話題をしつこく『relix』のザッパ特集記事から拾っているが、まだ数日は続けるつもりでいる。
今日は「JAMMING IN JOE’S GARAGE」と題してパート1と2に分けて掲げられているスティーヴ・ヴァイとマイク・ケネリーのインタヴューをまとめて説明する。ザッパのバンドから出た白人ギタリストとしてはこのほかにウォーレン・ククルロとエイドリアン・ブリューがいるが、ふたりともザッパ時代にあまり活躍したとは言えない。エイドリアンは卓抜なギタリストだが、ザッパに在籍してリード・ヴォーカルを担当したのは「City of Tiny Lite」のわずか1曲のみで、しかもこの曲は後に黒人ヴォーカリストのより強力なヴァージョンによってイメージが一新されたと言ってよく、ほとんどザッパのバンドで影をとどめたとは言い難い。ザッパ自身もインタヴューでは名前をあげずに単に「男」と表現していたことがあるが、ごく短期間に在籍しただけなので印象に残らなかったのだろう。だが、エイドリアンの方はザッパ・バンドにいたということを可能な限り自慢にしている節があり、かなりちゃっかりした性質がうかがえる。エイドリアンの資質としてはザッパ・バンドはふさわしくなく、それを自分でもよくわかっていてキング・クリムゾンに入ったりしたのであろう。ウォーレン・ククルロは10年ほど前にザッパに捧げるアルバムを1枚出しているが、若者、ニュー・ウェイヴのやや軽いイメージが強く、ザッパ流のこってりした風刺とは縁遠い気がする。それでも今はもう50を越えた年齢になっているだろう。先日ドゥイージルがギター中心のバンドの時代ではなくなったのでゴルフ三昧の日々を送っていたと書いたが、その間どういう音楽がはやっていたかと言えば、筆者もよく知らないが、簡単に言えばダンス音楽だろう。もちろんギター・バンドでもダンス音楽を演奏出来るし、そういうタイプのものはウォーレン・ククルロが在籍していたデュラン・デュランもやっていたと言ってよいし、ザッパの一部の曲も当てはまる。だが、そうしたものとは違ってトランスと呼ばれるもっと機械的で単純な音楽が世界的に大流行した。これは70年代のディスコ・ブームの新しい生まれ変わりと言ってよいかもしれない。多人数で観客の反応を見ながら演奏するという「人間味」のまだ残るダンス音楽とは一線を画する、ただただ踊る人物にトランス状態を引き起こすことが目的の、その意味では用に徹した音楽であった。だが、ダンス会場で集団でそういう音に痺れるのはいいとして、同じ音楽をひとりで部屋で「鑑賞」するとなると、それはあまりに単純で退屈なシロモノで、実に聴くに耐えない。やがてまた揺り戻しが訪れて、それなりにギター・バンドも聴き直されるという時代がやって来たのだろう。ドゥイージルの活動再開にはそんな時代を見据えた思いがあってのことだ。だが、トランス音楽に一旦馴染んでいる若者の耳であるし、ドゥイージルにしてもそういう音楽の流行をよく知っているから、新しく行なう創作はトランス音楽に不可欠であったコンピュータを重視したものになるはずで、ドゥイージルの発言の奥にはそんなことがほのめかされているように思う。で、話をスティーヴ・ヴァイとマイク・ケネリーに戻すが、明日に回す。
※
●2001年10月29日(月)午後
総合資料館へ行ってもいいかなと思っていると、時計を見るとあっちに着いても閉館まで2時間も本を読めない。それでは交通費がもったいないので機会を改めることにして、またアマリア・ロドリゲスの歌声を聴きながらこれを書き始めた。さきほど郵便局へUさんからの手紙の返事を出すついでにスーパーで少し買い物をしたが、外の空気はもう秋深しを充分感じさせる。遠くからマイクで「青森の○○高校のみなさんの集合場所は…」などと、修学旅行生への伝言を唱えているのが風に乗って耳に届く。筆者の住む嵐山は京都を代表する観光地であり、日本全国から人が集まるので青森から来ても不思議ではないが、それでもそんな遠い土地から実際に来ているのだなと思うと、こっちまで遠いところに旅をしたくなる。友人と海外旅行を計画しかけているが来年の1月かなあ。Uさんの手紙にはいつもちょっとした資料が同封されているが、今回もザッパの日本公演の時の雑誌インタヴューのコピーが入っていて、これが執筆前なら触れることもできたのだが、もう遅い。筆者が東京にいて石原さんのすぐそばにいれば文章の追加も可能だが、もうじたばたするのはやめよう。Uさんへの前回の手紙には先日の東寺の市で買った戦前のゴールデン・バットの空き箱を2枚同封した。汚れた紙箱にそれが数十枚も乱雑に詰め込まれて売られているのを見て、1枚単位で売ってもらえることがわかったの10枚買った。ただしバットばかりの中に違う銘柄のタバコの箱が3、4混じっていたので、それを含めてだ。また子細に見ると、バットでも2種あるのがわかった。どちらも10本入りで定価八錢だが、箱の厚みは同じでも幅は八ミリほどスリムで、その分タバコが細かったのがわかる。どちらが先かは当然スリムな箱の方だろう。というのは緑色にコウモリが2匹飛ぶ箱のデザインは全く同じながら、スリムな方は金色が金茶で代用され、箱横腹の英語表示が消えて、それが日本語になっている。つまり戦前のものが、アメリカと対戦してからはスリム・ケースになったのだと思う。それならばなぜ「ゴールデン・バット」の英文字表記も日本語で「金蝙蝠」にしなかったのだろう。もしそうなっていたならば箱のデザインはもっと面白くなったのに。「はと」という銘柄の箱は、表は唐草に鳩の模様、裏は唐草の上に目立つように「堅忍持久」の文字をある。その下は「朝鮮総督府専売局」の文字があるので、戦時下の朝鮮で売られていたものとわかる。このタバコは10本入りで20錢していて高級品だ。「エアー・シップ」という銘柄のデザインは険しい雪山に飛行船が描かれ、どう見てもヨーロッパの風景で、そのモダンさが面白い。こちらは10本12錢。
この日記にはしばしば物の値段を書いた。それはかなりどぎつい印象を与えかねないので多少の躊躇はあったのだが、『大論2』でも土地の値段を書いた下りがあって、そういった分析をする時に、ある時代の物価は案外重要な情報になるのに、それがなかなかわからないことに気づいた。そういうことからもこの日記でも物の価格について触れておくのは無駄ではないと判断した。その時はつまらないことでも、時代を経ると別の読み取りの助けになることが多い。先のタバコの価格にしても、たとえば日本切手カタログを繙くと、1930年頃はハガキが1錢5厘、封書が3錢で、その10年後では2錢と5錢で、どちらにしても今の郵便料金と比較するとタバコが割高であったことがわかる。これは今の郵便料金が高過ぎるのか、タバコがまだ安いかのどちらかなのだが、おそらく世界の標準から見て前者だ。郵政民営化は郵便料金からも仕方がないだろう。東寺の市で誰かが集めるきもなく集めていた戦前のタバコの箱が乱雑に売られているのを見ると、無残のようでいて、ちゃんと役にも立っているので自然な光景にも思える。筆者が買った伏見人形も後50年もすれば埃を被ってまた誰からの家の隅に飾られているかもしれず、本やCDも同じ運命を辿るだろう。それでいいのだと思う。生きている時に筆者が選んで一ヵ所に集めたものが、何十年か後にはまたばらばらになって誰かの所有に再編成される。永遠に古物商は存在し続けるし、そこから古い時代の夢を垣間見る人は後を絶たない。『大論2』を書いている時、自分がそのまま本の中に吸い込まれて行くかのような気分をしばしば味わった。これは本当にそうだろう。費やした日々のあらゆる思いが文章に化けて、それがみな紙に印刷されて本に閉じ込められる。しかし本ばかりに閉じ込められては苦しいので、もういい加減自分の創作に自分を閉じ込める必要がある。ワープロの上の「松引き金時」を見つめながらこれを書いているが、目に染みるような強烈なその体の赤さを見ていると、むらむらとまた仕事への意欲が湧いて来る。伝統工芸展では赤いキモノが展示されたことはないが、まるで赤が伝統的ではないと言いたいようなその「わびさび」の取り済ました作家の態度は実にアホらしいものがある。岡本太郎が書いていたが、日本の元禄期のキモノなどに見られる色彩感覚こそは日本を代表するものであるのに、今はそれが完全に忘れ去られ下品なものと認識されている。筆者は赤が好きで、昨日も百貨店のメンズ・コーナーで赤のスウェード・ジャケットが目に止まった。以前赤のレザー・ジャケットがほしいと書いたが、昨日のは76000円也。消費税を含むと8万になる。ジャケットを買うなら伏見人形を買おう。それはいいとして、赤いキモノはしばしば作ったが、またそうしてやろう。それに、今ここで初めて明かすが、『大論3』がもしあるとすれば「赤」の表紙にしてもらいたい。その理由は今は書かない。