菱の実を冷凍しているのを思い出して、先日茹でて食べた。殻は乾燥させたので、また煎じてドボリ茶を作ろうと思う。
煎じるといっても、細かく砕いてゆきひら鍋でコトコトと煮るという本格的なことはしない。そのまま鍋に入れて煮汁を取るだけのことだ。アクはすでに実を茹でる時に充分出ているから、そうして二番煎じしたものは、殻のエキスと思うが、そう思いたいだけの話で、実際はそうである保証はない。だが、何となく茶色っぽい色はよく出るし、飲んでみると確かに菱の香りは強い。それに充分乾燥させてあるから、ちょうど椎茸のように、かえって栄養分が付加されているかもしれない。本当はそのままゴミとして捨てるべきものだが、苦労して手に入れた珍しい菱であるし、ものの本によれば殻は漢方薬になるとあるから、それを試さない手はない。だが、煎じた液はそのままではやはり飲みにくい。それで紅茶に少し混ぜるなりして飲むが、すると紅茶とも菱茶ともつかない変な味の茶が出来る。これを勝手にドボリ茶と呼んでいるのだが、紅茶の中にドボリといれるからそう呼んだ。それに少々ドブみたいな色を呈するからだ。そう言えば今年も菱を探して買えばよかったが、10月になるともう遅いか。去年はいつ買ったのだろう。9月中でなければ今年のものは入手出来ず、冷凍ものになったはずだが、今年は暑さが長く続いたので、まだ新物がひょっとすれば通販で買えるかもしれない。茹で上がった菱の実を見ると、表も裏も目鼻のような小さな丸い点がある。穴ではない。何だかプラスティック製品を作る時に材料を流し込むための管が連結している部分のように見える。この丸い部分はどういう合理的な役割があるのかとても不思議だ。意味もなく、ただ菱のスピリッツが実が人の顔に見えるようにと、そのように進化して来たものだろうか。あるいはこの丸い部分がなければ何か具合の悪いことが菱の実の身に生ずるのだろうか。そんなことを考えながら、真っ二つに割って中の白い実をつるりと取り出してぱくぱくとやる。菱で作った焼酎の菱娘があれば、それと一緒に飲めばさらに自分の体内に菱の精を取り込んだ気分になれるが、その酒を買うには大阪の梅田大丸で行かねばならない。せっかくの菱であるから、儀式をやるように、厳かにそしてしかるべき時に食べたかったのだが、1年も冷凍し続けていたので、もういい加減食べないと具合が悪いのではと思ったのだ。それにしかるべき日もなかった。何だか適当に食べたようで菱に悪かったかなとひしひしと感ずるが、体内に精をもらったし、いつ食べようかずっと気がかりであったことが解消したので、ここに書いておくのもいいかと考えた。本当は遠方から買わず、地元で生えているのを入手したいのだが、京都市内ではもはや絶滅したのか、ネットで調べても出て来ない。自分に広い池があれば菱を育てて、秋には収穫するのだが、どこかの城の堀にでも菱を放り込んで勝手に育てるという手もあるな。ふふふふ。だが、それにはやはり今年収穫された菱を手に入れる必要があるか。
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●2002年5月7日(火)夕方ここからは夕方。もう少し書いておこう。6時前だ。ずっと雨が降っている。さきほど郵便局に行く前に裏庭の木々を剪定し、雑草を抜いた。その時に服についたのだろうか、今またワープロのスイッチを入れようと机に向かった時、ふと見ると辞書に輪ゴムの5ミリ程度の断片がくっついている。よくそんなことがあるから、別に気にも留めなかったが、その輪ゴムがグニュリと動く。輪ゴムはそんな風にくねるものであるから、それも別に気に留めなかった。だが、グニュリが長く続く。肌色で、よく見るとうじ虫のようで何かの昆虫の幼虫であった。百足を殺す時にガム・テープを背中に貼りつけて、それを引き剥がし、ガム・テープに包んだまま捨てると以前に書いた。それと同じようにセロ・テープを2、3センチ切り取ってグニュリに貼りつけ、そしてテープを折りたたんだ。おそらく1匹だけではないのかもしれない。毛虫などが大量発生する頃で、それを食べるために鳥がやって来る。そういう自然の仕組みであるから虫さされぐらいは我慢すべきか。それにしても虫の毒にやられたのか、腕や背中のあちこちが痒くてたまらなくなって来た。で、さきほど気になって『日本大歳時記』の夏の巻をぱらぱらと見た。すると「百足」の季語が目に入った。俳句がいくつか並んでいたが、百足を殺して髭を剃って外出したという内容の一句がなかなか鮮烈であった。そして「天牛」が「カミキリムシ」であることもわかった。これはてっきり「紙切り虫」と思っていたが、「髪切り虫」が本当だ。「神切り虫」ならば、いかにも害虫のカミキリムシらしいのだが。それにしても天牛がカミキリムシであるとはややこしい。天牛書店の名前の由来はこれであったのだろうか。あるいは牛乗り天神もカミキリムシに関係あるのか、とついアホな連想をする。また、カミキリはカマキリに発音が近いが、後者は秋の季語だ。虫は夏の季語である場合が多いのは当然だろう。花が咲けば必ず虫がいる。天国は花盛りというが、それは虫もいっぱいいることでもある。もし花が咲くのに虫がいなければ、それこそ地獄の季節だ。あ、ランボーなことを言ってしまった。いや、それは演歌にもあった。花が死ねば虫も死ぬし、虫が死ねば花も死ぬ。是本当之話也。したがって机の上に小さな虫の幼虫がグニュリと蠢くのは天国という証拠。とはいえ百足は噛むでかなわんで。あまり出て来てほしくない。やっぱり蝶ぐらいが花と似合って可愛い。書き忘れていたことをひとつ思い出した。毒についてだ。朝日新聞の記者からは後日手紙があって、『大論2』に秘められた毒の部分を記事で出せなかったことが心残りとあった。ザッパの音楽にもあるそれと筆者の文章のそれを思っての意見だろう。これとUさんの手紙にあった、言おうとして言わなかった部分に大山さんの本音が隠れている云々の下りを併せると、自分ではさほど気づかない『大論2』の裏の部分が何となくわかる気がして来た。それはつまり毒気のことか。そうかもしれない。もっと毒をドクドクと注いだ文章にしようと思えばいくらでもできる気がするが、それをなるべく品よくなるようにとギリギリと思い留まっていることがあるかもしれない。この日記には『大論』以上に毒を披露しているつもりだが、本当はそれどころではない。しかし天国にはきっと毒虫もいる。それを含めてすべて晒け出すのが本当か。したがって少なくとも『大論』に毒が感じられるというのはなかなかよいことではないか。
さきほどFさんからインターネット情報やカセット、それに手紙が届いた。勝手に引用してはまずいか。ま、いいか。アイ・スイマセン。冒頭から。『大山さんの印象は、写真で拝見しておりましたので、写真どおりのイメージでしたが、ザッパと一緒に写った写真より若々しく感じました……』。ホンマカイナ、イイカイナ、爽快ナ? それだけアホ度が増した。当然だ。ますますアホをきわめているザッパ極道生活。それでそそくさと3枚の返事を書き、ポストにすぽんと入れに行こうという意向なのだが、雨でもあり、音楽をかけながら憩うへ移行の始末。BGMはジョン・レノンの『マインド・ゲームズ』。ま、いいんど。輸入盤LPで、中袋を見ると73年秋に手にしている。春と思ったが記憶違い。秋には小春日和がある。そんな頃に聴いたのだろう。それにしても29年前。皺も増えた。シミも増えた。白髪も増えた。脂肪も増えた。年令も増えて寿命が減った。それでも好きな曲はずっと変わらない。記憶の不思議。で、そのアルバムは全曲好きではないが、ごくたまにミート・アゲインしたくなる曲がある。まず「アイ・スイマセン」。先日から気になっていた。最後のスピノザのギター・ソロがよい。スニーキィ・ピート・クライノウのペダル・スティールもよい。ちなみにこの曲は嬰ハ短調、4分の3拍子で、ザッパの「ブラック・ナプキンズ」と共通する。もう1曲好きな曲は「アウト・オブ・ブルー」。歌詞も曲もよい。ジョンの絶叫の歌はもっとよい。どことなく落ち着かないメロディで、旋法的な動きをする。E♭のドリアだ。バック・コーラスがちょっとセンチ過ぎて気になるが、感動ものの曲だからそれも似合ってはいる。そしてこの曲を聴けばいつも涙がジーンとにじむ。とても最後まで一緒に歌えない。妻ヨーコへの感謝感謝のアルバムだが、ジョンが心から優しい気持ちになってこういう曲を書いたのは本当によかった。ロック野郎が家庭の幸福を歌うなど、気恥ずかしくてとても聴いていられないかもしれないが、ジョンなら何でも似合う。「アウト・オブ・ブルー」を聴きながら、ふと先日買った『月刊京都』の御所人形のカラー・ページを思い出した。そして本を開く。そのずっと変わらない人形の面影、微笑み。するともっと涙がにじーんで曇って見えた。「アウト・オブ・ブルー」であるのに、涙のシーンでどうする。どーんと曇天からパラパラと雨が降って来た今日の午後。もうDawnのような暗さの宵がいよいよ近づいた。窓から見える山も雨に馴染んでにじーんでいる。さあ、雨の中へ行け! ポストまで。以降は明日。アイ・スイマセン、♪オール・アイ・ハフ・トゥ・ドゥー・イズ……