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●『プラダを着た悪魔』
しいというのに、八坂神社へ花見がてらに最近祇園会館に2回行った。計4本の映画を見たので、このブログで4日分のネタがあることになるが、4本の中で最も面白かった作品を今日は書く。



●『プラダを着た悪魔』_d0053294_2025882.jpgこの映画の封切りは半年ほど前だったと思うが、変わった題名なので当時記憶にとどめた。だが、筆者はよほどのことがない限り封切りでは見ない。どうせすぐに二番館に来たり、またTVでも見られるからだが、映画館で見るのはその機会を逃せばおそらく10年以上は出会えない作品に限る。今時そんな映画があるのかどうかだが、DVDにしてもあまり売れないようなものはあるはずで、しかもそんな作品の中にけっこう面白いものがあったりする。筆者がたまたまにしろ、封切りで見たいと思うのはそんな映画だ。ハリウッド映画は万人が面白いように、つまり一級の娯楽という点を強調して作られているから、何度も書くように、どれもそれなりに面白いようでいて、意外性がない点でどれも面白くない。この『プラダを着た悪魔』もまさにそんなハリウッド映画と言ってよいが、ちょっと気にとめたところがあった。ま、それもハリウッド映画は最初から折り込み済みで作っているだろう。それをわかっていながら見るというのは、その乗せられ方が見事がそうでないかを判断するためでもある。莫大な資金が必要な映画は、とにかく大多数から人気を得る必要がまずあるから、そこにはありとあらゆる知識と経験が投入され、それこそ監督は最先端の流行や風潮、意識といったものを知り尽くしていなけれならない。そこが、こうした個人がちまちま細々ぼそぼそと書くブログとは本質的に違うもので、自分が楽しければそれでよいといった考えは許されない。だが、監督とて人間であるし、個性があって、好みがあるから、究極のところは、自分がこうしたいと思うように、時に気まぐれも交えて作品を作る。もちろんそれすらも万人に受けることを願ったうえでのことだが、何がそうなるかは最初からわからない。わかれば映画など作る意味もなく、誰も映画館に足を運ばなくなる。だが、作り手はとにかく元は取りたいと思うから、今までの成功作を参考にするなどして、何が大衆に求められているかを大いに研究もして作る。そのため、映画は芸術とは言えないし、仮に言えたとしてもかなり底辺に位置するだろう。ならば映画は何かとなるが、流行に敏感な的娯楽といったことになろうか。ちょうどファッションと近い。この映画はそんなファッション業界を描く点で、映画全般を考えさせる映画となっている。
 俳優はメリル・ストリープしか知らなかった。もうひとりの若い女優アン・ハサウェイはオードリー・ヘップバーンの再来と言われているそうだが、格が違う。大口はいいとしても、あまり印象深い顔とは言えず、役柄は限定され、将来の大物ぶりを感じさせない。もうそんな女優を期待する方が無理な時代になっているのだろう。メリル・ストリープは昔ダスティン・ホフマンとの共演になる『クレイマー・クレイマー』で見たのが最初だ。その後いくつかの作品を見て来たが、美人を売りにせず、演技力で見せる俳優で、今回はそれなりに年齢も重ね、よく好演していた。だが、ほとんど演技らしい演技をしなくても今回はこなせただろう。物語はこのふたりの女優が中心で動き、周囲に男性が3人ばかり登場するが、セリフの多い役者の数が限られていたのがよかった。テンポはとても早く、映像も美しいので飽きさせない。それに使用する音楽もU2を使用するなど、まさに今風をよく計算している。セックス描写はないが、それを暗示させる暗示的場面はあって、大人社会をよく知る者からすれば、きわめて現実的、しかもアメリカ的であることを思わずにはいられない。このアメリカ的ということは、映画に登場する人物がみな自分のやりたいことを明確に持っている点だ。アメリカにもいるのかどうか知らないが、何をしていいかわからないと引き籠もっているような人物が主人公では、娯楽的物語は作りようがない。したがって、この映画は自殺願望のある若い人が見れば、よりいっそ早く自殺したくなるような作用を及ぼすと言える。何かやりたいことへの夢を持ち、そしてそのことに向かってとにかく前進しているという人物ばかりが登場する点が、筆者にはとても面白かったが、そういう人生は当然摩擦を多く生じさせる代わりに人の出会いが多く、起伏には富むから、若い人が、あるいはまだ若いと自認する人が見ればよい映画であった。それは女性ファッションをテーマにしている点でなおのこと増幅されている。しかし、目で見て艶やかで楽しいということの裏に、業界の裏話として誰しも想像するような、そういう社会で働くうえでの根性の据え方といったものが明確に提示され、映画を見る自分の現実と照らし合わせて、この映画をどう楽しむか、その程度で自分の位置を再確認させられもするといった一種のほろ苦さも持っている。
 どんな世界でも、プロとして一流になろうと思えば尋常ではない努力が欠かせない。それに運もあるか。運も才能のうちという言葉もあるが、才能がお金で多分にどうにでもなる現実にあれば、結局は金こそすべてで、3日前アメリカで30人ほどを銃で撃ち殺した学生のように、金を持つ者に対する怨念を抱くといった人間が生まれても来る。それはアメリカ、いや資本主義国家のひとつの闇の部分だが、何をして生きて行けば満足出来るかという、一種の自分探しのようなことが今後はますます困難になって行く気がする。そんな中、この映画の主人公の若い女性は、まず明確な人生目標を持っていて、それに向かってまっしぐらに進んで行こうとしている。つまり、それ以前の悩みは描かれない。しかし、それは当然あったはずで、そこに光を当てればまた別の映画がいくらでも作られるが、ここでは目標を強く抱いた女性がそれをどう勝ち取って行くかの成功物語としてまとめられている。その目標は雑誌記者になることだが、有名大学を出て、しかもいくつかそれなりの賞も取っているのに、有名な会社にはそう簡単に入れない。それはどこの国でも同じだ。仕方なく女性はファッション雑誌の出版社にひとまず就職しようとする。腰かけ程度の思いで、見下げてもいる。面接に行くと、ファッション雑誌からそのまま抜け出て来たような女性が社長秘書として働いている。それに引き換え、自分の姿と言えば、安物のアクリル・セーターに、チェックの古いスカートだ。たちまち社員の嘲笑の的になる。それでも自分には目標があるし、服装などどうでもよいと思っている。むしろブランドものなど軽蔑している。面接はすぐに不合格となるが、メリル・ストリープ演じる女社長は今まで雇って来た、服装のセンスはよくても頭からっぽの女性とは違う何かを感じて思い直し、雇うことにする。早速第二秘書として働き始めるが、本当の名前ではなく、「エミリー」と呼ばれる。その地位は社長からは誰でもそう呼ばれるのだ。つまり、百万人以上の若い女性の憧れで、辞めても5分で後釜が見つかる。エミリーは、誰もがそう簡単に就ける仕事ではないと盛んに周りから言われ、やがて仕事の困難さを実感し始める。とにかく社長の希望は何でもかなえる必要があり、どんな無茶でも実現させねばならない。最初は失敗続きで、もう首になるのか、あるいは自分から辞めようかと悩んだりするが、会社にいる社長の片腕的存在の男性に相談すると、やるならやる、辞めるなら辞めろと言われる。つまり、愚痴は言うなということだ。その言葉で気分一新、今までの服装をやめて、会社にある最先端の流行の服装に身を固め、社長をも唸らせるファッション・センスぶりを見せつける。
 ここは重要なところだ。会社がそうであるならば、自分からそれに合わせる必要がある。それがいやなら、自分が社長になるしかない。雇われるということは、何から何までその会社の目指す方針に沿うことであり、それでこそ周りからやる気があると認められ、頭角を現わすことが出来る。会社員で最初に挫折する人はこのハードルが理解出来ない、あるいは理解出来ても沿えないからだ。この映画で秘書となった主人公の女性は、本当は別の雑誌のライターになりたい夢があるのだが、食う必要もあるし、その目的の会社に入れないならば、ひとまず妥協して別の雑誌社に入るというのは、いかにも現実的で正しい行為だろう。だが、そこは表面的には世界最先端の華やかさを演出する世界であるだけに、思いもよらぬ熾烈な戦いが繰り広げられ、しかも女社長のしたたかさは想像以上のプロ根性の権化と言ってよい。社長の過酷な要求に応じるにつれて認められ、地位が上昇するが、その分恋人と擦れ違いの日々が続き、ついに冷却期間を設けることで同意する。その恋人はレストランで働いている料理人で、同棲しているその女性のような知的さは持っていない。この役者はネットで調べると、ネイティヴ・アメリカン(インディアン)とアイルランド系の混血と言うが、まさにはまり役であった。ポテトを揚げるだけで5年も修業したというセリフがあったが、そういう世界では有名大学出の肩書は不要だ。そんな男性を、なぜ学があり、しかも美人で野心もある女性が好きになるかと言えば、それは男女のことであり、そんな例は少しも不思議ではない。恋は本能的なものであるからだ。だが、ファッション雑誌社で働くエミリーに、いつの間にか色男が接近し、ついにパリで一夜をともにする場面がある。それは料理人の恋人と一時別れていた間の出来事だが、エミリーは何事もなかったかのように結局は映画の最後でまたその料理人と暮らす道を選ぶ。そこには悩みや悪びれはなく、きわめてドライに描かれていたが、それもまた現実的と言えば言える。男女の仲とはそういうことがままあるものだ。ほとんどそのまま別れてしまうふたりに思えたが、エミリーは社長から認められるにしたがって、社長の内面や家庭の事情もわかり、そして大いなる飛躍か、あるいはそこからドロップ・アウトするかという選択と言ってよい時期がついに訪れる。自分のファッション感覚を曲げてまでも会社や社長の意向にしたがっては来たが、はたと気づくことがあって、会社を辞めてしまう。それは友人からの叱責や恋人の意見も作用した。つまり、エミリーにとっては何が本来の目的であったのかをもう一度再確認させられる機会が訪れたのだ。結論を言えば、エミリーは今まで経験したファッション雑誌業界の内幕を書いた記事によって、望みの出版社へ入ることが出来るのだが、その出版社は女社長に電話をし、彼女のことをそれなりに調べた結果、女社長の強い推薦の言葉があったことをエミリーに告白する。ここは重要なところだ。もし彼女が女社長のもとで印象に残らない平凡な仕事をしていたならば、決してそのような賛辞を電話の相手に言わなかったであろう。つまり、いつどんな時でも懸命にやらねば次のチャンスもないということだ。
 冷徹なメリル・ストリープの演技は地そのままではないかと思わせられたが、いかにもファッション業界の大物ぶりを示して貫祿充分であった。誰もが憧れる大きな地位というものは、必ずそれに見合うだけの努力を本人は支払っている。そうでなければたちまちその座から引きずり下ろされる。だが、その地位と引換えに失うものもまた大きい。そのことをこの映画はよく描いていた。そうした過酷な生活に耐えられるかどうかで、大物になれるかどうかの別れ道がある。覚めた目で見れば、エミリーは確かに望みの出版社に入ったが、将来その道で大物になるには、おそらく女社長がそうであったような人生をある程度辿るだろう。逆に言えば、その女社長の若い頃はその若い女性のようにひたむきであった。そうしたことは映画の中でも女社長がエミリーに言っていた。この映画の最後に近いところは今ひとつうまく描けていなかったと思うが、それはエミリーが決定的に女社長のもとを去る動機が観客にうまく伝わらないからだ。そこまで認められ始めたのになぜ会社を辞めるのかという素朴な疑問が涌くが、先に書いたように、彼女には本来の夢があったし、また恋人や友人たちと別れることは出来なかったのだ。そこはエミリーのその後の平凡な人生を暗示させるが、映画が描くのはそこまでで、今後この女性がモーレツ社員になって、恋人とまた別れたりする羽目にならないとも限らない。それはまたその話であって、映画を見た者が勝手に空想して楽しめばよい。話は戻る。エミリーが働き始めた頃、女社長がモデルを前に2本のターコイズ・ブルーのベルトのどっちを選べばよいか迷っているのを見て笑ってしまう。彼女には2本は同じように見えたからだ。だが、女社長はこう言う。『あなた着ているセーターのセルリアン・ブルーは、何年か前にフランスの○○が流行させたもので、それが何年も遅れて末端の安物を扱うところに浸透したわけ。つまり、ブランドものの服を侮蔑しているあなたは、わたしたちが作り上げた流行にそのまま結びつけられているの』。これは名言だ。同じことは誰しもよく思う。誰も着ないし着れないようなファッション・ショーの服であっても、そこにはやがて量産される服の原型がさまざまな形で投影されており、そうして作られる高級ブランドの衣裳はやがて町工場の名もないようなところが作るデザインに影響を及ぼして行く。ファッション雑誌社の社長秘書になりたいと思う女性が百万人もいるのは、人間にとって普遍的に必要な衣裳のデザインの方向を決定する頂上の機関に位置したいという思いがあるからで、そうした意識を笑うことは出来ないだろう。最初に書いたように、どんな世界でも頂点と言える位置がある。その頂点を目指して人が競争をするのは自然なことだ。
 だが、ここでまた最初につながったことを書くと、最先端のファッション業界にいる人が新しい衣裳のデザインをする時、どこに発想の源泉があるかだ。ほとんどそれは気まぐれと言ってよい何かが作用もするのではないだろうか。今年の流行を作り出そうとする時、ひとまずは去年とは違うものをとなるが、新しい何かは新素材の開発に負うところも多いとしても、色合いや形は過去の蓄積からをどう選んで組み合わせるかといったことで決まることが多いのではないか。そして、結果的に必然的に選ばれたものに見えて、実際はそれを選んだ人のその日の気分も反映しているであろう。だが、それを言えば、人間社会などみなそうなっている。であるからこそ人間的でよいとも言える。最終的に大ヒットするのは、そうした計算の埒外にある閃きに似た、つまり気まぐれに負う何かがあるからだ。それとて計算出来ると主張する人があるだろうし、たとえばハリウッド映画はそれを今までして来ているが、その結果停滞が生じないとも限らず、それを打破するためにまた新しい才能が求められる。その新しい才能は旧弊的なボスが大部分を決定したものと言ってよいが、そこにごくごくわずかに予期出来ない何かがあって、そのほとばしりが恐らく最先端の爆発的な流行を生み出す。しかし、それはたちまちのうちに計算出来る要素として人々の意識のうちに組み込まれる。したがって、どんな閃きも結局は計算出来るという錯覚も生まれる。それが正しいかどうかは人によって意見が別れるが、ファッション業界や映画といった巨大産業では、大部分が計算に負って新作が作られるだろう。しかし、筆者はコンピュータで自動的に決定出来ないものであるからこそ夢があっていいと思う。この映画はベスト・セラー小説をもとにしたものだが、そこにもこの映画の、どうすればヒットするかという手段が見えている。ベスト・セラーとは、より多くの大衆に受けることであって、その本質がこの映画の最も言いたいこととして打ち立てられ、しかもそれがハリウッド映画として完成しているところや、また筆者のような人間でさえも見たという事実からは、まさにハリウッド映画ならではの目的が充分に達せられた作品であった。物づくりをする人が見ればきっと何か得るところはあるだろう。だが、どんな人でも自分の生を生きて行くことは、物づくりをすることと同義であって、こうしたポジティヴな内容の映画でたまに鼓舞されるのはよいことだ。自分は頂上を目指さないからと言う人がいるだろうが、頂上でなくても生きて行くのは楽しい方がいいし、またやるだけやったという気持ちは、若い頃には持っていたいものだ。
by uuuzen | 2007-04-19 20:03 | ●その他の映画など
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