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●『広重【東海道・木曽街道】二大街道浮世絵展』
のぼりが泳いでいた。4月30日、この展覧会を見終わった後、すぐ近くの琵琶湖大橋をわたるすぐ手前でのことだ。都会では自宅で大きな鯉のぼりを上げることは贅沢になってしまった。



●『広重【東海道・木曽街道】二大街道浮世絵展』_d0053294_1721103.jpg屋根より高いと歌っていたのが、もうビルよりはるかに低くなってしまい、5月の風を楽しむ風情はなくなった。そういう日本の風物詩は大都会を外れるとまだ健在とも言えるが、琵琶湖大橋付近も鯉のぼりより高い建物がぽつぽつとあって、100年もすれば都会並みに変貌するかもしれない。いつも思うことだが、人口が減少するというのに建物は増え続け、しかも価格が下がらない。やがて廃墟と化したビルが都会の半分以上を占める不気味な時代がきっと来る。それを全部取り壊して平らにすれば、少しは江戸時代に戻ったようですっきりとするかもしれない。佐川美術館のあるあたりの広々とした平野は、信楽の山に囲まれた平地や、山が近い湖西や大津あたりとは違った独特の風情がある。江戸時代は一面の畑であったであろうが、それは今もさほど変化なく、野洲から琵琶湖畔まではちょうど京都の巨椋池のあったところとよく似て、干拓地を感じさせる。佐川美術館は今回で4回目だったと思うが、いずれも息子の車で家族3人で出かけた。だが、それもこれからは変わるだろう。この春息子が就職し、1か月間は電車で自宅から通ったが、1時間半ほど要するので、寮に住む方がいいということになった。4月30日は半分引っ越しの手続きと掃除に寮を訪れ、その帰りに美術館を訪れたのだ。不思議なものだが、友人に車をもらってからこの3年、息子の車で滋賀県立近美にしばしば出かけた。そのため息子は滋賀方面だけは車でよく訪れた。寮は滋賀県立近美よりさらに国道1号線を30分ほど先に行ったところにあるが、就職先が滋賀に決まったのは縁があったのだ。筆者は湖西方面に知人がいるが、国道1号線沿いの草津より東はほとんど未知の土地だ。連休明けからはそこに息子が単身で親から離れて住むことになる。車は持って行ってそれで会社に通うから、もう家族で自宅から滋賀にある美術館に行くことはないだろう。筆者が免許を取ればよいと周りからは今でもよく言われる。世界が広がるからというのが理由だが、物は考えようで、確かに車があれば移動に便利で、その分世界が大きくなっても、車で一気に突っ走ることで逆に見えなくなることも多い。どのような身分で過ごそうとも結局心の持ちようで、車がなかった江戸時代の人々もそれなりに大きな世界を持っていたと思う。
 芭蕉があのような俳句の世界を確立出来たのは自分の足で歩いて見たからだ。車がある現在、なぜ芭蕉以上に大きく広い世界を持った俳人が出ないのか。これひとつ取ってみても、車があることで昔よりすべてがよくなったとは言えない。今回展覧会を見ていて、ある人がこんなことを言っていた。「昔は車もなかったから、そりゃ空気はきれいで遠くまではっきり見えたやろうな。そんな風景いっぺん見てみたいものやな」。佐川美術館に来る人はすべて車かバスを利用する。狭い日本に車が異常に増え、それが時に人をはね殺したりするのを不思議と思わないとすれば、それはかなり鈍感になっている証拠だ。1000年先の人々はこう言っているかもしれない。「1000年前は自動車に乗って人々が移動していたが、ハンドルひとつで人を轢き殺すことも出来たし、それに排気ガスを撒き散らし、図体が大きくて場所も取っていたから、ホント昔の人間は野蛮なことをしていたものだな」。1000年先の人々は移動に個人的な「乗り物」を利用はしていても、現在の自動車とは全然別の物を発明し、風景は江戸時代とほとんど同じ自然が回復されていると想像する。いや、そうあってほしい。人は今ある便利さに弱いので、その便利さだけが異常に大きく見える。だが、それは企業の巧みな戦略に乗せられているためだ。そのため、便利なことの引き換えで不便が必ず生じているにもかかわらず、内心それに気づいても気づいていないふりをする。話を変えよう。国道1号線は、筆者は初めて知った国道で、大阪に生まれ住んでいた頃から身近にあった。たまに車で京都に連れて行ってもらえることがあったが、その時走るのが国道1号だった。その国道の東への延長の滋賀へと家族で車で走ることになろうとは夢にも思わなかったので、滋賀県を車で走るたびにいろいろと感慨深くなる。前に書いたことがあるが、筆者は中1の時、近所のたばこ屋で売っている小さなマッチ箱に興味を抱き、広重の東海道五十三次の版画が印刷されているものを集めた。もちろん箱だけでいいので、マッチは家庭で使用した。半年ほどかかって55種類全部を集めたろうか。その後だったか、永谷園のお茶漬けの素に同じ東海道五十三次の版画を診察したものが1枚ずつ入るようになった。当時は東海道五十三次ブームがあったのだろう。中学生になったばかりの筆者は美術が好きであったが、家には画集の1冊もなく、またそれに興味を抱く大人も皆無だった。そのため、マッチ箱に江戸時代の版画がそのままカラー印刷されていることを発見した時はとても嬉しかった。それほど美術というものに飢えていた。大きなボール紙を文具店で買って来て、収集したマッチ箱を11個ずつ5段に並べて貼りつけ、各マッチ箱の下に宿場町の名前を書いた。宿場順に並べる時、確か友だちから東海銀行が発行していた五十三次の版画全部を印刷したカレンダーか何かを借りて参考にした。名神高速道路が出来る当時で、世は観光ブームが到来していたのだ。
 中1から美術好きであった筆者にとって、最も早く名画家として認識したのが広重であったが、それは毎年秋の国際文通週間に発売される特殊切手が、広重の東海道五十三次から選ばれていたことが大きく影響している。1958年発行の京師(京都)から始まって、桑名、蒲原、箱根、そして62年発行の日本橋の5年間で、広重が描いた順序としては逆の、京都から東京に上がる順番となっていた。江戸時代では京都方面に行くのが「上る」で、上方と呼ばれていたが、それが明治以降は逆転し、東京に行くのが「上る」になった。国際文通週間の5枚の広重切手の発行順はそのことを反映している。五十三次の55枚が毎年切手になればいいのにと思ったものだったが、そうはならないことが63年から北斎の切手を取り上げることからわかった。ならば切手ではなく、マッチ箱で全部集めてみようとしたのだと思う。ちなみに55個のマッチ箱を貼りつけた「作品」は何年も壁に飾っていたが、中2か3年の頃にムンクに興味を抱いて外国の絵画に関心が移った。あまりに見慣れた東海道五十三次であるので、その後何度か展覧会で広重の版画に接することはあったが、たいした感慨はなかった。そのため今回もさして興味があったわけではない。息子の引っ越しついでに数キロ車を走らせれば美術館があると思って出かけたようなものだ。それでもここ2、3年は急速に江戸時代の上方に関心を抱いている筆者であるので、今までとは違った見方で鑑賞出来た。そのひとつは、最初に書いたように、江戸時代と現在のあまりの文明の変化と、あるいはさほど変化していないところを確認する面白さだ。人間の頭は便利なもので、意識によってある対象を排除出来る。江戸時代にはなかった建物などを順に頭の中で消して行くと、200年前はどのような光景であったかが少しずつ見えて来る。当時は当時なりの問題も多少は抱えていたであろうから、当時の景色は決して美しいばかりではなかったろうが、ゴミと呼べるものははるかに少なく、人々や建物はそれなりに自然によく調和もしていたに違いない。そして、そんな中にいる人々の中からたとえば広重のような絵師が街道の宿場を美しい色合いで豊かに表現した作品は、自然そのものが生んだもののように思える。広重の東海道五十三次をまねてよく現代の写真家が作品化するが、そこに見られる光景は調和とは全くほど遠く、無粋の一言のみがふさわしい。それは便利の掛け声による「物」の氾濫を示し、美しい自然がほとんど壊滅してしまった現実を確認させる。国破れて山河なしというのが現実で、広重の版画にある風景はもう日本のどこにもないまぼ幻であることを人々はよく知っている。そのため、なおさら広重の版画の人気は今後も続く。
 だが、今回改めて広重の作品を見て感じたことがある。多色版画によるその作品は確かに情緒豊かだが、時としてとても安っぽく、昭和初期の駄菓子屋で売っていた玩具の印刷に近い味わいがある。これは今回の意外な発見であった。それは実物に近い色合いの印刷物とは雲泥の差のある数版ということ以外に、広重の描写力にもよる。ある作品に描かれた城郭は、ちょうど下手な漫画家を思わせる簡単かつ歪んだ形をしていて、かなりのやっつけ仕事に見えた。また、量産の版画は本質的には印刷と言えるが、広重の版画は現在の精巧な印刷ではなく、大正から戦前にかけての安物のオフセット印刷の味わいにとても近い。広重の東海道五十三次は絶大な人気を誇ったが、それだけ安価で買いやすかったからでもあろう。その比較的「安価」という部分が、仕上がりにそのまま表われていて、それが現在の目で見ると、美術品と言うよりも古書の挿絵に近い安っぽさに思える。そしてそこからさらに思うのは、広重が活躍した当時はそうした安っぽさに代表されるような日本であったに違いないということだ。その安っぽさを克服しようと明治になって富国強兵に進んだが、それもまた無理ならぬ考えであったようにも思える。明治期には浮世絵は日本文化の恥として否定されたが、それはおそらく筆者が会場で感じ取った「安っぽさ」が露になったものであったからでもあろう。広重の浮世絵を安っぽいものでは決してなく、一流の芸術と崇めるならば、明治大正、それに昭和初期に印刷されたあらゆる安っぽいものもみなそのうち一流の芸術に昇格することになる。一部の古書や骨董の愛好家はそんなことをすでに考えて収集しているだろう。また、広重に代表される版画と明治になってからの多色印刷物との間に確かなつながりがあるとすれば、日本は芸術において江戸から明治になっても分断を生じさせなかったと見ることも出来る。これは世間で言われるほど、江戸から明治ががらりと文化が変わったのではなく、欧米と同様日本もそれなりに緩やかに国を変えて来たことを示す。確かに手仕事で精巧な木版画を生む伝統はほとんど壊滅したが、それに代わって、同じような安っぽい表現としての「絵」を印刷する技術が生まれたから、本質の幾分かは保持されたと言える。
 会場でこんなことを話している中年男性がいた。「昔切手を集めていて、大人になったら持っていないものをみんな買ってやろうと思っていたけど、結局今も買ってへん。興味がもうなくなってしもうたからな」。そう言う男は広重の版画を見て何を思うのだろう。切手を思い出したところを見ると、ノスタルジーだろう。広重の版画は江戸時代から案外そうした思いを惹起させるものではなかったろうか。名画や名曲を鑑賞することはタイムマシンに乗ることと同じで、それを作った人がいた過去の世界に行くことでもあるから、芸術作品は本質的にノスタルジーに強く絡んでいる。『ああ、昔は今とは違ってこんなことが出来ていたんだな』とか、『昔は面倒臭いことをしていたな。今なら印刷ですぐやのに』とか、思うことはさまざまだが、作品はそれが作られた当時の情報をそのまま持っているから、当時の人々の考えを知るよすがになる。そして当時の人々が今とどう違うのか、あるいは変わっていないのかとの思考は、広重の時代の人々も持っていたもので、結局人間はいつの時代でもノスタルジーを抱え、変化してしまった何かを前に自分の人生が確実に過ぎてまた動いて行くことを確認し続ける。筆者にとって、そのことを今回の展覧会はいみじくも示してくれたわけで、それは最初に書いた中学生の時のマッチ箱集めや息子のひとり立ちといった個人的な話から伝わるだろう。そのことで思い出したので、ここでまた話を変える。ブログに展覧会の感想の無数にあるが、どういう文章が理想的かは書く人々の数だけ考えがある。筆者が長文を費やして書く内容は、大半は感想と言うよりも、それに絡めた随想であり、読み手がたとえば展覧会の本質的な情報をくまなく知るという点ではほとんど何の益もない。それは図録に頼れば済むことで、筆者が長文に書く内容は、半分は日記、半分は批評的感想で、ノスタルジーを意図しているわけではないが、結果的にはその要素を色濃く持つものを期待している。そのため、全体を簡略化すれば二、三言で済むというような文章を目的としていない。つまり、長文ならではのその起伏が読んでいて楽しいと思ってもらえる人だけのためのもので、気軽に情報だけ知りたい人にはかえって迷惑な文章だ。その意味で、この場は筆者なりの真剣な場であり、それなりに正直な思いを連ねたい思いを常に持っている。
 本題に入ろう。最近NHKのTV番組に若い女性が中山道の街道を歩くというのがあった。それを受けての今回の展覧会ではないが、なかなかタイムリーな内容ではある。半年ほど前か、新聞記事に広重の写生帳が発見され、それが佐川美術館で展示されるとあった。その機会が今回の展覧会であったが、なぜ佐川美術館かと言えば、美術館のある守山が中山道(木曽街道)最後の宿駅になっていたからだ。東海道は7世紀に整備され、現在の道程と同様だったとされる。鎌倉、室町幕府が整備した後、江戸の慶長(1596-1615)から元和(1615-24)年間に五街道(東海道、西街道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の道程が決められ、直轄とされた。広重(1797-1858)は東海道シリーズを20種以上も制作したが、最も完成度が高く、よく売れたのは天保4年(1833)出版の保永堂版で、これは前述の切手やマッチ箱に採用された。保永堂版は、新進の版元の保永堂(竹内孫八)と老舗の僊鶴堂(鶴屋喜右衛門)の合作として始まったが、途中から保永堂の単独刊行になった。55枚で構成され、四季や天候、時刻などの自然要素が取り入れられている。今回の展示は、有名なこの保永堂版『東海道五拾三次』の前に、『木曾街道六拾九次』が展示された。これは『東海道五拾三次』に続いて刊行されたもので、チラシによると、『…風景画の最高傑作とされる「洗馬」など、広重の代表作が多く含まれているにもかかわらず、初摺の全品が揃って展観されることはほとんどありませんでした。しかし、今回、奇跡的も優秀な初摺の「木曾街道六拾九次」の完本がアメリカで発見され、日本にもたらされました。これまで発見されなかった溪斎英泉の落款入り作品2点及び、世界で数点しか確認されていない幻の「雨の中津川」を含む、大変貴重な初摺完本となっております』とあって、広重個人の作品ではないことがわかるが、発刊当時、絵師は英泉(1791-1848)から広重に、版元は保永堂から錦樹堂(伊勢屋利兵衛)、さらに山庄(山田屋庄次郎)へ移るなど、後摺の遺品が錯綜し、初摺が特定出来ない。最初は英泉筆によって天保6年(1835)頃から刊行されたが、24図(起点からの宿場順ではない)で中止となり、広重が後を継いで残り46図を描き、70図を完成させた。「中津川」のみ変わり図があって、全部で71図ある。東海道は政策上、架橋のない河川が多く、徒渡しや舟渡しは天候に左右されやすく、何日も川留めが続いたため、中山道で移動する大名行列や旅人も多かった。中山道は江戸日本橋を出発し、京都の三条大橋に至るが、道中は板橋から守山まで67の宿駅があり、これに東海道と重なる草津は大津を加えて六十九次とした。
 「木曾街道六拾九次」は英泉と広重の合作なので、「東海道五拾三次」のような統一感はない。「洗馬」はさびしくまた印象深い風景だ。芦が生い茂る水辺を2艘の舟が画面奥に進み、その前方水面に大きな夕日が没しようとしている。写真では同じ味わいを表現することは難しいだろう。それは太陽を誇張したり、芦を線の連なりでわかりやすく表現しているからだ。同じようなことは、夕暮れ時を描く時、中景に歩む人々を影絵のように描くことからも言える。この技法は明治になってよりいっそう使用されるようになったが、広重が先駆的に仕事をしているのはもっと注目されてよい。それに、江戸と明治がつながっていることが、そうした版画の技法ひとつからでもよく感じ取ることが出来る。広重の版画から伝わる情緒は、写真では不可能な版画独自の表現に負っているゆえと言えるが、それが日本以外の国の人々に理解されるとすれば、何か普遍的なものを持っているからだ。それは案外そのまま現在の漫画に受け継がれている部分が多いはずで、先に書いた広重の版画の安っぽさは、そこからも説明がつく気がする。また、こうした風景版画の面白い点は、人物描写に滑稽味がよく見られることだ。「大津」では、客を左右から引く旅館の女中が描かれ、それに閉口している客の表情が面白い。また、その作品ではいかにも湖に向かってなだらかに下がって行く街路がよく描かれていて、現在の大津そのままだ。つまり、変わった部分も大きいが、変わらない部分もまたあることを再確認する。展示は「江戸近郊八景」「近江八景」へと続き、最後は「甲州日記写生帳」であった。これは天保12年(1841)甲州へ旅した時の日記で、墨で書かれ、他人に見せるためのものではないため、完成度がどうのという対象にはならない。小冊子という程度の厚みと大きさで、見開き両ページのみの展示、残りのページは写真で紹介された。広重は多くの冊子を参照して制作し、描いた場所の全部を訪れたわけではない。各地への訪問は「甲州記」「鹿野山行」「房総行」「武相名所旅絵日記」がよく知られるが、「武相名所…」以外の3点は大正の大震災で焼失した。「甲州日記写生帳」は明治年間に海外で研究発表があったがその後行方不明となり、一昨年ロンドンのオークションに登場し、アメリカ人の収集家の手に落ちた。今回は110年ぶりの里帰り、80年ぶりの再発見になる。宿に泊まった時の酒が悪いという記述が繰り返しあるなど、文字からわかる広重の様子が貴重とも言える。
by uuuzen | 2007-05-05 17:21 | ●展覧会SOON評SO ON
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