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●「ロックの殿堂」続きその2
リーヴランドになぜ「ロックの殿堂」があるかと言えば、これは「ロックの殿堂」のホームページを少し読めばわかる。以下それを参考に書く。




●「ロックの殿堂」続きその2_d0053294_11234353.jpgホームページのカテゴリーのひとつに「INDUCTEES」があるが、これは「徴集された者」の意味で、この場合「殿堂入りした者」となるが、日本語では「受賞者」がわかりやすいか。だが、賞を与えているというのとはまた違うので、「INDUCTEES」のニュアンスを込めて訳しにくい。それはそうと、1986年から毎年その「INDUCTEES」を決めて今に至っているが、当初はまず過去の人物を表彰していたのは当然だ。そしてもちろんロックンロールの歴史の端緒に位置する人物にまず栄誉を与える。1986年は演奏者が10名、そうした人々に影響を与えた歴史の初期に位置する人物が3名、そして直接間接に演奏者にかかわった人物からも選ぶという考えによって、さらに3名が選ばれている。演奏者10名は、バディ・ホリー、チャック・ベリー、プレスリー、ファッツ・ドミノ、ジェームス・ブラウン、ジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャード、レイ・チャールズ、サム・クック、そしてエヴァリー・ブラザースで、なかなか妥当な選択というべきだ。ロックに関心のある人ならば、この10名の音楽はすぐに思い浮かべることが出来るし、レコードやCDも多少は持っていることだろう。ロックンロールに影響を及ぼした3名は、ジミー・ロジャース、ジミー・ヤンシー、ロバート・ジョンソンで、ギター好きはロバート・ジョンソンはわかるとしても、ジミー・ロジャース、ジミー・ヤンシーの名前には馴染みがないかもしれない。そういう筆者もジミー・ロジャースはカントリー畑の人物であることは知っていても、ジミー・ヤンシーは知らない。で、ホームページの解説を読むと、第1次世界大戦中にピアノでブギ・ウギを始めたことを知った。で、ああなるほど、そんな名前だったかなと。ロックンロールはそうした先人の才能があってずっと後年に花開いたわけだが、1986年はジョン・ハモンド、アラン・フリード、サム・フィリップスの3名が選ばれている。サム・フィリップスは説明は不要だが、ジョン・ハモンドは業界人で、半世紀以上にわたってコロンビア・レコードに在籍して新しい才能をスカウトし続けた。アラン・フリードは名前を聞いたことのある人は多いだろう。DJで、1951年に「ロックンロール」という名前を発明して使い始めた。この名前があったおかげで、新しい音楽がより実態を伴うことになった。アラン・フリードが「ロックンロール」を使ったのはクリーヴランドのラジオ局で、それで「ロックの殿堂」が同地に作られた。

●2001年10月19日(金)夕方 その2
丹嘉を後にして、伏見稲荷の鳥居前まで歩き、右に折れて京阪に乗った。次は稲垣足穂の家を見に行く。ところが間違えて丹波橋で下車してしまった。もうひとつ大阪寄りの伏見桃山で下りなければならないのに、気がついた時はもう100メートルほど歩いていて、戻るのはいやなので、そのまま歩いて行くことにした。どうせ1キロほどしか両駅は離れていない。やはり10分と経たない間に御香宮神社境内が見えた。「安産の神」とか看板がある。『大論2』は安産であったのかどうか。それにしてもこの2年はあちこち走り回った。そんなことを考えながら、左手にひっきりなしに車が走り、そのすぐ向こうはJRの線路があって黄緑色の電車が筆者を追い越して行く。御香宮の前に骨董屋があると本で読んでいて、探したが見当たらなかった。それでなだらかな上り坂を東へ進んでJRの線路をわたると、奥に森が見える。女学生の下校時に当たったので、ぞろぞろと向こうからやって来る。郵便局があったのでそこでお金を下ろした。また道を行くと、杉が周りに鬱蒼と繁り、こんな奥に女子高校があると思うと物騒な気がした。森の左を上がって行くと伏見桃山城で、ここには遊園地があって幼い息子を連れてバスに乗って何度も行ったことがある。そのまま進むと昼でも暗い感じの森が周囲にあって、警備員が立っていた。明治天皇の御陵だ。そこを右に折れるとすぐに乃木神社があった。改修中だが、中に入って参拝した。氏子がいないので賽銭だけが収入源で、近年はかなり荒れていたらしい。乃木大将の銅像や住んだ家を復元したものだろうか、いろいろと目につくものがあった。この境内を稲垣はよく散歩したかもしれない。そのあたりは小高い丘で閑静な住宅地だ。やがてJRの線路を下に見下ろす場所に来た。地図で見当をつけていた稲垣の家はすぐにわかったが表札までは確認していない。それに敷地には真新しい家が2、3建っている。さては記憶違いか。周囲の空気だけ味わえばよいので、立ち止まらずにそのまま急な下り坂を進んで広い車道に出た。そこを右、つまり西に行けば京阪宇治線の観月橋駅に出るはずだ。西日が眩しくてサングラスをかけた。観月橋には親戚がいて、立ち寄ってもよかったがもう20年も訪れておらず、場所が定かではない。そして駅で電車を待っていると、急に奇妙で懐かしいような気分に襲われた。その駅から乗車したことは初めてだが、西日と風が遠い昔にたった一度味わってもう完全に忘れ去った情感をふと浮上させた。それはほんの数秒のことだ。だがそれで充分。人はたった1秒でも強い印象を一生涯忘れないこともある。100年生きてもそういうことに乏しい人生であるならば、それはたいした意味はない。いや、そんな人にも伝え得ない一瞬の情感の再現をここで書くことこそ全く無意味だろう。それは自分でもコントロールできないもので、もうこれから先あるかどうかもわからない。いや、もう二度とはあるまい。そう思うと人生の1回限りの日々は何と光り輝いていて面白いことか。この観月橋あたりは大きな橋がふたつ頭上にあって、どちらかと言えば殺風景で楽しい場所でもないのだが、稲垣はこの駅を利用し、筆者が今日歩いた道を何度も往来したはず。そんなことを考えればそれなりに感じ入ることもある。乗り換えの中書島駅まで1駅。時計を見ると間違って丹波橋で下車してちょうど1時間経っていた。数キロの散歩だった。中書島は幼い頃の筆者が母に連れられて何度下り立ったことだろう。その頃は駅を出てすぐに市電があったが、中書島は京都の市電の最南端の駅であった。それに乗って市電の丹波橋駅(京阪の丹波橋から西方1キロ)まで行くと母の姉がいて、夏休みはいつもそこで過ごしたものだ。四条河原町の百貨店で今日が誕生日の妻のために丸いケーキを買った。帰宅すると石原さんから『大論2』のディスコグラフィーと参考文献のゲラが届いていた。前者は4行はみ出てしまったのでどうにか詰めてほしいとのこと。それで1時間ほどかかって訂正したが、他にもデータ変換の間違いも含めて、2、3あった。これが少し不安だ。筆者が赤を入れたゲラがそのままみなうまく訂正されればよいが、その段階でまたミスが出る可能性もあるからだ。平均すれば1ページに1ヵ所は直したから全体ではかなりの量だ。しかし後はもう石原さんを信じるのみ。
by uuuzen | 2007-05-08 11:24 | ○『大論2の本当の物語』
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