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●『都路華香展』
冲の作品の収集で有名なジョー・プライスのコレクション展は、元旦早々九州国立博物館で開催中だが、京都では去年秋にあった。11月2日に見に行ったが、今日はそれを書くのではない。



●『都路華香展』_d0053294_147731.jpgジョー・プライス展が開催された京都国立近代美術館では、次の企画展のチラシが置いてあった。『都路華香展』だ。それを最初に見た時、小躍りした。去年の正月明けすぐに島根、鳥取に1泊旅行をし、そのことはブログに何日かにわたって書いた。島根の有名な足立美術館についに足を運ぶことが出来たのも嬉しかったが、展示作品の中に都路華香の龍を描いた一風変わった水墨画「白龍」の横幅の掛軸があったことはさらに印象に強い。今にして思えばそれが『都路華香展』が開催されることの予感であったかもしれない。長らく待っていた都路華香展がついに地元京都で開催されたのはいいが、ジョー・プライスのコレクション展とは打って変わって館内はガラガラで、若冲の没後70年に生まれたこの日本画家の名前を知る人がきわめて限られた数であることがわかった。大がかりな回顧展は京都では遺作展以降70年ぶりのことで、京都においてさえもほとんど忘れ去られた作家と言ってよい。筆者が都路華香の名前を最初に強く意識したのは、まずひとつには冨田溪仙の師であったからだ。その昔、京都に移住して来たばかりの筆者は、嵐山に住んだ溪仙に親近感を持った。それは今も変わらないが、溪仙に関する本を読むなどするうちに、師がどんな人であったかが気になった。溪仙ほどの人物を育てたとなると、これは興味を抱かない方がおかしい。だが、昔から画集ではよく採り上げられる溪仙に比べて、華香の情報はなかなか見当たらず、まともな評論本もなかったと思う。今回京都展のチラシに印刷された「良夜」は、昔見る機会があってよく知っていたが、ほとんどそれ以外の作品は見たことがなかった。「良夜」は変な、面白い作品だ。若冲の得意とした技法を応用もしているし、どこか剽軽で溪仙の作風に通ずるところもある。しかし、それ以上に深い興味を抱いて積極的に華香について調べたりすることはなかった。いや、嵯峨にかつてあった霞中庵という竹内栖鳳記念館での華香の生誕130年展の開催をチラシで知ったことがある。華香は明治3年(1870)生まれであるので、それは2000年のことであったか、手元のチラシには開催年度を印刷していない。霞中庵の前には何度も通ったことがあるが、何しろ入場料を2000円ほど徴収し、しかもいかにも門外漢はお断りといった雰囲気が強くあって、入りそこねたままついに数年前に閉館になった。そこにあった栖鳳や華香らの作品はどこの所蔵になったのだろう。霞中庵はバブル前に出来たと思うが、美術館の運命も実に短くはかない。だが、建物や絵画の所有者がどう変化してもよい。大事なものは作品だ。美術作品は転々と所蔵者を変えつつも、鑑賞者の前には常に同じ新鮮な魅力で立ち現われる。
 生誕130年展では霞中庵所蔵の「十牛図」を中心に45点が展示された。今回は豊富な写生帖を加え、大きな屏風をかなり含む89点が並んだ。華香は60歳で亡くなっているので、代表作と言える大作の数はあまり多くないだろうが、今回はそれらを可能な限り展示し得たであろう。だが、図録を読むと、画業の全貌を知り、基準作を設定するには、埋もれたまだまだ作品を発掘する必要があるようで、ようやく本格的な研究の緒についたというのが正しいかもしれない。ところで、霞中庵における展覧会以外に華香の作品がたくさん並んだ別の展覧会がある。これは図録を買っただけで会場に足を運ばなかったが、2001年に日本各地に巡回した『近代の京都画壇-シアトル美術館からの里帰り-』だ。主にアメリカのグリフィスとハトリシアのウェイ夫妻のコレクションを展示するものだが、夫妻は日本における評価に惑わされず、目にかなった近代絵画のみ収集している。それは若冲コレクションで有名なジョー・プライスと同じ方向だが、ウェイ夫妻はもっと新しい京都の絵に着目した。それはまだまだ安価で入手出来るということもあるし、近世より近代の新しさを好むということもあるのだろう。そして夫妻が目をつけたのは華香で、重要な作品を多く含み、今回京都国近美での回顧展でも30点近くを借りて来たほどだ。つまり、京都や日本が華香を忘れていた頃に、せっせとアメリカ人がいい作品を買い集めてしまい、そこから借りずには重要な内容の展覧会が開催されないありさまとなっている。華香の初期の作品は別として、晩年の普段に描いたような小品はまだかなり数が市場に流通していて、値段も割合安いそうだが、今回日本の東西の国立近代美術館が回顧展をすることで、徐々に人気と価格は上昇するかもしれない。だいたい画家の評価というものは死後100年以上経たないことには安定しないものであるから、華香の再評価はこれからかもしれない。だが、これも図録によれば、今回の企画展開催に際して、なぜそんな傍流の画家を紹介するのかといぶかしげに言う人もあったらしい。業界の評価に厳然と思いが固まっている人は、虚心に絵に接することが出来ないから、華香の絵の面白さが理解出来ないとしても不思議ではない。日本の文人画やそれに連なる要素を強く持つ画家の作品は押しなべて低くなっている現在、華香や溪仙の絵は安く流通しているが、ファンにとっては今が買い時ということになる。ウェイ夫妻が華香を収集し始めたのは1980年頃からだが、その2、3年前には筆者は華香に関心を抱いていたから、その時豊富な資金と売り出しに出た作品に接する機会があれば、ウェイ夫妻より先を越していたのにと、まるで夢みたいなことをふと考えてしまう。
 華香の作品はなぜ今まであまり評価されなかったか。個々の画家の作品には個々の価値があるが、同時代の他の画家と必ず空気を共有しているから、他の画家の作品と並べることでまた新たに見えて来ることがあるし、そういう他者との比較した見方は必要でもある。だが、絵画鑑賞においてはそのことだけが正しくは決してない。絵はおのおのひとつとして独立したものであって、それを別の時代の別の国の人がどう見ようがそれは許されるし、またそのようにして見られる方が絵の内容の新たな面が発掘される。ウェイ夫妻が華香の絵を絶賛するとして、それが日本の近代絵画の専門家の見る目とかなり違っていたとしても、それは笑うべきことでは全くなく、そういう夫妻の異質とも言える目によってこそ華香の絵から新たな魅力が引き出される。日本人は外人に何がわかるかと、よく高をくくった見方をするが、人間はみな同じで、おそらくウェイ夫妻が感ずる華香の絵の魅力は、普遍的なところに分け入って感じたものに違いない。となれば、華香は国際的に通用する斬新さを、その活動した明治から大正、昭和初期を通じて獲得していたことになる。その新しさとは何に起因し、どういう過去の先輩の作品の中から出て来たものであるかを明らかにするものが今回の展覧会であった。と、書きながら、その実、誰かによって華香のあますところのない魅力がうまく説明されているかと言えばそうでもない。その理由は、作風が多様過ぎて、どこに本当の姿があるのか判然としないからと言える。正直な話、初期から遺作まで、あらゆる時期を満遍なく網羅した作品群を順に見て行くと、一作毎にころころと絵の形も内容も変化していて、とにかく捉えどころに困る。写生帖を見ると、そこには応挙や呉春から脈々と受け継がれて来た写生に立脚した真面目な態度が一目瞭然に把握出来るし、作画の各時代はそれぞれに同時期の他の画家の全体的ムード、あるいは作画手法を共有しつつ、そのどれにも華香張りの感覚を盛り込んではいるが、華香独自の領域、真骨頂と思わせるものは初期には見えにくい。それでも、まず感じるのはいかにも華麗で洒落た感覚だ。都会的センスのよさと言おうか、田舎臭さがまるでない。写生帖の中に呉春の「砧を打つ女」の模写があったが、確かに華香は京都人ならではの高雅な印象を持っている。そして、京都生まれでそこから出なかったので、栖鳳のような西洋かぶれ的なところもあまり見られない。溪仙に強い感化を与えたはずの禅的要素は、建仁寺に参禅し続けたことで培われたものだが、作品にその味わいが滲み出ているようにはあまり見えない。禅の世界では有名なテーマである「十牛図」にしても、華香の手にかかると、まるで万華鏡の華やかさ、楽しさが強く前面に出て、枯れた味わいといったものからは無縁だ。これは60歳で死んだということが影響しているだろうか。だが、弟子の溪仙はもっと若い57で死んでいるし、その境地は華香以上に禅に近い。
 だが、それでもなお華香には溪仙とは異なる独特の魅力がある。大作毎に題材について深く研究したため、作風が激しく変化しつつ、またあまり作品数が多くなることはなかったようだが、生涯をいくつかの時期に分けると、師の幸野楳嶺に就いて学んだ初期の写生にしかっりと基づいた力作もいいが、筆者はむしろ後年のさらりと描いたような、ほんわかしたムードの作品に心が和んだ。明治時代までの、つまり40歳頃までの作品は、円山四条派の伝統をさらに洗練されたような作品や、ほとんど若冲の後継者かと思わせるもの、あるいはどこか春草や大観を思わせる人物画が多いが、それらはみな華香でなくても他の画家が描けるという気がする。しかし、そんな時代の作品に混じって、素早い筆さばきで省略的に描き、構図もどきりとさせるトリミングの利いた小品がぽつぽつと混じる。そしてやがてそれがもっと強く表面に浮上して来る。ウェイ夫妻が所蔵する明治44年の「緑波」は、4曲1隻の屏風で、華香の代表作とされるが、以前から図録ではよく知っていたこの作品の前に立つと、また新たな感慨があった。金箔地上に白緑と藍の顔料で描いていて、その新しい感覚は、印象派のモネの絵に近い、あるいはもっと遡ってターナーを感じた。じっくりと自然を観察し、また写生を重ね、そうしておいてある日一気に速筆で描き切った感じがある。写生に立脚していながら、どこか特定の場所を示すのではなく、夕日に照るような海あるいは大河の表面の典型を表現している。写生から出発しながら、ほとんど文様化の世界に入っているが、ただちに思い当たったのは、この展覧会に行く4日前に大阪で見た『ニッポンvs美術』に展示されていた福田平八郎の2曲屏風の「漣」だ。華香展を見た後帰宅して図録を読むと、同じことが書いてあった。「漣」は「緑波」の15年後の作品で、すでに亡くなった華香はその作品を見ることはなかったが、ここには明らかに影響関係がある。「漣」は今では大変な名作、つまり近代日本の金字塔とされているが、その前に華香の「緑波」があったことを今後もっと言及すべきだ。華香にとって波を描くことはライフ・ワークであったと言ってよい。今回のチケットのデザインにはウェイ夫妻所蔵の「波千鳥」の部分(明治44年)が採用されたが、ここにも「緑波」とは全然異なる波の表現がある。光琳を初め、日本には波の表現の長いそしてほとんど完成した伝統がある。ごく単純な線の繰り返しによってどこまで独自の波の表現が生み出し得るか。これは簡単なようだが、それだけでも生涯を費やす価値のある大きな課題だ。華香はそこに挑戦し、そしてさまざまな作品でさまざまな波の表現を成した。それが成功したかどうかはそれぞれの作品が示しているが、どの作品にも筆遣いの変化とともに画題にふさわしい表現が見られ、何か特定の「型」に還元されるものを生まなかった。そこが華香の捉えどころのなさである一方、新たなことに絶えず挑戦し続ける姿勢を見せつけて、今なお斬新さを伝える大きな理由となっている。
 「良夜」における波と「波千鳥」の波はほとんど同じ「型」に見えるが、一方は大河であり、片や海と描き分けていて、双方の作品は波以外に描き足す要素によって全く味わいを違えている。そして両方に共通するのは、案外小さな画面であるにもかかわらず、そこからはみ出るような広々とした感覚だ。初期の綿密に描き込む作風から、40歳頃以降は随分と風通しがよくなると言おうか、あまり細部にこだわらない作風に移る。前述したように、筆者はそれが好きだ。今回、最初に展示されていたのは大正5年に描かれた「埴輪」と題する2曲1双の屏風で、これはあまりに有名で図版ではよく知っていたが、実際に間近に見ると、左隻に描かれる白い髭を蓄えた老埴輪師の表情が実におおらかで、その顔の単純な表現に華香の魅力があますところなくあるように思う。会場を先に進んで、今度は「寿仙図」という、鹿とその背後に立つ丸い人形のような仙人を描いた掛軸の小品があった。その仙人の顔は老埴輪師と全く同じものと言ってよく、てっきり筆者は「埴輪」よりうんと後年の、いわば売り絵でさらりと描いたものとばかり思っていたが、大正4年頃の作品で、「埴輪」より以前となる。一方、霞中庵のチラシ裏面には大正5年の「埴輪」と題する掛軸の小品が印刷されているが、それは明らかに先の屏風の「埴輪」の一部の転用でありながら、それとは独立した面白い作品に仕上がっている。ここにも華香の面白さがある。大作でも小品でも風格が同じなのだ。どちらも見なければ全貌がわからない。一見売り絵的な小品でも、大作にない独自の風格がある。「寿仙図」は実に名作で、琳派に見られるような大和絵のおおらかな感覚を濃厚に持ちつつ、若冲のたとえば「伏見人形図」に連なる独特の面白さと温和さが漂う。実際買えるならばほしいと思うほどだ。「埴輪」にしてもそうで、屏風に描かれる大量の埴輪をすべて伏見人形に置き変えれば、老埴輪師はまるで伏見人形を愛した若冲の姿で、ここにも京都の画家として受け継がれて来ている精神性がある。そうなのだ、華香は正真正銘の平安京の絵師で、先人のあらゆる画風の財産を引き受けて、それを時代精神に合わせて表現し直した。溪仙も京都の画人だが、博多出身で、仙厓に傾倒したから、その意味では純粋な平安人ではなかった。それゆえ、溪仙にはすっかり京都に馴染まない何かがある。そしてそこがまた魅力と言える。
 大作と小品の意外で面白い対比は大正8年の「白鷺城」と同11年の「白鷺城図」の関係においても言える。前者は紺色の夜空を背景にして浮かび上がる姫路城を描く大作で、どこか平山郁夫を連想させもする現代的な画風だが、第1回帝展に展示された際、観客によって墨汁がかけられ、無残にも絵の下半分を切断しなければならなくなった。落款を入れ直して天守閣の上半分だけとされ、横長の掛軸として生きることになったが、今回、華香自ら切断した下半分が見つかって、それをうまく継いだ元通りの形で展示された。だが、かつて墨汁がかけられた箇所はそれを拭い取った際に絵具も一緒に落ちたため、かなり無残な印象を与える。墨汁がかけられる前のカラー写真が残っているので、本当は誰か別の人が復元してもいいように思うが、それが無理ならば原寸大のデジタル画像で可能だろう。それはさておき、この冷厳たる美を表現する作品は、他の華香のどの作品からも独立した唯一無二のもので、11年作の「白鷺城図」とも全く異なる。こちらはウェイ夫妻の所蔵で、「白鷺城」よりはるかに小さく縦長の掛軸、しかもまるで童画のようなナイーブで幻想的な表現で、誰しも戸惑いを覚える作品となっている。2点を並べて同一の画家の手になるものとは絶対に誰も思えない。それでいてこの「白鷺城図」は確かに華香しか描かない面白さが露だ。この2点を見ただけでも華香という画家が途方もない何かを持っていることが即座にわかる。そして、ごく簡単に描かれたかのような「白鷺城図」と同じような作品が、売り絵としてたくさんあるかと言えばどうもそうではなさそうだ。これはまるで鑑賞者をおちょくっているような作画方法であって、その自在さの前にあって、華香が真面目であったのかどうか疑う人もあるだろう。だが、多くの人々が回想するように、華香は真面目一辺倒な人物であったらしい。そういう人が「白鷺城図」のような面白い絵を描くことが実に面白い。ウェイ夫妻が華香の作品をたくさん集めるのもそういう何が出て来るかわからない不思議さがあってのことだろう。そして、絵がとにかく温かい。厳しい絵を最高のものとして評価する向きが日本には根強いが、厳しさを通り越してそれを気にしなくなった優しさ、温かさというものが本当の境地ではないだろうか。それは厳しいところに留まっているだけでは手に入らないものだ。絵を通じて人は人柄を見る。絵が目的か、人柄が目的か。筆者は絵を通じて見える人柄に興味がある。絵は人であるからだ。その意味で華香は面白い人で温かい人であったと思う。
 筆者にとって「華香」という名前がとても印象的であったのは、「華」の一字だ。友禅染めの世界に入るためにひとり京都に来た筆者は、ただちに人間国宝の森口華弘の作品に魅せられたが、「華弘」は師の中川華邨から一字を受け継いだことを知った。一方、同じ京都の染色界では頂点にいたローケツ染め作家の皆川月華にも「華」の字があることを不思議に思った。結局、中川華邨も皆川月華も、その「華」の字は華香からもらったものであった。染色作家は無地の生地を専門に染めるのではない限り、写生をしたり、絵を学ぶ必要がある。中川華邨も皆川月華も若い頃は都路華香に就いて絵を学んだのだ。そして華香の父親は友禅師であった。若い頃の華香は父親の仕事をすぐそばで見て、友禅の、あるいは染色の何たるかをよくよく知っていた。そして、華香の師の楳嶺といった先人はみな当時の友禅界に絵を提供する仕事に大なり小なり参加していた。これは明治に始まったことではない。若冲が生きていた以前からそうだ。光琳や応挙、呉春にキモノの作品があることはよく知られる。そんな意味でも華香は江戸時代からそのままつながった京都ならではの画家であった。去年正月、足立美術館で見た華香の晩年の「白龍」の掛軸は、今回そのヴァリエーションが展示された。おそらく同じようなものを何点か描いたのであろう。それらはみな少しずつ違うが、金や銀泥で太い輪郭を描き、その中に墨をたらし込むなどして独特の効果を上げている。それは友禅染めにほとんど近い技法であり、また表面的にはローケツ染めの作品と同じように仕上がっている。最晩年に至って、華香は父親がしていた仕事を強く思い出したのかもしれない。また、染色に見られる特殊な技法と効果をどうにか日本画に持ち込んで新たな作風を生み出そうともしたのであろう。そういう実験精神に富んだ、面白い感覚を持った華香が、アメリカ人の目にとまるのは当然のことに思う。華香の評価が高まることを期待したい。その前に「白龍」の1点でもほしいが、いったいいくらするだろう。
by uuuzen | 2007-01-02 01:47 | ●展覧会SOON評SO ON
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