阿久悠が70歳で亡くなって、昨夜はNHK-TVで歌の特集をしていた。多くの大ヒット曲を出して、時代を代表する作詞家としての評価は今後もっと強固なものになるだろう。
去年だったか、阿久悠が久々のヒットを目指して、ある作詞に挑戦しているというドキュメンタリー的な番組があった。結局それは全く鳴かず飛ばずであったはずで、いくら大家とはいえ、流行に添い続けることの困難さが改めて浮き彫りにされた。その番組をよく覚えていたため、先日の死去のニュースにはあまり驚かなかった。残酷なようだが、時代はもう阿久悠を必要としなくなっていた。阿久悠のヒットの数々だが、筆者は日本の歌謡曲をほとんど聴いて来なかったので、どのヒット曲もよく覚えてはいても、レコードまで買って聴こうとは思わなかった。大ヒットした曲と、個人が思い出として持っている曲とは違うのだ。話は変わって、今朝は蝉の大合唱で目覚め、夏はいいなと思った。大阪で生まれ育った筆者は、蝉の声を聴くには生駒山に行くか母親の里の京都に行くかしかなかった。そのため、蝉は自然と夏休みの記憶と結びついている。自由業の筆者は毎日が休みみたいなものであるので夏休みの感覚もないが、朝の蝉の声にはふと遠い昔の夏休みを思い出す。で、連想したのは、舟木一夫の「夏子の季節」という曲だ。大ヒットというほどでもないが、当時ラジオで何度か聴いた。「♪夏、夏、夏、夏、夏子ー、♪夏、夏、夏、夏、夏子ー」という変わった出だしが好きで、よく歌っていたものだ。今でも時として蘇る。その曲が印象深かったのは、筆者の向かい側の家に同じ名前の女の子がいたからでもある。同じ年齢で同じクラスにもなったことがあるが、ほとんど話したことはないし、異性として意識もしなかった。彼女の一家はその後近郊に引越したが、その後何年かして筆者らも同じ市に引越しをした。それからまた20年近くも経って、母が家の最寄り駅付近を歩いている時、その夏っちゃんに声をかけられ、母は自分の家まで連れて来てお茶を飲んだのだそうだ。夏っちゃんとは20数年ぶりであったが、夏っちゃんは母を覚えていたのだ。またそれっきり会わないで、去年母は京都に越して来たが、夏、夏子、舟木一夫の曲というように筆者の頭の中には連鎖がある。便利なもので、今、ネット・オークションで調べると、舟木の同曲のドーナツ盤が出品されていて、ジャケットも初めて見ることが出来た。1967年の発売であるから、ちょうど40年前のことだ。海辺の砂浜で幼い男女の子どもに話しかけるその舟木のカラー写真は、40年前の日本の風景を背景に写し込むが、今も同じ砂浜はあるのだろうか。この40年ですっかり変わった日本であるから、同じ場所に行ってもわからないだろう。1967年はビートルズの『サージェント・ペッパー』が発売された年で、その夏、つまりジョン・レノンがリード・ヴォーカルを担当する「愛こそはすべて」が収録された頃にラジオで何度か聴いた「夏子の季節」を、こうして夏の季節に思い出して書くのもなかなか面白い。舟木一夫は今もあまり老けた様子を見せることもなくやっているが、「夏子の季節」をTVで歌っているのを見たことがない。まさか阿久悠の作詞ではないだろう。
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●2002年4月22日(月)深夜 その2
友人のアストロはまるで暴走族用に車内がしつらえられ、強力ウーファのステレオや派手に光る水入り柱が3本、それに助手席はマッサージ器つきで、車の後ろ半分は豹柄のベッドだ。甥の趣味とは全く違うらしいが、それでもこんな派手な車の中はそれなりに面白い。車はかなりガタが来ていて、ハンドル奥のスピード・メーター部は全く光らず、シャーシのサスペンションが壊れていてよく揺れる。それにバックがほとんどできないというシロモノ。また普段右ハンドルの車を運転し慣れている甥にすれば車高は高く、左ハンドルは恐いなどと恐いことを言う。それでもどうにかまたおばさんの家にやって来ると、車の幅があり過ぎて、狭い道をカーヴしきれない。そこで50メートルほど歩いて運ぶことにした。今度はうまく入ると思っていると、車内をディスコのように照らす水入りのプラスティック柱が後ろの両側に立っているためまた入らない。雨の中、すったもんだしてようやくそれを外し、そしてぎりぎり本棚は入った。そのようにしてやっと嵐山に向かうことができた。以上のような運搬時の難儀によって肩が凝った。というより本来肩が凝らないたちなので、その分の疲れが虫歯を直した箇所に来たようだ。それにしても甥はいい友人を持っているし、またいくら叔父の頼みとはいえ機転が利いてしかも優しい。万事うまく行って、ついに無料の本棚を無料で運んだが、妻は何かお礼とばかりに、最近もらった5キロ入りの米袋をわたした。カレーライスにせずとも少しは役立つか。米など安いもんで、アストロのひどく食うガソリン代程度にしかならないかもしれない。それで伏見人形を見ながら喋っていると、パチンコの終わった友人から電話で、嵐山からは南へ一直線、3キロほどの場所で待ち合わせすることが決まり、また雨の中を車はバリバリバリバリと爆音を鳴らしながら走って行った。そして今日は6時間かけてひとりで部屋の模様替えをした。まずもらった本棚を徹底的に雑巾がけし、机やレコード棚、伏見人形や本、TVや大きな版画の額、ありとあらゆるものを動かして、汗をいっぱいかいた。外は驚くほどの好天気で暑く、昨日の雨が嘘のようだ。どうせ本棚はそのままであろうと思っていた妻は、仕事から帰宅して驚嘆の声を上げていた。「ひとりでよくここまで整理したね。自分の本や人形だから仕方ないけれど」。同感。ただしずぼらしたために別の本棚の上に仮置きしていた伏見人形の小さな赤物がひとつ床の上に落ちて粉々になってしまった。180センチの上から真っ逆さまであるので、その人形がもし人間だとすれば40メートルほどの高さから落ちたことになる。死んで当然だ。その赤物は安定が悪く、先日底を砥石で擦ってなるべく平らにしたばかりであったのに、それでも揺れには不安定であった。比較的安く買ったものだが、1万円ぐらいは普通している。明治末期の安物の伏見人形だが、ファンが多いのか、大きなものよりむしろ高い。どことなく悲しそうな表情をした立ち姿のキモノを着た童で、無料の本棚の身代わりになったのだろか。どこかでケチるとどこかで損をする寸法になっていて、世の中は万事辻つまが合っている。しかし、今日の重労働でまた明日は歯がもっと痛む気がする。夕方にはボロテン(ボロ自転車)で古本屋へ。4冊買って来てまた本棚に収めた。次の本棚はいつ手に入れようか。もう壁面はないぞ。
「ないぞ」の「ぞ」で韻を踏んで、象のことを続けて書こうか。きりがいいので止めてしまうのがいいが、明日になれば明日の風が吹くので忘れてしまう。思い立った時にやっておかなくては後で苦労する。「A Stichi in Time Saves Nine」だ。さて、夕方古本屋に向かってボロッジャ(ボロ自転車)で走っている時、急にTVで観た坂本龍一の発言が思い返された。象にヒントを得たらしく、次はそれをテーマにし作曲するとか話し、続いて「女の大統領が誕生しなくちゃ……」といったことを笑顔で語っていた。女が大統領になると世の中の争いがもっと減るだろうという思いからのようであったが、さてどうだろう。もっと残酷なことが行なわれる世の中にならないとも限らない。女の敵は女であるとよく言われるし、残酷なのは男よりむしろ女だという意見もある。男が世の中を引っ張っている今の人間社会はそれなりに深い意味があるからだろう。それを不快と感ずる人もあるのは認めるが、女に任せたところで世の中が好転すると考えるのは早合点が過ぎると思う。男と女しかいないのであるから、そういう発想がわからぬでもないが、そもそも女が男をリードして政治をすることを好むだろうか。そうとも言えるし、そうでないとも言えるだろう。それはさておき象に感激したという坂本龍一の気持ちは何となく理解できる。というのは前にも書いたが、TVで子象の歩き回っている姿を見るだけで、何だか胸がジーンとして来るからだ。象はよい。倉敷の外国の民芸品店で木彫りの象を3体買ったことも以前に書いたが、先月広島に行った帰りに倉敷にも少し寄った。前に行った時に気がついていたが、興味がなかったので入らずじまいであった日本郷土玩具館に入った。500円の入場料。昭和30年代にオープンしたもので、蔵を改造した建物だ。各県毎に玩具を分けて展示してあるコーナーが中心を占めているが、伏見人形はあちこち点在している。2階は外国の玩具でこれも面白かった。70近い主は筆者がいろいろと詳しいので、これは話のわかる客が来たとばかりに親切にいろいろと話かけてくれた。入口の近くには日本各地の郷土玩具を仕入れて売っていて、伏見人形もいくつかあったが、京都で売られているものとは種類が違って、独自に注文して送ってもらっているのだろう。以前から「有卦の富士」がほしいと思っていたが、それの高さ15センチほどのものが売られていることに驚いた。5000円という。買ってもよかったが、骨董市で入手できるのを待つつもりで見送った。三春の張り子がいくつもあって、先月パルスプラザの骨董市で見かけたのに買わなかった踊り娘もあった。ただしキモノの色が随分と派手で色合いが好みではない。3000円というからあまり高価なものではないことがわかった。ただしいかにも軽い張り子ひとつに3000円出すというのは、よほど価値のわかった人かもしれない。そんなものより何かおいしい食べ物を買う方がよいと考える人の方がはるかに多いだろう。もっと書きたいが疲れが増して来た像。今日はここまでだ象。