人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●「WITHOUT YOU」
風雨だった昨日の余波があって、今日は五月晴れながら風が強い。仕事の用事が出来たが、電車ではなく自転車に乗って出かけた。片道30分ほどのところだ。



●「WITHOUT YOU」_d0053294_19204590.jpg電車と徒歩で目的地へ行くのも同じくらいかかるから、天気のよい日は運動がてらに自転車を使う。自転車もなかった時代はみんな徒歩でとぼとぼと歩いていたのであるから、もっと人間は歩くべきで、自転車で往復1時間程度なら運動にもならないか。電車より自転車がいいのはいちいち着替えをしなくて済むことと無料であること、それにあちこち停まって写生したり写真を撮ったり、また寄り道して買物が出来ることだ。もちろん今日もそうした来た。ああ、それに自転車で走っていると、危ないという欠点はあるな。だが、普段見ない人々を観察出来る。電車もそうなのだが、自転車はゆっくりであるから、また違うのだ。今日は天気がよいのでサングラスをかけて走ったが、目的地へのちょうど半ば頃、車椅子を押す男性の老人の横を通り過ぎた。車椅子にはその老人とそっくりな顔をした30代の男性がいた。しかも知的障碍者であらぬ方向を見て手を奇妙に曲げたりしている。膝にはチェック模様の毛布がかけてあった。親子であることがすぐにわかったが、筆者は通り過ぎた瞬間に涙が出た。両親はその子が生まれて30年以上、どのように世話して来たのだろう。人の目はさておいても、その労苦は並み大抵のことではなかったはずだ。母親はもう亡くなったのかもしれない。ツツジがきれいに咲き、風が心地よい晴れの日、息子をそのようにして連れ出すのは、息子が話せず、また表情を顔にはっきりとは出せなくても、きっと父親なりに何かが通じ合って息子が喜ぶのがわかるからだろう。息子は世話してくれる父親がいなくては生きては行けないし、それは父親も同じかもしれない。どのような子どもであろうと、血のつながった自分の子なのだ。筆者もつい先日息子がひとり立ちして家を出たが、離れてみて初めて感じる思いがある。それは予想外のことで少しうろたえたほどだ。ま、その話はいい。先の親子に会う前、筆者はなぜかニルソンの「ウィザウト・ユー」を思い出し、今日のブログはこれを取り上げようと決めた。実はニルソンはこのブログを始めた当初から書くつもりが2年目にしてようやく日が来た。「ウィズ・アウト・ユー」のシングル盤は大ヒットしている時に買った。1971年だったと思う。LPまでは買わなかったが、80年代に下の妹の同級生であるE君と頻繁に会い、彼から1、2枚を残してLPを全部を借りてカセットに録音した。それを今何年かぶりにBGMに聴きながらこれを書いている。
 ニルソンが亡くなったのはザッパが亡くなった直後であったと思う。あまり大きな話題にならなかったが、筆者はとてもさびしい思いがした。晩年のニルソンはヨーコ・オノのアルバムに数曲歌うなどしたが、そこでは何か剥き出しの痛々しさ、荒々しさのようなものがあって、それなりの迫力に驚いたものだが、ニルソンにしてはジョン・レノンと仲がよかった73、4年頃の思い出をいろいろと持っていて、その時からでももう長生きしたということで、あまり世に未練はなかったのではないか。酒飲みのニルソンの印象が強いが、初期の初々しさはとても傷つきやすい繊細な青年そのもので、ニルソンにとってこの世は生きにいものであり過ぎたのではないかと勝手に思う。銀行員を辞めてロックの世界に入ったという経歴は、堅物のレッテルが貼られかねないが、実際はどうであったのだろう。シンガー・ソング・ライターとしての才能は天才と呼んで差し支えなく、今でも1週間に一度くらいはTVのちょっとしたシーンで使用される「EVERYBODY’S TALKIN’(うわさの男)」は、映画『真夜中のカウボーイ』で使用されてあまりに有名だが、そのほかにもいろいろ名曲があるのに、やはり映画の力は大きいと見えて、ニルソンとなるとすぐに同曲が連想される。同曲は2作目となった1967年の『エアリアル・バレエ(空中バレエ)』と題する名アルバムに入っているが、このアルバムはいつかCDで買わねばと思いながらずっとそのままになっている。音は全体に軽く、初期作だが、ニルソンのアルバムではベストではないだろうか。スリー・ドッグ・ナイトのカヴァーで大ヒットした「ONE」が入っていて、これがまた思いのほか短くてさりげなく、とてもいい。歌手は世の中にごまんといても、こういう歌詞とメロディを書くことの出来る才能はそうはない。ニルソンはその3つが揃っていた。解散したビートルズに一時ポール・マッカートニーの代わりにニルソンを入れて再結成する話が持ち上がったが、筆者はそうあってほかった。ポールに成り代わるほどの才能と歌声の持ち主となると、ニルソンしか思い浮かばない。ビートルズ自身がニルソンの才能を高く認めていて、1941年生まれの点でもビートルズと共通し、180センチ以上の身長であったから見劣りはしなかった。ニルソンはアメリカの伝統に根ざした作詞作曲家であったので、ニルソンが加わったビートルズはまたひと味違ったものになったことは間違いないが、ベース・ギターが弾けたかどうか。ビートルズの4人と仲がよかったクラウス・ブーアマンをその役割として入れると5人になって、これではビートルスの格好がつかなかった。
 今BGMでは『NILSSON SINGS NEWMAN』(1971)がかかっている。ランディ・ニューマンの曲ばかりをニルソンが歌ったアルバムで、ニューマンの声とは違って甘いニルソンのヴァージョンは、今日のような春の晴れに聴くと胸に染みてまた涙がとまらなくなる。ニューマンも凄い才能で、これはまたいつか書くかもしれないが、シューベルトの歌曲なんかも勉強した跡が見える。あたりまえのことだが、ポップス畑に活躍する音楽家でもあらゆるものにアンテナを張ってそれなりに努力をしている。そうでなければ、極東の筆者のような人物でも知るほどの世界的名声を得ることは出来ないだろう。同アルバムはどこかレオン・ラッセルを聴いている気にさせられるが、アメリカ南部の音楽の香りがニルソンにあるのはアメリカの歌手ならば当然だろう。7作目として同じ1971年に出たアルバムに『NILSSON SCHMILLSSON』がある。この中に「WITHOUT YOU」が入っているが、実はこれも他人の曲をカヴァーして歌っている。ニルソンは自分でもいい曲を書けたが、他人の書いた曲を大事に歌った。歌そのものが好きであったのだ。歌だけが長く世に残ることを知っていたが、それは真実だ。「WITHOUT YOU」の原曲はバッドフィンガーで、これはラジオで何度も聴いたが、レコードで聴いたことはない。バッドフィンガーはビートルズのアップル・レコードが売り出したバンドで、ピート・ハムとトム・エヴァンスがこの曲を書いているが、ピート・ハムはジョージ・ハリスンの『パッグラデシュのコンサート』では、ジョージと同じ白いスーツを着て、ジョージと一緒に「ヒア・カムズ・サン」をアコースティック・ギターで演奏していた。確かそのコンサートの後間もなく急逝した。バッドフィンガーのヴァージョンは、3オクターヴの声域のあるニルソンのような華やかで雄大なバラードとは違い、もっと歯切れのよい、そしてもう少し長い演奏のロックで、それはそれでとてもいい。筆者が何度も聴いたのは、NHK-FMの京都放送で夕方5時だったろうか、毎週1時間のリクエスト番組の中でだ。DJのおじさんアナウンサーはリクエストはがきを全部読み上げるという変な律儀さを出して有名であったが、どういうわけかバッドフィンガーのこの曲のリクエストがとても多く、頻繁にかかった。当時筆者は30代であったが、その頃の10、20代がニルソンのヴァージョンを知らなかったとは思えないが、原曲がやっぱりよいという意識があったのだろう。確かにそうとも言えるが、ニルソンがただ歌を歌う才能しかなかったのであれば考えものだが、むしろバッドフィンガー以上に作曲家として実力を持っていたから、原曲を巧みにアレンジして独自の世界に仕立て上げることが出来た。そうでなければ世界的大ヒットなどしなかったろう。ニルソンの声は多重録音され、高音が素晴らしく伸びている箇所が聴きものだが、そこにロックの唸り節が端的に表われている。ニルソンはソフトに歌っても味があり、またシャウトしても堂に入っている。だが、どちらかと言えばバラードが似合う。今やそういう歌い手は枯渇したように見えるが、そういう歌が持てはやされないからか。
 ニルソンはレイ・チャールズの大ファンで、最初に書いた曲はフィル・スペクターに売り込み、そしてロネッツが歌うことになったが、そのあたりからもビートルズとのつながりは見えていた。3作目『HARRY』ではビートルズの「マザー・ネイチャーズ・サン」を忠実にカヴァーして歌っているが、ジョンとは仲がよかったのにポールとの相性はどうであったのだろう。筆者にはニルソンが、その生前からたとえばフランク・シナトラのような歌手の系列に属する存在と見えていたが、それはロックと簡単に呼ぶには、ニルソン時代のロックのビートの迫力というものがいささか欠けたからだ。だが、ニルソンの音楽をどう形容してもいいように思う。ロックであろうがなかろうが、結局長く世に伝わるのは、その音楽がよいかそうでないかだ。人をいつまでも打つものがあるかそうでないかと言い換えてもよい。自転車を漕ぎながら、ふとニルソンの歌声が浮かんで来たのは、それだけ筆者の記憶にそれが刻まれているからだが、そういう作用を及ぼす音楽ないし作品の力、そしてそれを生み出す人間とは何と不思議なものだとその次には思い、そしてそんなひとりであったニルソンはそれだけでも幸福な人生であったなと思えた。人が生きる価値は、そんなよい思い出をたくさん作ることにある。それは何もいい服を着て美味しいものを毎日食べるということではない。むしろそういういい服や美味しい食べ物を誰かに思う存分与えたいという思いにこそあるもので、結局人間は他人(身内も含めて)に対して何が出来て、その人々にとってどういう思い出となって残るかでしか価値が計れない。E君からニルソンのアルバムを順に借りてもう20年になるが、もう20年すれば筆者は生きているだろうか。そう思えば、今日この曲についてここに書いておくことは無駄ではない気がする。話を戻すと、ニルソンの歌声が年々渋くなり、ジョン・レノンを迎えて作った1974年の『PUSSY CAT』以降のアルバムは筆者はあまり聴かない。1980年に『FLASH HARRY』を出して、その後ぷつりと沈黙を保ち、最初に書いたヨーコ・オノのアルバムでの登場となるが、その後また鳴りをひそめた。もういい曲が書けなくなり、世はニルソンの時代ではなかったと言えばそれまでだが、何かもっと深刻な人生の悩みのようなものがあったのではという気がする。そしてそんな芽はすでに1971年のアルバムにはもう見られると言ってよい。そしてそんな思いの中で「ウィザウト・ユー」を改めて聴くと、そこにはやむにやまれぬ叫びが込められている気がして来る。結婚して子どもがいたのかどうか、ニルソンの私生活は全く知らないが、ジョン・レノンにとってのヨーコ・オノのような存在はいなかったと思える。孤独のうちに破滅して行った才能と言えばいいか、ニルソンにはそんな印象がつきまとう。
 この曲の歌詞はタイトルから想像出来るように、「君なしでは生きて行けない」というラヴ・ソングだが、短い歌詞ながら、ここでの男性の思いはいささかめめしいところがあって、まるで母親に去られて泣き叫ぶだだっ子のような雰囲気すらある。「今夜のことは忘れられない。君が去って行く時の顔も。けれどこんなことになるとは思っていたよ。君はいつも笑顔だけれど、目には悲しみがあるからね。明日のことは忘れられないな。自分の悲しみを思うとね。君はいるのに、ぼくは去らせるんだ。そしてぼくは君に知らせるべきなんだ。君が知るべきことをね。ぼくは生きて行けないってことを。君がいない人生なんて」。とはいえ、男女の仲とはこんなもので、いざ別れるとなると男の方が気弱いものだ。そこで思うのは、ニルソンがこの曲を感動的に歌い上げることが出来たのはそういう失恋を経験したからではないかと。それはどうでもいいようなことだが、そのどうでもいい個人的なことが歴史を作ったりするのが人間なので、ミーハーの感情があって好きな芸能人が出来たりもする。ドーナツ盤ジャケットの裏に小倉エージの解説があるので、少しだけ引用しておこうか。「…バックを務めるのはジム・ケルトナー、クラウス・ブーアマン、ゲイリー・ライトとジョン・ユーライヴ。アレンジはもちろん、ポール・バックスターです」とあるが、ポール・バックスターはイギリス人で、当時エルトン・ジョンのアレンジャーであった。エルトン・ジョンはセックス中毒からようやく脱して先頃男性と結婚したとニュースがあったが、筆者の好みを言えばニルソンの方がはるかによい。アメリカのロック・ミュージシャンは意外にイギリス勢と交友が深かったが、ビートルズがそもそもカントリー・ミュージックに少なからず関心があったことからしても、そうした動きはよく想像出来る。そしてエルトン・ジョンがレオン・ラッセルの影響を受けているように、ビートルズもニルソンの影響を受けているところがあって、多くのミュージシャンに曲を提供した作曲家としての評価においても今後再評価される必要があると思う。
 長文と言うには少し足りないのでもう少し書いておこう。車椅子に乗った知的障碍者の大きな子を世話する父親の傍らを通り過ぎた後、筆者は考えた。父親が心を解きほぐす楽しみがたくさんあればいいなと。そういう人のためにお笑い芸能人がいるのかもしれない。実は自転車で仕事の用事をみんな済ませて家に向かう途中散髪屋に寄った。そこではいつも話が弾むが、70代になっている主人は、父親が同じような年齢でぼけ始めたので、自分もそうならないようにいろいろと気を配り、また心配もしていると話した。その散髪屋に通って25年にはなると思うが、そう言えば主人はすっかり髪も髭も白くなっている。だが、そういう筆者も同じだけ年齢を食ったわけで、それを自覚せねばならないのに、他人の老けたのはよくわかっても自分はあまり実感出来ない。散髪に来る客の中に、毎回同じことを話す老人があるというが、当人はそれに気づいていない。そのようにして少しずつぼけて行くのは本人にとって苦痛なのかどうかわからないが、自覚がないのであれば苦痛ではないだろう。だが、自覚があるかないかは他人にはなかなかわからない。問題はそこだ。ぼけたことで言葉もあまり話さなくなってしまった時、周囲の人間は聞こえよがしにそのことを話題にするかもしれないが、当人は言葉に出して、あるいは身振りや顔つきで表現出来ないだけで、内心はさびしく思っているかもしれない。そして自己表現出来ない悲しみの中で二重に苦しむだろう。「君なしでは生きて行けない」と大声で泣き叫べるのはまだ幸福な方で、死がより近づいてそれすら出来ない老人があることを思うと、人間はなんと悲しい存在であることかと思う。だが、老人よりも生まれつきハンディを負った人はもっとそうかもしれない。その悲しみの中でみんなそれなりに生きて行かねばならない。「君なしでは生きて行けない」「けれどこんなことになるとは思っていたよ」。覚悟はしておけよということかもしれない。だが、「あなたのことをずっと陰で思っています」という思いに結局落ち着くのだろう。
by uuuzen | 2007-05-11 19:21 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●「ロックの殿堂」続きその4 >> << ●「ロックの殿堂」続きその5

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?