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●「AMERICAN DIPPER」
が疲れているのか、パソコン、ワープロに向かうのが億劫で、今日の長文ブログは書く意欲が湧かない。今午後7時で、窓から見える夕焼けがきれいで写真を撮った。



●「AMERICAN DIPPER」_d0053294_232532100.jpgその前にステレオで音楽をかけ、この長文の内容を決めた。先日から出したままになっているジェニー・シャインマン(Jenny Scheinman)のCD『シャラガスター(shalagaster)』だ。この言葉は手元の英和辞書には載っておらず、意味がわからないが、ユダヤ語だろうか。ジャケットに鍵穴のイラストが描かれているところ、「key」の意味かと想像するが、このことについてはまた後述する。ジェニー・シャインマンは女性ヴァイオリニストで、名前から想像出来るようにユダヤ系だ。このCDを入手したのは数年前で、もう1枚ジェニーのCD『The Rabbi’s Lover(ラビの恋人)』もそのすぐ後に買ったが、よく聴くのはこちらの方だ。「ラビ(Rabbi)」はユダヤ教の神父のような存在で、そのラビに恋人がいるというのも何となくドキリとさせるが、アルバム・ジャケットもシャガール風でありながら、もっと暗い秘密を暗示しているようなところがある。『シャラガスター』が2002年の発売で、『ラビの恋人』はその翌年だ。どちらもジョン・ゾーンのTZADIKというレーベルから出ていて、前者はその「oracles」というシリーズ、後者は「radical jewish culture」に含まれる。前者は女性ミュージシャンばかり取り上げてまだ発売枚数も後者ほどには多くない。後者はもう100枚近く出ているのだろうか。とにかく毎月新譜が出るので、TZADIKレーベルのCDを全部聴いている人は日本には数十人もいないと思う。筆者は100枚以上所有しているが、よく聴くのは限られている。そんな中でこの『シャラガスター』はたまに聴きたくなる。全曲をよく記憶しているのではなく,むしろすぐに忘れてしまうので、確認のためにまた聴くというのが当たっている。それはユダヤ音楽の旋律がエキゾチックで面白い反面、なかなか覚えにくいということがあるかもしれない。もう10年以上になるが、ユダヤ音楽に関心を抱いて、その旋法がどういうものか確認したくなったことがある。ところが、考えてみればユダヤ人は世界中に散らばったわけで、定住したその国の文化に馴染みながら今に至っているから、固有の音楽という定義そのものが困難であることは最初から想像がつく。あるいはそれはユダヤ人が最初にいたパレスチナ辺りの音楽と似たものであるかだ。
 ヨーロッパを追われたユダヤ人は新大陸のアメリカで成功して経済的に豊かになった。ジョン・ゾーンはそういうユダヤ人の末裔だが、ニューヨークに拠点を置いてTZADIKを創立してユダヤ系の音楽家のアルバムを中心に続々と発表を続けているのは、傍目に見ていてなかなかの手腕で凄いことに思える。TZADIKが手がけている音楽家は、日本人もかなり混じるが、ジョン・ゾーンが個人的に気に入っている者ばかりのようで、しかもメンバーはかなり固定化して来ている。「radical jewish culture」のシリーズは新人発掘の意味合いが大きいようだが、それでも同じ音楽家の作品が目立つ。そのほかにどのレコード会社も手がけようとしない音楽を見つけ出して来てCDにするなど、隙間の商売を手がけてそれなりに倒産もせずにやっているようだ。TZADIKレーベルのCDは400点以上は発売されていると思うが、すでに廃盤になって入手出来ないものもある。また大型CD店に行っても限られた棚数ではマイナーなTZADIKレーベルに充分な場所は与えられず、CDを見つけること自体が難しい。ただし、これは東京では別かもしれない。筆者はもっぱらアマゾンで買うが、どのCDも割引きされていて、在庫はなかなか捌けないのだろう。で、TZADIKのCDはどれもジョン・ゾーンが認めた内容であるから、ジョン・ゾーンの音楽が気に入らなければおそらく気に入らないものだろう。それはいいとして、ジェニー・シャインマンはソロ活動もするようだが、たとえばビル・フリゼルのバンドの一員として来日したこともあって、ジョン・ゾーンの人脈の中でそれなりに知られた存在であることがわかる。筆者はわずかに2枚のCDで知る限りで、ネットで情報を積極的に集めたこともないので、ここに書くことは全くの無責任なちょっとした感想に過ぎない。CDの写真から伝わるジェニーは、痩せ型の体型で奥目をした美人だ。いかにもユダヤ系の容貌と書いても何も伝わらないが、寡黙でちょっと暗い性質をしているように思える。つまり、芸術家の素質は充分だ。ヴァイオリンの技術はジャン・リュック・ポンティのような超絶というものではないが、ジャズであるからには必然的に似たところもある。だが、速弾きを期待しては失望する。『シャラガスター』の紙帯はごく簡単にアルバムを表現しており、その最後は「this heartfelt program of modern folk jazz」だ。これは名言で、まさにそのとおり。もはや筆者がどうのこうのと書く必要はないほどだ。つまり、筆者がこのアルバムをいいと感じるのは、「heartfelt」(心に響く)からだ。
●「AMERICAN DIPPER」_d0053294_23261934.jpg

 ここで少し話を変える。昨夜NHK-TVで音楽番組を見た。夕方に新聞の番組欄で、「超絶ギタリスト」という表現だったか、とにかく面白そうな深夜番組があることにふと目をとめた。番組が始まってもネット・サーフィンをしながら見たが、徐々に引き込まれた。日本のゴンチチというふたりのギタリストだろうか、彼らが世界中のあまり知られていない演奏家を取材し、またちょっとした共演をするという内容で、BSでは以前から放送されているのだろう。だが、筆者はBSの契約をしていないので、昨夜初めてその番組を知った。ゴンチチは名前を知っている程度で、昨夜見た限りはさして音楽を聴きたいとも思わなかったが、取材されたふたりの演奏家には度胆を抜かれた。ひとりは77歳のヴェトナムの盲目の演奏家キム・シンだ。ゴンチチは彼に会いに行く前に日本で、有名なキング・レコードの『ワールド・ミュージック・ライブラリー』からの1枚を掲げて見せていた。このアルバムは今でもアマゾンで買えるが、「ヴェトナムのブルース」と言った表現で感想が書かれていた。なかなか言いえて妙だ。キム・シンは三歳で目が見えなくなり、また貧乏であったためにギターが買えず、靴に紐を通したものを楽器にしていたそうだ。ゴンチチはキム・シンのことを人間国宝は呼んでいたがまさにその価値充分、誰もまねの出来ない「heartfelt」な音を出していた。歌いながら演奏するのだが、歌詞はなかなか哀切を帯びたもので、吟遊詩人といったところか。ギターは各フレット毎に深くえぐれていて、弦を押さえてビブラートを強くかけられるようになっている。韓国の琴であるカヤグムにかなり似た響きを思えばよいが、スチール弦であるからもっとポップスっぽい響きがあって、それがまたよかった。二弦だったか、三弦だったか、月琴に似た民族楽器も使用していて、それはギターに比べて響きはぐんと違っていた。そうした楽器は独自に改良したもので、ヴェトナム近代音楽の父と言えるかもしれない。一時ヴェトナム音楽大学の教授をしていたとかで、よく知られた存在だが、ゴンチチが訪れた家はとても金持ちのそれではなく、かなり貧しい部類に見えた。番組後半はカナダのモントリオールで路上ミュージシャンをしていたギタリストを訪問していた。まだ20代の若者だが、ギターをスチール・ギターのように横に寝かしてタッピングの技法で面白い音楽を奏でる。この若者も9歳かそこらで兄と家出をするなど、かなり苦労した幼少年期を送ったとかで、そういう人にありがちな根性と優しさ、そして反骨、独創がはっきりと伝わった。
 本物の芸術とはそういう人からしか本当は生まれないだろう。だが、この若者は自分の演奏でどうにか食って行けるだけの金が手に入ればそれでよく、有名になったり必要以上の金儲けの夢はないと語っていた。日本にもそういう才能はいると思うが、一方で有名になって金儲けも出来るという誘惑があって、すぐに才能は消費されてしまう気がする。また、TVに頻繁に出て、普通の人が出来ないような華々しそうな格好や生活ぶりを見せる芸能人こそが価値ある芸術と思っている人はそうとう多いはずで、そういうところから弾かれた、あるいは元からお呼びもかからない多くの才能は、たまに芸術ですねと褒められてそれでおしまいだ。うま味はみんなそれを巧みに剽窃した連中だけ持って行く。そのため、日本では芸能人になるのはいいが、芸術家など最初から志すものではない。日本で言う芸術家はみな芸能人と同じで、有名と金持ちのふたつの条件でしか存在価値を認めてもらえない。大多数の人々は独創的技術など何もわからないからだ。人が騒いでいると、ああそうかなと便乗するだけの話で、自分から凄い才能と口火を切ることの出来る、そしてその意見が本当に当たっているということなどまずあり得ない。しみったれた家に住み、貧しい身なりをしていては、人の夢をぶち壊し、「貧乏な芸術家って、最悪だわ。あっち行って!」ということになる。世界にはまだまだあまり知られない凄い才能があるとして、ゴンチチに各国へ赴かせる番組というものがあることは、まだ日本もわずかに希望が持てるかもしれないが、さてどうなのだろう。昨夜はゴンチチは太鼓持ちに見えていたのが印象的で、それだけ日本で芸術家というものが育ちにくくなっている。本物の芸術家とは、あまり人に知られず、ひっそりと生活をしていて、ごく一部の人だけが価値を知っている。そして運がよければ死後に有名度も上がるが、それで儲けるのは他人なのだ。死後に有名人を作り上げるのは、生きている人に懺悔の気持ちがあるからだ。何しろ化けて祟りをばら蒔いてもらっては困る。昔から歴史はそういうことになっていて、その代表がキリストというわけ。話が脱線気味で戻す。ゴンチチは共演を申し出た時、キー(調性)を決めていた。これはどんな音楽でも中心となる音があるとする考えによるからだが、厳密に言えばキーを決めたから共演が完全に調和の取れたものになるとは限らない。むしろ、それは双方の歩み寄り、妥協の産物になって、音楽の味わいはある一定以上には広がらない。
 これはどういうことかと言えば、キーを決めるのはいいが、ハ長調なら、CDEFGABの全部の音を使いながら、Cを中心にした即興となるわけで、民族音楽特有の旋法が無視されかねない。民族音楽特有の旋法とは、中心となる音はあっても、12の音からいくつかを脱落させた音階となっている。日本の演歌はもう言えるが、これは明治に作られた。音階はヨナ抜きで、4つ目と7つ目を使用しない。つまり、ハ長調でもCDEGAの5つの音をもっぱら使う。これは沖縄になればまた違うし、中近東になればまた変わる。そしてユダヤ音楽でも違う。中心となる音を決めれば共演は出来るが、共演相手がその国特有の民族音階に馴染んでいる場合は、長短の音階に含まれる異質な音を耳にするあまり、歩み寄った演奏をする精神的ストレスに晒されるだろう。また、その音楽を聴く側も、民族音階的な部分が減じたごくありふれた演奏に思える。ここには、音楽は世界共通という見方と、やはりそうではないという見方のせめぎ合いがある。テリー・ライリーに「IN C」という曲がある。それはCという音を最初に決めてさまざまな演奏家が共演するもので、共通点はただCという音のみだ。そこで繰り広げられることは、たとえば特定の民族楽器を使用する人はそれ独自の音階を奏でるであろうから、自己主張が阻害されないだろうとの考えなのだろうが、同曲を聴いて筆者は少しもいいと思わない。音楽は万国共通のようでいて決してそうではない。共通性を訴えるほどにつまらないものになる気がするほどだ。で、ジェニー・シャインマンに戻るが、彼女の演奏は独特の味わいがある。それはユダヤ音楽の旋法や独特の節回しを分析して、その音の並びから独自のメロディを作り上げているからだ。つまり、「key(鍵)」は普遍性があるかのいように思われている長短の音階だけではないとする立場だ。であるからこそ、帯に「フォーク・ジャズ」と印刷されているのだが、この立場は何もジェニーが最初では全くない。アメリカの大衆音楽界はさんざんそんなこともあれこれ実験して来ているし、成果は歴史として残っている。ではなぜまたジェニー、あるいはジョン・ゾーンのTZADIKレーベルなそんなところを徹底してやろうとしているかだ。そこには民族的アンデンティティを今一度確認しようという態度と、民族的なところから新鮮な要素を汲み取って来ようとする考えだ。それはメロディだけではなく、使用楽器やリズムによって著しく表向きの様相は変えるし、ジェニーの演奏もそういうところに立って個性を発揮したものになっている。
 だが、それだけならばさほど面白くない。芸術はそんな理屈だけで出来上がるものではない。それは周到な準備や長年の練習も欠かせないが、そこに何かプラス・アルファされる瞬間があってこそで、『シャラガスター』に収録されるいくつかの曲はそれがかすかにある。そのかすかな何かが実はかけがえのないもので、それに触れたいためにCDを聴く。アルバムはジェニーのヴァイオリンと、後はピアノ/ハルモニウム、トランペット、ベース、ドラムスという5人で演奏されている。そのため全体に派手ではない。10曲目の「ZEYNEBIM」はゆったりとした舞曲で、その旋律もさることながら、ハルモニウムの伴奏がとても異国的で、またドラムスの叩き方にも特徴があって、全11曲中でも光っている。民族音楽的のようでいて、アメリカのニューヨークの洒落た味わいがあり、「貧乏な芸術家」という感覚からは離れている。面白いのは2曲目と8曲目に同じタイトルの「AMERICAN DIPPER」があることだ。これは「アメリカの北斗七星」の意味だ。はははは、今気づいたが、筆者が今時分になるとこのアルバムが聴きたくなるのは、七夕が近づく季節からかもしれない。それはさておき、2曲目は「雌」、8曲目は「雄」の記号が、タイトルの後についている。これはどういう意味かは、「北斗七星」の言葉に隠されている。「北斗七星」は長短の音階の7つの音の連なりを意味している。だが、ジェニーはアメリカの北斗七星は空が曇っているのか、あるいは見る者の哀しみの涙で滲んでいるのか、短音階の7つの音以外の音を使用している。そしてキーが異なることによって、雌と雄を区別する。これは、雌と雄は永遠に一緒ではないが、共通して持っているものもあるとする考えからか。ちなみに2曲目の雌の方はキーはGマイナーだが、主題のほとんどはD音が支配している。またGマイナーにはないF♯の音を使用してミステリアスな雰囲気を作り上げている。8曲目の雄ヴァージョンはCマイナーで、雌ヴァージョンよりもっと素直な感じで民族音楽風味は減退している。また、Cマイナーの音階にはないD♭の音を特徴的に使用している。ジェニーは「アメリカの北斗七星」という、夜空の星を思わせる音楽を、独自の旋法に基づいて雌と雄とに作り分け、それをアルバムの離れた位置に収録した。この形式美と、それに終わらない情緒性重視の考えは、芸術作品としては必須のものだ。『シャラガスター』が「鍵穴」の意味ではないかと最初に書いたのは、この2曲の構造を思ってのことだが、ジェニーは、独創はそうした音階にこそあると思っているのだろう。ちょうど彼女の容貌がいかにも独特であるのと同じように、その演奏するメロディも独特だが、独特の味ある顔をしていなければ創作もそうはならない見本がここにあると言ってよい。昨夜見たヴェトナムとモントリオールのふたりの音楽家もまさにそうであった。
by uuuzen | 2007-06-10 23:26 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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