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●『揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに』
前東京で開催していた時から楽しみにしていた展覧会で、今日見て来た。チケットに印刷された劇画風の作品が強烈で、他にどんな珍しい絵が並んでいるのかと思っていたが、結果的には6、7割が見たことのある作品で、期待外れの部分が大きかった。



●『揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに』_d0053294_10513.jpg今この展覧会を開催しておく必要があるのかどうか疑問に思うが、若い人にとっては目新しい作品が多いであろう。それに見慣れた作品を別の切り口で見せるという昨今の予算の乏しい展覧会事情からすれば、一応は合格点に至っている。とはいえ、意地悪く言えば珍しいのはタイトルだけで、内容としては80年代半ばから10年かけて4回に分けて企画された『写実の系譜』の部分的焼き直しに過ぎない。チラシでは展覧会のタイトルはそのバックにぐにゃりと揺らいだ影としての文字を重ねて、いかにも「揺らぎ」を視覚的に表現しているが、こうした遊びの部分は2000年以降急速に増えた。若いデザイナーが手がけているせいであろうが、いかめしい雰囲気では展覧会も人集めに苦労するから、いかに多くの人に来てもらうために軽い感覚をチラシやチケットのデザインに盛るかが求められる。チケットの絵は小林永濯(1843・1890)の『道真天拝山祈祷の図』で、1874年から1886年頃に描かれた。綿布に墨、膠彩、水彩で描き、掛軸仕立てになっている。膠彩は洋画の油彩に対する言葉で、日本画で使う絵具のことだ。この絵はかなり大きな絵で迫力がある。どこかで見た気がするが、あまり有名でない画家がこういう機会に何点かでも紹介されると、今後それなりに注目もされるだろう。100年以上も前の有名でない絵が今頃になって展覧会のチケットに印刷されるというところに、この展覧会の意図するものもあるかもしれないが、それはひとつには若い人が虚心に見てびっくりするような絵で展覧会の注目度を高めるという目的と、もうひとつは、漫画やアニメから生まれて来たような最近の新しい画家の先祖が実は100年も前にすでにあるのだという掘り起こしとしての意味づけだ。新しいことは必ず過去の何かに萌芽があって、そういう意味づけを評論家や美術館が先頭に立ってやるのが仕事と言えるから、ひょっとすれば数年か数十年後には小林永濯の再評価があって、現代の日本美術のひとつの大きな先駆者とされているかもしれない。
 小林永濯が今の漫画やアニメを意識していたかどうかはわからない。今回別に3点が並べられたが、どれも日本の故事に因んだ歴史画で、しかも精緻な写実表現に特徴があって、それなりに時代の流れと格闘していたことがよくわかる。だが、その結果が現在から見ると、どうしても大量消費される劇画とそっくりなものに見えてしまうのはなぜだろう。それは永濯個人の資質の問題か、あるいは時代全体がそうであったのか。そこを深く研究するのが評論家の仕事かもしれないが、ひとつ言えるのは、当時はやはり激しく揺れ動いていたのだ。揺れが大きい中でどうにか画家は納得して個性を発揮しようとし、その結果が日本画的な内容でありながら、写真のような写実画になった。また、内容が菅原道真や加藤清正、あるいはイザナギ、イザナミの神、布袋や七福神といった現在では誰も描こうとしない題材であるだけに、なおのこと古臭い絵に見えてしまうが、一方で『道真天拝山祈祷の図』に見られるような、道真が山に登って神になる瞬間を描いた、全然ありがたみもなく、むしろ笑ってしまうような劇画感を、当時の人がどう見たのか興味も涌く。同じことは永濯の作品だけではなく、他の画家にも見受けられたが、すでに教科書に載るなどして歴史的に評価が定まっている名品とは別に、こうしたいわば二、三流どころの絵は今後名作として浮上する可能性があるのかどうか、それはなかなか難しい問題だ。揺れている近代絵画の評価はいいとして、その実、すでに近代絵画の巨匠が誰かといった評価はとっくに落ち着いているのではないだろうか。その意味で言えば、今の漫画やアニメ世代から登場する新しい画家が、たとえば永濯の絵を評価することもまずないはずだ。手塚治虫は『鳥獣戯画』をアニメの始祖と讃えたようだが、たとえば「鳥羽絵」という切り口で展覧会が企画されると、あるいは永濯もまた新たな位置に定められて人気が定着するかもしれないが、今の漫画やアニメ世代が100年、あるいはそれよりもっと昔のマイナーな画家を積極的に学んで活用することまずあり得ないし、むしろ無駄だと思っているだろう。そのため、今回永濯の紹介があっても、それは日本画の洋風表現のひとつの例という位置づけにとどまるだろう。何を言いたいかと言えば、明治時代の日本は洋画と格闘して大変であって、その中で恒久的な名声を得た者もあれば、そうでない者もあったということと、後者が大きく再評価される機会もほとんどないというごくあたりまえの事実の確認だ。とはいえ、未来は誰にもわからないから、永濯が巨匠の仲間入りをして美術全集の1冊として収まる時代が来ないとも限らないか。
 今回の展覧会のタイトルは意味深長だ。明治以降の日本がずっとこの「揺らぐ」の言葉で象徴されて来たことも暗に言っているわけで、それはまだ今後100年や200年先も変わらないだろう。今も揺らぎ続けていて、もがき続けているのが日本の美術界ではないだろうか。今日は劉生の作品がたくさん並んでいたが、劉生がデューラーの絵の複製を見て感銘を受け、それから時代の流行に逆行するように北方ルネサンス風の写実に走ったことは誰でもよく知っているが、その劉生が関東大震災を契機に京都に住んで、そこで浮世絵や南画に目覚め、日本画も盛んに描くようになった事実からは、揺れ動く以外の何物でもない姿を思わずにはいられない。結局劉生は西洋の古典と東洋のそれとの間を行ったり来たりしたわけで、それが明治の日本の姿そのものだったと言ってよい。そして今もそうである気がするが、その中で日本独自の芸術として世界に売り出せるものの意味づけが今は急速に求められているのだろう。そういう総括のひとつの手段ないし中間結果として今回のような検証的展覧会は今後も繰り返し開催され続ける。そして微妙にその時代時代の空気を読み取って、歴史的文脈が存在していることを理屈づけるだろう。日本は古来から中国や朝鮮から先端の文化を輸入して来たが、それが明治になって一気に欧米のそれに取って代わり、「揺れ」が今までにない大きさになった。それに伴って当時の画家がどういう仕事をしたかが今回の展覧会の示すところであったが、今の美術とどうつながっているのかいないのかは、本格的にはまた別の展覧会で提示する必要があるが、今回はそれなりに結論づけていた。それは第6章の展覧会のタイトルと同じ「揺らぐ近代画家たち」で取り上げられた萬鉄五郎、岸田劉生、森田恒友、小杉放菴、近藤浩一郎、須田国太郎、川端龍子、秦テルヲ、熊谷守一に見られるような、日本画とも洋画とももはや言えない絵にあるという見方だ。これはすなわち、日本は日本でも西洋でもないということを言っているのも同じで、よく言えば世界主義、悪く言えば根なし草的存在で、やはり揺れ動いている絵としか言いようがない気がする。総括はなかなか簡単には行かないのだ。
 すっかり欧米化してしまった京都の街を今日歩きながら、これからの日本が誇る画家の作品はどういう形であり得るのかといったことを考えると、何だか暗澹たる気持ちと、退屈感が襲って来たが、それを言ってはおしまいなので話を続けると、今回は日本の画家だけを取り上げての内容であったが、これをアジア的規模に広げてはどうだろうか。日本が揺れているならば、他のアジア諸国もそれなりにそうだろう。そうした視野に立った展覧会が求められるが、日本がそれを開催出来るのはまだまだ無理か。「揺らぐ近代」という捉え方の背景には、明治以降の日本がアジアをリードして来たという自負が裏打ちもされているから、なかなか日本がアジア全体がどう欧米化の波に対応、対抗して揺らいでいるかの全体的視野に立った物の見方は出来にくいところがある。これは中国、韓国あるいは他のアジア諸国でも似たりよったりで、アジアとひっくるめて言うことが難しいという現実問題も含んでいる。にもかかわらず、やはりアジアに押し寄せた欧米列強の文化と、それをどう摂取したか、あるいは拒否したかでアジア諸国の現在の美術状況もあるだろうし、そこを日本の美術館が毎年シリーズ化して見せて行くということは無理なのだろうか。そんな動きの中からまた新たな美術運動が起こって来る気がするが、それをすると日本がまたアジア侵略を今度は文化的にもくろんでいると揶揄されるかもしれず、さほど簡単な問題ではないのかもしれない。それでも、毎年たくさん開催される展覧会の中に、中国や韓国で開催されたものをほとんどそのまま巡回するものが多少あってもいいのではないかと思う。美術交流に関しては、日本はアジアを無視してほとんど欧米寄りになっている感を覚えるが、需要がないのでやらないではなく、日本の現在の美術を見つめ直す意味でも他のアジア諸国がどう揺れて来ているのかいないのかの確認作業をしっかりとしておいた方がよい。今回のような回顧的な内容では、現代の美術動向との接点がなかなか見出せず、若い人にどういう関心の持たれ方をするのかがなかなか見えにくい。それでも、予想以上に会場には若い人が多かった。これは画家の有名度にあまり関係なく、面白い絵は面白いと積極的に反応する場として効果があるはずで、そういう若い世代からまた新たな絵画が生まれて来るか。
 全6章の内容で、第6章は前述したので、それ以外を順に書いておくと、1「狩野芳崖・高橋由一日本画と洋画の始まり」、2「明治絵画の深層-日本画と洋画の混成」、3「日本画の探究-日本画と洋画の根底」、4「日本画の中の西洋」、5「洋画の中の日本画」で、161点と作品数は多かった。以下簡単に思いついたことを書く。1章は見応えがあった。芳崖(1828-1888)の「獅子図」(1886頃)は、明治19年(1886)にイタリアからチャネリ曲芸団が来日して秋葉原で馬や虎、象やライオンの曲芸を数か月間催した時に写生したライオンを描いている。今では珍しくない動物だが、当時はまだそうではなく、夢中で芳崖が描いた様子がよく伝わる。その意味で、明治時代もすでに江戸時代に属するような歴史的過去になった感を改めて覚える。実際そうであろう。そのようにして次第に歴史が移って行き、物事は収まるべきところへ収まる。2章はあまり知られていない画家を多く紹介し、今回の目玉と言ってよい。3章は浅井忠、小坂象堂、横山大観、下村観山、山元春挙、菱田春草、岡田三郎助、和田英作、4章は劉生、御舟、麥僊、古径、華岳、波光など、5章は長原孝太郎、小出楢重、斎藤与里、藤島武二、藤田嗣治、河野通勢、梅原龍三郎。何をどう描くかの格闘も、明治大正と今とではすっかり変化したように見えるが、過去の蓄積から新たに今後の画家が何を見出してまた成長させるかはわからない。そういうさまざまな遺伝子の宝庫として、過去のあまり有名でない画家もこうした展覧会によって時に思い出しておく必要はある。それに、日本画と洋画という切り口だけではなく、もっと全然違った視点による画家や作品の選択も期待したいところだ。もちろんそういう企画展はたとえば京都市美術館が地道に開催し続けているが、市の所蔵品が中心では限界がある。さて、ここでやめておいてもいいが、次に2章の画家をざっと取り上げておく。
 彭城貞徳(1858-1939)は、チラシの表側に「和洋合奏之図」(1906頃)が大きく紹介されたが、画家自身が洋楽と邦楽の双方を演奏出来たそうで、絵もまさに油絵による日本的情緒を伝えている。「油絵屏風」はキャンヴァス地を屏風にした油絵で、大小さまざまな形の人物や風景画を貼り混ぜ的にたくさん描いている。近寄って見ると、屏風地の和紙文様も油絵具で描いていることに驚いた。だが、絵具が全体に黒く変化しているのか、幽霊が出て来そうな暗い印象があった。どこか遠くに置き忘れ去られたような感情を覚えさせる絵で、これは高橋由一も含めて明治時代の写実絵画に特有のものと言ってよい。江戸時代末期にもそういう雰囲気があるが、時代が暗かったのか、陰影を伴ってより写実的になったためなのか、おそらくどちらも当てはまるのだろう。河鍋暁斎(1831-1889)の「パリス劇場表掛りの場」(1879)は昔見たことがある。新富座で上演された西洋歌舞伎の一場面を描く内容で、浮世絵と洋画の融合と言ってよい。川端玉章(1842-1913)は日本画家だが、明治初めに高橋の画塾に入門して洋画を学んだ。その頃の「四時群花図」(1877頃)は油絵具で細密かつ立体的に描いた花の絵で、江戸時代後期から盛んに描かれた花鳥画からそのまま連続している絵に見えた。五姓田芳柳(1827-1892)は独学で西洋画を学び、絹や紙に膠彩や水彩で風俗を描いて「横浜絵」と称し、外人相手に売ったりした。「風俗図屏風」は中央遠景に富士山、手前中央に人力車や子どもと歩く女性、右端にひとりで歩く片目のおばあさん、左端に獅子舞いのようなふたりで演ずる曲芸とそれを見る長身の西洋人を描くが、おばあさんの片目が飛び出させて不気味に描いてあったり、またふたりで演ずる曲芸の様子がいかにも昔のまだ貧しい日本を象徴しているようで、それを渋い顔で見下ろす外人の横顔の表現に画家の複雑な内面を見る気がした。日本が早く列強に伍して豊かになりたいと思ったことがひしひしと伝わると言ってよい。それは芳柳が卑屈になっていたというのではない。現実をじっと見つめていた姿が伝わるのだ。そこにはまた独学で絵を売って生活して行かねばならない自身の姿も重なっていたと思う。
 荒木寛畝(1864-1943)は維新直後に川上冬崖や高橋由一に洋画を学び、由一、五姓田義松とともに油絵三名家と呼ばれたとのことだが、それは「狸」を見ればよくわかった。明治期の日本は歴史的な時間で見れば、ほとんど一瞬にして油絵具の扱いをマスターしたと言ってよい。それだけ日本人が器用かつ熱心であった。渡辺省亭(1851-1918)は明治11年(1878)のパリ万博で銅牌を受け、その時に渡仏して日本画家留学第1号となったが、写生を加味した花鳥画で海外の評判が高かった。「インコ図」「牡丹に小禽図」(1906)は迎賓館の七宝楽の下絵で、墨による輪郭線の内部に立体的な彩色を施している。橋本雅邦(1835-1908)は明治初期、絵師では生活出来ず、海軍兵学寮で図画の指導をしていたが、その頃に描いた数点の油彩画が残っている。今回は「水雷命中之図」(1881頃)が展示された。どこかアンリ・ルソーを思わせるような素朴さがあった。また、この絵に見られるような戦争の要素が明治時代の絵画に少なからず見出せるのも特徴で、それがなおさら当時の絵をどこか暗い印象に仕立てている。二世五姓田芳柳(1864-1943)の「陸軍歩兵大尉松崎直臣像」もそういう絵としてよい。これは日清戦争初の戦死者を写真を参考に描いたもので、膠彩、掛軸で当時いかに立体的な写実表現が好まれたのか、あるいは画家が描こうとしたのかの好例となっている。同じことは伊藤快彦(1867-1942)の「男性座像」(1898)にも言える。これは背景は描かずに紋付き袴の男性座像のみを、写真以上に迫真的に陰影をつけて表現するため、見る者の視線はいやでも男だけに注がれ、それだけに独特の印象深さを与える。田村宗立(1846-1918)は伊藤快彦らと1901年に関西美術院を創立した。六曲屏風「越後海岸図屏風」(1903)は、絹に油彩で描いたもので、その写実表現は絵はがきのパノラマを見るような雰囲気がある。それでいて味気ないというのではなく、独特の気配がある。それが何なのかはもっと深く考える必要があるだろう。原田直次郎(1863-1899)の「騎龍観音」(1890)は、緑色の龍に乗って立つ楊柳観音を描き、今回川端龍子の絵とともに最も大きいサイズをしていたと思うが、内国勧業博覧会に出品後、作者によって護国寺に奉納された。実際には存在しないものを写実的に描くため、幻想性をかもすはずだが、映画の看板を見ているような一種の大味な滑稽さを感じた。当時はそうは思われなかったのであろうが、大画面で描く意味も見えず、画家のおおげさな身振りが伝わって、筆者は感心しない。だが、その劇画的な雰囲気は、先の永濯同様、再評価される可能性はあるだろう。山内愚僊(1866-1927)の「朝妻舟」(1897)は、川面に小舟を浮かべ、その中に白拍子の遊女をひとり描く。川面だけ見ているとモネの「睡蓮図」をふと思わせたが、日本の伝統的画題である点で、西洋画とは全く違った内容となっている。映画の一場面を思い起こさせるような絵だが、油彩ではあってもさらりとした感じでるため、日本的情感はよく表現されている。川村清雄(1852-1934)は3点出ていたが、「高砂」(1927-8頃)は、琳派風の画題である金地に松と岩を油絵で装飾的かつ写実的に描いたもの、「瀑布(滝)」は縦長の画面で、写実ながら、部分的に絵具をかなり盛り上げていて、マチエールに関心が深かった様子が伝わる。高橋の時代からすでに半世紀近く経って、日本人がいかに油絵具をうまく扱えるに至ったかがわかる例とも言える。
by uuuzen | 2007-02-10 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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