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●旬の春野菜
のものも今はなかなか少なくなったが、毎日こう雨がよく降ると、雨後のタケノコではないが、またウーム、バリバリバリバリとばかりに地表を破って、のこのこと成長するのではないだろうか。



いやいや、それを言うのならキノコがのこのこか。キノコも好きだが、春はタケノコ、フキノトウ、その後はホタルイカや新生姜、オタフクマメ、そして今は京都では万願寺唐がらしが盛んに出回っていて嬉しい。一昨日ちょっと遠方のスーパーに行った時は、冬瓜がたくさん並んでいた。少々意外であったが、名とは違って今頃が旬なのか、あるいはハウスもので季節は関係ないのか、旬物も眉つばものがあるのかと思った。この2週間で万願寺唐がらしを100本は食べたと思う。ただ焼いて酢醤油をかけて食べるだけなのに、なぜこんなにうまいのかなと飽きない。それも安いからで、手が出なければ食べない。高いものがうまいとは限らないから、貧乏人にもまだ救いがある。物は考えようだ。栄養価の高いものばかり食べていると、病気になって早死にしかねない。まぐろのトロは昔は捨てていたもので、それが一旦高価なものということになると、みんな幻想に取りつかれるようにしてうまいうまいと言う。筆者ならおいしいイカの方を喜んで食べたい。それが貧乏人の口でもけっこう。好きなものは好きで、おいしいと思えるものは思える。旬で思い出したが、先頃山椒の実を少し買って来て自分で炊いた。ネットで炊き方を調べたが、醤油の量を間違って、うす口と濃い口を全体で倍ほど入れてしまった。そのため炊き上がったものはとんでもなく黒くて塩辛い。数粒を食事の最後に摘む程度だが、その調子では全部なくなるのは5年くらいかかるか。それでも塩のために腐らないと思う。その山椒の味の痺れ具合がとても好きで、世の中に同じ効果を持つ食べ物がないのがとても不思議だ。つまり、山椒は唯一無二の味覚をしている。生姜とも唐がらしとも全く違う孤高のビリビリ感だ。そのビリビリした電気味が楽しみで、醤油辛いのを我慢して口に含む。別に栄養とてないはずだが、ビリビリが鈍りかけの頭を治癒してくれる気がする。その山椒の葉っぱはよくタケノコと一緒に炊くが、筆者はタケノコが大好物で、毎年春が楽しみだが、今年は思うほど食べなかった。それが今も心残りだ。それでもそうこうしている間にまたタケノコがのこのこっと地面から生え出て来る。それを想像するだけで楽しい。その新タケノコにも独特にほんのりしたえぐ味がある。それを抽出凝縮し、山椒のビリビリ・エキスと混ぜればどんな摩訶不思議な味になるかなと今考えた。そんなにビリビリが好物ならば、しまいに感電するのが楽しみになったりして。だが、小さい頃にどういうわけか電気のビリビリを2、3度味わったことがある。あれは背筋がぞくっとして吐き気を催すような気味悪さがあった。電気椅子であの世に行くのはきっと気分が悪いと思う。ウーム、バリバリバリバリ、タケノコ食べたい!


●2002年4月15日(月)午後3時
●旬の春野菜_d0053294_946259.jpg午後3時。今日はもう少し書くことにする。ついさっき石原さんよりファクスが3枚届いた。2枚は読者カード。そのうちの1枚は23歳の男性K氏。「非常に高度な音楽評論。ザッパは神のように尊敬しているが、大山甲日氏に対する敬意も一層強くなった。音楽評論家は自分の存在そのものを恥ずべし」とある。おとといの『ゲラーズ』におけるU氏の意見と同様、ここでの無断引用はまずいかもしれないが、「著者に伝えていただければと思います」と断りがある好意的な内容なので、大目に見ていただけるだろう。とにかく素直に嬉しいと思える感想だ。そうなのだ。表現者ザッパの並み外れた努力と才能を感じるからこそ、それを他者に伝えたいと思う。たったそれだけのことだ。『レコード・コレクターズ』の書評では「自己顕示」という言葉があって、石原さんのファクスにはそれが疑問と書いてあった。評者は言葉が一般に与える意味をよく考えていないか、あるいはその逆に用意周到に選んで、一見褒めているように見せかけて結局は読者に「つまらない本」と伝えたいのかもしれない。そう思わせるほどに自己顕示がそこに見え隠れしている。自己顕示とは自己を明らかにすることであるので、平たく言えば「個性の発露」でもある。その意味では評者がこの言葉を使っているならば正しい。個性化が叫ばれる日本の昨今、最も重要なことはこの個性だ。標準化があまりに進み過ぎて、みな個性をなくし、一方でそれを主張するものは仲間外れにされる。これはある意味ではアメリカでも同じで、であるからこそザッパは「フリーク・アウト」と言ったのだ。それは個性化そのものだろう。金髪茶髪が流行すると猫までがそうする日本では、相変わらず「フリーク・アウト」の意味がわからないのが多過ぎる。であるからこその賛蒙主義の『大論2』で、これは先日も書いた。もちろん賛蒙とは反語だ。また評論はいろんな人が読むので、努めて標準化、つまり没個性的であるべきと唱える人もあろう。『コレクターズ』の評者はそういう立場かもしれない。しかしこれに対しても一言したい。そんな標準化で書かれたロック評論が今まであったのならばどうか教えてほしい。標準ではなく、そこにはあまりにも偏りがある。いや偏りしかない。そして偏った者が自分を標準と叫ぶのはどの時代でも見受けられる。ましてや有名雑誌の看板を掲げていればなおさらだ。そこには権威となった党派的威力を誇示する妙な自負が漂っている。しかし彼らからすればザッパ・ファンもまた党派に見えるのだろうが、もしそれがあるとしても、それはいわば個人主義を標榜する個人の党派だ。どちらが否定的な意味での自己顕示の言葉がふさわしい存在だろうか。
 ロックの有名評論家といった連中がどんな知識と文章の技術によって個性化を成し遂げているというのだろう。そこから感じられるのは有名雑誌お抱えという「自己検事」意識であり、面白くも何ともなく、こっちの面は白けてしまう。かつてあるザッパ・ファンがこんなことを言ったことがある。「有名人がザッパを好きだと発言してくれると、日本のザッパ人気ももっと高まるのだが……」。これは一見正しいようだが、誰もが知る有名人がザッパを大好きになり得るかと考えるのはあまり現実的ではない。そんな洒落た人がいるとは思えないからだ。また有名人がザッパを好きだと言ったところで、その人の有名度が増すわけでもないから、まずそんなことは口にしない。ビートルズ人気がまだあまりなかった頃、日本のそこそこの著名人はビートルズをけなすか、意識もしないことが多かった。ところが今や同じ人物が自分こそはビートルズの大ファンだとあちこちで発言してメシのタネにしている。有名ロック評論家にもそんなのがいる。また、先のザッパ・ファンの発言から拡大解釈したいのは、ザッパ・ファン自身が有名になればよいということだ。これは「俺が俺が」の自己顕示につながり得るが、ザッパが「フリーク・アウト」の言葉で言ったのはそういうことのはずだ。つまり誰しも個性的な仕事を成すべきで、それが本当に個性的で立派な価値があれば、おそらく他の人はそれに気づき評価する。『大論』を書くに当たっての筆者の思いはそういうところにある。それは自己顕示かも知れない。そして有名になりたがっていると謗られることもあろう。しかしそこには従来の評論にはないと考えるものを書くという自負を忘れてはいないつもりだ。それでもなお駄目と言いたければ、その人が思うザッパ論を提出すればよい。それこそが「フリーク・アウト」の精神だ。そして自己顕示が目立つ『大論』で、つまりザッパをだしに有名になろうとしてけしからんという意見があるならば、こう答えたい。『大論』を書かなくても本職で充分自己顕示しております。そして『本当の物語』の最初の方に書いたように『大論』の著述がどれほど儲かることから縁遠いか想像できないならば、それはよほどの頭が鈍い。また『大論』が自己顕示であっても、金儲けのうまいプロ評論家の自己顕示に比べれば可愛いいもんだ。それにザッパや『大論』など、無視するか適当に褒めればそれで終わりなんだから。ま、あまり目くじら立てることでもないか。反響がなければ本を書いた意味もない。反論でもないより増しかもしれない。それに、何と言われようと黙って自己剣時の実行堅持で好きなようにやってやる! ウーム、バリバリバリバリ、タケノコ食べたい!


by uuuzen | 2007-07-13 09:46 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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