展覧会の感想を書くつもりでいたが、ワープロの前に座った途端、この曲について書くことに決めた。もちろんBGMとして聴いている。ジョニ・ミッチェルのアルバムは1枚以外、ほかは全部持っている。

60年代から名前はよく知っていたが、急に聴き始めたのは、そんなに古いことではない。自転車で20分ほど離れたところにある古本屋にCDが少し置いてあって、そこでジョニの2枚組CDを買ってからで、息子が小学生になるかならない頃で十数年前のことだ。確か1988年の『DOG EAT DOG』が最新アルバムだった。それはともかく、アルバム『SHADOWS AND LIGHT』はとにかく驚いた。そして夢中になった。その後1年と経たずに出ているアルバムの大半を聴き、ビデオもいくつか買った。近年はジョニは編集盤ばかり出してお茶を濁しているが、もう引退を表明したようで、全曲書き下ろしの新作を聴くことはないかもしれない。60年代のデビュー時から、LPジャケットは自分の絵などでデザインしていたが、それが高じて、今は音楽家より画家の道を選んだようだ。ジョニの油彩画はごくたまに芸能人が描く絵のひとつとして展示されるが、不運なことにまだ実物を見る機会はない。だが、アルバムではもう数十点ほどを紹介しているので、それらを見ていると、実物を見ないでもどういうものかおおよそわかる。ジョニは晩年のジョージア・オキーフに会い、自分は絵と音楽を両立させていると言ってオキーフを驚かせたが、このエピソードを読んで何だかいやな気がした。というのも筆者はジョニの絵は評価しないからだ。ジョニは写真を見て描いているはずだが、どうにも厭味があって、正直なところ、あまり見たくはない。絵というものはジョニが考えているものとはもっと違う気がする。残念ながら、オキーフの爪の垢にも匹敵していない。これは人が音楽と絵え両立させることが難しいという意味ではない。そういう才能はきっとあるだろう。だが、ジョニの場合、本人が思っているほど絵はよくない。音楽だけで充分なように思う。ジョニの絵の特徴は、ゴッホ好きからして当然かもしれないが、色合いがどぎつい。それはそれでたとえばドイツ表現派などもっとえげつない色合いをしたものがいくらでもあって驚かないが、それでもジョニの油彩の、丁寧に、そしてじっくりと描かれているのはよくわかるにもかかわらず、何とも言えない毒々しさはどうか。毒の蛾や爬虫類を見ている気分になる。恋多き、男が好きで好きでたまらないジョニにしてみれば、それも当然かと思うし、男とキスしている場面や、とにかくエロティックな雰囲気をとても漂わせた絵を描いていた時もあるが、どう言えばいいか、どこか痛々しいのだ。また男としては怖じ気づいてしまうところがある。
そうなのだ。ジョニを女として筆者は見たことがない。欲情をそそらない。これはジョニには失礼だろうが、そうだから仕方がない。80年代後半だったか、ジョニはかなり年下の男性と結婚か同棲をし、その期間が数年以上続いた。年下の、しかもあまり有名でもない男をしたがえるところに、男っぽい活動的な女性の姿が如実に現われているが、本人同士がいいのであるから他人がとやかく言うことではない。だが、なぜかその男とは死ぬまできっと一緒におらず、ペットのように思っているのではないかと感じていたものだ。それが当たっていたかどうか知らないが、結局また別れてその後はずっとひとり住まいをしている。だが、それも特定の男には飽きただけであって、男には不自由しないということなのだろう。ジョニはフリー・セックスがもてはやされた時代に有名になって、女王のようにアメリカのポップス界に君臨したが、素っ裸でジャケットに堂々と写って見せるなど、とにかく自然児的に恋愛も考えて来たのだろう。結婚あるいは同棲を何度したのか知らないが、どの男もジョニの音楽家の経歴の栄養になっただけで、恋のあれこれの思い出や葛藤がそのまま作曲に活かされ、それを今までファンは喜んで聴いて来たわけだ。こんないい生き方はない。それは芸術家だけに許されることであって、凡人は悔しいかな、指をくわえて眺めるのみだ。だが、そんな奔放そうなジョニも人の子、それに女であって、恥じらいはある。それを知ったのは2、3本見たビデオだ。そこには予想外、いやむしろ予想どおりのジョニのごく普通のナイーヴとも言える恥じらいを見せる瞬間が、図らずも見事に捉えられていた。そういう仕種や目つきは意図して出来るものではない。そのことによって筆者はまたジョニを見直してさすがと思ったものだ。世界的な名声を得るほどの才能は、結局はごく普通に誰もが持っている恥じらいの精神に裏打ちされているものなのだ。それがないのはただの野蛮で、世間知らず、むしろ凡人なのだ。そうした優しく、また脆いとも言える繊細な部分が内にあって初めて、表向きの行動や意見が堂々としたものになり得て大物振りを示す。そしてジョニにあってはそんなことは絵ではうまく表現出来ず、作曲や歌詞作りに顕著に出ていると見る。絵ではなぜうまく表現出来ないかと言えば、あまりに私小説的なことは絵には向かないからだ。男と女の恋の綾といったものは、言葉で表現するのが理想であって、絵にすると陳腐なイメージになるしかない。それをよく知ったジョニはここ数年はもっぱら風景画を描いているが、カナダの自然を今のまま追求すると、それなりにいい絵がいずれ出来るかもしれない。
ジョニのアルバムは時代ごとの空気を濃厚に伝える。どんなミュージシャンでもそう言えるが、ジョニのように60年代後期から今に至るまで40年も活動し続けて来ている大物となると、アルバムが多く、そのどれもが個性的で、全体を眺めわたすとアメリカの20世紀後半のポップス史がわかる。つまり、もし地球上からジョニの音楽以外すべてが消えても、ジョニの音楽によって20世紀後半がどういう時代であったかがわかる。そんな状況なので、どれか1枚だけ選ぶことは出来ない相談だ。それにそんな趣味は筆者にはない。ジョニのアルバムはどれもそれなりに好きで、甲乙つけ難いが、それでもよく聴くのは限られる。同時代的に聴かなかったにもかかわらず、ちゃんとそのアルバムが収録された時代の空気が伝わるから面白いのだが、最も好きなのは70年代中葉だ。ジョニが30代であった頃になるが、音楽家としてはその頃が一番気力も充実している。実際80年代になってからのジョニは急速に透明度を増し、冷徹過ぎるとも言える音作りをする。それはそれでいいのだが、何度も聴くのがしんどい。枯淡の境地に至るのはどんな生命でも自然の理であって、これは避けられない運命だが、それがわかっているからこそ、最も輝いている30代半ばの作品が懐かしく、また接する者に前向きの気力を与えてくれる。もっとも、ジョニはそんなことはおかまいなしに、ひたすらその時代時代に必至に音楽活動をして来たが、後で振り返って見る時、ああやっぱりあの頃はよかったなと思える瞬間はあるだろう。それが70年代中葉の音楽ではないだろうか。だが、それはそう思うだけであって、繰り返すことは出来ない。そのことはジョニ自身が一番よく知っている。そのため、過去の曲を新アルバムに収録する時は、古風なジャズ・オーケストラを背景にしたりして、様相を全く違えることを心がける。プロ根性と言うべきものだ。
ジョニの大ヒット曲「青春の光と影」は今でもよくTVのコマーシャルでカヴァー演奏されたものが流れる。アメリカのポップス界ではそうしたビッグ・ヒットが1曲あるだけで生涯食って行けると言ってよい。だが、ジョニは無数にいる一発屋では決してなかった。そんなたとえはジョニに対して失礼千万と言うべきで、ビートルズのように、どの1曲を取っても血が通っていて駄作はないと言うしかない。これはおおげさではなく、本当のことだ。適当にさっさと作詩作曲して自分で歌うということが出来ない。これは他人に曲を提供して食っている音楽家とは違い、自分の内面からふつふつと沸き上がって来るものしか作品に出来ない、またしたくないという立場からして当然で、その点でジョニは紛れもなく芸術家なのだ。だが、そういう音楽家は得てしてポップスの世界では生きにくい。女の場合は、恋をテーマにするしかなかなか作曲の活力が続かないだろうが、年齢の壁はどうしてもあるからだ。ところがジョニの場合はヒッピー文化の申し子であるから,社会的矛盾に対してどんどん意見するという態度がデビュー時から心底染まっていた。その立場をジョニはずっと崩さず、アルバムごとに風刺的な作詩をしているが、それが女の立場から見たものであるだけに、社会学的に非常に興味深いテーマを提供していると言えるほどだ。また、ジョニはいつもアコースティック・ギター1本と歌が基本であるから、大音量のエレキ・ギターと大声で社会悪を訴えるという立場とは少し違う共感を人々に与え得る。とはいえ、その音作りはフォーク・ミュージックに典型としてある素朴で単純なもの、つまりギターとベースとせいぜいタンバリンといったものではなく、アルバムごとに熟練のメンバーをずらりと揃えた豪華な伴奏を繰り広げるもので、聴き手は真面目くさった顔を強要されずに済む。そういう華麗な音作りを好むジョニがジャズに向かうのは道理で、近年はそういうアルバムが目立つが、厳しい言い方をすれば、往年のジャズ・ヴォーカルとは肩を並べられない。悲しいかな、時代はもはや後戻り出来ないのだ。あるいはそのことをよく知っているからこそ、ぷつりと新作を出さず、せっせと絵ばかり描いているのだろう。
さて、今日取り上げる曲は1974年の『COURT AND SPARK』に収録されている。このアルバムは名盤とされるが、もう1枚挙げよと言われれば、76年の『HEJIRA』だ。これも絶品だが、ストーヴが欠かせない真冬に聴くに限る。『COURT AND SPARK』は日本盤ではそのまま「コート・アンド・スパーク」とされているが、これは洒落て訳すのが難しい。「COURT」は男が女に対してする「求愛、くどき」で、「SPARK」は「火花」や「才気」であるから、ふたつの単語を並べて男女の関係を言っている。この二項対立は先の『SHADOWS AND LIGHT』とも関連するが、『COURT AND SPARK』も『SHADOWS AND LIGHT』も、ジョニの絵に不可欠の要素であることが面白い。つまり、ジョニの曲はきわめて視覚的ということだ。そしてその描かれる情景は素晴らしい。男がくどいて女がそれをうまく交わすことを簡単な日本語でどう言うのかわからないが、ま、そんなことをわかったうえでこのアルバムを聴くのがよい。アルバム冒頭曲は同じ「コート・アンド・スパーク」で、どんな歌詞内容かと言えば、すでによく知り合っている男女ではなく、路上ミュージシャンとその演奏をたまたま見かけた女との出会いの成り行きで、結果的に男のくどきには応じられなかった女の気持ちを歌う。これはすべてジョニの実体験であるかもしれないし、後半だけは想像を羽ばたかせたものであるかもしれない。路上ミュージシャンと恋仲になるという設定は、ジョニのその後に書かれる詩とも大きく関係している。もともとジョニはそうした無名の表現者にはきわめて同情的で、その態度に筆者はジョニの分をわきまえた素直な精神を見たい。少しばかり有名になったからと言って威張り散らすのがよくいるが、ジョニにはそれはない。そこがまた長年の固定ファンを引きつけるゆえんであるだろう。だが、声が太くなり、貫祿を充分に漂わせるジョニを見ていると、大御所以外の何者でもないところがまず念頭に浮かび、もし対面しても縮み上がるしかない自分を想像してしまう。ははは、だがそういう男性が案外またジョニの好みであったりして。
さて、「丘の上の車」だ。この曲にはライヴ・ヴァージョンなどの別の演奏がない。それがいささか残念だが、唯一このアルバムで収録されるのもかえってよい。シングル盤にならなかった曲で、ジョニの代表曲でも何でもない。むしろアルバムの埋め草的な1曲だ。にもかかわらず、素晴らしいの一言に尽きる。ジョニの全曲中で最高の出来ばえとは決して言わないが、筆者にとっては最高に感動的だ。たまにこの曲を聴くといつも決まって涙が出るが、筆者にとってそんな曲は多くはない。実はブログを始めた時、この音楽のカテゴリーで2、3番目にこの曲を取り上げるつもりでいた。つまり2年前から予定していて、ようやく今頃になった。特別の季節の特別の日を逃せばその気にならないからだが、今日は春の陽気で、少し外出し、見知らぬきころをしばし歩いてふとこの曲が思い浮かんだのだ。それはさておき、あまり顧みられない小品にこそ、本当の芸術家の底力だ見えるもので、ジョニの場合、それはこの曲と言ってよい。ジョニのビデオを見ていてもわかるが、ジョニは車好きだ。アメリカなので車がなければどこにも移動は出来ないが、それでも砂漠地方を烏と追いかけ合いをしながらドライヴをするといったことが好きらしく、自然の中から着想を得た曲がとても多い。そこがまた自然児としてのジョニの大きな魅力で、ヒッピーの理想をそのまま体現し続けている。筆者は友人から車をもらって息子に使わせているが、年間走行距離がたったの200キロに満たないのに、税金その他で経費が毎年○十万円もかかって、それこそ無駄がはなはだしいが、先日はふと自分が運転すればどこへでも行けるなと思った。話が脱線するが、目下串本まで出かける必要が生じていて、日帰りは少し難しいようなので、車で行けばどこかで1泊しながら観光にも便利なのにと思う。そんな情けない筆者であるから、実際は車をテーマにした本曲など理解出来るはずがないが、何事も想像であって、歌詞を読んでジョニの気持ちになることは容易だ。この曲でジョニが歌っているのは、丘の上で男と待ち合わせをしていて、決めた時間が来ているのに、男の車が丘を上がって来る気配がない時の気持ちだ。健気で可憐、そして包容力たっぷりな女心を情景描写、心理描写を混ぜて巧みに表現している。この歌詞からは、いかにジョニが男にもてる人格であるかが的確に表示されているが、聴き手が女の場合にはじっと待つジョニ、男ならジョニを待たせるその男の気持ちになって感情移入出来る。今のようにケータイ電話があたりまえになると、もうこの曲のふたりの関係も理解されないだろうが、便利になるということは何事も味気なくしてしまう。このアルバムはCDになってジャケットが安っぽくならざるを得なかったが、そこにも軽さゆえの哀れさがある。
恋をしたことのない人はこの曲の歌詞のよさは理解しにくいだろう。だが、そんな人があるだろうか。恋人と待ち合わせをして、片方が遅れ、それを片方が待つ時の期待と不安。そんな思いをこの曲はあますところなく歌う。これはジョニの実体験が元になっているはずだが、日本でも女性のシンガー・ソング・ライターなら同じような気持ちをうまく歌に乗せるかもしれない。だが、ジョニの他の社会的な告発曲などを含めた実に多彩な内容となると、急に日本のどのミュージシャンも見事に萎んでしまう。音はさておき、歌詞は全くカスとしか言いようのない音楽ばかりで、そういうものを連発して御殿に住める若いミュージシャンが多くいるのであるから、日本では幼稚さと痴呆さが最も金になる。日本の音楽は欧米のそれを巧みに模倣し得たようだが、肝心の何かを忘れ去っている。同じことはあらゆる文化にも言える。何もポップスだけに限らない。日本が仏教を輸入しても1000年以上経って結局骨抜きになり果てたことや、欧米の文明を貪欲に持ち込んでもついにキリスト教の精神は抜き去ったことと同じで、一見ジョニのような曲作りをしても、根本は全く違うものと言ってよい。金を儲けて有名になれば勝ちという価値が大手を振っているが、江戸時代以前の日本はそんな卑しい思想はまだ持っていなかったのではないか。ま、口が思わず滑ったが、話を戻すと、この曲にはジョニのごく自然なひとりの女としての異性を思う気持ちが滲み出ていて、それが尊い。女が男を、男が女を思って、やって来るのをじっと待つ。これ以上に素敵な光景がこの世にあるだろうか。まして、あたりは春風が吹く陽気だ。こんな天国はほかにはない。男ならこんな曲を書くだろうか。自分に当てはめると、どうもそうは思えない。女と待ち合わせをしている時の気持ちなど、たいていの男は取るに足らない些事だと思っている。女の目のつけどころが男にはなかなかわからない。それゆえ、女は失望して、やがて妥協するか、あるいは男から去るだろう。それはそれで先の話として、この曲ではまだ恋仲が絶頂の頃を歌う。その絶頂の気持ちは丘のてっぺんに立って下を見下ろしているところから、いやがうえにでも高まる。3分に満たない小さな曲に無数の情景を筆者は思って飽きない。恋はするものだが、想像だけの中にもそれはある。春が来ていることだし、みんなせっせと恋に励むべしか。はははは、思い出したが、昔筆者はつき合い始めた家内を2時間以上も待たせたことがある。筆者の到着があまりに遅いので電話があったのだが、その時はまだ布団の中にいたのだった。こんな男ではジョニとはコートとスパークの仲になりようがない。