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●したたかなザッパ
彙の少なさに才能のなさを思うこの頃だ。自分の文章の言い回しや構文を分析すると、ほんの少ししかなく、それらを繰り返し使用しているに違いないことをよく思う。



時々他人の文章の中に、自分では決して思いつかない言葉を発見すると、それを覚えていていつか自分の文章に使ってやろうと思ったりするが、これがなかなかそうは行かない。もうそんな学習能力のある年齢ではなく、また照れもあるからだが、思い切って一度使っても、それが自分のものと思えるようになるまで何年もかかる。だが、文章は使う言葉や言い回しだけで性質が決まることはないから、別に気にすることもないのだが、文章も表現と思えば、その表現ということをどれほど自覚しているかそうでないかで、伝わる内容が全然違って来るから、やはりないがしろには出来ない。これは作曲でも絵画でも同じだ。物づくりする人は必ずその表現方法にどれだけの手口を持っているかを常に自覚せねばならない。そのため若い頃は毎日どんどん表現し続けつつ、絶えず先人の作品を分析したり模倣したりするのだが、その過程で少しずつ自分独自のものを見つける場合と、未熟な段階に留まっているにもかかわらず、それを厚顔から自分の独創と思い込む場合があって、そこに天才と三、四流どころの差が出る。一方で、プリミティヴな表現として、そうした先人の作を全く学ぶこともなく、それなりに独創的な作品を生む人もある。だが、そういう才能は現代ではすぐに消耗されてしまう気がする。もともと表現のための手口がごく少ないし、それを磨いて高めるには何らかの先人の作を学ぶ必要が出て来るが、そうしたことを今までにやっていなかったため、事は簡単に運ばないからだ。そのプリミティヴさが、当人の本当の人柄のよさに裏打ちされてはいても、そういう人柄のよさという、売りになる要素もまた簡単に手垢にまみれてしまう。そしてしたたかさを持つと、そのプリミティヴさ、人柄のよさという本来の価値が一気にいやらしいものに変化する。そういう才能はいつの時代でも目につく。そのため、最初からしたたかを売りにして登場する方がまだよい。ザッパはまさにそういう音楽家であった。ま、それはさておき、こんなヘボ文章でも毎日欠かさず書かねば頭も鈍るし、最初から少ない語彙がますます減ってヘボ度が増すので、今日のように何も書くことが思い浮かばない場合でも、どうにか頭を絞ってこうして書く。感じていることと確信することは違う。確信することとそれを口に出すことはもっと違うし、さらにはそれを文章に書くにはもっと別な才能がいる。表現作とは、そのようにいくつもの段階を経て形を取る。だが、他人それをはごく簡単に感じることでだいたいはおしまいだ。万にひとり程度は、感じることからさらに先に進んで独創的な自作品を創造するのだが、作品が目にとまって感じてくれる場合はまだまだ幸福だ。それすらも恵まれないのが現実だ。

●2002年4月11日(木)夕
●したたかなザッパ_d0053294_1018264.jpg「ホボーケン」はHobokenで「ホーボーケン」と発音すると、数日前アメリカのOさんが手紙で教えてくれた。同時多発テロ時、無事を国際電話で知らせてくれたあのOさんだ。スペリングが気になっていたが、シナトラに関する本そのままの表記を引用した。なおHさんは42ページ上段の前から10行目の「ヘンドリックス」を他の表記に合わせて「ヘンドリクス」にすべきと書いてくれたが、この箇所は他の人が書いた本のタイトルの表記であり、それを勝手に筆者が採用している「ヘンドリクス」に統一するのはまずい。なお今は「ジミ・ヘンドリックス」というように「ッ」入りが常識化しているが、『大論』では一字でも節約しようと、その「ッ」を省略した。それを見るたびに「ッ!」とつまづく人もあるだろう。「ランピィ・グレイヴィ」にしてもビデオアーツが発売しているCDでは「ランピー・グレイヴィ」となっているが、語尾が「py」と「vy」で脚韻が揃っているのであるから、「ー」と「ィ」では何だか収まりが悪い。やはり「ランピィ・グレイヴィ」とするのがよりいいかと思う。また、たとえば「アニメーション」は当初「アニメイション」にしていたが、石原さんの考えにしたがって「アニメーション」にし、それを基準にして同じように「イション」を語尾に含む単語はすべて「ーション」にすることにした。さらに、「of」は本当は「オヴ」がいいが、これは「オブ」としている。それは当初「ヴォランティア」としていたものを「ボランティア」に日本語の慣用に倣って改めたことと同じであって、必ずしも原音の片仮名表記統にはこだわっていない。このように片仮名表記はなかなか一筋縄では行かない面倒なことがあるのだが、一方では慣用を踏襲しつつ、片方では独自の解釈で変更している。賛否があるはずだが、旧来のものを新たに吟味して、なるべく字数がより少なくて済むことを念頭に置いている。
 日記と言いながら、毎日の出来事を書くというより過去の記憶を書き留めることばかりしているが、『大論2』が発売されて書評もほぼ出揃った感じで、もう本作りの慌ただしさがないこともあってやや仕方なきことが理由でもある。今月の3日だったか、久ぶりに石原さんから電話があった。『大論2』の売れ行きと書評に関する話であった。東京のディスク・ユニオンでは『大論』の時と同じように、『大論2』をまとめ置きしてもらったが、その売れ行きは『大論』よりかは劣ったとのことであった。原因としては不況と、それに続編は必ず最初のものより売れ行きが落ちるという原則が考えられる。不況に関しては失業率の低下がニュースで繰り返され続け、どこまで落ち込むのかもう手のつけようがない感じがするほどだが、昨日の夕刊では2ヵ月ぶりに景気が上向いているという見出しが第1面を飾っていた。とはいえ不況プラス携帯電話料金で出費の嵩む若者にすれば、文字だらけでとんでもなくぶ厚く重い『大論2』は、今時珍しいはずの活字中毒者でない限り、買って読む気は起こしにくい。石原さんが期待したある音楽雑誌の書評はついに採り上げられることがなさそうだが、担当者が読むのを躊躇したか、あるいは読んでつまらなく感じたのだろうか。たくさんの書評が出てくれればいいのは確かでも、どれも内容が似て、あまり読んだ形跡が認められないのであれば白けてしまう。実際そんな意見を書いたファンからの手紙が筆者に届いている。したがってもし来月号かその後も石原さんが期待した音楽雑誌に書評が出ないとなれば(その可能性は半々と思うが)、ファンはそれだけその雑誌に対して穿った見方をいろいろとすることにもなるだろう。書評を書く人の読む速度や読解能力の問題もあるし、あるいは偏見や先入観がはなはだしい場合もあるだろうから、有名音楽雑誌に書評が載らなかったからといって落胆はない。精いっぱい書いたつもりであり、後の書評は他の人の仕事、こちらの関知するところではない。ただし工作舎としては販売にかなり関わることであるので、書評が多いに越したことはないし、それを考えると何だか申し訳ない気分にもなりはする。また、全くザッパを知らない初心者が読むにはハード過ぎると考える評者もあるかもしれず、初心者向けのライン引きをいったい誰ができるというのか皆目わからない。仮に思いっきり簡単に初心者向けに書くとしても、今度はおそらく「ザッパをだしにして誰でも知っていることを書いて人を馬鹿にするな」とファンは怒るだろうし、実際MSI時代に筆者はそういうような意見をもらったことがある。そしておそらくそんなことを書いて来るファンに限って『大論』を初心者には不親切過ぎると言うに違いない。そこでわしは強引に考えをゴーイングさせる。「ごちゃごちゃ言うな! わしは黙って書きたいように書いてやる!」。

by uuuzen | 2007-07-02 10:18 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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