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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『没後50年 大正・昭和の風景版画家 川瀬巴水展』
っかくの盆休みということでもないが、今年は特に旅行出来る時間がないこともあって、極近の場所でお茶を濁そうと、17日は典型的な真夏日であるにもかかわらず、守口、尼崎と展覧会をはしごした。



●『没後50年 大正・昭和の風景版画家 川瀬巴水展』_d0053294_23194455.jpg今夜取り上げる『川瀬巴水展』は、京阪電車の守口駅ビルの百貨店で見た。ここはたまに京都や大阪の他館が開催しない隙間的な面白いものをやる。念のために言っておくと、会場の中で60前のおばさん3人が、「巴水」をどう読むのか話し会っていて、いかにも下町の守口らしい光景に内心笑ってしまった。すぐ近くにいたので、よほど「はすい」と言ってあげようとしたが、やめておいた。そんなことを知っても知らなくも、それなりに絵の訴えるところを楽しんでいたようであるし、その記憶こそが大事であって、傍らから関係のない筆者が口を出すこともない。巴水は東京の版画家であるので、関西では知名度や人気は今ひとつであろう。チラシによれば、欧米で先に人気が出て、日本木版画の三H(北斎・広重・巴水)と呼ばれているとのことだが、それは手技の限界を示すような多色木版画の技術に負うところが大きいだろう。実際巴水の作品を見ると、北斎や広重の版画が子どものものに思えるほどに緻密度の点では劣って見える。だが、そのことと芸術性とはまた別の部分がある。江戸時代に発展し続けた日本のあらゆる手仕事は、明治になって極限に達したが、逆に芸術性は下がったように筆者には見える。だが、これは現時点での感覚であって、100年後にはまた見方は変わっているかもしれない。つまり江戸と明治は西洋化という急激な社会的変化を経験したが、案外変化せずに連続している部分があって、たとえば木版画は、ごくスムーズに広重から巴水へと受け継がれていると見えるかもしれない。いや、実際それを会場で感じた。だが、つながりはわずかで、それを過大視しているだけかもしれない。本当に歴史的評価として定着するにはまだ年月がかかるだろう。とはいえ、また考えるのは、巴水の次を誰が担っているかという疑問だ。現在でも木版画家は多いが、さて広重と巴水の間に見られる変化以上の変化を遂げているのかと言えば、とてもそうは思えない。そして、そのそうは思えない部分がすでに巴水の中に内蔵されていたのではないかと筆者は感じて、先の意見、つまり明治になって技術は進歩したが、芸術性は落ちたと思うわけだ。欧米の木版画コレクターはまた見方が違うことだろう。おそらく巴水の中にまだ残されている江戸時代から続く木版画の伝統と、そして自分たちの文明に染まりかけたエキゾチックな日本という二重性を見ており、それが今となっては遠い昔のノスタルジーを感じさせているのではないだろうか。欧米人のそうした見方を通して筆者は巴水を鑑賞してしまったが、そこには明治における西洋文明受容に伴ってもたらされた芸術からの影響を見てしまうからだ。その意味で、巴水には何だか物悲しいものがある。そして、さらに言えば、今の日本はさらに巴水の描いた風景がほとんど消失し、二重に物悲しくなる。これは北斎や広重の版画が江戸時代当時の人々に求められた時に感じたものとは全く違うはずで、巴水にはどこか急速に失われて行くものに対する哀惜のようなものが濃厚に刻印されている。
 巴水は明治16年(1883)に東京の今の港区に相当するところに生まれ、昭和32年に75歳で死んだが、明治・大正・昭和と生きて来たにもかかわらず、40年近い版画人生に作った600点の版画は、戦前あたりの感覚でストップしている。後半生に作った作品は逆に密度が高く、技術的にはますます進歩したことがわかるが、逆に前半生までの作品の焼き直しと思える題材ばかりが目立つ。時代の進歩に逆行するかのように、レトロな日本を求め続け、意識は硬直化して行った。このことはどのような作家にもある程度見られることで、別に珍しくはないが、巴水は長く生き過ぎたように思う。一般家庭にカメラが常識的に所有される時代になり、カラフルな観光写真絵はがきもすでに時代遅れになったような時代になっても、まだ巴水は戦前と同じような木版画で、観光名所を華麗な色彩で表現したが、おそらく明治の人と昭和の人とではその見え方がそうとう違ったであろう。人々の感覚がどんどん変化するのに、巴水は最初期と全く同じ技法で表現し続けたため、昭和32年まで生きたことが信じられない。だが、最晩年の作品は紛れもなく当時の雰囲気がある。先に書いたように、それはおそらく100年後に見ると、もっとすっきり時代に収まった妥当な表現に見えているだろうが、昭和32年を知る筆者は、当時を巴水のように感じることはとうてい出来ない。これは同じ昭和32年でも、巴水は死を目前に控え、筆者はまだ6歳であったという世代間の感覚の相違だ。そうした個人的な感覚が遠くなった時点で、巴水の正統な評価があると思うが、それはその時になって時代を担っている木版画がいるかどうかでまた微妙に違ったものになるだろう。何だか先と同じことを書いている。巴水は名所旧跡だけを題材にしたのではなく、名の知られない場所のごく日常的な風景を描きもしたので、絵はがきと同じようなものと言うのは酷で、基本は職人ではなく、芸術家だ。それは処女作である大正7年(1918)作の栃木の温泉地を描いた「塩原に因む三題」を見れば即座にわかる。いかにも大正時代の風景画で、縦長の画面に南画風の構図によって山間の景色を俯瞰して描くが、アクセント的に表現される細部の人物や物の表現には並みならない個性がある。それは日本画を学ぶ目によって培われたものであることは即座にわかる。だが、日本画の掛軸として表現していればごく月並みなものになったと思える。
 巴水は27歳で最初鏑木清方に学んだが、深水の木版画に感銘を受けて木版画の道に進んだ。美人画を描いていた経験は木版画に活かされて、会場でも1点だったが、「ゆく春」と題するキモノ姿の女性を描いたものがあった。キモノの文様表現の緻密さは、風景画に見られる細部を疎かにしない表現とそのままつながっており、また、女性の香りある色気というものを、風景の季節感や1日のさまざまな時間表現に置き換えて表現したと言ってよい。そのため、巴水の風景画はどれもある特定の感情というものを持っている。外国で評価されるのは、その日本的な色気に違いない。だが、これは巴水の発明では到底ない。北斎や広重がやったことを、巴水はよりはっきりと描き分け、しかも典型化させたのだ。それはさながら、あらゆるタイプの美人のブロマイドを10枚並べて見せるといったものに似て、そうしたひとつの組合せ的典型が出来てしまうと、もはや後はその繰り返しが次々と待っているだけとなる。ある写真家による毎年のカレンダーを思えばよい。凡作はないが、またとびきりの秀作もないという具合で、「ああ巴水だな」の感覚で安心し、そして惰性で見流して行くことになる。その理由は何か。それは工房制作で、しかもヒットとなった作風でつかんだ顧客を逃さないために、「ああ巴水だな」と一目でわかる作風が版元から暗黙のうちに求められたことにもよるだろう。その意味で巴水は職人的芸術家であって、ある種の破綻に宿る美というものとは無縁であった。版元があって版画を発売したのは北斎も広重も同じで、その伝統にそのままつながった巴水は、100年後には「ああ巴水だな」というのが、「ああ北斎だな」「ああ広重だな」と同じレベルにまで引き上げられるかもしれない。おそらくそうなるだろうが、カメラが完全普及していた時代ということがどのように問題とされるかだ。巴水は大衆からは北斎や広重が担ったのとは違う役割を版画において負わされていたはずで、その文明の違いによる損得の要素の差と、江戸時代より完璧な技術によって表現したこととどう関係をもって論じられるかはまだわからない。だが、これは巴水だけの問題ではなく、あらゆる芸術に共通したことだ。ここで断っておくと、巴水の版画を北斎や広重のものと比較するのは本当はよくない。むしろ広く言えば大正時代に流入していた外国のあらゆる芸術、狭く言えば明治や大正の木版画から何を受け継いでいるか、何に感化されているかを考える必要がある。そこには明治30年以降の日本の創作版画運動との関連を見ることが前提となり、たとえばアール・デコ調のハイカラな多色風俗木版画と比べて、どちらがより時代を如実に体現しているかが問われなければならないだろう。もっと言えば、巴水が大きな感化を受けた深水の美人画の木版画が大正時代にあってどう評価され、巴水がそこに何を見ていたかの問題がある。
 自画、自刻、自摺を旨とする創作版画運動を巴水がどう思っていて、なぜその道に進まなかったのかも重要な問題だが、完成度の高い表現を求めるには、自画、自刻、自摺は不可能と思っていたのであろう。今回の展示には、色のついた原寸大下絵と、完成した多色版画が見比べられるコーナーがあったが、細部の変更は当然あるにしても、ほとんど下絵どおりの完成作となっていた。そこには、巴水が予め完成作を頭に描いたうえで、それに見合った景色を選び、構図を決め、色彩を整理したことがはっきりとわかった。そのため、下絵は彫りや摺りのことを考慮して、最も合理的なように描かれた。それが悪いというのではない。共同作業とはそうあるべきだ。そうした合理的な考えで無駄なく作られたものこそが、最もすっきりとして画面を見せるに違いない。だが、破綻のない、また完全な流れ作業となったそうした工程からは、意外なものは意外に生まれ得ない。質の高さは保証されるが、それだけのことになって、作品が時代遅れの退屈なものになりやすい。職人仕事の部分が大きくなる一方であるからだ。それを打破するためにこそ、巴水は日本中を旅し、新鮮な画題を求め続けたが、一旦定まった得意とする物の見方はそう簡単には変えられず、巴水はますます巴水になるだけのことで、その点に立てば、晩年の作ほど磨きがかかった独自なものと言えるかもしれない。さて、この展覧会は関東では去年だったか、3か所の会場で開催されたもので、2500円の図録を見ると、守口への巡回展については記されていなかった。図録が残ったこともあって、関西に巡回したのかもしれない。図録を買おうかどうか迷っていると、隣に70くらいの男性がいて話しかけて来た。巴水ファンらしく、娘にネットで調べてもらうと、昔出た限定本が古書で今は70万円もしているなど、聞きもしないのにあれこれ言う。それなら2500円の図録は安いなと思ったが、印刷の色を見て愕然とした。あまりにもどぎつい色合いで、巴水の肝心なこだわりがさっぱり台なしになっていた。それほどに再現が難しいのかもしれないが、あれでは巴水の色彩感覚の才能を誤解させるだけであろう。だが、ほとんど原寸大近い額絵はかなり忠実に色合いは印刷されていて、そこでまたカレンダーをふと思い出したのだが、それほどに作品が印刷のように緻密なのだ。結局は買わなかった図録をパラパラと見ていると、会場になかった作品に気づいたが、褪色防止に展示替えがあるらしい。それはすぐに納得出来た。濃い青やオレンジ色の使用が目立つが、中間色は簡単に色褪せてしまうだろう。
 3つの章に会場は分けられ、1「大正期」、2「関東大震災~戦前」、3「戦後~晩年」で、以下簡単に記す。1「大正期」には、先に述べた「塩原に因む三題」や美人画の「ゆく春」のほか、4つのシリーズから展示があった。「旅みやげ第1集」は、青森、宮城、新潟から福井、石川県に至る東北、北陸、中部地方、千葉、栃木県の関東地方に焦点を当てたもので、1919から20年にかけて16点が作られた。「東京十二題」は初の東京シリーズで、名所のみを選ばず、興の赴くまま描いたものだ。「旅みやげ第2集」は、1921年制作の28点で、京都、奈良、大阪、神戸の関西地方から、本州は日本海側の無名の地を選び、四国も数枚含む。「日本風景選集」は1922から26年にかけての36枚で、大部分が九州各地を描く。この「大正期」のみで筆者は充分堪能したが、それは後の作品が何度も書くように繰り返しに思えたからだ。大正12年(1923)9月の大震災によって、版木やスケッチブックの大半を焼失し、失意に沈んだ巴水だが、版元の渡邊庄三郎(1885-1962)の勧めによって10月下旬から翌年2月初旬までの長期の写生旅行に出かけ、気分を改めた。昭和5年(1930)には大田区馬込に居をかまえ、やがて戦禍を逃れて塩原に疎開した。600点と言われる全作の大半はこの2「関東大震災~戦前」のものだ。3つのシリーズから展示があって、まず「旅みやげ第3集」は、1924から29年までの29枚で、本州、九州に取材したもの。「東海道風景選集」は1931から47年まで、最大の年月を要して作られた26点だが、広重のような東海道の完全版ではない。もはや風景が変貌したためか、あるいはあまりに緻密な作品であるためにそれが困難であったのかはわからないが、宿場町にこだわって各地を選んではいない。3「戦後~晩年」は、昭和23年(1948)3月、塩原から東京へ戻り、大田区の渡邊庄三郎の家で没するまで10年を過ごして制作をした時期に焦点を当てる。昭和28年には文化財保護委員会の委嘱により、「増上寺の雪」の制作の様子が映像で記録され、スケッチ、版下絵、版木などが永久保存されることになった。胃癌で没したが、絶筆の「平泉金色堂」は渡邊の指示によって完成させられた。印象に残った作品としては、早朝の大阪の道頓堀の繁華な場所を道頓堀川からシルエット的に描いたものや、チケットに印刷される1933年の「宗右衛門町の夕」と題する作品で、前者はまだしも、後者は今とは全く面影が違っていて、大阪にも京都の祇園とそっくりな落ち着いた江戸時代を思わせる情緒のあるところが戦前はあったことを改めて思い知った。それに加えて、アベックの男女や、子どもといった点添人物も、はっきりとした巴水様式があって、それだけを取り出して見てもおそらく即座に巴水とわかる。それほどに完成した細部の様式美の積み重ねから1枚の作品が出来ている。また、光の扱いが非常に巧みで、江戸時代の木版画とは決定的に違って、カメラ・アイを意識し、陰影がはっきりしている。それと同時に雪や雨、水面にくっきり映る反転した景色など、水に因む表現のうまさも桁外れと言ってよいが、それはほとんど日本人作家のものとは思えないほどで、たとえばセガンティーニのような画家が日本の各地に魅せられて描いたという感が強い。そこでまた思うのは、外国で人気があるその理由だ。
by uuuzen | 2007-08-27 23:20 | ●展覧会SOON評SO ON
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