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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『狩野永徳』
曜日が夜8時まで開館している京都国立博物館だが、この展覧会は人気があって、会期後半では土日も同様の時間まで見ることが出来るようになった。



●『狩野永徳』_d0053294_14231557.jpgそれで16日の夕方に出かけた。午後5時過ぎに東大路通りを市バスで南下している時、観光シーズンでもあって満員であったが、清水道のバス停でたくさんの人々が下車し、その次に多く下りたのがふたつ次の智積院前、つまり国立博物館の最寄りのバス停であった。一緒に下りた人々がみな博物館に行くことはないだろうと思っていると、予想は甘かった。中には駆け出す人もあって、それにつられて筆者も小走りになったが、博物館の敷地に入ると、長い行列が出来ていた。午後5時半はすっかり日が暮れて真っ暗だったが、そこに無言の行列を見るのは多少異様であった。待ち時間20分で入れたのは幸いであったが、昼間は1、2時間待ちであったという。6時から見ても閉館まで2時間あるので、静かな館内でゆっくり鑑賞出来ると思っていた予想は見事に外れ、まるでバーゲン・セールの百貨店といった超満員の中、まともに作品を見ることが出来なかったと言ってよい。しかも閉館が近づくにつれて人はますます増え、7時半頃館内を後にする時には、さらに大混雑していた。これは去年見た『絵巻物展』もそうで、2000年の『若冲展』も同様であったと思う。京都でのみ開催の特別展で、しかも観光シーズン真っ直中で、他府県からの人々が多いのだろう。展覧会は会期の最初の方が人が少ないので、なるべく早く見るに限るが、ぐずぐずしている間に会期終了3日前になっていた。2500円だったか、いつもの如くかなり厚い図録は買わなかったが、たくさん売れ残っていた。図録販売所を出たところは扉1枚で外に出る空間だが、そのすぐ右手に予告があって、3年後は長谷川等伯展の開催が約束されていた。永徳の次に桃山時代のライヴァルであった大物の等伯を持って来るところ、なかなか系統立てて展覧会を考えている。等伯の代表作はすぐ近くの智積院にあるから、3年後の特別展の時は智積院が大いに宣伝され、拝観も増えることだろう。準備に3年もかかるのは意外でも、それだけ充実したものをとなれば当然で、しかも桃山時代ばかりが続くのはよくないとの考えからだろう。4か所ある国立博物館が、独自色を打ち出して展覧会をするのはいいことで、それを考えれば、京都は京都で活躍した絵師を取り上げることになり、江戸が上方より文化をリードし始める江戸時代後期以前に的を絞る必要性があるにしても、いくらでも本格的に紹介する絵師があって、美術ファンには楽しみだ。江戸となれば浮世絵程度しか思い浮かばず、また浮世絵も上方の影響を受けて出現したものであるから、日本美術の根幹は上方ということになる。
 京都は平安時代からの美術品がよく伝えられているが、激動の桃山期となると、平安や鎌倉時代よりむしろ作品が残っていない感じにさせられる。これは時代が短かったことにもよるが、戦火のためになくなってしまったからでもある。そのため、桃山時代の美術と聞くと、その字面もあって、何か特別のおおらかな響きを感じる。貴族が文化を先導した平安時代とは違って、下克上の成り上がり者が天下を取ろうと戦いをした時代に生まれた美術であるから、よく言えば活気があってそれまでの規則を無視している。これを悪く言えばおおまかで粗雑ということになるが、確かに桃山時代の美術はその両方の面から捉えることが出来る気がする。今の人間国宝が作るような、機械以上の精確さで作品を作り上げようという感覚がない。細部の細部にまで神経を込めるというのではなく、ぱっと見がよければそれでよし、つまり大本さえ押さえておけば細部の多少の破綻はどうでもよいというおおらかさがある。ここには作品の仕上げ上の永遠かつ基本的な問題が宿っているが、時代の激動期は絵師や職人もその気分を共有し、為政者たちが勝手に殺し合いをしているとはいえ、旧弊を脱して新機軸を打ち出そう、あるいはそうせざるを得ないような立場を認識して、細部の仕上げに固執するような作品よりも、もっと違う面に創作意欲を込めるようになる。そして、これはよく言われることだが、そういう明日どう変わるかわからない時代には、どの分野でも大物が出現する。安定期になると、政治もほとんど必要なく、政治家が小物化するのは必然で、それは今の日本を見ているとよくわかる。つまり、今の日本では永徳級の大物が出る余地はないし、求められてもいない。求められるのは、TVに出て人気者になり、日々カレンダーのように消費されて行く存在だ。もちろん今でも国を代表するほどの画家はいるが、政治家が明日殺されるかもしれないという緊張感を持つ必要がなく、わずか数年で首相も平和的に半ば自動的に変わる運命にあるから、画家もそれに沿ったような安定志向に浸って退屈な絵を量産し続けることに何の疑問も抱かない。一方の在野的存在は、小さな生活に自ら安住するか、無理に安住せられて、せいぜい身辺雑記を吐露する程度の害のない個人的な作品を生み出し、それを時代先端かつ人類普遍の創作と大いなる勘違いをすることになる。時代の安定期の芸術はそのように小さなものとなるしかないが、それは仕方のないことで、その小ささが永徳のような金碧障壁画より作品の質として劣るかどうかはまた別の問題だ。画家は時代から逃れられず、現在永徳のような画風を求めることは時代錯誤というものだろう。その点を思えば、今永徳展を開催する意味がどこにあるかだ。永徳の金碧障壁画を模写することは今の日本画家でもさほど困難ではないが、そこに盛られている桃山時代の気風をそのまま写し取ることは不可能で、絵面だけをまねしたきわめて装飾性一辺倒のものとなって、下手すると外人相手の高級お土産店に並ぶような安物のキッチュになるのが落ちだ。
 では、現在の画家は永徳の作品から何を学ぶべきか。筆者にはこれがなかなかわからない。おおらかな気風を学ぶべしと言われても、現在の画家は信長や秀吉に登用されてあちこちの城や寺の何百面もの襖絵を一門を引き連れて描いた時代とはあまりにも違う環境の中にいる。永徳は水墨画も著色画もよくしたが、それらと同じ技法を発展的に教えられる人は今の美大芸大にはいない。絵の伝統が明治以降急変し、永徳の技法をもう誰も受け継ぐ者がいないし、それを復興することすら容易ではない。それはその必要がなかったからだ。そのため、今でも画家は大きな寺の襖絵を描く機会はあっても、それらは永徳の仕事とは断絶し、単発仕事でもあって、見所のほとんどない、絵画の歴史から見ても特筆すべきことが何もない仕事にならざるを得ない。これは日本の絵が日本画と呼ばれるようになってから、技法が大いに変質したからで、永徳だけではなく、たとえば若冲の絵も現在とは切れている。そのため、明治以前の日本の絵画を見る時、それは遠いどこか別の国のものを見るような感じがする。失われてしまって二度と戻らない遠い過去だ。ところが西洋では伝統の断絶はない。日本は明治になって一気に西洋文明が流入し、その中でなかなか自我の確立という点もままならず、今もなおそれは続いていると言ってよいが、結局のところ日本美術が世界に誇る代表的要素は装飾性のみかと自虐的に思ってしまうが、それが永徳の絵にひとつの様式として存在していることを再確認するのは、今回はとてもよい機会であった。永徳は信長や秀吉の依頼によって大きな建物に次々と描き、天正18年(1590)に48歳で亡くなるが、過労死であったかもしれないと会場にあった。永徳が亡くなった後、狩野派ではない等伯がその画風を継ぐ格好で、智積院に残る金碧の障壁画を描くが、その共通点は、現実にあり得ないほどの太い幹を絵の中心に据えることで、金ピカ画面とこの豪壮な構図が秀吉好み、いや成り上がりの権力者の思いに沿ったものであった。であるから、永徳も等伯も自分の好きな絵を描くとはいうものの、あくまでも注文に応じ、注文者が喜ぶような画面を作り上げることを第一に思っていた。これは現在の芸術家の感覚からは遠い職人的態度だが、それが当時の絵師の現実であった。また、室内を荘厳に彩る絵を描くということは、装飾に主眼があるわけで、その背後に永徳なり等伯の個性が宿っているところに、こうした古い時代の障壁画を鑑賞する意味がある。装飾性は現在では商業デザイナーのやることで、自我がはっきりとある「芸術家」がやるべきことではないといった変に誤った考えがあるが、手で作ったものは、たとえどのようなものでもそこに作り手の思いは宿る。装飾であろうが、それを排した表現主義であろうが同じで、言うなれば永徳の絵が今も時代を代表して見えるのは、その装飾的画面に表現主義が分かち難く存在しているからで、その表現主義的側面こそが、現在では模写し切れない何かということだ。
 今回の展示は永徳の絵だけでは構成されていなかった。これは永徳の真筆とされる作があまりにも少ないことによる。時の為政者のために盛んに描いたにもかかわらず伝わる作が少ないのは、信長や秀吉が滅びたためで、そのぎりぎりの隙間をぬってよくぞ作品が伝わったと思う。たとえば永徳の代表作と言ってよい「唐獅子図屏風」は、筆者は今回初めて見たが、その大きさに度胆を抜かれた。6曲1双に改装されているが、高さは2メートル数十センチだったか、とにかく通常の襖や屏風を越えている。そして明らかに大きなものから切り取った構図をしているため、元は大広間の壁の貼りつけだったかもしれないが、となるとその元の建物はどこにあって、他にどんな絵があったのかという想像を働かせることになり、永徳の代表作の大半が失われてしまったことを改めて感じることになる。だが、そうした何百面にも及ぶ金碧の障壁画は、装飾的であったことからすれば、今伝わっているごくわずかな真筆から推測することは可能な気もする。おそらくどどれを見てもある一定の豪放さが演出されていたはずで、何百面も見ると、かえって退屈したかもしれない。48歳で死んだのは、確かに今の感覚からすれば早逝だが、「唐獅子図屏風」が展示されていた最後の部屋の他の作品を見れば、充分に作風を確立し、永徳の天才ぶりがどういうところにあったかはよくわかる。たとえば松の太い幹を湾曲させながら屏風の天に達しさせ、1メートル幅もある葉の固まりを点在させる様式は、能舞台の鏡板そのままで、それが永徳のこうした絵を参考にして確立されて来たものなのか、その逆なのかは知らないが、迫力満点のあまりに大きな幹や葉は、当時の建物に応じた、そうして量産する必要から生まれた様式であって、今同じように公募展用に作品化しても意味がないだろう。用の美ということを考える必要のあった永徳はまだ幸福であったかもしれない。今の日本画家は幸か不幸かそうした束縛から開放されているが、その分、絵で表現したいこともかえってすっかりなくなってしまった。先に書いたことにつながるが、そこに強烈な自我があって、絵で主張したいやむにやまれぬ事柄があれば話はまた別なのだが、残念ながらそういう意識すらも持っていない。それで登場して来たのが、自我を消したアニメのような単純な絵を歓迎する向きだ。そうした造形もまた時代の産物として数百年経てば永徳の絵と同様に博物館で大入り満員の展覧会ネタになっているのかどうか。話を戻そう。永徳は、祖父の元信に絵を学んだ。父の松栄は兄が早く世を去ったので元信の後を継ぐことになり、永徳は父よりも元信に学んだ。祖父とすればそれほど孫に才能があると見抜いたのだろう。今回は松栄の作も多少並んだが、控え目な人柄が伝わった。幼い頃から絵ばかり描いて育った永徳であるので、20歳頃にしてすでに何でも描けるようになっていたのは当然として、上杉本として有名な「洛中洛外図」を23歳で描いているのはその後の画業を考えると興味深い。今回この作品は中央の吹き抜け天井の広間に飾られたが、あまりの人だかりで間近でゆっくり見ることはかなわず、すぐ近くのTV画面による3分間ほどの紹介画像だけを見た。それがもっと長時間であればよかったのだが、きっと混雑を予想してその程度で茶を濁したのだ。小さな人物ごとに細部を撮影した図版が図録にあったのかどうか、この作品はそのようにして一度は見る必要がある。
 と書きながら、今手元に1983年に見た京都総合資料館開館20周年記念の『洛中洛外図の世界』という展覧会の図録を引っ張り出した。この展覧会に上杉本の「洛中洛外図」は出品され、図録には細部写真がたくさん出ている。また上杉本以前の「洛中洛外図」の紹介もあって、「洛中洛外図」というジャンルは応仁の乱が過ぎる頃から次第に出現したとされる。となれば上杉本はだいたいそれから半世紀後に描かれたことになる。これが上杉本と呼ばれるのは、信長が上杉謙信に贈ったからで、今は米沢市にある。京都の町並みと人々の生活を屏風にくまなく描くというのは、京都であったからこそ似合うことで、地方の武将の京都に憧れる意識をくすぐったであろう。今は京都も無残な景観になって、現代版の「洛中洛外図」は漫画になってしまうが、それもまた面白いかもしれない。信長の話になったついでに書くと、今回の展示には永徳描く信長像があった。生前に描かれたか、遺影として没後に描かれたかは不明だが、信長の顔を知っていた永徳であるので、信頼するに足る容貌であるのは間違いがなく、他の信長像はみなこれを下敷きにしている。権力者の肖像を描くことは、なかなか勇気のいることのはずだが、それを任されることは大きな栄誉で、永徳は喜んで引き受けたのではないだろうか。若き日に緻密微細に描き込んだ「洛中洛外図」を描いていたから、少ない線によって的確に信長の表情を捉え得ることは難しくはなかったであろう。そうした肖像画や「洛中洛外図」、そして真筆とされるごくわずかな水墨画や金碧画をつなぐと、永徳の才能は充分浮かび上がり、信長や秀吉がいなければ出て来なかったと思えて来る。だが、信長や秀吉に登用されたから有名となったというのではなく、むしろ永徳の画才があったから、信長や秀吉の時代が今によく浮かび上がると言い換えてよい。これは言うなれば、絵画の歴史おける信長や秀吉が永徳であったとしてよい。信長、秀吉の時代から徳川に変わると、狩野派もまた江戸が中心になって行くが、安定した世情を反映して、月並みな絵を描く集団のようにみなされることにもなる。そこで登場するのが、京都では若冲や蕭白、江戸ではやがて浮世絵師だ。そうなる以前の、狩野派の大立物として永徳を再認識しておくのは、やはり無駄ではないだろう。永徳の水墨障壁画の代表作は、父松栄の作とともに大徳寺塔頭のひとつである聚光院にまとまって存在し、今回はそれが目玉出品のひとつになったが、聚光院に行けばいつでも拝観出来るのかどうか。聚光院のすぐ隣の大仙院には有名な枯山水の庭があって、筆者は昔訪れたことがあるが、その頃は永徳に関心もなかった。聚光院には利休の墓もあるから、茶に関心のある人は一度は訪れるべきところだ。3年後の長谷川等伯展も、智積院に行けば代表作が見られるから、今さらという気がしないでもないが、そう言えば筆者はいつでも行けると考えながら、まだ智積院には行ったことがない。
by uuuzen | 2007-11-19 14:22 | ●展覧会SOON評SO ON
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