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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『ビジュアルジャーナリズムを切り拓く 元祖オタク 大伴昌司の世界』
分の夜、去年同様、吉田神社に行ったが、今年は妹夫婦などと合わせて6人になった。そうなるとにぎやかでいいが、自分で好きなところに行けないので、心残りなこともあった。団体旅行と個人旅行の差みたいなものだ。



●『ビジュアルジャーナリズムを切り拓く 元祖オタク 大伴昌司の世界』_d0053294_1283763.jpgたくさんの人出があって、吉田山の上までは行かず、くじつきの豆を買ったりしてそのまま車を停めていたところに戻ろうとした。晩御飯を食べていなかったので、神社のすぐ近く、京大の百周年時計台の記念館のちょっとしたレストランに立ち寄って食べて帰ろうとしたが、あいにく満席で、またの機会にすることになった。帰り際、レストランとは反対方向の歴史展示室の入口に立て看板があった。そこには今夜取り上げる展覧会のチラシが貼られていた。それで、いつ行こうかとずっと思いつつ、結局天気もよかったので最終日の先月23日に出かけた。実はこの展覧会については、ある人のブログで開催前からよく知っていた。だが、何かのついででもなければ、いくら入場無料とはいえ、わざわざ見に行く気にはなれなかった。その最も大きな理由は、1960年代半ば以降の少年漫画週刊誌に興味も知識もないからだ。もう何度も書いたが、筆者は小学生2、3年生の頃から『少年画報』や『少年』という月刊雑誌をたまに買ってもらった。クリスマスの夜は、靴下を枕元に置いて寝ると、翌朝それはなく、代わりに付録がいっぱい詰まった新品の月刊雑誌が置いてあった。その時の嬉しさを思い出すと胸が高鳴る。当時250円ほどだったのではないだろうか。わが家は母ひとりが筆者とふたりの妹を育てるという、困窮家庭であったので、250円の月刊誌とはいえ、母はどのように工面したのかと今は思う。やがて毎月手にすることになったが、それほど筆者は漫画といえども、本好きであったからだ。だが、小学6年生になると、将来は安定した仕事に就くためにしっかり勉強しようという自覚が芽生え、中学に入る前にぷつりと漫画は卒業した。この経緯についてはもっと深い事情がいくらでも書けるが、ここでは伏せておく。筆者が中学生になって2、3年後に大伴昌司は『少年マガジン』に企画を担当し始めたから、筆者は大伴の仕事を同時代的には見なかった。名前の字面はぼんやりと記憶するが、何が専門なのか知らず、また関心もなかった。その大伴がオタク文化の元祖として今注目されつつあって、NHKでも特集番組があったそうだが、これは見ていない。もしBSで放送されたのなら、筆者は契約していないので、見ることはかなわなかった。
●『ビジュアルジャーナリズムを切り拓く 元祖オタク 大伴昌司の世界』_d0053294_1101416.jpg 会場にあった大伴の経歴を見ると、1936年(昭和11)生まれで、筆者より15歳年長だ。そういう人物が『少年マガジン』にさまざまな企画を提供していたとすれば、何となく納得が行く。少年が読む雑誌でも、作るのは頭のよい大人ということを、子どもの頃から筆者はよく知っていたからだ。だが、子どもの頃の筆者はどのようにしてそんな仕事に就けるか、考えが全く及ばないどころではなかった。周りにそのような人がいなかったからでもあるが、そう言えば筆者の周囲はごくごく普通の人ばかりで、華々しい仕事をしていたり、有名人はひとりとしていなかった。それはさておいて、大伴の父は大阪出身の四至本(ししもと)八郎で、戦前にいくつもベストセラーを放った国際ジャーナリストだ。そのことも筆者は関心がないのでぴんと来ないが、大阪出身には親しみを覚える。そして、大伴の業績にはこの父の大阪人気質が反映しているのではないかとふと感じたりする。それは具体的にどうこうは言えないが、あらゆる面白い企画を雑誌に提供するといったところに、大阪人が好む奇想天外性やサービス精神が見られると思うからだ。つまり、簡単に言えば、面白いものは何でも大好きで、大伴は本能的にその面白いことを見つけ、それだけを仕事にして行ったような気がする。また、父の八郎は1931年に渡米した竹久夢二を助け、展覧会の開催や絵の売り込みをしたというから、ああ、そんな人が確かいたなと急速に興味も涌く。この父親に連れられて、大伴は1938年、つまり2、3歳の頃にメキシコに行った。父が商工省の出先機関であるメキシコ貿易斡旋局長となり、妻子とともに赴任する必要があったのだ。帰国は1941年で、3年ほどの滞在であったが、その間、大伴はアステカのピラミッドや巨大像を見たというから、戦前の子どもとしてはほとんど誰も出来ない貴重な経験をしたことになる。父が国際的に活躍する人物であること自体、大伴の将来は約束されていたも同然で、父がいなくて長い赤貧のドン底を過ごさねばならなかった筆者とは、比較にならない恵まれた環境にあった。別にそのことを羨むつもりはない。ただ、生まれ落ちた環境や身分といったものが、その後の人生や思想をどう左右するかを、今この55の年齢で考える時、人間には逃れられない運命というものがあるとは感じる。もちろん、輝く経歴のある父を持った大伴には大伴の苦悩があったに違いなく、人はみな人ゆえの苦しみは抱く。その立場に立てば、筆者と大伴との間に差はないし、また差があると筆者が認めることは、自分をそれだけ卑下することにもなろう。結局、人は自分で生まれ落ちる環境は選べず、生まれたところの条件の中で何事かを形づくって行くほかない。
●『ビジュアルジャーナリズムを切り拓く 元祖オタク 大伴昌司の世界』_d0053294_1103738.jpg 京都大学でこの展覧会が開催された理由は、大伴の母が保存していた資料類が、文学部の二十世紀学研究所に寄贈されたからだ。なぜ慶応でないのかは知らない。展示された資料は『少年マガジン』で企画したページの切り取りや、直筆のその原稿、そして若干の収集資料を中心として、十畳くらいの一部屋のみ使用された。典型的な金持ちのお坊っちゃんの身分として育った大伴は、慶応の高校や大学を卒業して、1958年にミステリー同人誌『SFマンスリー』で執筆を開始し、翌年には現在のTBSに相当するテレビ局で放送作家としてデビューする。65年頃まで人気番組の構成を手がけるが、そんな番組のひとつに『トッポ・ジージョ』があって、これは筆者もよく記憶している。60年には株式の投資で蓄財し、後には不動産の鑑定士の資格を得ているから、とても時代の読みに敏感で、しかも実利派であったことがわかる。芸術家ならこういう行動は思いもよらず、しもしない。同年、つまり24歳の頃には大田区の自宅敷地内にはスチュワーデス専用のアパートを建てたというから、今で言えばベンチャー企業家の素質もあったといったところか。これは不安定な作家稼業がいつまで続くかわからないという不安が理由としてあったのか、それとも単にお金が好きなだけであったのか、とても筆者にはまねの出来ない考えだ。『少年マガジン』に登場するのは66年5月8日号で、「決定版ウルトラQのすべて」という企画であった。前述したように、この頃は筆者はもう漫画に全く関心はなく、読みもしなかった。その代わり、ビートルズに熱を上げていた。大伴がビートルズ現象をどう見ていたか興味があるが、今回の展覧会のチラシには、「ビートルズの遺書」と題する雑誌の特集ページの表紙が見え、ビートルズの解散に絡めて企画を担当したことがわかる。会場には大伴が持っていたレコードだろうか、藤圭子のドーナツ番などに混じってビートルズの「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」もあって、少なくともビートルズの晩期の音楽は聴いていたことがわかる。だが、大伴にとってビートルズは流行現象のひとつに過ぎなかったであろう。もし、その音楽の内部構造にぞっこん惚れたならば、同じようなミュージシャンになったか、音楽評論家になったはずだ。大伴の仕事の大きな特質は、物事や現象の内部構造を図解図示することにあったが、音楽に関しては楽理を追求するということにはならなかったのだろう。
 あらゆる構造を明快に解き明かそうという態度は科学の本質だが、大伴は数字や数式を使って自然を見つめるということには関心はなく、SFというファンタジーの面からの関心が強かった。そのため、ウルトラマンや怪獣という空想の産物の内部構造をリアルに見せることに意欲を燃やす。だが、これはまるっきり嘘っぱちでは駄目で、基本は広範な科学的な基礎知識が欠かせない。それを武器にしなければ、内部はこうなっているはずという図解を示しても、とても子どもたちにファンタジーを与えることは出来ない。その意味で、大伴はそうとうな読書家で、何にでも関心を持った人物であったろう。そして、ある現象が流行となるには、必ずその背後に何らかの力があって、それが雑誌やTVや、あるいはギョーカイ人の人間関係であるということをよくよく知っていたに違いなく、そういういわば内部事情をも企画として読者や受け手に示す態度さえあった。普通そういう事情は、かなりの大人の年齢になってからでないと見えて来ないものだが、大伴は30代で実にさまざまな企画を提供したことが少年漫画雑誌の特集からはよくわかる。それは全部大伴がひとりで見出したものなのか、あるいは出版社が指針を与えたのか、それとも飲み友だちとの会話の中で浮上したものか、その本当のところはわからないが、小さな会場でとても面白い展示があった。それは子どもたち読者からの質問に答えた大伴の返事だ。そこからは大伴の決して質問をはぐらかさない真摯な態度と、そしてあきらかにヒントを得ている様子が見えた。おそらく子どもが何に関心を抱いているかという現実の中から生まれた企画は多かったであろう。『少年マガジン』とは72年に契約を終え、そのまま雑誌界を去る。そして73年1月23日、日本推理作家協会新年会で心臓発作で亡くなるのだが、これは時代の変革期に当たっていたと言ってよく、もはや大伴の時代ではなかったのかもしれない。あるいは、大伴自身が同じことの繰り返しとばかりに雑誌を見限ったかだ。36歳の死はいかにも早いが、それなりの仕事はしたから、今頃になってこうした展覧会でも採り上げられ、大伴の影響を受けた人々が思いを語るのだが、それはチラシにもあるように、オタクの文脈にうまくその仕事が載るからだ。
 日本の大きな観光資源として東京のオタク文化を考えようという機運が今高まっている。もし大伴が生きていると、その現象をどう図解して子どもにわかりやすく説明するかと思ってしまうが、正直な話、筆者には秋葉原で流行るオタク文化はわからないし、興味もない。オタク文化もさまざまで、どこからどこまでがそうなのかさっぱりわからないが、筆者が小学生時代に見た漫画から派生したアニメやフィギアという言葉に代表されるものはみなそう言えるだろう。また、メイドに扮した「萌え」ブームがアジア、そしての欧米に飛火して若い女性に同感を得ているという状況を見ると、日本が新たな文化を発信して世界の注目を集めている様子を認めないわけには行かないが、そういう先端の流行について、筆者はもはやほとんど関心がない。これを世間では老化と言うのであろうが、老化であっても何であっても、自分の関心の持てることに関心を持てばよいという育ち方を筆者の世代はして来た気がする。その意味から、筆者は常に自分にとって新しいものに興味を抱いて来ているし、それがなければ生きている実感が持てないほどだ。それが大勢の人が群がって意見を交換し合うような流行であろうとなかろうと、自分が関心を抱けるならばそれでよい。それをオタクとどう違うのかあるいは同じなのかわからないが、自分の好きなことを追求するとことに関しては筆者もオタクの部類だろう。元祖オタクと呼ばれるからには、大伴にもそういうところがあったはずだが、大伴自身はオタクではなかったのではないかと思う。オタクは蓄財に関心は抱かないだろう。それにSFや推理小説は別として、元祖が『少年マガジン』でしたような、あらゆる物事のわかりやすい図解について、同じ考えを持って話合える人物が多くいたとはとても思えない。その仕事はむしろ孤独なそして独創的なものではなかったか。チラシからその企画を列挙すると、「情報社会」「もうひとつの日本」「大空港」「世界大終末」「劇画入門」「ロボット文明」「ロボット世紀」「トイレ学入門」「ゲーム入門」「大花火」「大横断アフリカ」「西部旅情」「大妖怪」「サマー・スポーツ」「歌の広場」「海底世界の夜明け」といった具合で、漫画一辺倒ではない、教養ページと呼んで差し支えない特集ページを、自ら各ページのラフ・イラストや印刷原稿を書いて提供していた。そこでもう一度思うのは、こうした企画をすべて大伴ひとりがアイデアを出したのかどうか。もし、出版社から雑誌の売行きを高めるためにある特定の企画を強要されていたとするならば、上記に見える広範囲な興味も割引きして考えねばならない。大伴には漫画家と同様の、人気商売ゆえの厳しい数字がいつも目の前にちらついていたことになる。
 大伴は12歳頃に記録映画に傾倒し、それはTV局で番組を構成することにつながるが、「雑誌は限りなく視覚化する」という大伴の予言は雑誌のカラー・グラビア化として実現したとしても、それは当然の成り行きであったろう。TVもカラー放送があたりまえになるし、70年代からは家庭用のビデオも急速に普及を始め、ビジュアル万能時代がやって来た。その延長上にネット社会があり、そこでも画像、映像がいよいよ中心となりつつある。大伴の仕事を会場のパネルでは「テレビの印刷媒体化」という新しい発想をもたらしたとしていたが、TV局に深く関わった仕事をしていた人ならば、みな同じ思いは抱いていたはずで、大伴が受け手一本槍としての存在であるオタクのイメージからは遠く、マス・メディアの一翼を担って、大勢の人々に何事かを伝えるという社会的に重要な立場にあったことを改めて勘づかせる。オタク文化には、そうした仕掛け人のような人物がいるのかどうか知らないが、オタクの人々を現在一部で流行中の何かに強く魅せられている存在とするならば、仕掛け人と受け手とは強く関係し合って、オタクが奉る何かを突き動かしているはずだ。何が言いたいかと言えば、筆者はそういう仕掛け人にはなり得ないし、仕掛けられるオタクでもないということだ。一時「マイ・ブーム」という言葉が流行ったが、筆者はずっとその立場でやって来た。オタクもおそらく自らをそう思っているはずで、オタクのイメージが筆者にはなかなか定着しないのだが、大伴が深く関係するヴィジュアルの要素を思えばよいのだろ。だが、これとて筆者はあまり関心がない。TVは全く面白くない番組ばかりやっているし、面白いだろうなと思うBSはアンテナやチューナー、それに別料金をNHKに支払う必要もあって、もう10年以上も見たいなと思いながらそのままになっている。時代遅れがはなはだしい生活をしているわけだが、それでもけっこう毎日楽しく過ごしているからそれでいいかと思う。今の少年漫画雑誌は、大伴がやったような企画を焼き直しでもして毎週掲げているだろうか。そうならいいと思うが、もうとっくにそんな時代ではなく、漫画なら漫画オンリーではないだろうか。とすれば、大伴がやったような仕事は誰が受け継いでいるのだろう。物事の道理、中の仕組みを図解でわかりやすく伝えるという文化は現在でも必要なのではあるまいか。図解文化はそれだけ物が氾濫して複雑な世界が出来上がっていることを示すが、70年代以降現在、それは光と影を作って、そこそこ働けばどうにか食えるという状態や多くのホームレスを生み、またイジメ問題ももたらした。そんな混迷した時代を大伴ならどう思って、またどう子どもたちに図解したことか。
●『ビジュアルジャーナリズムを切り拓く 元祖オタク 大伴昌司の世界』_d0053294_110598.jpg

by uuuzen | 2007-03-06 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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