早とちりすることがある。今日見て来たばかりの「カルロ・ザウリ展」のチラシに今ざっと目を通したが、会場に入って最初にあった説明パネルを読んで「フィレンツェ」生まれと思っていたのが「ファエンツァ」生まれと書いてある。

思い込みは恐い。字面が似ているので、よく知っている「フィレンツェ」と読み違えたのだ。「ファエンツァ」は「ファイアンス」の語源となったとのことで、「ファイアンス」はヨーロッパの陶器を意味する言葉であるから、カルロは陶器の本場の町に生まれたことになる。日本で言えば有田や京都の清水だろうか。チラシから引用すると、『ザウリは、世界で一番規模の大きいファエンツェ市主催のファエンツェ現代陶芸コンペでファエンツェ賞を3度も受賞したことでも世界的に有名であり、イタリアの現代陶芸界の旗手としてニーノ・カルーソやポンペイ・ピアネッツァーラ、フェデリコ・ボナルディらと共に活躍しました。』とある。「ファエンツェ」が3回も出て来て、これならいやでも覚える。日本では1964年に東京と京都の国立近代美術館で作品が紹介され、今回は同じふたつの美術館で没後初の大回顧展が開催されるのであるから作家冥利に尽きるだろう。カルロが世界的に活躍し始めたのは60年代初頭から70年代にかけてで、それから30年ほど経って作品だけが残された。その間、京都国立近代美術館は新しく建て変わったし、展覧会をずっと見続けて来た筆者はそれなりに感じるものがあるが、簡単に言えば30年間はとても短かく、30年前に流行したものは今見ればとても古く思える。カルロの作品を見ていると、その古さを特に感じた。時代の先端を走っていたものほど、時代を経ると古臭く見えるというのはよく言われることだが、一見時代から孤立して作られたように見えるものも、実際は時代の息を吸っているから、時代性の刻印からは逃れることは出来ない。つまり、どう生きてどう作ろうが、時代性は作品に表われる。ただし、それを感じるのは個人差があるから、ある人は古い時代のものに斬新さを見るし、その反対もあったりする。となればある作品をどうのこうのと評論しても、さして意味がないことになる。そう言えば、先ほど書いた説明パネルには、ふたりの評論家によるザウリ論が寄せられたとあった。あれは図録に載っているということなのだろう。会場を出て、1階の売店で図録を見たが、表紙が銀色と黒で印刷されて、それがどこかで見たようなデザインであまり感心しなかった。そこそこよく出来た内容に思えたが買わなかった。そのためどんな論文が載っているのかは知らない。京都国立近代美術館は、よく工芸にまつわる展覧会を開催する。それは地元の京都を意識してもいるからだ。京都には工芸家は多いので、世界の工芸を積極的に紹介する展覧会があるのはよいことだ。
最初この展覧会をチラシで知った時、アメリカのピーター・ヴォーコスのような陶芸かと思った。館内に入って正面の1階にあった3点を見て、そうではないことをすぐに悟った。何を連想したかと言えば、イタリア未来派のボッチョーニの彫刻だ。カルロは1926年生まれで2002年に亡くなったが、自国が誇る20世紀の未来派の活動の空気に感化されたと思ってもさほど間違いはないだろう。今ちょうどこれを書く傍らにボッチョーニの画集があったので、それを引っ張り出した。ボッチョーニは1882年生まれで1916年に死んでいる。ボッチョーニの有名な彫刻に「空間における連続性の唯一の形態」がある。これは大股で歩く人物の両足やあちこちから翼のような形が生えているが、ボッチョーニは彫刻では人物をよく表現した。だがカルロには人物像はなかった。彫刻の分野ではなく、陶器からイメージされる壺などの容器から独自の形態を模索したからで、その分カルロの作品は東洋の陶磁器に馴染む人からは愛好されやすいだろう。だが、カルロが作る形における様式化された水の流れかあるいは血管の絡まりのような形の奥には、ボッチョーニの彫刻の立体性につながる有機的な感覚が色濃い。ここに伝統をどう引き受けて、それに自己の存在証明を成すかという作家魂の発露があると言えばよいか、陶器の伝統も長いイタリアの、そしてその本場の町に生まれ育ったカルロが担った重みを想像すると、並みの体力ではその役割を充分に果たすことが出来なかったに違いない。90年代初頭から闘病生活に入って、それが10年続いたそうだが、そう言えば会場では86年以降の作品はほとんどなかった。体力的に消耗し切ったのか、それともほかに病気の原因があるのかは知らないが、挑むべき対象が大きくしかも多く、それらに対して大作で太刀打ちしようとすれば、あの大作揃いでは60代以降ではもう制作は無理ではなかったか。その挑むべき対象とは、先の説明パネルから引けば、『ギリシア・ローマから続くヨーロッパ文化史問題-特に近代彫刻批判から現代彫刻への移行期の問題に、土と関わりつづけるという位置を守った』であって、もうこれだけで、どれほどカルロがどんな立場に自分を追い込んでいたかがわかる。だが、芸術家とはそんなものだし、歴史に名を記す大家ともなればそれは当然のことで、ボッチョーニも同様に自分より以前のヨーロッパ芸術の全遺産を引継ぎながら、それをどう革新するかを念頭に置いていたであろう。その大きさはなかなか今の日本では感じにくい。何が違うかと言えば、作品の大きさがまず思い浮かぶ。カルロの大作は高さ4、5メートルほどもある。まるでミケランジェロのダヴィデ像級で、その圧倒的な大作主義は、日本の美術家からは出にくいものだ。日本がそうした大作を今まであまり生まなかったというのではないが、床の間に飾るものとして芸術が育まれた部分がどうしてもあって、物は小さく縮むほどによいといった感覚が根強い。そのため、カルロの作品を見る前から、ヴォーコスのような作品かと思ったりする。確かにカルロの作品にもヴォーコスのようなものもあるが、日本の陶芸家に劣らぬ繊細な手仕事の跡があって、それがまた驚きであった。カルロは何もヨーロッパだけの陶芸を視野に入れるだけではなく、東洋の陶磁も研究していたらしい。つまり、ギリシア・ローマだけではなく、陶芸の言葉から必然的に関係する東洋にも眼差しを向けていたわけで、引き受けるものはさらに大きかった。
展示はおよそ5、6年ごとに区切って6つのコーナーに分けられた。1951年から56年まで。57年から61年まで。62年から67年まで。68年から80年まで。81年から91年まで。最後はグラフィックスとタイルで、このコーナーだけは別室であったのでわかりやすかったが、他は連続していたので、図録で確認しない限り、明確な差はわからない。最初の1951年から56年までは、マジョリカ陶器が多かった。いかにもモダンな様式で、ピカソの作品を思い起こさせるものがあった。それはイタリアのマジョリカ陶器ということもあるだろう。マジョリカ陶器の伝統からカルロが出発したのは、それだけ絵画にも関心があったことを示すと言える。実際、展示された陶彫や壺、皿などの絵つけには非凡な才能が見えた。色合いもいいが、形に対する敏感な感性がよく出ていて、この初期の作風にとどまって生涯をまっとうすれば、日本によくいる陶芸家のような存在になったであろう。つまり器用な手仕事で洒落た様式を見せる工芸家だ。だが、それからすぐにカルロは脱して別の方向に向かう。つまり小さくまとまることをしなかった。そこが本展の見所であり、ヨーロッパ芸術の神髄を見せつけられる部分でもある。最初のコーナーで顕著なのは、いかにもギリシア時代の陶器の感覚を現代に蘇らせたような感覚だ。先に書いたように、それはピカソの作品にも見られるものだが、地中海文明をあえて意識したのか、意識しなくてもそうなったのか、本人に訊ねてみたいところだが、異国の者から見ればそれは羨ましい感覚だ。そういう地域性によって作品を生み出し、それがそのままどの国のどの時代の人に見られても同じような感情を呼び起こすことのギリシア文明の普遍性とでも言うべきものの圧倒的な強さを思うからだ。そして日本に同じものがあるのかどうかとすぐに考えたくなる。ここで今世界の美術マーケットで人気のある日本人作家の作品の話をしてもいいが、そうした作品に外国人は日本のどういう古い伝統に連なる普遍性を見ているのだろうと思う。あるいは、もうそういう見方をすることは時代遅れなのかもしれない。古くから培われた考えが通用しない、全く過去と隔絶した新しい、いわゆる無国籍的な作品、であるからこそ現代的、あるいは都市的と言い変えてもよいような芸術が、どの先進国からも歓迎され、そうした美術作品に高値がつく時代になっているのかもしれない。もしそうだとすれば、カルロの作品はすでに時代遅れのものに見える。伝統に連なって、そのうえに確立された作品以外の何物でもないからだ。最初に書いたように、筆者がカルロの作品をどこか古いと感じたのもあるいはそういうことのためかもしれない。
カルロの作品は器を元にしたものと先に書いたが、器に生命的なものを見るのは東洋に限った精神ではない。人間とは元々器であるからだ。特に女性はそう見られて来た。女性を生命を生む神秘な存在と考えるのは人類にとって普遍的な考えだが、ボッチョーニのように動く人体像の表現には関心はなく、起源的で本質的な存在の形というものに関心が強かった。それは誰しも思うように、単純な形をしている。球がいい例だ。そこからは幾何学への関心も生まれる。だが、そうしたものもギリシア・ローマの文化にはあったから数学も発達して来た。カルロはそのため、単純な球体や、幾何学形態を陶磁でどのように扱えるかを考え続け、その過程で生み出された作品は植物の種子をそのまま拡大したような形の暗示に富むものや、女性の出産、あるいは男根といったものの形にも目を向けながら、それらを一方でより単純化した幾何学彫刻とでもいう厳格な形態にするかと思えば、その反対にもっと根源的な、つまり大自然に同化させるような考えによって一種溶解したようり流動的形態を採って象徴性を持たせる。この後者は陶芸という手法に頼ったために必然的に得た境地であったろう。会場に入ってすぐにカルロが火山灰だろうか、溶岩が固まったような土地に座っている写真が大きく引き伸ばされて掲げられていた。そのカルロの座る大地は、ひび割れがして、まるでそのままでカルロの作品の見えたが、そういうイタリアで見られる光景から受けた感化は小さくはないだろう。また、図録をざっと見たところ、海の汀に自作を何個か置いた写真もあって、そこでは作品がまるで海から生まれたかのように見えていた。カルロは自作をそのように自然の中に置くことを好んだのだろう。野外に据え置いた作品にもたれて寛いだ表情の写真もあって、その顔はまるで俳優のロバート・デ・ニーロそっくりであった。焼きものは土と火を相手にするので、他の工芸よりもより自然の本質を肌で感じやすい。カルロがそうした大自然の変わらぬ姿から形の啓示を受けて創作の糧にしたとすれば、それはそのままでギリシア文明における芸術家の態度と同じであって、結局初期作のように、主に絵つけされた絵柄や色合いによって地中海性を伝えるという方法より、それはもっと力強い方法論を獲得させ得た。初期の作風にとどまらなかったのは正しい選択だったが、そこから脱するのは大変な格闘があったことだろう。カルロの作品に最もよく見られるのは、白磁ではないが、白い釉薬を表面に吹きつけてざらつかせた作品で、1200度の高温で焼くものだ。これはボッチョーニの先に書いた彫刻と似た羽状の形態を連続模様とした表面を持っている。一見したところ、柔らかい粘土を指で強くこすりつけた時に出来る筋跡と言えばよいが、その跡が幅20センチほどもあったり、また数センチと狭かったりするので、何かの道具を使って土が柔らかい間に一気に作り上げたものでないことはわかる。図録の中の写真を見てわかったが、その模様と言うべき凹凸の表面は、みなヘラで成形されたもので、その微妙な線の脹らみを作るのに全身を駆使しているようであった。その凹凸を持った曲線の絡みは、ボッチョーニの彫刻をレリーフに変換したような味わいがありつつ、また逞しい男性の筋肉の連なりや、水の流れ、波の起伏といったものにも見える。根源的な形を模索する中で少しずつその形を見出して行ったのであろうが、最も早い時期のものとしては1962年頃にすでにあった。当初は多くの手段のひとつであったのだろう。それが徐々に優位な位置に格上げされ、やがてカルロの代表的様式となった。そしてその様式ひとつに、ギリシア・ローマ文明を生んだ地中海が感じられもし、ボッチョーニの後塵もうかがえるということなのだ。

だが、初期のマジョリカ陶器で培った色合いが晩年にまた顔を覗かせることもあって、カルロが90年代を健康に活躍したならば、どんな総合的な境地に至ったかと惜しまれる。独特の白釉や、あるいは釉薬を用いない黒粘土の作品が晩年になると目立つが、白釉に赤をわずかに吹きつけた作品もあったりして、色に対する志向の変化の兆しは見受けられた。筆者にとっては70年代半ばの作品が最も面白かったが、その中で「幾何学の起源」という作品について書いておくと、これはピラミッドの形を一方で思い出させつつ、男性の象徴にも見えた。それに実際の造形のことを考えると、日本の現在の前衛陶芸家の作品に似て、かなり技巧的だ。言葉では表現しにくいので描いて来た簡単な図を掲げるが、図からもわかりにくいかもしれない。高さは80センチほどか、直方体を対角線で切り取って作った凹凸のある左右対称形で、表面は淡い茶色で艶消し、つまり釉薬なしだ。そして凹凸を区分けする対角線は幅1、2センチの艶のある先に書いたカルロが完成させた白釉で、周囲にビラビラ状の襞がついている。これと対になる形で「INの形態」と題する作品が隣にあった。同名の作品はシリーズ化したようでほかにもあったが、題名からわかるように、凹みが見所になっている。そして先の「幾何学の起源」がちょうどぴたりと内部に嵌め込まれるような凹みをしている。ただし面の色は釉薬なしの黒で、線は白釉だ。そして凹みの中央に不定型な形のグニュグニュとした襞が作られている。これは女性胎内における誕生の暗示に見える。そのようなエロティックな見方があまり間違っていないのは、「ターコイズ色のエロティシズム」や「歪められた欲望」といった題名の作品があることからもわかる。後者は男根の根本が崩れたようなオブジェで、カルロが根源的な形に魅せられていたことがよくわかる作例のひとつと言ってよい。直径1メートルほどの球がふたつに割れかけている作品もあって、これはそのまま植物の種子の形か、あるいは魚の卵のようで、ここにも誕生の神秘にまつわる形に魅せられていた様子がわかる。だが、そうしたわかりやすい形よりも、先の「INの形態」といった作品を筆者は好む。日本で言えば三輪龍作を思い出すが、もっとからりとしているのはお国柄ゆえであるだろう。最後のコーナーはタイルで、模様を吹きつける銅板も2点あった。タイルはどれも単純な幾何学模様で、さほど凝ったものはない。「グラフィックス」は版画で、シルクスクリーン、リトグラフ、そしてエッチングもあったが、白釉作品の肌をそのまま版画で再現したような作ばかりで、付随的な仕事に見えた。中にはエンボス加工を施して凹凸をつけたものもあったが、それほど普通の彫刻とは違って、陶器に肌触りというものをカルロは愛し、そこに独創性を表現出来ると思っていたのであろう。大作は「碑」と題する背丈の大きい細長いものが5、6点あって、いずれもトーテム・ポールのカルロ版といったところ。大きなものは数個に分けて焼くが、図録にはさらに大きなものを作っている写真があった。それはほとんど日本では考えられない制作態度で、それだけファイアンスという町には大きな窯もあって、カルロの望みどおりのものが焼ける場所であったのだろう。日本の精巧でちまちました陶磁作品もいいが、どういう伝統に連なっているのかさっぱりわからないものもあって、理念を持てずに漂流する作家像に無残さを感じることが多いが、その点カルロの作品には圧倒的な力強さと肉感性があって、侮れないイタリアの陶芸を見せつけられた気がする。