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●『将軍家への献上 鍋島 日本磁器の最高峰』
島の磁器が美しいと思ってから30数年経つ。当時出ていた平凡社の『陶磁大系』か『陶磁全集』か名前は忘れたが、その中の巻は他の数冊の巻とともに買ったと思う。だが、本格的な鍋島展を長年待ち望みながら、どいうわけか筆者が知る範囲では近畿ではこの30数年間はなかったと記憶する。



●『将軍家への献上 鍋島 日本磁器の最高峰』_d0053294_22583252.jpgそれがようやく大阪の東洋陶磁美術館で開催れれることになった。おそらく今後はまた2、30年経たないと同規模のものは開かれないだろう。この美術館には今までに50回程度訪れているが、日本の陶磁を今回のような大規模で紹介するのは初めてのことと言ってよい。始まって間もない今月17日に訪れた。展示数230点はあまりに多く、見るのが疲れた。細かい字でびっしり埋めたメモの枚数は9枚で、それを没にするのは惜しいし、もう二度と鍋島について書くことはないかもしれず、今夜書くことにした。TVのお宝番組ではよく鍋島の皿を持っているという人が出演するが、本物であったためしはなかったと思う。LPレコードど同じほどの径のものが確か4、5000万はするはずで、それだけ価値がある。というのも、鍋島焼きは江戸時代に佐賀の鍋島藩が幕府に献上していたもので、最初から一般人には目の触れない宝物として作られた。それがごく普通のどこにでもいるようなおじさんおばさんの家に転がっているはずがないとするのが常識で、同じことは他の高額の美術骨董品についても言える。だが、物は簡単に運べるから、宝物が貧民街に存在しても不思議ではないし、そのためにローマから発掘された宝物がどういう経路をたどってか、日本の私設の美術館に入り込んだりする。それはさておき、昔筆者が鍋島をよいと思ったのは、そのくっきり鮮やかに描かれた文様で、完成度の高さに目を見張ったからだ。同じような陶磁器はほかにはない。そのあまりに完璧過ぎる絵つけは、冷た過ぎると言おうか、実際に自分が所有して使用したいものではない。遠目に見るだけで充分と思わせるもので、いわば名画に描かれた美女のように、手の届かない存在、そしてそれゆえにその端正な趣がいつまでも心を捉えて放さないという感じがある。これは将軍家などのために作られて民間には出なかったものであるから、当然であるかもしれず、現在個人が持って使うべきものではなく、ガラス・ケースの向こうにつんと済まして飾られているのが似合う。その点で民藝の陶磁とは反対の位置にある。
 会場にあった説明によると、従来から鍋島展はあったようだ。それは鍋島藩側の事情に基づく変遷を紹介するものだが、献上が主目的であったことから、今回は徳川将軍家の動きに敏感に反応して変遷を遂げたことに視点が当てられた。佐賀県は通り過ぎたことがあるだけで、地理は全くわからないので、鍋島藩の領域がどの範囲だったかも知らないが、今手元に地図を広げると、最初に鍋島焼きが作られたのは有田の山辺で、これは長崎県境の中間だ。その後窯は技術漏洩を防ぐために伊万里に移されたが、現在の伊万里市は有田市から北へ七キロほど、日本海に通ずる伊万里湾近く、ほぼ佐賀県の西端にある。この佐賀は福岡と並んで朝鮮半島に最も近く、伊万里焼きや鍋島焼きの陶工の先祖は秀吉の朝鮮出兵時に連れて来られた人々が多く、その意味で日本でも昔から国際的な地域だ。鍋島藩は鎖国中に長崎の警備を担っていたが、その頃は中国から輸入した景徳鎮の磁器を幕府への献上品にしていた。地の理を活かした幕府に対する色目使いだが、これは慶長5年(1600)の関が原の戦いで反徳川方であった佐賀鍋島藩主勝茂(1580-1657)が幕府に示した関係修復の証だ。だが、正保元年(1644)、中国の王朝交代の内乱で磁器の輸入が止まってしまい、慌てた藩は自前で代用品を生み出そうとし、慶安4年(1651)、家光が死去する前日の内覧を経て、例年献上を始めるようになった。なかなか健気でしかも見上げた態度だ。最初は景徳鎮丸写しであったものが、次第に和好みの作風に変化して行く。とにかく膨大な手間がかかる焼き物であり、採算は度外視だ。それは、他の藩が簡単に模倣出来るものならば、鍋島の立つ瀬がなく、献上品として意味をなさないからだ。採算は取れなくも、ほかに献上して喜ばれるものがなければ、そして見返りがあれば充分だ。とにかくせっせと毎年35人程度が参加して2000個ほどを作った。幕末では年間5000個ほどであったが、最初の献上から以後200年として、総数およそ60万ほどは作られたことになるか。そのうちどの程度が残っているか知らないが、大名や公家など国の頂点にいる人々の間で大事にされたものであるから、案外多いのではないだろうか。200年も作り続けられたとすれば、その間にいろいろと事情があって作風が変化したのは当然だ。今回は1「草創期、家光と鍋島焼の草創(有田時代の鍋島)」、2「成長期、藩窯の移転と生産体制の確立(大川内初期鍋島)」、3「隆盛期、綱吉と元禄、鍋島様式の完成(大川内盛期鍋島)」、4「成熟期、吉宗と鍋島焼の成熟(大川内中期)」、5「衰退期「家治好み」の親鍋島様式(大川内後期鍋島)」という全5章に作品が分類展示された。
 このうちのひとつの章だけでも展覧会が開催出来るほどで、実際この美術館の階段を上がって2階のすぐ右側の、特別展用に使われる小展示室のみを使用することがいつものことであるのに、今回はほとんど全室に近い部分が充てられた。それで第1章「草創期」はその小展示室が使用されたが、どのような芸術家、あるいはその団体にもその初期に相当する仕事があるように、鍋島にもこういう初期段階があったのかと興味深かった。それは普段鍋島という言葉から連想する、つまり今回の展覧会のチケットやチラシに印刷されるような作品とはいささか趣を変えている。松ヶ崎手と呼ばれていたもので、主に小型の変形皿が中心だが、どこか九谷に似た濃い色合いをして独特の趣がある。2枚の同じ絵柄の「色絵椿文輪花大皿」(1650年代)は近年発見されたもので今回初公開だが、1枚は白地に墨線を模様の輪郭を描き、その内部に赤、黄、緑などの色絵具を挿した柿右衛門様式、もう1枚は墨線の代わりに鍋島の特徴である染付、つまり青い線で表現している。この2枚はどちらが作りやすいかの見本であったようだ。「色絵唐花文変形皿」も同年代の作で、中央に白地に染付で表現した唐花、その四方の葉は緑、そして皿の縁に紫の黄色の点を並べた唐草が広がる。地は全部黒で、これが全体を引き締めているが、どこか明治から昭和にかけてのモダンさがある。いや、このことはすべての鍋島に共通して言えることで、文様の完成度が非常に高く、いつまでも古びない強固さを感じる。「色絵群馬文変形皿」(50年代)は、縁に緑や赤の線があるが、中心は白地に染めつけで馬を3頭描いている。展示された5枚はみな馬の形が違った。かなり腕の立つ狩野派に学んだ画人が下絵、あるいは直接に描いたのであろう。「色絵松文変形猪口」は、黄茶を中心にした細長い筒型の角形をしていたが、成形は糸切細工による。これは変形の皿や鉢類を成形するのにロクロを使用せず、板状粘度を型にかぶせて余分な土を糸で切り取る方法で、1640年代に始まり、50年代に一般化した。台つきの「瑠璃釉色絵花散文碗」は、表側は瑠璃色とうすい瑠璃色の釉薬をきっちりとかけ分け、碗内部と高台内、台の裏には透明釉を施して金、赤、緑、黄で花文を描くが、窯詰めの時に台の羽の裏に鍋島特有の支え痕として列点状に22個のハリの溶着痕が並ぶため、これを隠すために色絵で花唐草文が描かれている。つまり、不可避的に生ずる傷を文様で巧みに隠しているわけだ。
 第2章「成長期」。有田の諸窯は万治2年(1659)から本格的な海外輸出時代を迎えたが、藩は管理のために赤絵町を作るなど、業界再編をし、藩窯を民から切り離して伊万里の大川内に移転した。高台をより高くするなど鍋島焼きの特徴が登場するが、盛期の精巧さはまだなかった。また、完璧性を求めて、ハリ支えを用いず、素焼きとサヤの使用を始めた。サヤは、焼くべき器をハマという台で支え、器とハマ全体をより大きく包む器のことだが、1個ずつていねいに焼かれたことがよくわかる。元禄6年(1693)2代目の藩主光茂(1632-1700)が有田皿山代官に出した指令書によると、藩は有田民窯(脇山)に、上手な職人(細工人)がいれば藩窯(本細工所)に召し出、一方で技術が低下した職人は置いてはならないと指示した。無名の職人たちが技術漏洩のために隔離されて、ひたすら制作に励んだ様子を思うと、少々やり切れない思いもするが、作ったものが日本最高の品質で、一般には流通せず、身分のかけ離れた人々にのみ使用されるとの誇りがあったのは確かだろう。今でも事情は同じで、飛びきり手の込んだものは、ごく一部の人々だけの所有になる。そして将軍は代わっても、作り手は変わらず、その意味で職人の方が幸福であったかもしれない。それに将軍の権威も結局はこうした工芸品によって保たれるわけで、工芸の職人がいなければ、権威を示すための「物」はなかった。それゆえ、将軍はむしろ立派な「物」作った職人たちなのだ。さて、この時期の作は、前期の「色絵群馬文変形皿」に見られた絵心を示すものがさらに多くなり、一方で糸切細工の皿もとても面白い絵を描くようになる。「色絵鳳凰文皿」は2羽の鳳凰を描くが、よく見ると首や尾羽に染めつけのうすい線が見えていて、それを見当にして色絵の絵づけをしたことがわかる。「色絵双鳥柏文大皿」は、黄色の2羽の鳥が柏の木にとまる様子を描くが、これはコウライウグイスで黄烏(カラウグイス)とも呼ばれ、日本に飛来する迷鳥だ。佐賀の一部地域には、朝鮮半島には日本の烏と同じくらいにどこにでもいるカササギが住むが、この皿はそうした佐賀の珍しい特性をわざわざ描いたものと言ってよい。「銹釉染付茄子文小皿」は、ナスが3つ描かれるが、実の胴体に花菱文を正確に連ねて埋めている。その精緻さは以後の鍋島にもよく登場するが、富本憲吉は鍋島に見られるこの連続文を大いに参考にしたに違いない。「青磁色絵瓢文小皿」は、大きな瓢箪をひとつ描き、その中に麻の葉文風の地文を墨弾きによる白抜き線で表現する。この技法は、墨で描いた後に全体に染付の釉薬、つまりダミ(濃み)を塗り、焼いた時に墨が飛んでしまってそこが白抜きに表現される染付技法だ。「青磁染付鶴文小皿」は、丸い皿の外周の一部が1羽の鶴の曲がった背に一致した文様のつけ方で、有田の初期の民窯に同様のデザインの色絵皿があると言う。有田から使用出来る要素は積極的に取り入れたということだ。
●『将軍家への献上 鍋島 日本磁器の最高峰』_d0053294_2259939.jpg 第3章「隆盛期」。2代将軍綱吉は権力を強化したが、後半期の元禄時代は大名屋敷への御成を盛んに行なったので、より優れた鍋島が求められた。それに応じて藩は最高品を作り上げたが、精巧な食膳具やそれまでは技術的に難しかった大皿も多く作られ、代表的な色鍋島の多くが生まれた。大皿は今の感覚から言えばさほどではなく、直径35センチが最大級だ。また時代によって多少の差があるが、皿類を中心として規格統一がなされた。皿は尺皿、七寸皿、五寸皿、三寸皿が中心で、いずれも木盃形と呼ばれ、内面が滑らかで深く湾曲し、高くて幅の広い高台を持つ。また焼きの種類は、染付と色絵、青磁を基本にし、瑠璃釉、銹釉、白磁も一部に用いてこれらを組み合わせた。簡単を工程を書くと、まず900度の素焼きをした後、下絵つけの絵を描く。そして墨弾きが必要な場合はもう一度素焼きし、今度は上絵つけ(本焼きの線描き)だ。柞の木の皮の灰と長石を調合した柞灰釉をかけて1300度で焼き、その後花の輪郭を赤の上絵具で線描きする。その後もう一度上絵つけを施し800度の赤絵窯で焼いて完成する。皿類の裏文様や高台文様には、時期ごとの特徴がよく表われているが、牡丹などの花唐草文は将軍家献上用、七宝結び文は大名などの一般贈答品用と分けられていた。この文様は基本的には三方に配され、唐草で連続して描かれた場合でも中心となる花文は三方が守られた。隆盛期は裏文様と表の文様の上下は厳密に関連づけられたため、表の文様が正面を向けば、自ずと裏文もそうなった。「色絵紫垣紫陽花文小皿」(1700-20年代)は珍しい花で目にとまったが、同じ題材は「青磁染付紫陽花文小皿」(1690-1730年代)にもあった。鍋島は有田に比べて植物を写実的に表わしたものが多いとされるが、珍しい題材が多いように思う。「染付柊文小皿」(1700-40年代)の柊を初め、芙蓉や鶏頭、水仙など、何でもあるという感じで、とにかくありとあらゆるものが文様として使われた感がある。「色絵橘文大皿」(1710-30)は、染付に赤、緑、黄を使用するが、緑は黄緑を含み、変化に富む。この黄緑色は有田民窯が1690年代から始めたもので、それを鍋島が取り入れた。「色絵桃文大皿」(1690-1730)はチケットの中央に印刷されるもので、3つの桃が丸々として面白い。左右のふたつはよく見るとぼかしダミのうえに細かい赤の点描がびっしりと施されている。これは他の鍋島に例がないが、元禄期の有田民窯の最高水準と言える姫皿に同様の技術があるそうだ。民窯の方が技術を先に見出し、それを鍋島が高度にしたと言ってよいかもしれない。桃を描いた皿は他にもいくつかあったが、どれかひとつもらえるとすれば、桃のみを染付で描いた大皿がよいと思った。次に目を引いたのは静嘉堂文庫美術館蔵の「色絵牡丹唐草水注」(1700-30)で、盛期鍋島では唯一の水注の伝世品とされるが、把手と注口には金の装飾による後補がある。白い肌の桃形の胴体中央に左右対称の赤い牡丹ひとつの周囲に濃い染付で唐草がぐるぐると絡む。その一部は金が施され、とても華麗な作だ。享保11年(1726)8代将軍吉宗から私的に注文され、大川内藩窯で作って納めたところ、満足との意思表示があり、制作にかかわった藩窯役人と細工職人計25人は老中を通じて銀子を拝領した。次にも同じく一風変わったものがあった。高さ40センチ台の梅干し入りの大壺で、白地に染付けで宝尽くしの文様が描かれていて、その洒落て堂々とした豪華さは鍋島の貫祿をあますところなく伝えている。肥前は梅の実の産地で、例年の献上品中の6月に「梅干一壺」と記されている。これが8代将軍の時から始まったのは、吉宗が紀州藩主時代に梅干しを重視したからであろうとされる。
 第4章「成熟期」。吉宗(1684-1751)の幕府財政立て直しの倹約令によって鍋島は主に染付と青磁となった。佐賀藩の記録には、老中松平忠周より指示があり、種類の多い色絵具で飾ったものは制限するが、青磁は今までどおりとして献上品に注文がついたとあるが、献上の例は見出せないと言う。この時代、藩窯では色鍋島はほとんど作られなかった。割れ物の消耗品とはいえ、毎年献上していたのでもうたくさんあって珍しいものではなかったという事情もあるのではないだろうか。第5章「衰退期」。家治時代は田沼意次が権勢を誇ったが、安永3年(1774)に将軍好みの意匠12通りの手本が幕府から示され、藩窯はこれに応じた。その好みは前の倹約令の頃を継いだためか、全体に地味だ。12種のすべてはわからないが、たとえば「梅絵大肴鉢」「牡丹絵中肴鉢」「山水絵中角皿」「金魚絵舟形皿」「萩絵中皿」はみなその好みの題材に沿ったものだ。往時の津から強さは見られず、もうちょっとした百貨店の高級品でいくらでも売られているものという感じがする。幕末には弱体化した幕府に対し、新たに京都の朝廷向けと考えられるものが現われるが、高級品としての質を落とさないためには、作ったものがそれに相応しいところに納まる必要がある。献上という一種の自発的義務行為を課すことで、鍋島藩は他藩を寄せつけない技術の高さを保持することが出来たが、時代は変わり、献上相手がなくなると、それに伴ってかつての威力は失われた。「染付大川市藩窯図大皿」(1830-70年代)は、大川内の藩窯を鳥瞰図的に染付で表現したもので、石垣で囲まれた役宅や御細工場など、秘密にしておくべき藩窯のありさまをそのまま題材にしているところに末期的な立場がよく出ている。この当時であろうか、登り窯は全長137メートル、17から30の焼成室があって、藩窯品はそのうち2、3室を使用したそうだ。
by uuuzen | 2007-02-28 22:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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