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●『私の名前はキム・サムスン』
聴率が最大で50パーセントを超えたこの「私の名前はキム・サムスン」という、記憶に残りやすいタイトルの韓国ドラマについては、以前からよく知っていた。2005年5月からの放送で、日本では秋にはもう大評判になった。



ひょんなことから先日全16話を見る機会であった。妹がKNTVで2年前に録画していたものを従姉が借りていた。「見終わったので返してほしい」と預かり、手元に置いていたが、1話を何の気になしに見たところ、そのままずるずると数日かけて見てしまった。韓国ドラマはよくベタな内容と展開だと言われるが、一旦見始めるとそのまま最後まで見てしまうことが多い。このドラマは特にそうと言ってよい。視聴率が5割を超えるというのは、放送局が3つしかない韓国特有の出来事とはいえ、やはりただならない内容であるからだ。実際、このドラマは今までの韓国ドラマの常識をいくつかの点で覆し、すぐ後に似た作品がいくつも作られた。二番煎じ、柳の下の二匹目のどじょうを狙うのはどこの国でも同じだが、最初のヒットを乗り越えることはない。このドラマの魅力は、見ている間も抜群に面白いが、2、3回見ることによって、改めてその巧みな構成に驚くという点にある。最初の1回ではおそらく誰も周到に仕組まれたセリフのつながりは理解出来ない。脚本がよく練られているわけだ。それは大なり小なりどんなドラマでも言えるが、最初から16話というミニ・ドラマとして撮影に臨んだことが、破綻箇所をより最小限度に押さえることにつながった。確かにこのドラマも粗を探せば切りがない。韓国ドラマにはそうした「突っ込み」の出来る部分が非常に多く、そのB級の感じがまた変な意味での面白味になっている。そのため、数十億円もかけて撮った豪華な映画と比較することがそもそも間違いで、そんな完成度の高いものを求めたい人は最初から見る必要はない。TVは日々の消耗であるから、放送ごとに見てそれで次を楽しむという見方が一番ふさわしい。このドラマの高視聴率も、そういうことを見込んで筋立てが構成されていたからだ。とすれば、2、3回見てようやく意味がわかるでは、本当は成功しているとは言い難いのだが、韓国ドラマはここ数年、日本を含めて海外で人気が出て、DVD化によって潤うという構図が出来た。そのため、最初から何度か繰り返し見ることを前提に脚本が書かれ、また撮影もされる。つまり、昔のTVドラマとは違って、その面では映画に近づいている。また、2時間までの映画とは違い、最低でも16時間、場合によっては24時間やその倍という長さのため、また、一話ずつ必ず山場を設けて、次を見たいと思わせる筋立てにする必要があるので、映画とは別の構成や撮影、演技力が求められる。しかも、それらが毎週2回の放送に合わせて、ほとんど不眠不休で続くから、粗が出るのは仕方がない。
 このドラマの内容はそのタイトルが意味しているように、名前にまつわる珍事が中心になっている。サムスンは「三順」で、日本で言えば三女の「三子」だ。「順」はかつて韓国の女性に多くつけられた日本の「子」に相当する。また、儒教社会において女の子が3人続けて生まれるとはどういう意味か、それを知ればこのドラマの半分くらいはもう理解出来る。主人公のサムスンは、今は亡き祖父によって命名された。つまり孫として女が3人生まれたので、もうどうでもよくなって適当に「三順」としたわけだ。ここにこの主人公の不幸なトラウマがある。日本でもそうだが、韓国でも時代とともに子どもの人気の名前は変わる。主人公のサムスンは数えで30歳になっているが、サムスンではなく、ヒジンという名前であってほしく、自分ではそう名乗っている。だが、このヒジンも最新の名前ではないことはドラマからよくわかる。小学生に上がるひとりの女子が登場するが、名前はミジュだ。そうした名前はもはや漢字は宛てられない。ドラマの中でサムスンは役所に改名届けを出す。その時、どういう漢字にするかで迷い、結局「熈珍」と書き直す場面がある。また、サムスンが就職するレストランでは、サムスンより2歳年下のホール担当の女性キャプテンがいて、彼女も自分の名前を嫌っている。何とかヨンジャといい、サムスンがヒジンと名乗りたいと思っている程度に新しい時代の名前だ。だが、レストランの上役からは、ヨンジャはそんなにいい名前ではなく、むしろサムスンに倣ってヨムスンにすればどうかなどとからかわれる。ともかく、サムスンは母子家庭、太り気味、顔もごく普通、高卒という身分、しかも3年つき合った男には振られたばかりで、結婚したいにもかかわらず、恋愛もままならない境遇にあるが、それもこれもみなサムスンという古い名前が原因だと思っている。3人姉妹のうち、長女のことについては全くドラマでは触れられないが、次女はアメリカ人と結婚したものの、夫の浮気が原因で、離婚したばかりという設定だ。韓国ドラマ特有の美人を主人公にしない点でこのドラマは画期的だが、それは監督が現実的なものを描きたかったからだ。だが、現実は得てして辛いものであり、それをそのまま描いても人々が喜んで見るドラマにはならない。そのため、監督は喜劇の要素を導入する。だが、その喜劇部分は必ずしも成功しているとは言えない。かなり下品な描写が随所にあり、その点を気にする人はこのドラマをさほど評価しないであろう。だが、全体にはそれを凌駕する迫力がある。それは主役のサムスンを演じたキム・ソナという女優に負うもので、彼女は役作りのために、2か月かかって7キロほど体重を増やした。しかも撮影中は毎日睡眠1時間で、点滴を打ったりしながらのハードさであったという。その全力投球がなければこのドラマはここまで感動的にはならなかった。そのため、このドラマの面白さの大半はこのキム・ソナの演技を見ることにある。
 キム・ソナは小、中学校を父親の仕事のつごうで東京で過ごした。そのため日本語は堪能だ。その後アメリカに移住し、音大のピアノ科に入ったから、その腕前もそこそこある。その技術の披露はこのドラマでもちゃんと用意されている。確かにリズム感がよく、ドラマでは3度ほど登場するダンス・シーンでそれは見事に発揮される。あの体の動かし方は、本当はダンスが上手でなければ出来ないリズムのずらしで、そのシーンを見るだけでも、この女優の稀な素質がよくわかる。実際の彼女は父親をすでに亡くしたが、それはこのドラマにおける、サムスンの父が何度か亡霊として登場し、サムスンと現実的な会話をする場面の演技に役立った。つまり、監督は最初からあらゆる点を考えてキム・ソナが最もこのドラマにはふさわしいと考えた。それだけサムスンとキム・ソナが現実的にだぶるところがあって、ドラマがより迫真的なものになる理由がそこにある。楽しいドラマが、それを見る者に、ドラマの世界があたかも現実に存在しているかのように思わせることはよくある。このドラマのように、現在のソウルの街のあちこちが映し出される場合はなおさらだ。そのためドラマを見た人は、すぐに同じ場所に行ってみたいと思う。ドラマは幻想だが、その幻想の場所が実在するというのは、何とも罪なことで、正直な話、筆者もこのドラマを見て、すぐにソウルの街を歩いてみいたとしきりに思った。また、ネットを調べるとわかるが、ドラマを見て多くの女性が、撮影に使ったレストランやホテルを訪れ、ドラマと同じ角度で写真を撮っている。当然すぐに改装されたり、なくなったりしている場所もあるが、そうなっていなくても、ドラマは仮想の世界であるから、現地に立ってみると喪失感を覚えるだろう。にもかかわらずそこに立ってみたいと思うファン心理が急増するほどに、このドラマには魅力があった。それは韓国ドラマのひとつの大きな戦略かもしれない。観光に来てもらうとして、ただ歴史的名所を高踏的に宣伝しても、来る人は限られる。だが、人々の胸に深く入り込むドラマを使えば、何度も観光客はリピートで訪れる。実際韓国ドラマに魅せられた人は、何度となく訪れる羽目になる。その気持ちは筆者にはよくわかる。日本もたとえば寅さんのシリーズなどがそういう目的もあって各県の名所を舞台に作られた。だが、韓国ドラマはもっと卑近な場所を専門に使う。日本とは事情が違うであろうが、どのようにして許可を得て撮影したかと思わせられる場面ははなはだ多く、それだけ国家として観光資源になることを見込んで協力を惜しんでいないのであろう。そしてそれは見事に成功している。
 だが、今までの韓国ドラマと全く違えばまた成功はあり得なかったから、当然韓国ドラマ的な筋立ては用意されている。恋愛や結婚に縁遠いサムスンは、レストランに就職して、そこの年下の若社長シンホンといい仲になるが、それは韓国ドラマお決まりのシンデレラ・ストーリーだ。そして案の定、その社長には古い恋人がいて、事情があって別れていたのがまた復活する。そしてその恋人を密かに慕う男や、サムスンをかつて振った男も登場し、しかも姉の恋愛も絡んで、毎回ドタバタが繰り広げられる。それにとどまらず面白いのは、サムスンとシンホンの両方の母親の対立だ。ここには身分の差ゆえの問題が顔を覗かせる。またドラマをより現実的なものにしているのは、シンホンに暗い悲惨な過去がある点で、そうしたことはドラマの進展とともに徐々にわかって来る仕組みになっている。高卒のサムスンは、それだけでも世間では肩身が狭いのだが、自分でお金を貯めて3年間をフランスでお菓子作りを学んだ経験のあるしっかり者で、それが韓国の古い儒教観とは相いれない様相を示すことで、このドラマの現実性がより浮き彫りになり、しかも大人気を得た理由となっている。それは巧みに仕組まれたセリフにも見える。サムスンは、フランスの代表的な菓子のマドレーヌについて、アメリカから来たある男に説明する。フランス語や身ぶり手ぶり混じりで話し、面白く見事な演技だが、その中でサムスンはプルーストの「失われた時を求めて」を取り上げてマドレーヌを説明する。その有名な長編小説にマドレーヌが登場し、プルーストが大きな意味を与えたのは、マドレーヌを知る人にとっては常識的な話だが、サムスンは正直に、その小説があまりに難しくてすぐに投げ出したことと、しかもその小説のタイトルに引っかけて、シンホンとその古い恋人は今、お互いに失われた時を求め合っているのねと呟くシーンがある。脚本が実にうまく出来ているのはそういう部分だ。日本のドラマではまずそういう文学的な引用をドラマの人物の行動にうまく引っかけることはないだろう。高卒のサムスンでもそれだけの文学的常識を持ち合わせているという前提でこのドラマは出来ていて、その点を知れば多少下品な行動があってもみな許せる。プルーストの名前も知らないでは、有名レストランやホテルのパティシエにはなれないであろうし、またなる資格もない。小説としてはもうひとつミヒャエル・エンデの『モモ』が登場し、こちらはもっと重要な役割が与えられる。だが、このドラマの現実的な部分は、エンデのドラマ観とは全く相いれない。エンデはドラマ(劇)に、現実を持ち込むことを拒否していた。ドラマはあくまでも空想を通じて普遍的な何かを伝えるものであって、現実につながる要素を多く盛れば盛るほど、そこからすぐに風化すると考えていた。このドラマは喜劇であり、また妄想の場面が多いので、その点ではファンタジーの色合いが濃いが、実在する場所でロケを続けた点において、きわめて現実とドラマの境が曖昧になっている。それだからこそ、このドラマの舞台になったあちこちを巡礼する人々が絶えないのだが、底に流れるのは現実感の表現で、それがあることによって大人気を得た。『モモ』の引用はあまり成功しているとは言えない。サムスンがシンホンの小さな姪にその話をするところから、後になってこの本が登場するのだが、『モモ』でなくても筋は成り立った。
 もうひとつ気づかされるのは、音楽の使用だ。シンホンとサムスンの母親が対決する場面では、ストーンズの「黒くぬれ」のイントロが鳴ったりする。そのように、過去のポップスの数々の引用もさることながら、ヘッセの詩に韓国の作曲家がメロディをつけたなかなかいい曲も実にうまい具合に二度、しかも別の演奏によって使用されるなど、監督の用意周到な構成感覚に唸る。シンホンはサムスンから、サムシギという古い名前だったらどうするかと問われ、結局ドラマの中ではずっとサムシギという名前で呼ばれるようになるが、このサムシギという呼びかけから始まる、パンソリと演歌を足して二で割ったような音楽が、サムシギがサムスンが忘れて帰ったブタのぬいぐるみを捨てようとする場面で流れる。その曲は車で移動する果物屋がカセットを流していたものだ。サムシギは自分の名前が声高に呼ばれたことに驚いて、その音の鳴る方向に歩み、そのラジカセの前に至るのだが、面白いのは、その場面は物語としてはよけいな、つまりカットされても全く筋立てには影響がない部分なのだ。だが、そういう無駄な場面があえて投入されているところに、なおさらこのドラマの秀逸さがよく滲み出ている。そうした場面は、小説ではむしろ必須で、そのことを監督はよく知ってあえて挿入したのだ。また、その音楽そのものに筆者は驚いた。このドラマのサンウドトラックCDは3種出ているが、そのどれにも同曲は収録されていない。道ばたで安価で売られるバッタものの音楽カセットに過ぎないのであろうが、その音は音楽好きには忘れられない味わいがある。パンソリ・ロックと名づけたいが、日本ではまず考えられない音階で、雰囲気は60年代のジェファーソン・エアプレインが演奏する「あなただけを」に少し似ていて、しかも明らかに民族的な旋法で、図太いヴォーカルとギターが響く。だが、今や韓国でもそういう音楽を聴く若い人は稀であろう。監督がどう思ってこの音楽を挿入したのかと思うが、アメリカナイズされた韓国の現代社会でも、まだ厳然と古い儒教文化が流れていることを暗示させたかったのかもしれない。このドラマで気づかされるのは、親や年配者が、それだけで若者から一目置かれる存在であることだ。かつては日本でもそうであったが、今は完全に崩壊した。他人であっても1歳でも年上であれば言葉使いが違うという韓国を知るには、このドラマは最適だ。日本ではWOWOWが韓国ドラマとしては最高額で落札して放送権を得たが、そのために地上波では見られない。筆者が今までに見たドラマでは3本の指に入るが、このドラマのふんだんにあると言われるパロディ場面のほとんどは筆者にはわからないため、まだ半分しか楽しんでいないのだろう。それを思うと、このドラマがいかに計算されているかが改めてわかる。しかもそのうえにキム・ソナのアドリブを交えた名演技があって一時代を画する名作となった。そうそう、最初の方にソウルの南山公園のロープウェイの中で撮影された場面がある。そういう何でもないような部分が、とても美しく印象に残る。そんなわずか5分ほどの場面でも、2日費やし、50回ほど乗車して撮影したという。決して粗悪に作っているのではないのだ。あまりの反響に第2作待望の声が高かったが、それをしないところが夢が温存されてよい。つまり、今ソウルのどこかでキム・サムスンが本当にケーキ作りして毎日泣いたり笑ったりしていることがなおさら真実らしく想像出来る。そして、その様子を思い浮かべれば、自分もまた頑張ろうという気になれる。「人生こんなもん」ではなく、「少しは輝きたい」と言うサムスンの言葉に同意出来る人ならば、このドラマは多くの勇気を与えてくれるだろう。
by uuuzen | 2007-07-28 12:53 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画


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