そろそろ展覧会の感想を書いておかなくては、せっかくあちこちまめに美術館に行っていることが無駄になるか。いや、もうかなり書かないままになった展覧会が多いが、記憶がうすれないうちに先週土曜日に京都文化博物館で見たものについて書いておく。

この展覧会は10年もっと前だったか、確かほとんど同じタイトルと内容のものを見た記憶がある。丸紅京都支店所蔵の染織品と絵画であるから、京都で展覧会をするのはさほど経費もかからないであろう。今回の展示の目玉は、日本に一点しかないと言われるボッティチェリの油彩画と、淀君が着用した辻が花小袖を復元したもので、その2点がチラシやチケットにデザインされている。結果から言えば、看板に偽りはなく、この2点を見るだけで価値がある。あるいはこの2点だけが見応えがあったと言い換えてよいか。京都で染織の展覧会が開催されるのは全く珍しくなく、優品は何度も見ているので、またかという気になる。古いキモノは、何だかまとっていた人の汗や匂いがまだ付着しているようで、幽霊が出て来そうに感じるが、これは筆者のように染織家である者だけの思いだろうか。消耗品と最初から割り切っている洋服の古着とは違い、今では復元も困難な手の込んだ豪華なキモノとなると、古着であっても骨董的価値が加わって、時には重要文化財という指定も受ける。つまり、ボロとして処分されるものではなく、古びたまま展示され、これはたとえばボッティチェリの絵画が今描いたばかりに見える「物」としての新しさが保存されていることとは違って、何だか見ていて無残に思えて来る部分がある。そこには、着た人がまさか200年や300年後に美術品として絵画と一緒に展示されることなど思いもよらなかったことも加わっている。だが、ややこしいことに、権力者が着用した小袖はそれなりに当時から価値あるものとして認められていて、古びてもボロとして簡単に捨てられはしなかった。すべて手仕事に頼るしかなかった当時のキモノが、身分に応じて膨大な手間がかかったものからごく安物まであったことは誰しも想像出来ることだが、その膨大な手間がかかったものについては、当時の人々はよく知っていて、たとえ断片となってもそれなりに愛好した。それはそうした染織品が使い回しが出来たからで、より小さいものへと作り変えられ、最後はたとえば掛軸の裂などにも使用された。そのような古い小袖裂を時代裂と呼んで、300年ほど経った辻が花裂などは、小さな画用紙くらいのサイズでも1千万円では買えなかったりするほどだ。
そうした時代裂を使用した掛軸はまたとてもいい味がある。そういうことを一旦知ると、俄然古い裂についての見方が変わる。何事も奥が深いものなのだ。ある人には全くのゴミにしか見えないようなものでも、場所を変えればそれが宝になる。日本の小袖裂はおそらんそんなものの代表と言ってよい。そのようにしてあらゆる骨董品、美術品が存在しているが、自分の興味のないものについては何の価値も認められない場合は誰にも往々にしてある。世の中には無限の「物」があるので、一般的に価値が認められているあらゆる物に対してそれなりの鑑識眼を持つことは不可能で、またその必要もないが、それでも通常美術に関心があって、ある部分に特に興味がある場合、そのつながりとして別のジャンルにも関心を抱くことはある程度必要だ。そうでないと、興味を持っている特定の部分についても一定以上は深く掘り下げが出来ない。結局、その気さえあれば、芋蔓式にあらゆる骨董、美術に関心を広げて行く未知なる道が眼前に用意されているものだが、それでもやはり限界はあるだろう。それはあらゆるジャンルに関心を抱いていても、たとえば人生の短さによって、好みのジャンルに偏りがちとなったまま生を終えるという事実があるからだ。何だかあたりまえの話を書いて時間を無駄にしたようだが、言いたいことは、そんなことを強く思わせるのが特に今回の展覧会であったということだ。西洋の名画に関心を抱く人と日本の小袖に興味のある人がどの程度だぶるのかそうでないのかわからないが、双方は見所というものが違う、つまり作品のよさをそれなりに深く知るに必要な基礎的知識というものが異なるので、展覧会を訪れる人はどうしてもどちらかのコーナーをより面白いと思うだろう。逆に言えば、今回の展覧会を中途半端な展示内容ということで敬遠する人もあるかもしれない。筆者はどちらも面白く見たが、それでも軍配を上げるとなると、染織品より絵画であった。ところで、丸紅がなぜ絵画を収集したかだが、1969年に「丸紅アート・ギャラリー」を開設し、総合商社として初めて本格的に美術品の輸入販売を手がけたことによる。これは79年に中止されるが、わずか10年しか持たなかったのは、結局儲からなかったからであろう。その後バブルを迎えて日本の絵画市場は空前の活況を呈したが、その後は反動からとんでもない地獄図があちこちで繰り広げられ、筆者の知る画商もたちまち事業を縮小して地方に引っ越しをしたりしたし、あるいは横山大観を初め、日本の巨匠画家の作品や西洋の名画をふんだんに買い熱め、美術館を作ろうとしたある店は家業をたたみ、しかも収集した絵画はみな借金返済のために別のより大きな会社の手にわたって分散してしまった。丸紅が1979年で絵画ビジネスをやめているのは、そんな深みに入る前に踏み留まったからかもしれない。
現在の丸紅は近江商人を祖とする。創業者の伊藤忠兵衛は天保13年(1842)に滋賀県に生まれた。家業は繊維品を扱う小売業「紅長」で、15歳の忠兵衛は安政5年(1858)に近江麻布の持ち下り業(商品を運んで卸売りする)から始め、明治に大阪本町に呉服太物商「紅忠」をかまえた。昭和になって染織芸術逸品展の「美展」を始め、研究資料として昭和4年(1929)に能装束を購入したのが始まりで、以降古い染織品を収集し始めた。「美展」は現在でも続いてると思うが、人間国宝クラス、あるいはその門下につながる友禅作家の新作商品が展示される。今から30年ほど前はまだかなり盛況だったが、最近はどうなのだろう。筆者は師がいないので、そういうところからお呼びがかかるはずもないので知らないが、京都の呉服産業が壊滅的に縮小され続けた現在、商売も小さくなっていると思う。細見美術館のコレクションも初代が和泉地方の繊維が財を成した結果生まれたもので、繊維で儲かった時代がかつてはあったのだ。今はユニクロあたりが儲けているはずだが、さて社長が美術品収集の趣味を持っているのかどうか。欧米では金持ちの象徴は美術品を買って、それで美術館を建てるか、あるいは美術館に寄贈するのが相場だが、日本でもそういう社長もあれば全くそうでない社長もあって、他人がとやかく言うことではないか。話を戻して、呉服を生業とした丸紅は、大正末から昭和初期にかけて「あかね会」を作った。新時代を担う流行のデザインを製作するために、約70人の当時の著名な日本画家や洋画家、図案家に図案の依頼をした。今回その中から47人の原画が展示されたが、図案としてほとんどそのまま使用出来るものから、そうとは思えないものまでさまざまで、丸紅がいくら支払ったのか気になった。そして、その原画をもとにして作られたキモノが存在するのかどうか、その紹介もしてほしかったが、おそらくほとんど使用は出来なかったのではあるまいか。大半の作品は当の画家の個性をよく表わしているものの、画家の作とするにはかなり物足りないもので、依頼は受けたが適当に仕事をしたという印象がいかにも強い。画家として名が通っているのであるから、キモノの図案などまっぴらという思いがあったかもしれない。それは現在の方がより強いが、それでも当の画家はキモノ図案を描けない。そういう観点から言えば、まだ大正昭和の画家たちは才能がある割りには謙虚であったと言うべきか。いや、当時はまだキモノが日常的に着用されていて、画家たちの意識が今とは大きく違ったのだ。
どんな画家が携わったか、メモをした来たので引用しておく。竹内栖鳳、西山翆嶂、土田麥僊、山口華楊、梶原緋佐子、宇田荻邨、石崎光瑶、岡田三郎助、生田花朝女、石井柏亭、伊藤深水、菊池契月、北野恒富、高島華宵、西村五雲、福田平八郎、金島桂華、川端龍子、山口蓬春、菅楯彦、広川松五郎、杉浦非水、斎藤佳三、北村西望、東郷青児、藤島武二などで、筆者は広川(1889-1952)の作品が面白かった。それは1988年に東京国立近代美術館工芸館で開催された「図案の変貌 1868-1945」の図録表紙に使用されたことのある印象的なものだ。その時のチラシにも広川の作品が採用がされたが、それら2点の写真を掲げておく。新潟生まれの広川は、モダンな友禅染によって当時を代表する染色家だ。ごくたまに屏風や衝立などの作品が1、2点並ぶ程度で、本格的な個人回顧展は開催されたことがない。2人展としては数年前に新潟であったが、その時の図録は入手していない。とにかくこの作家についてもっと知りたいと思いつつ、20年が経ってしまった。前述のように、関心はあってもなかなか深まらないものなのだ。東京を中心に活躍した人はどうしても関西では紹介が遅れるが、丸紅はよくぞ広川にも依頼していたものだ。それほど当時は有名な図案家であった。また、図案だけではなく、実際に自分の手を動かして染色をしたところが偉大だ。京都の西陣でも図案家は無数にいるが、紙に描くだけで、自分で染めたり織ったりはしないから、どうしても机上の空論的なものになる。単に面白いという図案は駄目で、それがどのように染められたり織られたりするかをある程度知っていなくては、合理的で美しいものは出来ない。ラウル・デュフィもテキスタイル・デザインを盛んにしたが、それは実際に染織されたものを絶えず確認しての作業であった。染織で儲けた丸紅が仕事に活かそうと著名な画家や図案家に描かせたものが、時代を経て独特の美術品として意味を持って来ているのは面白い。それは当時いかに才能ある画家や図案家がひしめいていたかを示す一方、現状があまりにも染織からかけ離れた絵画世界になってしまっている現実も伝える。時代を経るにしたがって専門家、分業が加速化するのは仕方のないことであるだろう。だが、現在有名人が着ている衣服が、300年後に断片となって美しいと思われているかどうか。ボロですら残っていないだろう。

辻が花の小裂や小袖、能装束、あるいは友禅掛軸や屏風、刺繍による袱紗など、実物の染織品は最初に書いたように、あまり珍しくないのでほとんど素通りしたが、淀君が着用した小袖の断片から全体を復元したものが最初に飾ってあって、これは一見の価値がある。その復元作業を撮影したビデオが流されていて、これはNHKが以前紹介したものだと思う。ここで復元された辻が花は、例の一竹辻が花とは同じ絞りながら、その工程や技法は全く違うと言ってよい。こちらは草木を煮出した汁に浸して炊き染めする、昔どおりの本格的な絞りだ。あまりまえのことながら、同じ染料と同じ技法に頼るのでない限り、同じ染織品は復元出来ない。つまり、手抜きや簡便な技法を使うと必ず仕上がりは一見似ていても違ったものとなる。そして、染織は本来は秘密にしている部分が少なくないため、復元作業は困難がつきまとう。ましてや当時の権力者が着用していたものとなれば、究極の技術で作られているため、膨大な手間と複雑な工程を要する。残されていた小裂は、赤色がほぼ完全に褪色していたため、復元されたものを見るとあまりの色鮮やかなことに驚くが、これは寺や仏像の彩色でも同じことで、作られた当初はみな派手なものであった。また、色だけを復元するならまだしも、同じような緻密な仕事を再現するためには、生地も同じものが必要で、今回は生地から特別に織られた。そして、ごくわずかしか残っていない裂から小袖全体のデザインを復元するのは無理があると思われるだろうが、丸紅以外に同じ小袖から裂を保存しているところがあり、そうしたものをひっくるめておおよそどういう全体デザインかを特定した。それはほとんど間違いのないものと言ってよいが、小袖の模様はそれなりに当時の流行や決まりがあるため、他の小袖なども参考に使えるからだ。それにしても復元された小袖はとてもおおらかで緻密、いかにも時代を反映して楽しい。現在のキモノに応用出来る部分もあるが、数千万円といった価格になるであろうし、しかも今は今の好みがあって、いくら手が込んだ仕事とはいえ、似合わないであろう。ではこうした復元作用に何の意味があるかということになるが、復元を通じてわかることは少なくなく、古ぼけて見すぼらしい古裂が実はこんな艶やかなものであったのだということを実物で確認させてくれる意味合いは大きい。パソコン画面で復元すれば済むとドライに考える人は、美術鑑賞の本来の意味をよく知らないと言ってよい。実物しか与えない迫力は確かにあるもので、それに出会いために美術館に足を運ぶ。同じように実物のオーラを痛切に感じたのは、ボッティチェリの「美しきシモネッタ」で、これはいくら精巧の印刷でも駄目だ。絵そのものが透明感があり、しかも500年前の空気が閉じ込められている。実物だけが持ち得るそのオーラは、複製では再現出来ず、間近に作品を見るしかない。そしてそのオーラは一瞬でこちらに伝わる。実際数秒見ただけと言ってよい。その数秒が永遠に心に残るといった感覚だ。そういうことは人生にはよくあるのではないだろうか。ある一瞬が長い人生の中で何度も呼び起こすことの出来る決定的な記憶となる。人間はそういう出会いをするために生きているのではないだろうか。丸紅はよくぞこの絵画を買っていたと思うが、今後もし手放すとしても日本にあってほしい。絵画をどの程度所蔵しているのか知らないが、常設公開はしないのであろうか。何年かに一度の展示ではもったいない。
他の画家の作品について最後に少し書いておくと、まず日本の洋画家で気になったのは、まず児島虎次郎「フランスの森」(1912年頃)。この画家は倉敷の大原美術館のコレクションの現地買いつけをした人物としてよく知られるが、作品はあまり接する機会がない。小磯良平は神戸の美術館でよく見て珍しくないが、同じように神戸の画家として有名な金山平三の作品「奥入瀬」(1944-50)があったことにはなかなか渋さを感じた。鍋井克之「グラバー邸」は、現地に行ったことのある者は感慨が違うだろう。牛島憲之の「青堤」(1973頃)、岡鹿之助「積雪」(1956)はいかにもという作品であまり記憶に残らないが、香月泰男「ラス・パルマス」(1973)は、スペインの闘牛場を描いた縦長の大きな作品で、黄色い砂地が明るくてよかった。難波田龍起「海の詩」(1971)が最後にあったが、こうした抽象画家まで網羅しているのは嬉しい。続いて西洋の画家のコーナーで、最初はヴラマンクの大作が3点。雪景色のほかに静物があった。ルドンの「青い花瓶のキンセンカ」(1910頃)は、ベージュ色の紙にパステルで描かれ、ルドンらしい静謐さと華麗さが印象深い。ルオーの「受難:聖書の風景」の隣にドイツ表現派のエミール・ノルデの「森の空き地」(1910)があって驚いた。大きな画面で、日本では珍しいだろう。デュフィ「ル・アーブル港の船」(1926)は先の広川松五郎の図案のような、とても濃い紺色が全体を支配し、かろやかさより暗さがある。デフィにはたまにそうした作品がある。キスリング「ミモザの花」(1952)は、先月何度もこの花を咲かせる大きな木を見たが、なるほどその鮮やかな黄色をよく再現している。オートン・フリエス「森の路」(1901)は、今回出品された絵画では最大のもの。フォーヴ周辺の画家でセザンヌの影響も受けているが、この絵はピサロの点描風も思わせ全体に暗く、世紀末の雰囲気を宿している。売れ残ったのであろうか。トマス・ゲインズバラ、ジェイムズ・ウェッブはイギリスの画家。印象派を見慣れた目からすればありがたい。後者の「ハイデルベルク」(1877)は、川辺から古都を眺めた明るい風景画で、現地に行った気になれた。コローの「ヴィル・ダブレーのあずまや」(1847)は、縦長で上部がアーチ型に丸くなった大画面、しかもコローらしからぬ一種の静かな暗さがあった。絵具が褪色したのだろうか。縦に伸びて画面上端に届く糸杉が4本あって、その背後に見える空は昼間の明るさだが、暗い画面下半分のあずまやや広場に点在する5人ほどの人々は、よく見ないと判別出来ない。どこかルネ・マグリット風のシュールさがあり、またバルテュス風でもあって、コローの別の才能を見た気がしてそれなりに忘れ難い。