鮮度の落ちた話題になるが、1か月前に大阪歴史博物館で見た展覧会について書いておく。とはいっても展覧会そのものについてではなく、その内容に絡めた支離滅裂な連想になると思う。

5月13日の最終日に訪れた。子どもから大人までかなり盛況で、この施設としては珍しい人気ぶりであった。夏休みに開催していればもっと多かったに違いない。そう思うのは通常の展覧会と違って、展示品を見て回るだけではなく、ゲームなど参加型の遊びの展示があったからだ。通常の展示物としては、まず会場を入ってすぐの第1部『わたしの脳がたどってきた道』と題して、魚から両生類、鳥や哺乳類など、あらゆる動物の脳があった。小さなものはプレパラートに挟まれ、大きなものはアルコール漬けになっていて、昔の小学校の理科の研究室を思い出したりする。人体をそのまま樹脂に浸して硬化させ、それをスライスして展示する「プラスティネーション」だったか、よく『人体の不思議展』と題して各地で開催している展覧会を見たことのある向きからは、この第1部は驚きでも何でもないが、人間の脳となるとまた見方が違う。家族の同意を得て、南方熊楠の脳が展示されていた。アルコールの品質に問題があったようで、茶色気味に変化し、また全体が重みでへしゃげて偏平気味になっていた。天才と呼ばれた人の脳でも表向きは普通の人と差はない。皺が多いと賢いとよく昔は聞いたものだが、それもあまり関係はないようで、人間に限ればその皺はみな同じようだ。表面よりも中の仕組みが問題なのだろう。確か東大には夏目漱石など著名人の脳ばかりをずらりと保存している施設があった。歴史に名をとどめた人の脳は、いつかもっと医学が進歩した時に解明出来る部分があるとしてそのように保存されているのだろう。となると、火葬せずに内蔵を取り出して保存したり、あるいは内蔵が抜かれた体をミイラにしていたエジプト人は現代人より進んでいたことになるか。また、エジプト王国で王様に相当する者は、現代では偉大な仕事をした有名人と考えてよさそうだが、エジプト時代のミイラは薬になるとしてどんどん発掘されて海外に持ち出されもし、江戸時代の日本にも輸入されて大変な高額で消費されたりしたから、偉大で絶大な権力の王といえどもはかないものだ。それから推せば、漱石や熊楠の脳が今後2000年ほど保存されたとして、どのような扱いを受けているかわかったものではない。
また、2000年後にもしそのアルコール漬けの漱石や熊楠の脳が医学によって意識を取り戻したとして、その脳ははたして幸福に思うだろうか。ただの時代遅れの老人として、しかも手足や目鼻もない生き物として意識のみが活動するのであれば、何とも残酷なことのように思える。それは脳が手足や目鼻と不可分の関係にあるとの考えを前提にしたものだが、現在が嫌でたまらず、あるいはもっと長年生きたいために、自分が死んだ後は脳を永年保存してもらって未来に生まれ変わりたいと思い、実際にそんな契約をどこかの会社と交わしている金持ちもいるかもしれない。「物」としての脳が物ではない精神を生むというのはとても不思議だが、精神が物でないかどうかは保証の限りではない。結局人間は脳が生み出す世界の外には出られず、またその物として小さな脳がいくら大宇宙を想像出来たとしても、その大宇宙が真の大宇宙かどうかの保証もない。魚や両生類から鳥、哺乳類と順に進化し、ヒトに至って最大の脳になったかと言えば、鯨の方が大きいし、また脳が大きいから知能が優れているとも言えない。今回の展示の第1部で強調されていたことは、ヒトの脳は、魚や両生類などから進化するにしたがってその構造を根本的に変えて来たのではなく、家で言えば増改築を行なって来た点だ。ヒトの脳の中には魚的な部分や両生類的な部分など、つまりあらゆる動物に共通した部分がある。その増改築はヒト以降の生物が出て来た時にはどう変化するのか想像がつかないが、人間が二足歩行で生活するようになったのは、頭を天に向けて、いずれ宇宙に飛び出して地球以外の星で生き延びることを本能的に知っているからかと思ったりする。もしそうだとすれば、人間は地球を使い捨てして、つまり地球にいるあらゆる生物とは縁を切っても別の惑星で住みたいというわけか。先祖殺しの人間がどこへ行くといった感じがする。それで思い出すのは、先日あった高校生の母親殺しの事件だ。母親の首をバッグに入れて警察に自首し、手首は白く塗って鉢植えに挿したという。精神鑑定を受けさせるのは当然としても何とも不気味で、脳の仕組みというものを改めて思わせられる。上田秋成の本にあったと思うが、江戸時代の山村の一家に起こった事件があった。子どもたちがある山の古木を切ったその日、両親も同じように切り刻む行為をした。精神がおかしくなったとしか言いようのない事件だが、それは現在に限ったことではない。江戸時代とは違う意味で管理もされてストレスの多い現代人は、脳がどのような異常を来すかは全く予測不可能になっている気がする。子の親殺しではないが、先日のTVで、蟻だったか、母親は子が孵化する頃、体力が最大限に衰え、そのまま自分の体を卵から孵った子たちに食わせる場面があった。他の生き物に食べさせるくらいなら自分の子に食われる方がいいという考えだ。前述の脳の進化からすれば、その蟻の精神をヒトも兼ね持っていることになる。バルザックの『ゴリオ爺さん』はそんなことを描いた話と言ってよい。親は子から際限なく求め続けられても、親としてはそれは苦ではないという話で、理由もなしに子に殺されて首を持ち運ばれる母親の思いはいかがばかりか。
展示の第2部は『わたしの脳がつくる世界』と題し、脳のはたらきをちょっとした小道具で実験するというコーナーであった。ここはとても人気があって、どの箇所も列が出来ていた。平行線が斜めに見えたり、同じ色なのに濃淡が違って見えたりするなど、よく紹介される錯覚による視覚の仕組みや、聴覚や触覚における同様のことがちょっとした装置の操作で確認出来、人間は自分が思っているほど自分のことが即座にコントロール出来ない存在であることを再認識するが、そのように脳はまだ解明されていないことが多い。脳科学の発達によって、脳のどの部分が何を司っているかがわかりつつある現状の行き着く果ては、人間が脳を自在にコントロールして、手術によって傷を受けた脳細胞を修復したり、あるいは機能が劣る部分を改良したりということになろうが、果たしてそんな時代がどこまで可能となるだろうか。人間は子孫を残すことで同じ体と一応は同じような脳を持った存在を伝えて行くことが出来るし、それは比較的簡単なことであるから、巨費を投入してダメージを受けた脳を修復するという技術が進化するとしても、それはどういう必要や要請があってのことかと思う。前述した金持ちのエゴか、あるいは人間本来が持っている不思議を解明したいという純粋な興味からか、おそらくそのふたつが関連し合って脳科学と脳手術が進展するはずとして、前者の金持ちによる自己保身が大きな理由であり続けるとすならば、それは貧富の大きな社会が前提にもなって、それを想像するだけでやり切れない。今では内臓を東南アジアから盗難して来るような感じで安く買って移植する人がいるが、自分の脳がダメージを受けた場合、誰かの脳をそっくり移植することを望む金持ちは出て来るだろうか。そうなれば面白い。極貧の人の脳を移植し、その人に金持ち身分の思いを味わせられるからだ。ははは、だが、自分の脳が他人のものと入れ代われば、自分はいなくなるから、脳移植は絶対に起こりようがないか。だが医学はそうは思っていないだろう。何でも移植、あるいは交換出来るものはしてみようというのが医学単独の思想の側面であろうから、思い切って脳を移植することはきっとあり得る。だからこそ、熊楠や漱石の脳も保管しているのかもしれない。「物」を残しておくと、それが将来どんな形で役に立つかわからないからだ。しかし脳のあらゆる部分が解明され、脳外科がそれにつれて進歩したとして、そんな世界は人間が平等に近づくとしても、限りなく個性の差がなくなってのっぺらぼうみたいな感じはなりはしまいか。
今はますますそういう時代になりつつあるのかもしれない。第3部は『変化するわたしの脳』と称し、ここが一番面白かった。それはゲームが出来ること以外にとても興味深いコーナーがあったからだ。だが長い人の列が出来ていて、並ぶのが面倒なので、筆者は係員に映像の意味を聞いただけにした。コンピュータ・グラフィックス映像で喫茶店内部の再現したものだそうで、その画面を前にヘッドフォンを耳に当てると、喫茶店にいる人々が全部自分の悪口を言っているように聞こえるらしい。このコーナーはどういう意味合いのものかと言えば、他人がみな自分の悪口を言っていると思い込むような、ある精神的な病の人の心境を画面で疑似体験しようというもので、そのことでそうした人々の病への理解を深めるのが目的らしい。この説明を聞いただけで並ばなくてもよかったと思えた。コンピュータ・グラフィックスのその画面は、見るからに不気味な印象があった。それは実際の俳優が演ずるのとは違って、映し出される人間に個性がないからだ。目鼻はもちろん描かれていても、ロボットじみている。ヒトのようでありながら感情が欠如していて、次の瞬間に何を仕出かすかわからない感じがあった。そう思われることを目的として人物がデザインされていたのだとすれば、かなり精巧に出来た映像と言えるが、実際は単に予算が少なく、リアルな表情をつけ加えることが出来なかっただけで、人物を記号的に表現したに過ぎない。それはいいとして、その不気味な映像と、悪口がささやいているような声を耳にすれば、それだけで昼間から悪夢に陥り、かえって精神病になる気がする。人間は敏感なものであるから、そういう疑似体験が心のどこかにインプットされ、それが意外な形で巣くうことがあり得る。また、そういう画面と音が別の目的でもっと過激に作られれば、人を精神病に追い込む道具になるのではないかと心配する。そこでまた話が先の母親殺しの高校生に戻る。その青年はコンピュータ・ゲームが好きであったり、暴力的な映像を伴ったロックが好きであったりしたのどうか。コンピュータの発達により、現実と非現実の区別がますますつかなくなるであろうし、そうなればどこで脳に現実と非現実の区別をしっかりと認識させるのか、その機関やあるいは法律といったものが次に考えられるだろう。その行きつく先は、政府による統制だ。とはいえそれは現実にはもうとっくの昔に始まっているとも言える。TVの馬鹿番組で国民をみな政治から遠ざけておき、その間にどんどん政治家は自分たちにつごうのいいい法律を作って行く。母親殺しの高校生がいるとして、それはその高校生の責任だけとするのはあまりにも単純な見方で、本当は政治を司る者たちの問題とも深く関係している。母親殺しの高校生が異常だとすれば、国全体がどこか異常になって来ているからだ。たとえば今問題になっている年金問題もそうだ。江戸時代なら責任者は当然切腹したし、あるいは国民は一揆をどんどんやったはずだが、今はそうならないのは、文明化したからか、あるいは衰退して来ているからか。
またTVの話になる。先日これもNHKで衝撃的な番組があった。それは最近流行しているコンピュータ・ゲームだ。ゲームの中で自分が作った分身を動かせるもので、そのゲームの中だけで通用するお金がある。そして、そのお金は現実のお金で買うのだが、逆の換金も出来る。画面内の分身はお金を使って何かを買ったり、どこかへ旅行したり、またスポーツをしたり、ディスコへ行ったり、あるいはゲーム内で別の人が操る分身と出会ってデートしたり出来る。そんなゲームのどこが楽しいのか筆者にはさっぱりわからないが、そのゲームに興じている人が何人か紹介されていた。ひとりは40代半ばの独身の男性で、帰宅後すぐにそのゲームを始め、分身を動かすことに生き甲斐を見出している。それは現実とは違って自分は自由に動けるからで、いわば代償行為だ。誰しも代償行為を求めるから、別に非難するつもりは全くないが、見ていて侘しい気がした。現実の厳しい人生とは違って、ゲームの中だけでも自分は自由で幸福でありたいと思うのはわからないでもないが、今後も現実と非現実の区別がうまくつくのかどうか、他人事ながら心配になる。この分身は男が男を操る必要はない。グラマラスな女性が画面の中にいても、それら操っているのが男の場合があるから、あくまでも画面内での仮想現実を楽しむゲームだ。それでここが重要なことだが、ゲームに参加するにはお金が必要で、しかも現実の世界同様、お金をそのゲーム会社にたくさん支払う人は、より豪華なアイテムを持ち、より豪華な生活が出来る。すなわちゲームの中でも貧富の差が最初から歴然としている。このゲームは現実の縮小世界であって代償行為としても完璧なものとは言えない。厳しい現実を少しでも忘れたいためにゲームをしても、そこでもまた経済問題が立ちはだかっていて、現実世界を再認識させられるからだ。また、ある男性はそのゲームに最初500万円ほど投資し、ゲーム空間の中で巨大な島を買ったが、そこをリゾート地として開発したところ、たちまち客がたくさんついて高額で売れ、今ではゲーム内で稼いだお金を現実の日本円に換金することで自分の生活費を捻出している。そしてその額がまたべらぼうで、毎月数百万円ほどになるというから、初期に参入し、しかもまだ誰もやらなかったことに手をつければ、いかに金儲けがうまく出来るかの見本のような現実を示している。それほどにそのゲームに参加する人々が世界中で増加しているが、今はまだ確か10万人ほどが、やがて300万や400万になった時、ゲームの中でどういうアイテムがよく売れているかは誰にもわからない。
ただし言えることは、現実とは違って画面の中だけで存在する現実にきわめて近い、仮想的人間の出会いの場が生まれていることだ。それも今のブログなどから考えれば当然のことか。仮想的な場のようでありながら、それは現実に裏打ちもされているから、ブログで知り合った人同士が現実で出会うことは珍しくない。そこにはネット社会を非現実としてではなく、現実そのものとして考える立場がある。そしてまた思うのは、ネット社会が登場したのは、やはり人間の脳が要求したからだろう。先のゲームの画面はこの展覧会で見た先の精神病の人の心理を理解するために作られた映像よりはるかに精密でリアルなもので、よほど大型コンピュータを駆使しているかがわかったがが、それでも現実の人間も建物、道具などを仮想画面に描き出すには記号化の概念に基づいていて、やはり不気味な部分は残存していた。記号化は人間がコミュニケイトする場に必要なものであるから、それはある意味では曖昧さを排除した万国共通の媒体には不可欠のものであるし、であるからこそ先のゲームも世界的に人気があって、そこでは国を超えて人の出会いが存在し得ているが、記号の集積というゲーム世界にどっぷり浸っていると、それこそ現実を記号としてしか見られなくなり、非現実との境界がわからなくなるのではないか。日本は漫画王国で、それは日本人が記号化、つまりある意味では意匠化に関連もしていることに対して、昔から美術などで訓練、洗練して来た賜物であるとの見方も出来るが、記号化が進めば万人が共有出来る財産で形成される一方、記号化から脱落した多くの要素の存在が見えなくなる。たとえば、先のゲームでは音や映像はあっても匂いや触覚はない。しかし、現実の人間はもはや嗅覚や触覚には大きな意味を認めていないのかもしれない。それは人と人とを結ぶ最も強い要素を無視して、本当の人と人の出会いを重視していないからとも思える。現実の人との出会いは幻滅がつきものであるし、それがまた面白いのだが、それを避けたい人は自分が他人になり澄ませるゲームにますます興じるだろう。ブログもほとんどそういう目的で使用される側面がある。筆者はこうした文章で記号化され得ない何かが書き表わせないものかと思わないでもない。だが、言葉はひとつの記号であるから、その集積で記号には収斂しない何かを表現出来るかどうか。そのことは脳が独創的なことを生み出せるのかどうかと同じで、結局のところまた脳について話が戻り、脳が脳のことを考えることの出来る不思議さが人間に存在することが、人間にとって幸福なのかどうかを考えさせる。