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●『チャンピオン』
田なにがしが、夏からこっち大いに世間を騒がせた。筆者はスポーツは好まないので、ボクシングにもさほど関心はないが、他のスポーツとは違ってたまにしかTVは放送しないから、話題性の強いものはよく見る。



●『チャンピオン』_d0053294_1444744.jpg筆者が京都にやって来た昔、ボクシング好きの従兄が「ボクシングは本当に公平なスポーツやぞ」とよくその魅力を語ってくれた。それを今でもよく思い出すが、その時の従兄の言葉が本当に正しいかどうかと思ったのが、8月2日の亀田対ファン・ランダエタとの戦いであった。筆者の周りでは誰が見ても亀田の負けという意見ばかりであったが、人間である審判が決めるのであるから、完全なる公平はなり得ないのが当然で、その真実をいやな形で見せつけられた気がして、とにかくしこりを残した試合であったことは確かだ。結局再試合の話がすぐに持ち上がり、今月20日に行なわれたが、大方の予想どおり、亀田が勝った。にもかかわらず、8月以来のしこりが全部消えたかと言えば、そうとは言えない。亀田が嫌われたのだとすれば、その傲慢さが理由であろう。別に肩を持つ気はないが、19歳、しかも大阪の西成の下町出身となれば、あの態度はさほどずれたものではない気がする。その態度は一部の人の間では大阪人の評判を落としたかもしれないが、別に大阪出身でなくても同じような性格の若者は日本にいくらでもいるし、亀田ひとりから大阪のすべてを推し量るのは意味がない。こうすれば損をするから、次はこう立ち回ろうという意識がやがて亀田にも大きく育つと思うが、そうなった時に人気が急上昇するかと言えば、問題はそんなに単純ではない。一度貼りついたレッテルはなかなか世間は剥がしてくれないからだ。今後はボクシング以上にその言動がどう変化するかが世間の注目を浴び続ける気がするが、これは練習に身を擦り減らすより辛いことでもあるかもしれない。だが、そういう立場を当初から選んだから仕方がない。それは戦略であったのかどうか、筆者に知るすべはないが、視聴率から言えばボクシング人気を一気に高めたわけで、ショー・マンとしての才能は評価されてよい。さて、そんな試合から1、2週間経った頃だったか、TVの深夜放送で今夜採り上げる韓国映画が放映された。しばらく見ないでいたが、10月頃に見て感心した。今朝これを書くためにもう一度見たが、最初見た時よりさらに感動した。今までに見た韓国映画で最高のものと言ってよい。単純な内容で、きわめて古典的、つまり古臭いタイプの作品だが、それでもぐいぐいと見せる手法は見事だ。
 この作品をTV局が放送することに決めたのは、亀田の試合の結果を意識してのことかどうか知らないが、この映画がそう思わせる内容を持っている点が面白い。つまり、いかにもわけありでタイムリーな放映だった。実話に基づく、韓国の有名なボクサーの生涯を描いた映画で、80年代までのまだ貧しかった韓国の様子がいろいろと映し出されるが、その点も筆者には見所だった。それは韓国映画にはよくあることで、今さらながら驚くことはないようなものだが、この映画はハングリー精神をテーマにしているだけに、どうしてもそういう時代の韓国の町並みや人々を描写する必要がある。韓国に行ったことのない人にはわからないが、70年代末期頃から何度か足を運んだことのある人が見れば、古い時代を実によく再現していることに感心するだろう。また、この映画に感動するその度合いによって世代がわかると言ってよい。今の若い人がどう見るか知らないが、精神主義がまだよく理解出来る50代半は手放しで賛辞を送るのではないか。監督はカク・キョンテクで、『友へ チング』をこの映画の前年2001年に撮影している。あいにく筆者は同作品が有名であることはよく知っているが、まだ見ていない。同作品の大ヒットの勢いでこのボクシング映画を撮影したことになるが、韓国でも日本でも『友へ チング』以上にはヒットしなかったと思う。それを監督は予想していたであろう。だがそれでも撮りたかったに違いない。そこに監督の心行き、男の美学をどう考えているかという思いが伝わる。監督は1966年生まれで、この映画を36歳で撮ったことになるが、恐るべき手腕だ。それに、監督の年齢を考えると、若い世代でも充分にこの映画の主題が理解されることを感じさせる。話に戻せば、筆者にボクシングの魅力を熱く語ってくれた従兄の言葉を忘れずに、その後ボクシングの試合はそこそこ見て来ている筆者だが、それは今23歳の息子に伝染しているようだ。そのことから、男にとってボクシングは何か普遍的な魅力がある存在であると思わないわけには行かない。そういうことを信ずるからこそ、監督はこの映画を作ろうとしたのだろう。韓国は80年代後半に高度成長が著しく、個人試合の、しかも極端なハングリー精神を要求するボクシングの人気に翳りが出て、サッカーや野球などの球技に人々の関心は移って行った。それゆえ、2002年にわざわざ1982年に亡くなったボクサーを主人公にして映画を作ることなど、無謀に近いだろう。監督は韓国の若者が全体にやわになって来ていることに警鐘を鳴らしたかったのだろうか。そうとも考えられるが、本当のところはそれ以外に言いたいことがあって、それは映画の中のセリフで明らかにされている。筆者がこの映画をブログで書いておきたいと思ったのは、名セリフがいくつかあって、そこに監督の言いたいことが凝縮されている気がしたからだ。その名セリフは今の若者は臭いと一蹴するタイプのことかもしれない。だが、そうではない。ひたむきに、懸命に目標に向かって精進することは男の最高に格好いい姿なのだ。
 物語はごく単純だ。海沿いの田舎出の、学歴のない貧しいひとりの少年がソウルに出て、7年後には血を売って生活をするような青年になっている。ちょうど朴政権時代で、軍隊が幅を利かしていて、男には強い肉体、ハングリー精神が求められた。当時韓国はボクシング・ブームで、強い選手をたくさん輩出していた。この映画の主人公のキム・ドゥックはある日街角に貼られたボクシング試合のポスターを見てジムに入門する。そこは数十人の選手を抱えるところで、ドゥックはなかなか頭角を現わすことが出来ない。ついに回って来たライト級の試合では最後まで戦う勇気が出ず、試合後にジムの会長から太い棒でみんなの前で体罰を食らうありさまだ。だがドゥックはめきめきと試合に勝ち、やがてジムを代表する選手になり、WBA東洋チャンピオンに登り詰める。そしてついにラス・ヴェガスに飛んで世界チャンピオンのレイ・ブーム・ブーム・マンシーニと戦うことになる。いつどのようにしてドゥックが試合に勝ち進むようになって行ったかだが、そこにはジム会長の励ましの言葉があった。この映画で重要な人物は3人いるが、ひとりはドゥック、そしてドゥックと婚約する若い女性、そしてジムの会長だ。一番重要なのは案外ジムの会長で、セリフの言い回しも含めてとても特徴あるいい演技をしている。そのジムの会長が最初に登場するのは、ドゥックがポスターを見てジムに入門し、他の3、4人の新入りと横並びになって会長から言葉を聞くシーンだ。ふたつのことを会長は言う。『今後どこへ行っても絶対に相手をののしるな。普通の人なら許せるが、ボクシング選手なら、無学でバカだと思われる。人糞の汲み取りをしても一番になれ、職業に貴賤はない。その世界で最高になればチャンピオンだ』。これはごくあたり前の、そして今の若者にとってはあまりに教訓臭い言い回しであるため、鼻でせせら笑うことかもしれない。8月の試合やその直後に亀田選手が嫌われたとすれば、「相手をののしるな」ということに反したからと言えまいか。そして、映画のセリフにしたがえば、亀田はただの普通の人ということになる。日本もまだ案外韓国社会と似た価値観を持っていて、礼儀に反する、そして無教養丸出しの言動を恥と思う心が人々には健在で、亀田の「勝てば文句はないだろう?」といった態度が許せないのだ。だが、亀田はたとえば「勝ち組負け組」という言葉が繰り返しマスコミで言われる時代の寵児であり、亀田の態度は日本の風潮をそのまま代弁しているだけと言ってよい。「相手をののしるな」ということを学校ではもう教えなくなったし、むしろネット社会になってからは、ののしり返すことが正義になった感すらある。ネットに横行する暴言は目を背けたくなるが、亀田はそういう時代に登場しているのであって、今はドゥックがジムに入った70年代ではない。だが、やはり監督は忘れてはならないものがあることをこの映画で主張する。そのひとつが「相手をののしるな」であり、それはたいていは親か年長者が目下にたしなめる言葉であり、映画に描かれるように、父親が3回も変わったドゥックにすれば、ジムの会長は父親的役割を成した。そして父親を知らずに育った筆者がこの映画をいいと思うのも、そんな父性が明確に表現されているからだろう。先日の試合で勝ったばかりの亀田は父親に感謝して泣いたが、その父親がなぜ息子に「相手をののしるな」と教えないのか、そこに亀田の不人気の大きな原因もあろう。勝つだけが目的か? 勝って金儲けをして有名になるだけが目的か? ボクシングはただそれだけのものか? TVを見る人がみんな勝つ者にだけ拍手を送ると思うのは大間違いだ。勝ち方というものが大事であり、結局は人柄なのだ。亀田の言動に対して、世間はどうせボクサーなど無学が相場で、ののしりが似合っていると踏んだ面もあるはずだが、亀田がそう見られたとすれば、今後はさらに開き直り続けるか、あるいはののしらないでおくかのどちらかしかない。
 映画に話を戻そう。ドゥックは少しずつ力をつけ、81年12月はKO勝ちする。時代は朴政権から全斗煥政権に変わっていて、映画でもわざわざそのことを示すように、ジムに掲げてある大統領の写真が変化している。そんなある日、ドゥックはジムの上の階の会社に勤務する美人に一目惚れをする。強引に接近するが、その一方で「女は人生の障害物だ」と何枚もの紙に書いて部屋にべたべたと貼りつけて練習にいそしむ。勝って有名になるまでは女を断とうというわけだ。ボクシングが性的にも禁欲にならなければとても勝ち進めないほどに過酷なスポーツであることがここでよく示される。だが、恋は本能であるし、ドゥックは彼女を諦め切れず、ふたりの交際は進む。しかし、クリスマスの夜でもドゥックは不満がる女をひとりタクシーに乗せて早く帰宅させる。ついにふたりの仲は女の親に悟られるが、案の定ドゥックは交際を反対され、女は別れの手紙をよこす。その夜はドゥックは酔い潰れるが、これは韓国映画の常套手法で、なぜこうも韓国の男性は失恋があるたびにぐでんぐでんに酔っぱらうのかと思わせられる。だが、セリフなしで心中を示すには最適の方法なのであろう。わかりやすいのが一番でもあるし、実際に韓国人はそういう行動を取ることが多いからかもしれない。酔った翌日、練習にかなり遅れてやって来たドゥックをジムの会長は強く当たる。そしてドゥックを鏡の前に立たせて、服を脱がせ、また名言を発する。『いい歳をした大人の言い訳は聞きたくない。ボクシング選手はミス・コリアより鏡を見る時間が長い。姿勢の確認も大事だが、戦うべき相手が鏡の中にいるからだ。選手が試合中に戦う意欲を失えばすぐにすぐに疲れる。腹が避けるほど痛くて死んでも、顔に出しては駄目だ。お前が弱さを見せた瞬間、相手の力は2倍になる。俺とお前がボクシングを始めた理由は、体しか財産がないからだ。これからは目の前に立っている自分と戦え。勝つだけが勝利ではない。自分の最善を尽くした者が本当のチャンピオンだ』。ここにもこの映画で監督が言いたいことがすっかり吐露されている。「勝つだけが勝利ではない。自分の最善を尽くした者が本当のチャンピオンだ」は、たとえば映画の興行成績がトップにならなくても、とにかく最善を尽くして納得の行く作品を作るという思いにつながっているだろう。先の「職業に貴賤はない」と合わせて考えると、監督業もボクシングと同じことになる。どんな分野の仕事でも、最善を尽くさねばならない。最善を尽くした、あるいは尽くそうとする姿の集合体がこの地球の人間世界だ。
 いいセリフはほかにもあるが、それは実際にこの映画を見て感じればよい。映画を見て何か心に残る言葉があるというのは、今では稀なことではないか。娯楽一辺倒になってしまった映画に、どんなありがたい教訓があるのかというのが大方の冷めた見方で、「ああ、面白かった」で充分なのだ。それすらもない映画があるし、教訓めいたことが露に表現されると、それこそ一気にその作品は面白くない部類に追いやられる。それを考えると、この映画はそうとうな綱わたりをしている。もはやブームでもなくなった韓国のボクシング事情は、映画の最後ではっきりと示される。かつてのジムは閉鎖されていて、蜘蛛の巣が張っている。そこに活気が戻るのはもう夢かもしれない。そんな懐かしさ、さびしさを痛感するからこそ、監督はこの映画を作ったのかもしれない。だが、時代は後戻り出来ないとしても、ボクシングは今でも韓国でも、そして日本でも健在であるし、これからもそうだろう。その意味においてこの映画もまた絶えず思い出される作品となる可能性はある。ドゥック対マンシーニ戦は15ラウンドであったが、この試合をきっかけに12回に減らされた。ジムに通い始めたドゥックは、肉体労働をしながら、ある日友人にこんなことを話す。「ボクシングほど公平なスポーツはない。人の体は同じ、同じ条件でベストを尽くす。チャンピオンの賞金は1000万ウォン以上だ」。最初に書いたように、このセリフの前半は幻想かもしれない。勝ち負けの判定には見方の差が入り込む。それが時に公平でないことはもう誰でも知っている。プロレスのようなショーとは違って、ボクシングだけはまだもっと激しい、そして潔癖な何かが温存されるべきと期待する男心を思えば、興行主はいかにショーとしての側面の、その裏側での金の動きを醜いものとして表沙汰にしないかに限るが、それは難しいだろう。さて、感動的なドラマ、つまりいかに真面目な作品かを強調したようだが、実際は監督の茶目っ気溢れる遊びも挿入されていて、思わず笑ってしまう場面がある。たとえば、ボクシングの試合を中継するアナウンサーと論評家のちょうど間、その背後に、いつも同じ顔の中年男性が座っているが、それは監督の以前の作品によく登場していた俳優で、ここではいわばチョイ役の特別出演だ。そうした息抜き的要素も含めて、この映画が完璧に作られていることに賛辞を贈りたい。亀田はいつかこのような映画の主人公として歴史に名をとどめるだろうか。それはこれからの勝敗と、何よりも態度にかかっている。
by uuuzen | 2006-12-30 01:45 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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