北斎の絵をまとめて見るのは何回目だろう。妹から券をもらったので、今日京都高島屋で見た。

すぐ隣の催事場が次回の催事のために作業中で、雑然とした雰囲気が普段より強かったが、そういう環境で展示するのに北斎の版画なら許されるだろうといった考えが百貨店側にあるのかもしれない。よく言えばそれだけ北斎は卑近な存在で、高尚な美術という感じがあまりしない。展覧会を見た後、用事のために寺町通りを南下したところ、ある古書店のウィンドウに、見て来たばかりの版本の『北斎漫画』の何冊か売られていて、1冊2万ほどの価格であった。当然本物で状態もよいのに、その程度の価格で買えるのだ。それほど北斎の版本は珍しくないということなのだが、版本に限らず、版画は量産品であるので、美術品としては一品制作ものより価値は劣る。もちろん摺り部数が少なかったり、存在が珍しくなっているもの、また状態がよいものは高価になるが、それでも家一軒分といった高値に相当することはほとんどない。1760年生まれで1849年に90歳で死んだ北斎だが、『北斎漫画』は没後明治時代になっても下絵を元にして、生前の北斎が完成を見ることはなかった出版が進んだから、古書店で安く売られているのも納得出来るのだが、それほど北斎はまださほど古い時代の画家という気がしない。それがまたさほどありがたみを覚えさせない理由にもなっている気がする。会場に入ってすぐに説明パネルがあって、アメリカの『LIFE』誌が選んだ「この千年間に偉大な業績を上げた世界の100人」のうちにただひとり日本からは北斎が選ばれたとあったが、こうした賛辞の表現は北斎には常につきまとっている。それは事実であるので別段悪いことでもないが、欧米から認めらて初めて自信を得るという感じが日本にはあって、その代表格が北斎にある。ヨーロッパが北斎を認めたのは印象派とのかかわりにおいてで、欧米に何でも見習って輸入し続けて来た日本にとって、浮世絵や北斎は誇るべき独自の文化となっている感がある気がする。だが筆者個人の思いを言えば、何度もまとめて北斎の展覧会に接したにもかかわらず、なかなか楽しいと思うことがない。これは簡単に言えば、猛烈に好きになれないということだが、それが何に起因するのか、今日見てもやはりわからなかった。膨大な仕事をし、その意味でも全貌を把握するのは不可能だが、そのこととを別にしても北斎の絵に内在する緻密な粘着性は人によって好悪の感情の差が激しいものではないかと思う。また、その抜群の描写力は、北斎が浮世絵の歴史の中でも後の方に登場して来たことを思えば納得の行くことであり、天才であることは明白としても、その画業は歴史の中にすっぽりとうまくはまり、出るべくして出た才能という気がする。北斎と師宣を比較するのは無茶で、より早く出た才能における一種稚拙に見える作風にもそれなりの見所はある。北斎の作品が師宣より上かどうかは個人の好みの問題に過ぎない。
北斎を見ていて思い出すのは河鍋暁斎だ。江戸の浮世絵の伝統からして、北斎をさらに過激にしたような才能が出て当然であろうし、それが筆者には暁斎に思えるが、かつて見た暁斎展は筆者には面白くなかった。抜群の描写力は全く認めても、そのことと絵が楽しい、面白いというのは別問題だ。暁斎の絵を見ていると、実際は知らない明治時代を如実に感じ、そしてその暁斎の絵から伝わる時代性を筆者は好まない。暁斎は北斎がいなければ出なかった才能だと思うが、そのことからすれば北斎の中に筆者があまり感心しない暁斎のある部分が北斎にすでに存在しているのを見て、その点において北斎が楽しくないと感じる。その感心しない部分というのは、表現は適切ではないかもしれないが、絵がどことなく荒れているのだ。それは上方に対する江戸文化の特質でもあろうし、大阪京都にした住んだことのない筆者がそう感じるのも仕方がないのかもしれないが、たとえば写楽の絵は荒れているとは感じないから、やはり江戸特有とは思えない。その「荒れた」ということをもっと噛み砕いて言えば、絵のどこかに破綻があるということになるが、それは北斎自身がよく知っていたに違いない。西洋画の透視図的遠近法をすでに知っていて、それを自作で試みてもいた北斎は、貪欲にあらゆる流派を摂取し、それらの統合のうえに画業を築き上げたが、そこには平面的な日本画と立体性を求める西洋画との確執があって、それを合理的に解決出来ないことを知ったうえで、独特な多視点の構図をたとえば『冨嶽三十六景』のいくつかの作品に採用した。だが、そのすべてが成功しているかどうかは見る者によって判断が異なるのではないだろうか。筆者は見ていてどうも落ち着かない気分にさせられることがあって、その不安定な気分が先の「荒れた」の感情に幾分つながっている。確かに工夫して完成度を高めた作品であるには違いないが、その完成度の質は写楽とはまた違った性質のものと感じる。北斎の版画はどれも墨の輪郭線を用いた平面的な絵で、そこに構図で遠近を感じさせようとする時、輪郭線はますます細く、また緻密になり、それゆえ細部まで描くことに進むが、ちょうどその思いがそれまでの一種素朴とも言える浮世絵とは違って、彫りや摺りの技術の発展もあって限りなく可能になっていることが先に書いた時代が生んだ北斎の才能であって、浮世絵全体の歴史を眺めわたした時、その後期に登場する北斎は、筆者にすればそれまでのどの浮世絵よりも精緻な技術を駆使し、画題的にも総括を目指した、つまり百科事典的なものを持っていたことにおいて、それは歴史的必然であって驚くには当たらない要素と思える。そして暁斎は北斎が「荒れて」積み上げた遺産を、今度はさらに「荒れて」崩したという感じがある。
肉筆浮世絵は昔はあまり重宝されなかったが、これは筆者にとってはわかりかねることであった。一品制作である肉筆画がなぜ版画よりあまり顧みられないのか不思議であったが、その理由はやがて何となくわかった。それは北斎の時代には下絵を細部まで含めてそのまま再現出来る彫りや摺りの技術が高まって、版画は絵をそのままゼロックス・コピーしたのと同じほど精巧なものであるからという理由と、同じ観点から、肉筆画は推敲を重ねたものと言うよりどこ大味で一気に描いた感が強く、版画より見劣りするものがあることを知ったからだ。だが、北斎の肉筆はすべてそういうものではない。細密に描いた素晴らしいものもあって、版画だけで才能を推し量るのはまずいと思える。今日見た展覧会にも肉筆画が20点ほどあったが、どれもアクの強さでは共通したものがあって、見ていて楽しくはない。むしろ版画を見ている方が息が抜ける感があってよく、北斎はやはり版画かと思いを新たにした。だが、これらはおそらく北斎の肉筆画の全貌を知らないからだろう。今回も初公開の作品がいくつかあったが、北斎の全貌は何度展覧会を見てもわからない。先に書いたように、作品が多過ぎて全体がわからないのだが、版画ならまだしも、肉筆画はもっとそうだ。だが、反対のことを書くようだが、北斎の全貌は全作品を見る必要はない気がする。肉筆画でも同様で、画題と作風は限られている気がする。そう思うは、手元にある『世界の巨匠 画狂人 北齋展』という図録に掲載される60点ほどの肉筆画を見てのことで、今日見た作品とはだぶりがないが、同一の画題と画風ばかりだ。この調子では存在する全部の肉筆画を見てもさほど印象は変わらないだろう。だが、また考えを翻すようだが、今日見た肉筆画はみなウィンドウの奥1メートルほど離れたところに掛けられ、視力の悪い筆者は題名や説明文が全く読めなかったほどであるので、ほとんど見たとは言えず、単に見えたに過ぎない。ガラス越しではなく、もっと身近に見ればまた思いは違うことだろう。表装裂がどれも驚くほど派手で、北斎以外には使用されないものと言ってよいが、絵が大体ゴテゴテしているうえにそれであるから、よけいに北斎のアクが強調されていた。そのアクこそが北斎の魅力なのだろう。そしてそのアクの由来は表装裂や北斎の描きぶりのほか、描かれる人物や動物の独特の顔だ。男はみなどこか鬼に見えるし、龍や虎にしても、おおらかな感じからは遠く、蛇のような執念深さがある。特に男の顔だが、武士でも身分の高い場合は別として、『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』に登場するような労働者や一般人は、丸顔で鼻が小さく、粗野な感じがよく出ている場合がほとんどで、ほとんど記号化されたそれは筆者には北斎の分身かと思えないこともない。北斎の自画像と言えば、面長で頭の禿げた老人のものが有名だが、これは北斎の落款がなく、明治33年に発行されたもので信憑性は乏しいとされている。一方、別の自画像は発見されていて、これは粗野な感じはないものの、まさに丸顔で鼻が小さく、ごく平凡な顔で、先の有名な老人顔とは何の共通点もない。北斎は自分とよく似た風貌の男を頻繁に版画に登場させていたことになるが、これはよく理解出来ることに思える。
北斎は粗野な男の顔ばかりを描いたのではなく、いわゆる男前もよく描いた。それは特に春画に多い。北斎の春画は、今日見たような展覧会では展示されないが、このことも北斎の全貌をわかりにくくしている点と言える。形あるものは何でも描こうとした北斎であるので、春画を描いたのも当然だったが、筆者は北斎の才能の頂点は春画にあると思っている。何がすごいかと言えば、男と女の顔がよい。肉筆画でも女の顔はよいものが多いが、春画ではそれがもっと違う種類のよいものになって、忘れ難い表情のものがある。そうした表情の女、あるいは男をどのようにして写生したのかと思う。写生でなければ空想で作り上げたわけで、そうとなればその才能にさらに驚く。欧米では北斎の春画がどう評価されているかの知らないが、おそらく高い評価の理由は春画を含めてのことであって、春画の人類最高峰を北斎が描き上げたとの思いがあるのではないだろうか。春信の春画もいいが、北斎のは全く違ってもっとリアリズムで、特に顔の表現は春信よりもっと多彩でしかも奥深いところを描き切っている。これも時代が下がってのことであるので当然と言えばそうなのだが、英泉が春画に描く女の顔は北斎には到底及ばないから、やはり北斎の才能の高さがあってのことだ。その才能は性交におても科学的に、つまり冷静に観察をするという思いに貫かれたものだ。分析的と言い変えてもよい。画論は残さなかった北斎だが、文章を書く前に手が動いて絵になったというのが正しく、絵によって画論を残した。それがたとえば『北斎漫画』であった。そこでは馬や牛が円の連なりと少しの線によって分解かつ構成出来る方法を図示しているが、ある曲に合わせて踊られるその踊りを図解した版本もあって、そこにも図によって動きを合理的に説明し尽くせるという自負が見える。だが、こうした北斎の考えや才能は、北斎に始まったのではない。あらゆる絵を独学で勉強しようとする時、誰しも特質を把握するために物事を分析的に見つめるもので、たとえば若冲にもそれはあった。北斎は純粋に独学とは言えず、最初は浮世絵の彫りをやっていて、初期には浮世絵師に就いて絵を学んだが、その枠にとどまることをよしとせず、次々とあらゆる流派を学んだ。それは何十回も引っ越しと改名をしたこととつながる感じがある。江戸時代の木版画は春画もあって、日本ではまともな芸術として認識されなかった。その思いは今はどうなのかと思うが、春画はまだまだ闇に隠れているだろう。春画を見なくても北斎の偉大さは認識出来るが、それでもどこか部分が欠落した感じが否めず、その謎めいた雰囲気が北斎を身近でありながらどこか遠いものにしている気がする。筆者は北斎には熱烈になれなかったが、それは今後も同じである気がする。北斎は死ぬ間際にもう十年ほど生きたいと言ったが、自分の作画に満足していなかったからだ。その満足しなかった思いが膨大な量の絵を生んだ。