か立てた。鉛筆の芯に完全に出ておらず、木の部分が覆いかぶさっていることがわかった。そのため鉛筆の向きを変えながら描いた。その間、さきほどの憤りがまたぶり返した。係員は鉛筆を何本か用意し、しかも常に芯が出ていることを確認すべきなのに、それを怠っていたのだ。そのため、明かりがついて係員が来た時に言ってやった。「鉛筆の芯がなくなっていますよ」。筆者は仕事をちゃんとやらずに給料をもらう連中が大嫌いだ。それは泥棒というものだ。全くおそまつの一言に尽きる美術館だ。会場を出る時に感想を記す紙があったが、どうせ批判を書いても握り潰されるだろう。で、「暗闇のマニマン」は思ったとおりに描けていた。真っ暗闇であっても筆者の手元はかなり正確だ。もう長く書いたので、以降の部屋については触れる余裕がないが、次の部屋は『DARK BOX』に触れておこう。これは蓋が鋲で封印された止水栓を収めて地面に埋める鉄箱と同じほどの大きさの鉄箱が20個ほどだろうか、床にきれいに並べた展示で、それぞれの箱の蓋の中央には違った年度が刻印されていた。2040年や3000年というものもあり、それはまだ封印されずに鋲が横の木箱に収まっていた。箱は暗闇で蓋が閉められたそうで、つまり内部には闇が封印されている。2040年や3000年という未来は河原温のコンセプトであるし、「箱」というのもそうだ。赤瀬川原平のハイ・レッド・センター時代の作品にも同様のものがあったな。
●『河口龍夫-見えないものと見えるもの-』_d0053294_2571980.jpg

by uuuzen | 2007-12-29 03:02 | ●展覧会SOON評SO ON
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