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●『VAKA MOANA オセアニア大航海展』
立民族学博物館(みんぱく)開館30周年記念特別展で、とてもいい内容であった。だが、ニュージーランドのオークランド博物館が規格した国際巡回展『VAKA MOANA』をそのまま持って来たもので、いい内容とすればそれはオークランド博物館の手柄ということになる。



●『VAKA MOANA オセアニア大航海展』_d0053294_030332.jpg先頃急死した黒川紀章設計のみんぱく本館の玄関前左手に、同じ黒いタイル貼りの円形をした特別展示館があり、やはり黒川の設計だと思うが、その吹き抜け天井の1階が『VAKA MOANA』、2階がみんぱく独自の『VAKA MOANA』に関連した企画展となっていた。1階の展示が「祖先たちの旅」、2階が「現代に生きる島の人びと」と題され、太平洋の島々の国の現在に至るまでの歴史をまとめて知るにはまたとない機会であった。伝統的な彫刻作品もそれなりにあったが、美術展というものではなく、NHK教育TVの番組を好んで見るような人々には歓迎される内容だ。入場料1000円を支払って、この辺鄙な場所までやって来る人はよほど学ぶことが好きな人と思える。筆者はだいたいみんぱくの特別展は欠かさず見ているが、勉強熱心というのではない。そろそろ万博公園の空気を吸いに行こうかと思うことが最低半年に1回はやって来るのだ。23日に出かけたが、とても外出している暇などないほど猛烈に忙しいのに、なぜわざわざ行ったかと言えば、「勤労感謝の日」であるというわざとらしい理由より、あまり部屋にこもり切って一歩が外出せずに根を詰めてばかりではかえって仕事もはかどらないかと思ったからでもある。いや、実はじっと座っていても鼻や尻からひどく出血するなど、じっと座っていられないほど痛みもあって、空気のいいところを歩いた方がかえって元気になるのではないかと考えた。ちょうど1年前にも体調を壊して病院に1、2か月ほど通って薬もたくさん飲んだが、どうも晩秋になると体の具合が悪化するようだ。それで23日は万博公園から帰って来て夜にまた仕事をしたが、その翌日はかなり体調はよくなった実感があった。そして今日だが、もう座っていてもさほど痛みはない。やはり2、3時間ほど歩いたのがよかった。締切が間近に迫っている仕事を抱えているので、そんな暇があるなら仕事すべきだが、数時間をリフレッシュに充てたことで仕事はかえってはかどった。忙しい時ほど、本当はそのような仕事とは一見関係のない時間が必要だ。関係ない時間とはいえ、その間も仕事のことは忘れていないから、仕事の先の段取りを見直すなど、やはり一息入れることでその後の仕事が俄然うまく行く気がする。この文章も仕事のちょっとした区切りが今しがたついたばかりなので、早速書き始めているが、文字を連ねることでまた体調を崩すことになるかもしれず、今日はあまりたくさん書かない。
 それはそうと、23日の万博公園行きは、この展覧会のほかにもうひとつの展覧会と、別の目的もあって、それら3つをこなしたが、最近にはないとても充実した1日であった。そのことはまたいずれ別の機会に書く。さて、甥が先頃結婚して、新婚旅行はどこかと思っていたら、タヒチ島へ行って来た。日本からはタヒチはハワイより遠い。もっと南東で、さらに南東へ行くとイースター島がある。今回は確か新聞か何かで、イースター島から目玉を嵌め込んだモアイ像がやって来ていたはずで、モノレールの万博公園前駅で下車して改札から外に出た時、目の前にそのモアイ像のポスターがあった。『ああ、これだ、これだ』と思いながら、期待してみんぱくに向かったが、結局モアイ像はなかった。おかしいなと思っていると、エキスポランド内に展示されていることがわかった。そこに入るには別料金を支払う必要がある。それにもう閉館時間であった。みんぱく本館、つまり常設展示館には確かモアイの実物大のコピーが1体あったと思うが、それに目玉を嵌めればよいと思う。さて、東の端がイースター島、西の端をアフリカのマダガスカルという広い広い海原に焦点を当てたのが今回の特別展で、先に「祖先たちの旅」と書いたように、どのようにしてその広大な海原の島々に人々が住み着くようになったかの歴史をわかりやすくたくさんの物、パネル、映像によって展示していた。展覧会の副題は「ヴァカ・モアナ、海の人類大移動」で、この後半はいいとして、前半分の「ヴァカ・モアナ」とは何か。「ヴァカ」に関しては会場で盛んに登場していたので問題はない。これは遠洋航海用のカヌーのことだ。1か所のパネルでは「WAKA」とも表示していたが、これではザッパのアルバム・タイトルでも馴染みのスワヒリ語と紛らわしいが、おそらくドイツ語的表示であって、本来は「VAKA」を当てる。「モアナ」は「海」を意味する言葉だそうだが、結局このふたつの言葉によって、この展覧会の焦点が明確に示されている。ヴァカがなければ遠い未知の島々へ人々は移住出来なかったから、それは実に正しい展覧会名称だ。会場に入ってすぐ右側の壁に、荒い波のうめりだけを映し出し続ける画面があった。実はそこを過ぎて、10分ほど経った頃に振り返ってその画面に気づいたが、同画面はなかなかよい趣向だ。そのどこか恐怖感を煽る茫洋としたモノクロに近い映像は、小さなヴァカに乗って未知の島を探しに出た時の男たちの思いを多少なりとも想像させるに充分であった。海図というものを持たずに今自分が住んでいる島から全く未知の別の島を探しに行くとして、その男は何を目印にするか、またどのようなことに気をつけるかを考える時、まず最初に重要なことは、何も見つけることが出来なければ無事に元の場所に戻って来る方法を確保しておくことだ。これは海ではなく、森でも同じことだ。未知の世界に迷い込むとして、必ず元の場所に戻れることだけは絶対条件でなければならない。でなければ自殺行為だ。そして、未知の島を見つけたとしたら、そこに上陸してそこにあるものを何か持ち帰って来る。これは月面に下りた人類を思えばよい。持ち帰ったものを分析して、もっと有益なものがあるかどうかさらに島を訪れ、そしてその島の方がよい環境と判断出来た時には、家畜や植物を携えて大勢が移住する。太平洋の島々はそのようにして順次人が住みついて行った。
 ざっとメモして来たことを書くと、現世人類(ホモ・サピエンス)は13万年前にアフリカで出現した。それが10万年前までには地中海地域に達し、6万年前までに中国やニューギニア、オーストラリアに広がった。4万年前は厚い氷がユーラシア大陸と北米大陸の北半分を覆っていたが、その頃人類は西ヨーロッパ、シベリアにも進出した。1万8000年前から地球の温暖化が始まり、この頃人類はユーラシア大陸とアメリカ大陸を結ぶ陸地を東へとわたって南北米大陸に入った。さて、6万年前にニューギニアやオーストラリア大陸に最初にやって来た人々は、現在のオーストラリアのアボリジニやニューギニアのほとんどの人々の祖先で、彼らはビスマーク諸島やソロモン諸島にも定住したが、それらオセアニア大陸から近い島々に限られた。さらに遠方の島々(リモート・オセアニア)に移住するには、遠洋航海用の船や航海術を発達させ、植物を栽培し、動物を家畜化する必要があった。本来太平洋の島々は食料資源に乏しく、ココヤシ、ヤムイモ、タロイモは生育していなかったが、これらは遠洋航海が可能になってから持ち込まれるようになったものだ。リモート・オセアニア、つまりタヒチ島やイースター島への発見、定住は5000年前、すなわち漢人や中国文明出現以前に、中国南部、台湾、東南アジア一帯に居住していたオーストロネシアンがなしたが、彼らは植物の栽培化や家畜化のエキスパートで、世界初の遠洋航海船を作った。そしてインド洋をわたり、マダガスカルやアフリカにも到着し、一方で3500年前から太平洋を東へ横断し、アメリカ大陸にも到達した。「オーストロネシアン」は聞き慣れない言葉だが、太平洋に散らばる島々に住む人々が元は台湾にいた人々が広がって行ったとは、先の人類の発祥と拡散や地理を考えると当然のような気もするが、それにしてもまさかという新鮮な驚きもある。イースター島からマダガスカル島に至る地域はオーストロネシア諸語という名称でくくられる1000を越える言語が用いられているが、これらは5000年前に台湾で話されていたひとつの言語から発達したものという。ある島から別の島へと移住した時、言葉はほぼそのまま伝わるから、太平洋の島々では同じ地名がよく見られるという。たとえば「マウンガヌイ」は「大山」で、これは「マウンガ」(山)と「ヌイ」(大きい)の結合語だ。時間があまりなかったので画像コーナーにはあまり足を止めなかったが、遺伝子工学の面からも台湾起源は説明される。こういう人類の壮大な歴史を思えば、台湾は中国本土とは別物であることが改めてわかる気もする。そう言えば柳田国男は日本人の祖先は南方の島伝いにやって来たと唱えた。太平洋の島々が台湾に住む人々が順次拡散移住したものとすれば、日本人の祖先もオーストロネシアンということになりそうだが、日本は朝鮮半島と陸続きであった昔、大陸からやって来た人々もあったはずで、いずれにしろ混血だ。これはやはり遺伝子の分析からもいろいろとルーツがわかりつつある。
 会場で一番面白かったのは、直径4、5メートルのドームが作られ、その暗い内部の天井にプラネタリウムのミニ版を映し、ヴァカに乗った人がどのようにして遠く離れた島に正確に辿り着けるのかどうかの航海術を10分間で解説していたことだ。太平洋のPuluwat島から西へ180キロのPikelot島へ行く例が取り上げられていたが、Pikelot島は幅がわずか400メートルしかなくて平坦でもあるから、これを数十キロ離れたところから見つけるのは容易でない。まず、出発地の島の浜辺ではかがり火を焚き、それを後方に見ながら夜に出発し、西へ進むが、その時コンパス代わりになるのは夜空の星だ。これは時間が過ぎると移動するので、どのくらいの時間でどのように星座が変わるからを熟知している必要がある。そして夜明けになると星は見えないから、今度は海の色によって島を囲う岩礁の存在ことを知り、遠くの雲を見て、それが停滞していれば、その下に島があることも経験上からわかっている。また飛ぶ鳥によって陸地がどれほど近いかを判断するが、陸から80キロのところにはカツオドリが、アジサシやクロアジサシは40キロのところを飛び回り、夕方には島に帰るという性質を知っている。こうした経験上から獲得した航海術は、自然そのものと一体化したもので、かえって間違いがないものに思える。西洋の科学を万能と思っていると、その科学の成果による道具や器具がなければ手も足も出ないということになりかねないが、ヴァカひとつとっても自然の資源からすべて手作りしており、しかもキャプテン・クックがヴァカの速度を見て驚嘆したように、それは西洋の船舶に劣らない合理性を持っていた。会場では大きなパネルに、ルソン、ハワイ、カロリン、ヴァヌアツ、フィジー、タヒチ、マオリ、トンガ、西スマトラ、マーシャル、ジャワなど、さまざまな島のヴァカの図が全部で28種描かれていたが、帆は四角と三角のものがある。ヴァカは、帆とアウトリガー(浮き木)からなる。帆は5000年前に東南アジアで発明されたか導入されたものとされる。浮き木は本来は船の両側についていたが、オーストロネシアンが東へ移動して行くにしたがって、つまり外洋を航行するには片方をバランシング・アームにする方がよいとされ、船体と帆のデザインが変化して行った。筆者にはよくわからないが、ヨットはタッキングと言って風に逆らって航行し、船首を風に対して直角に向けることで風を一方の側で受け、次に他方の側で受けるという。浮き木がひとつのヴァカがこの航行をすれば海面下に入って転覆する恐れがあるので、シャンティングという船首と船尾を固定せずにそれを交替可能なようなマストの構造を採る。ヴァカによる伝統的に遠洋航海術はミクロネシアとメラネシアのいくつかの島々にしか残っていなかったが、努力の甲斐あってその後は少しずつ復興して来ているとのことだ。
 先にキャプテン・クックと書いた。太平洋の島々となると、西洋の大航海時代による発見ということになる。このことによって島々は生活が激変した。ヴァカの伝統航海技術が見られなくなって行ったのもそのためだ。1500年代に西洋は太平洋地域を探索し始め、その後250年費やして知らぬ島はないという状態に達した。ははは、会場で20代の女性がパネルの島々を見て、「こんなにたくさん島があるの!」と驚いていたが、太平洋と言えば、ハワイとグァムだけだと思っていたようだ。無知な人は何十年経っても知らないことは無限にある。で、15世紀初めからスペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスの順で太平洋を越えたが、「テラ・オーストリス・インコグニタ」(未知の南方大陸)の富を発見するのが目的であった。キャプテン・クックによる3度の航海(1768-79)の頃までに太平洋のだいたいの地域は海図に記され、島々の位置は正確に把握された。西洋人に出会って島の人々はヴァカ造りに便利な物は採り入れたが、豊かな物資がもたらされると、貧富の差が生まれ、いさかいが増加する。西洋人がやって来るまで島の人々はたいした貧富の差なく、わずかな物を分け与えるような生活を送っていたが、それが急速に崩れ始めた。今急に思い出したが、筆者が小学生の時に読んでいた月刊誌だったと思うが、漫画以外に読み物やコラムがあった。その中に南太平洋のある島では、島民がみな歯が抜けてしまったという記事があって、その写真も載っていた。その原因は、アメリカから持ち込まれた缶詰ばかりを人々が食べ、昔のように硬い物を食べなくなったからだとあった。それは誇張であったにせよ、ある程度は本当だろう。もう昔のまずくて硬いものを食べる必要がなくなった島民は、その後西洋文明の便利さに毒されていることを知ったのかどうか、その記事を今思い出すところを見ると、筆者はよほど便利さということに恐怖心を抱いたのだ。また、地球温暖化で海面が上昇し、やがて海に沈むのが確実な島もあるというし、数千年かけて培って来た島々の文明はもう風前のともしびのようだ。会場2階はざっと眺めわたしただけなので、あまり書いておくべきことはない。チラシによると、フィリピン、ミクロネシア、パプア・ニューギニア、タヒチ、ラパヌイ(イースター島)、マダガスカル、パンダナスにおける現在の人々の生活の紹介があった。タヒチは観光で生き残ろうという戦略で、先に書いたように甥の新婚旅行もその宣伝に乗ったということだ。また、入れ墨屋の映像紹介があったが、タヒチでは昔から盛んであったのだろうか。マダガスカルでは、名前は忘れたが琴に似た多弦の楽器を演奏する男の紹介があって、BGMでその演奏によるジャズの名曲「テイク・ファイヴ」がかかっていた。それがなかなか面白かった。それなりに欧米でも有名なミュージシャンなのだろう。琴に興味があって日本に来て演奏したいそうで、日本語を勉強中でお金も貯めているそうだが、マダガスカルの現代の一端を垣間見た気がした。これもそう言えば、ラヴェルの曲にマダガスカルを歌ったものがあった。その異国への憧れが、今はマダガスカル人による日本への憧れという形に変わったということだ。文化は流動してとどまらないものであり、よいわるいはひとまず問わず、その事実の確認をみんぱくが積極的に紹介するのは頼もしい。
●『VAKA MOANA オセアニア大航海展』_d0053294_13475116.jpg

by uuuzen | 2007-11-25 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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