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●『モディリアーニと妻ジャンヌの物語展』
ほど期待していなかった展覧会なので、9月2日に奈良を回って大阪に出た時には、また次の機会にしようと考えて見ずに帰った。それで2週間後の一昨日、また出直したが、予想以上によい内容で今夜取り上げることを早々と決めた。



●『モディリアーニと妻ジャンヌの物語展』_d0053294_1852567.jpg今までに何度か書いたが、1968年、夏休みに入ってすぐ、つまり中学を卒業して5か月ほど経っていた16歳の筆者は仲のよかった同窓生ふたりを誘って大阪から友人ふたりとともに京都国立近代美術館に『モジリアニ展名作展』を見に行った。「モジ」であって「モディ」ではない。「ガンディー」が「ガンジー」と言い習わされるので、「モディ」ではなく、「モジ」でいいと思うのだが、今はそれは古いらしい。そのうち、「ガンディー」も定着するだろう。だが、ここではより短い「モジ」で通す。『モジリアニ展名作展』の図録は500円で、貧困家庭の筆者には高過ぎたが、買った。その時から図録集めが始まって今に至る。それはいいとして、同展はその後に何度か見たモジリアニ展のどれよりもよく記憶し、中でも男子をドキリとさせるに充分な、1917年頃に描かれた「横たわる裸婦」が特にそうだ。この作品図版のみ、図録では折りたたみ横開きの豪華特別扱いだ。今描かれたばかりのような光沢のある油彩画で、横たわる裸婦は不敵にこちらを見つめている。同展当時は芦屋の個人コレクションであったのが後に西武百貨店の所有となり、1989年5月に大阪市が19億円で買い取った。図録に挟んである新聞の切り抜きからそれがわかる。19億円は高いか安いかわからないが、大阪市は当時近代美術館をさっさと建てればよかったのに、バブルは崩壊、さらに借金を重ねる中で今なお美術館は建たない。情けない話だがいかにも大阪らしい。美術館がなくても大阪市が絵を買い続けたことは、筆者にはよくわかる。中学生の頃の筆者は、家にステレオがなかったのに、LPレコードを買い、それを持って友人宅を回った。ステレオはそこそこの家庭ならばあったのだが、そこには筆者が聴きたいレコードはなかった。「横たわる裸婦」は去年だったか、長堀の出光ビルの階上で開催された大阪市所蔵の名品展で並んだ。16歳の時に見たのと変わらぬドキリ感覚を持った。それはいいとして、この「横たわる裸婦」のモデルになった女性は、面長で鼻が大きい。今回の展覧会で、このモデルはモジの妻となったジャンヌ・エビュテルヌではないかと思った。『モジリアニ展名作展』図録の表紙は、同時代のモデルであったマルグリットの肖像画が使用されていて、彼女にも似ているので、あるいは彼女かもしれない。微妙なところだ。今までのモジ展の図録などでは、モジがジャンヌと出会ったのは1917年とされているので、「横たわる裸婦」のモデルがジャンヌである可能性はあるが、今回の展覧会に際しての調査によって、ふたりの出会いは1916年12月であることがわかった。当時ジャンヌは18、モジは32だ。ジャンヌの両親はまるで娘が誘拐されたように感じた。無理もない。「横たわる裸婦」のまるで娼婦のような表情を思えば、18のジャンヌがモデルであるのは、あまり考えたくないことかもしれないが、男女の仲はわからない。18といっても、写真を見る限り、ジャンヌは大柄な女性で、しかも貫祿充分の雰囲気があって、出会って間もないモジの前で娼婦らしい顔つきで堂々とポーズをとってもおかしくはない。
 ふたりの悲劇的な結末からすれば、やはりそういうただれたような関係であってほしくないというのが純真な人の思いだろう。だが、ジャンヌであろうとなかろうと、ジャンヌとすでに知り合っていた時期にモジが「横たわる裸婦」を描いていたのは、モジの男性エネルギーが充溢していたたとは確かだ。それと美術の関係を思うと、なかなかフランス的と言うか、面白い。何度も開催されるモジ展は、ああまたかと思うように慣れてしまっていて、いったいどれほどの数の作品があるのか、展覧会のたびに新しい絵が登場するようで、真贋問題を思いたくなる。というのは、東京の国立西洋美術館はかつてモジの贋作の素描を買ったことがあるという有名な話があるからだ。モジの画風は模倣しやすいようで、モジ・ファンの多い日本はいい鴨だろう。図録に挟んでいた新聞の別の切り抜きの中には、1993年2月15日の「モジリアニの絵大量発見」という小さな見出しのものもある。パリ在住中にモジの友人だった医師が保管していた素描など441点を、医師の息子が公開したというのだ。贋作ではないかとの指摘もあるが、専門家の間では本物と認める声が有力とある。この記事についてのその後は知らない。441点という大量であれば、その3分の1程度が日本の展覧会に出品されてよいはずだが、そんな話は聞かない。今回の展覧会は、ジャンヌの遺族が長年未公開にして来た秘蔵コレクションも含まれていて、埋もれていた作品があったというその事実からすれば、短い画家人生のモジであっても441点が一気に世に出ることもあるかとは思う。そうした新公開作を含めなければモジの全貌は当然わからないとはいえ、今までに公開されている作品で充分作風の変遷はわかる。ある時期のものだけがごっそりと失われたということではないからだ。で、筆者はまた最初に見た『モジリアニ展名作展』の図録を引っ張り出すが、それでいつも思うことは、初期ほど素晴らしい、いや筆者のお気に入りで、その思いは今後も変わらないだろう。この初期をいつまでにするかだが、今回の展覧会に合わせて言えば、モジとジャンヌが出会うまでだ。モジの才能の真の開花はジャンヌと出会ってからとされるようだが、筆者の好みを言えば、モジは晩年になるほどよくない。繊細な筆使いと色の画面で、どれも可憐で切ない味を強く帯びるようになる。それは初期の彫刻的な力強い作品からすればあまりにも泣き節過ぎて退化に見える。肺の巣くった病魔がモジの気力を萎えさせたと言えばよいか、見ていて辛い。名古屋市が買った「おさげ髪の少女」は1918年頃の作で、すでにそういう画風の領域に半分以上入り込んでいる。となれば、筆者の好みは1917年までということになる。いや、1917年のすべてがそうとは言えず、半分程度はその後の作風とそっくりな雰囲気なものがある。贋作者はそういうことを熟知して描くのだろう。そして後期の作風をまねたものが多いと思う。人気があるからだ。先の「横たわる裸婦」は初期作に分類される紛れのない名作だ。
 美男のモジはジャンヌに出会う前、かなり女性に持てた。イギリスの詩人のベアトリクス・ヘースティングスと2年間同棲していたこともある。その解消後間もなくジャンヌと出会い、そして妊娠、出産、父親としての自覚が生まれ、金を稼ぐことに必死になる。それが悪いというのではないが、何か切羽詰まった感覚が絵の向こうに感じられようになる。画商はついたが、そのズボロウスキーも苦しい生活であったし、そうでなくてもモジは抱えている病気を悪化させ、追い詰められて行った。モジが亡くなるのは1920年1月で35歳であった。その2日後に、ふたり目の子を妊娠して9か月の身重であったジャンヌは6階から飛び下りて死んだ。すぐに髪が切られたのだろうか、今回は会場の最後に額縁つきのガラスに挟まれた格好で、両手に乗るほどのジャンヌの黒髪が展示されていた。それがとても生々しかった。両親にすればどういう思いであったかと思う。また、孤児となった女の子ジャンヌは、今生きていれば89歳だが、生前は美術史家となってモジの研究をした。母ジャンヌの絵を知らなかったはずはないが、なぜ絵を発表しなかったのだろう。自殺した母よりも病気で死んだモジを哀れに思っていたのであろうか。いずれにしても、おそらく子のジャンヌが亡くなったために今回の展覧会が実現した。ジャンヌの両親はそこそこの裕福で、ジャンヌには仲のよい兄がいたが、兵士となって出征している間にモジと同棲が始まり、そして出産した。兄はモジを恨んでいた。これも無理のない話だ。その兄は絵が好きで、ジャンヌが絵を学んだのも兄の影響だ。今回の目玉は、このジャンヌの画業に焦点を合わせたことだ。これが今までのモジ研究に大きな側面をもたらすことになって、モジ・ファン必見の展覧会であった。従来ジャンヌの画才は云々されず、しとやかにモジにつきしたがった存在と思われていた。それは大きな間違いで、長生きしていれば、歴史に名を留めた才能の持ち主であることがわかった。彼女は画学生としてモジと出会った。モジにとっては、単に若い女性ということではなく、明らかにその絵の才能に驚嘆すべきものを認めたため、ふたりは急速に仲よくなったと思われる。モジがジャンヌの絵から何らかの霊感を受け取ったこともひょっとすればあるかもしれない。残念ながらジャンヌの油絵や素描は年代の不明なものが多いものの、モジが亡くなる寸前まで積極的に描いていた。そしてモジの才能を盲目的に信じてその作風に追従するのではなく、確固とした考えを持っていたことがわかった。筆者には晩年のモジの才能は、むしろジャンヌのそれより小さく見えた。これは病気を戦うモジが気弱になるのに対し、ふたり目を妊娠していたジャンヌの方がより積極的に前向きに生きることを思っていたからであろう。そんなジャンヌはモジの没後、呆気なく後を追う。自分の画才を信じていなかったというのではなく、それほどモジがいない人生は無意味と思っていたのであろう。
 ジャンヌは美人ではない。鼻が大きく、がっちりタイプだ。モジがジャンヌやジャンヌの母と一緒にパリからニースに疎開し、その後先にパリに戻ったジャンヌにただ1行「こんにちわ、怪物さん」とだけ書いたはがきを送る。それには笑ってしまったが、モジはジャンヌの何を見てそう呼んでいたのであろう。ともかく仲のよい、そしてあまりにも年下であるからこその呼び名だ。あるいはモジはジャンヌの顔が決してほそっりした美形ではないことをよく知っていて、それをからかっていたのかもしれない。そんなジャンヌだが、写真からはどこか女ピカソと言ってよいほどの貫祿が伝わる。であるから、長生きしていればどんな画業を展開したのかと思う。モジの病気は現在では死なずに済んだものだろう。先に書いたように、モジの画風は年々急速に変化し、短い人生であってもそれなりに初期、中期、晩期と明確な変遷がある。1919年や20年の最晩年からその先の仕事を想像しようとしても、筆者には何も思い浮かばない。つまり行き着くところまで行ってモジは死んだ。一方ジャンヌはどうだろう。一時期のブラックとピカソの絵が区別がつかないほど似ているのと同様、ジャンヌとモジの素描はそっくりで、しかもジャンヌの描く女性のトルソは、肉感的で躍動的、しかもモジのように少ない無駄のない線で一気にものにされていて、文句なしに第一級の才能であることがかわる。20歳そこらで、しかも母親の役目をしながらそういう才能を持つことは、ごく稀なことだ。モジの眠っている姿や顔を描いた素描が何枚かあった。どれも写真以上にモジの容貌を見事に捉え、これは夫を怖いまでに観察し尽くし、それでいて愛情を持って接していた者でしか描けないものだ。それらの素描を見て、筆者は涙ぐんだ。ジャンヌがそういう素晴らしい才能の持ち主で、どのようにモジを見ていたかを初めて知り、絵の凄さを改めて思った。それは最初にモジの実物を見て40年目のことで、めったにない経験と思う。遺族がジャンヌの絵を公開しなければ、ジャンヌは夫の後を追って自殺した健気な妻として人々に記憶され続けた。実際は絵を描くことで冷静に回りを観察し、しかも逃れられない運命の前で震えていた。まだ21歳、しかも妊娠中という不安もあっただろう。親に泣きつけば経済的にはどうにかなったはずだが、それをしたくなかったのかもしれない。今回の全4章に分けた展示のうち、最後は1919年7月から翌年1月までの6か月を扱い、「永遠の沈黙」と題していた。この半年間はモジは、それまでのボヘミアン的生活が改まるわけでもなく、それなりに飲み続け、相変わらずの貧困、そして悪化するばかりの肺病を抱えて、時に破滅的な思いに駆られ、また改心して前向きになるというふうであったことだろう。そういうモジを見つめながら、次第にジャンヌも閉塞感に囚われて行ったに違いない。ふたり目が生まれる直前のことで精神的にも不安定になっていたのであろう。
 そんな結末を予感させる5点組の水彩画が最後に展示されていた。それはアール・デコ風の人物画で、モジとそっくりの風貌の男性やジャンヌ、母も登場する。そして自分たちの短い生活をそのまま回顧するように順に場面が変わり、最後からふたつ目の絵はモジの死を示す「死」だ。最後の「自殺」は、ジャンヌとおぼしき女性がベッドの中で胸を刺して死んでいる。この絵がいつ描かれたのかはわからないが、モジの死よりさほど遠くない前であろう。ジャンヌはどういう結末になるかも予感し続けていた。それは物語を紡ぐ才能と言ってよく、文学を味わう強い能力があったためだ。ふたりが出会う前の第1章「出会う前のふたり」において、ジャンヌのそういう才能を端的に示す作品があった。17歳のジャンヌはネール・ドフの自叙伝的小説「飢餓と悲嘆の日々」を読んで感銘を受け、自発的にその挿絵を33点描いたのだ。それはもうほとんど完成した個性があると言ってよい連作で、悲惨な内容の小説に挿絵をつけようと思うまでに、ジャンヌには何かそういう「飢餓と悲嘆の日々」の状態に接近する願望があったのかもしれない。キリスト教の慈悲心が強かったと言えばそうかもしれない。同小説は経済的苦境のために身売りする少女の話で、そこには献身の精神が見られる。まだ若くて純真なジャンヌは、そういう生き方を厭わない強い決心をうちに秘めていて、才能溢れるにもかかわらず、日の当たらないモジを見て、彼を支えることこそ自分の役目と思ったのかもしれない。努力の甲斐むなしく、モジは病気で去り、その後のジャンヌの自殺は20世紀初頭のパリ美術界において最も感動的な夫婦愛を完成させ、モジ伝説を一気に作り上げた。それこそジャンヌが求めていた小説的で永遠たる世界であったのかもしれない。その世界はジャンヌの画業が紹介されたことによって、より強固となって、しかも芸術の素晴らしさを再確認させることとなった。今後はジャンヌの画業の評価決定と、モジの画風との関係のつぶさな研究が進むだろう。そして最初に書いた「横たわる裸婦」のこちらを見据える裸のモデルは、ジャンヌそのものではなくても、ジャンヌの大きな影が投じられている気がする。モジが18歳のジャンヌの画業に素晴らしいものを見たと同時に、その若い肉体に強い関心があったとしても、それはごく自然なことだ。そういう生の満ちる存在からモジは力を得なければならないほど、急速に体力が衰えて行くことをすでに当時予感していたに違いない。今なら19億円以上するのか、あるいはもっと安く買えるのか知らないが、大阪はモジの名品を買ったことをもっと自慢してよい。
by uuuzen | 2007-09-18 23:49 | ●展覧会SOON評SO ON
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