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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『エッセンシャル・ペインティング』
川信次展を10月8日に国立国際美術館で観た時、今夜採り上げる展覧会が地下3階で開催されていた。小川信次展の感想をブログに書いた時、年内にもう一度この美術館を訪れると言っておいたが、それはこの展覧会の感想を書くつもりでいたからだ。ようやく17日に行って来た。



●『エッセンシャル・ペインティング』_d0053294_1564081.jpgチラシはチケットと同じく、ピンク色の無地背景に男女3人が描かれるアレックス・カッツ(Alex Katz)の作品だが、カッツは一目でそれとわかるスタイルを持っている。と、ここまで書いて1時間も中断し、ようやくカッツ展の図録を探し当てた。目的の本がすぐに探し出せないほどここ数年で蔵書が倍増した。またこんな愚痴めいたことを書いても仕方ないが、今一番ほしいのは広い部屋と本棚だ。鉄筋コンクリートの3階建てに家族3人で住んでいるが、階段も含め、すべての部屋に本を積んでいて、仕事部屋の3階は本の重みでコンクリートの床がたわんでいる。大地震が来れば本に埋もれて圧死するだろう。家の主人公がまるで本になっている。それに比べて、今図録で見ているカッツの絵ののびのびとした空間の広さと明るさはどうだ。図録は1988年に開催された時のもので、カッツの作風がよくわかる。その絵を見て誰しも連想するのは、映画の看板絵だろう。それも素人が描いたような下手くそなやつだ。モデルは有名人ではなく、鑑賞者には判別出来ない、つまり個性が剥奪されたような無名の男女がほとんどいつも描かれているが、人物の内面性がこちらに迫って来るという絵ではない。また、濃い影をつけて立体感を強調する描写ではなく、アメリカ西海岸の気候を思わせるような明るさとカラフルさが支配的で、色面は平板だ。形もデフォルメとまでは行かないが、それでも歪なところが目立ち、全体にザクザクとおおまかに描かれた印象がある。あまり仕上げにこだわらないようなその作風は、さらりとしていていかにも金持ちに好まれるようなところがあるが、それは絵の中に深刻な問題を何ひとつ持ち込んでいないからでもある。あっけらかんとしたポップな様子は、たとえばデイヴィッド・ホックニーの絵画に共通するが、カッツはもっと単純かつ類型的なところがある。ある意味ではアンリ・ルソーの素朴さに近いかもしれない。作風としてはマネの現代アメリカ版と言ってよく、今風に言う「お洒落」なのだ。展覧会のタイトルの「エッセンシャル」(欠くことの出来ない、本質的な)が当てはまるのかどうか知らないが、何もかも綿密に描かず、言いたいことだけをストレートに表現するという意味では確かにカッツの作品は「エッセンシャル」な気がする。
 そんなカッツの作品が商業イラストレーターの作品とどこか違うのか、誰しも即答は出来ない。実際カッツの絵はそのままイラストとして何かの商品ポスターに転用してもおかしくない。カッツの油彩画は大画面が多いが、たとえば18世紀以前のヨーロッパの絵画のように、近寄って見て細部の鑑賞に耐えるという感じはない。前述したように、かなりおおまかに形を捉えているし、背景もたいていは無地なので、やや離れて見てちょうどいい加減だ。そんなわけで筆者の狭い部屋にはまず飾れないし、飾っても似合わない絵だが、それでもカッツの絵を鑑賞するのは楽しい。アメリカ的な幸福感と、そこに内在する一種の空疎感がほどよくよく表現されていて、その意味でカッツの絵は今後ますます評価されるような気がする。先の図録には、山下清ほどでもないが、50年代に制作された貼り絵の作品が十数点紹介されている。熊谷守一のアメリカ版とたとえればまさにぴたりとする感じだが、油彩とはまた違ったカッツの非凡な才能がよくわかる。小画面にもかかわらず、むしろ大画面に人物を何人か並べて描く場合よりも雄大さや優しさが伝わって見飽きない。またカッツには彫刻もあるが、これはトム・ウェッセルマンに共通するような、平面をそのまま人の形に切り抜いて立てただけの、奥行きが全くない、つまり正面から見るしか意味のない作品なので、彫刻とは呼べないだろうが、その特異性によって忘れ難い印象を残す。よく子どもが飛び出る注意をうながす「飛び出し坊や」の看板が小学校近くの道路角にあるが、それと同じものを思えばよい。それはさておき、今回は最初の部屋の四方の壁面にカッツの近作の大きな油彩画が1点ずつ計4点展示されていて、出品者13人の中では例外的な年長の貫祿を示していたが、88年展から知り得る段階から新たな発展はないように思えた。カッツは1927年にニューヨークに生まれ、50年代初めにはポロックから大きな影響を受け、57年から肖像画に手を染め始めた。少しずつ知られる存在になり、日本では80年代半ば以降に目立って紹介され始めた記憶がある。ある意味では遅咲きの才能と言ってよいかもしれないが、それはただ世間がカッツの感覚に近づいて来ただけで、ようやく番が回って来たというのが正しい。とにかく今回の展覧会で採り上げられた他の12人はみな1950年代以降の画家であるので、カッツはそうした欧米で活躍する最先端の具象画家の先駆者として捉えられていることになる。遅れて来たような才能が、次世代の先頭に立っているという姿であって、自分の仕事をとにかく純化させて行くことの大切さをカッツは示しているだろう。ただし、現在80歳近い彼はもう作風を大きく変えることはないと思える。
 カッツは東欧からの移民の子として生まれたが、当然アメリカの同時代の美術だけではなく、ヨーロッパとの関連でも論じられる。評論家はそうした美術史的な位置づけを探って書くのが仕事であるし、また画家も意識するしないにかかわらず、先人の作品から大なり小なり影響を受けて自己の作風を確立するしかないから、一見斬新に見えるその作風の中に、過去から引き継いでいる、悪く言えば残滓のようなものを鑑賞者は確認し、そこに一種の安心感のようなものを覚える。人が作品に初めて接して、見慣れない何かに動揺した場合、それを理解するためにどこかに既視感を与える何かがありはしないかと考えを巡らせるが、糸口が見つからない場合、その作品は途方に暮れたものとして明確に記憶されない。記憶に残るとすれば、そこに自分が知る過去の何かとつながった部分があるからだ。ただし、その過去の何かとあまりに強くつながり過ぎていると、それはただの「どこかでよく見る」ようなつまらない絵になるから、あくまでもその他とのつながり要素は巧みに隠されている必要がある。つまり、新しい絵とは、過去のイメージをどこかで引きずりながら、それを一見そうとは見せていないことが重要だ。さて、今回の展覧会は、13人の画家それぞれの小個展会場の寄せ集めで、何か特定の流派を見せるというものではない。チラシにはこんな文句がある。『…90年代、欧米の画家たちが斬新な絵画によって注目を浴びました。過去の絵画を消化しつつ、今日的な美と意義を持ち合わせたそれらの絵画は、各々が独自性に富んでおり、決してひとつの絵画観に基づいているわけではありません。しかしいずれも、現代の感性や価値観に根ざし、前衛に対するこだわりからは開放されています…』。先日書いた『大阪人が築いた美の殿堂』では、若い人は展示にあまり関心が持てないだろうと書いたが、それとは正反対なのが今回のこの展覧会と言ってよい。画廊での個展を頻繁に見ない限り、なかなか現在どのようなことが先端の美術界で行なわれているかを知ることは難しいが、しかも欧米のものとなるとなおさらだ。美術雑誌を熱心に見る人はそうではないかもしれないが、それでも実作品を間近に見る機会はめったにない。その意味で、90年代以降現在に至るまでの欧米で注目される画家13人をまとめて採り上げるこの展覧会は貴重な機会だ。今4、50代のこうした作家が将来どう評価されているかわからないという一種の頼りなさを誰しも感ずるだろうが、それは自分の眼が試されることでもあり、その楽しみを前提に会場に足を運ぶ機会はそうめったにあることではなく、この展覧会をよかったと感ずるかそうでないかで、骨董的人間になり果てているかそうでないかがわかると言ってよい。ただし、若い人は古典となった作品をあまり見ていないだろうから、最先端の絵を見ても、戸惑いばかりが先に立って、理解も出来ぬまますぐに忘れるかもしれない。絵は理解ではなく、感ずるものだと言う意見もあろうが、感ずるよすがとなるものが、結局は古典的要素に強くつながっている場合がしばしばなのだ。
 筆者は美術雑誌を一切読まなくなってからもう20年近くなるので、カッツ以外の12人の画家は初めて知る者ばかりであった。92年にフランクフルトに行った時、開館したばかりの現代美術館がとても楽しかったが、そこには日本では決して紹介されない未知の画家の作品がとても多く展示されていた。見知らぬ作品に接することはとても楽しい。今回の展覧会もその時とほとんど同じ感覚を味わった。当然好きと思える絵もあればそうでないものもあったが、結果として思うことは、人間や国、風土は想像以上にさまざまで、無限の宇宙を感ずる嬉しさだ。たとえばハリウッド映画なら、もう見なくてもどういう味わいかほとんど想像がつくし、ロック音楽でもそうだ。筆者の年令になれば、商業的なものはすべてそうした予想がつく。それゆえ面白さというものが、たいていはきわめて限定的で味気ないものになっている。つまり、もうあまり驚くことがないのだ。だが、唯一どんな作品があるのか全く想像がつかない分野がある。それが絵画なのだ。そして、今回はそういう期待に応じてくれたが、今こうして書いていて、ぽつぽつと思い出す絵は、どれもまるでめったに見ないタイプの夢の中で出会ったような奇妙な感じがまとわりつく。そのことをさまざまな角度から分析するだけで、また日を改めて書く必要が生じるが、ここではとにかく珍しく、とても面白いものをまとめて見たということだけを言っておこう。で、絵画を作るのは人間であるから、結局筆者は珍しい人間に出会いたいために頻繁に展覧会に足を運ぶと言ってよい。筆者にとって珍しい人間は、個として独立した存在で、独自の価値観を持っている場合だ。さて、図録を買わなかったので、誰がどういう絵を描いていたのかもうはっきり思い出せないし、絵の細部に焦点を当てて書くことは出来ないが、見た順に簡単に触れておこう。
 いつもとは違う方向に導かれて入口にたどり着き、最初に正面から入ったコーナーは前述したようにカッツの4点の人物画があった。ピンク地の作品、それと対面して同じくピンク地があり、そして紫地と紺色地で、どれも男女3、4人を描いていた。連作であろう。個人的によく知っている若者を描いているのだと思うが、みな幸福そうで、それでいてそのことを見せびらかすような押しつけがましさがない。隣のコーナーはミッシェル・マジュリュス(Michel Majerus)で、1967年ルクセンブルク生まれで、2002年に亡くなっている。画面には広告の文字や日本のセーラー・ムーンのマンガのキャラクターがカラフルな色合いで明るく大きく描かれるなど、現代のマス・メディアのイメージをモチーフにしている。しいて言えばウォーホルに近いかもしれない。次のローラ・オーウェンズ(Laura Owens)は1970年生まれで、ロサンゼルス在住のアメリカ人。2005年に東京の資生堂ギャラリーで個展を開催していて、その図録が参考図書コーナーに置かれていた。いかにも女性らしい、そしてどこか童話の挿絵のような絵で、物語に基づいているような叙情性がある。おそらくとても繊細な人物だろう。青臭さを強く感じるが、それはまだ30代半ばの年齢からして当然かもしれない。絵は饒舌と言ってよいが、どれも「無題」となっている。馬上で寝る女や、ヴァインキングだろうか、戦いの絵、あるいは海景色をモチーフにしていた。リュック・タイスマン(Luc Tuymans)は1958年ベルギー生まれで、アントワープに住む。灰色を基本とした色彩で描き、その点はマルケをふと思い出させたが、わかりやすい叙情性ではなく、抽象性に強く接近した具象、つまり独特な象徴性とでも呼んでよい画面で、謎めいた雰囲気が濃い。「パン生地」と題されてはいるものの、何を描いているのかわからない作品もあったし、チラシに印刷される「証拠」という証明用写真を拡大した肖像画も、風化の跡を描き込んでいるのかどうか、鑑賞者に自由に感じてもらてけっこうといったような突き放したクールさがある。素早いタッチを感じさせつつ手慣れた味わいを見せているのも特徴だが、この油彩ならではのマチエールの楽しさは今回どの作家にも当てはまる。マルレーネ・デュマス(Marlene Dumas)は1953年南アフリカ共和国生まれでアムステルダム在住だ。今回最も印象に強かったひとりで、大半の作品は裸の人物を描いている。鑑賞者に陰部を丸出しにして見せる女性など、かなり強烈なポーズを取る裸婦が目立ったが、キース・ヴァン・ドンゲンを即座に連想させる筆さばきは心地よい。描かれる人物の赤裸々な様子はヴァン・ドンゲン譲りと言ってよいものだが、そこにはヨーロッパに色濃くある一種の頽廃のムードが強く漂う。黒人女性をモデルに使用している作品が多かったが、それは生まれた国の影響か。また、女性が女性を描くという点に関しては、フェミニズムの共感があってのことだろう。エリザベス・ペイトン(Elizabeth Peyton)は1965年アメリカ生まれでニューヨーク在住。人物を描いた小品ばかりで、デュフィの青色を強調する色彩感覚をさらに原色に近づけた味わいがある。またモデルはみなロック・ミュージシャンであるかのような現代性が強く、ほとんどイラストレーターの仕事と呼んでいいかもしれないが、グリザイユ的な絵具の扱いに実に手慣れた様子を見せていて、そのテクニシャンぶりが強い印象を残す。カッツの次世代の目立った才能として評価が固定化するかもしれない。ジョン・カリン(John Currin)は1962年アメリカ生まれでニューヨーク在住。写実主義に強く基づきながら、デフォルメがそうとう利いているため、やはりイラスト的な仕事に見える。ノーマン・ロックウェルを単純化し、そこにシュルレアリスム風味を加えた作品を思えばよい。実在の人物をモデルにしているように見えるが、それが極端に大きな乳房を持った女や丸坊主の女であったり、ニンフに見えるような杖を持った若い女であったりと、どこか一筋縄では解けない様子がある。そう言えば、オットー・ディックスにも似ていて、今回の13人の中では最もリアリズム的描写をしていた。
 ヴィルヘルム・サスナル(Wilhelm Sasnal9 は1972年ポーランド生まれでクラクフ在住。いかにも東欧の画家と言えば何も説明したことにはならないが、抽象画に近い具象で、たとえば100年前の社会主義で生まれたポスターを連想させる。「木星」「木星2」はモノクロで表現したごく単純な天体図、「ドラム・セット」は赤いドラム・セットをそのまま画面いっぱいにイラスト風に単純化して描いた作品、「シカゴ空港」「シカゴの黒人街」は完全な幾何学抽象と言ってよい画面で、その禁欲的とも言えるわずかな線形とごく限られた黒や白、赤という色彩ゆえに印象に強い。セシリー・ブラウン(Cecily Brown)は1969年イギリス生まれでニューヨーク在住。最多数の10点の油彩画を並べていたが、作風はどこかココシュカの荒々しいタッチを連想させつつ、そこにシュルレアリスム好みが加わっている。ダリ好みの二重に見えるだまし絵の連作が4点並んでいたが、これは有名なヨーロッパ絵画の引用だ。参考図書コーナーにあった画集によればセックス絵画からの引用が多いようだが、それも含めてヨーロッパ絵画のあらゆる遺産を引き受けながら、眩暈を起こさせるような込み入った画面を素早い筆さばきで見せている。一見したところ何を描いているのかわからない絵が半分を占めていたが、これはただ筆者がその過剰な表現に辟易してほとんど素通りしたためかもしれない。そのわかりにくさゆえ、実は今回最も面白い作家と言ってもよいだろう。その意味では次のネオ・ラオホ(Neo Rauch)も同じだ。1960年ドイツ生まれでライプツィヒに住む。「階梯」「大地の男」「火山」「創造主」「洞窟」というタイトルからもおおよそ想像出来ると思うが、どの絵も謎めいている。ドイツ的な重厚さを持ち合わせつつ、やはり個々のモチーフは100年近く前の遺産を源にしているように見える。ポール・デルヴォーやエルンスト・フックスといったシュルレアリスムや幻想派に接近しながら、好みの素材、たとえばホースや煉瓦やオットセイといった暗喩的なものを人物と一緒に描き、不条理な物語場面を作り出している。その奇妙さの前にあってはたとえばデルヴォーやマグリットも型なしで、ただただ戸惑いを覚えながら画面が脳裏にしっかりと刷り込まれて行く。ピーター・ドイグ(Peter Doig)もその点では多少似ているかもしれない。1959年イギリスに生まれ、トリニダート・トバコに住む。ムンクが熱帯に住んでいればこういう絵を描いたかもしれないと思わせるところがある。たとえば「奇妙な」と題する作品もそうで、タヒチ島の海辺にひとりの男が立っていたと記憶するが、タイトルと内容がどう合っているのか戸惑う。「オールド・サン・ファンのハート」は緑色のバスケット・コートを描いているが、これもどう解釈していいのかわからない。「オレンジの森」は山火事の森を描いたのかもしれないが、どの絵もほとんど写生に基づきながらも象徴性の強さを伝える。ムンクつながりではないが、次のコーナーのマンマ・アンダーソン(Mamma Andersson)は北欧の画家だ。1962年生まれスウェーデン生まれでストックホルム在住。やはり写生に立脚しながら、奇妙な絵も描いている。たとえば「行き止まり」は、横長の画面が3段に分けられていて、最上段は砂漠のような風景、下の2段はほぼ同じ室内の様子を描く。「家に帰る」は上下2段分割の絵で、上半分は室内、下半分は女と男が外を歩いている様子を描く。「痕跡」は服がたくさん散らかる中、あちこちで好き勝手に着替えをする3人の女を描き、「時の島」では観用植物のある室内を描く。「影響を受ける部屋」は白樺を中心に描く雪景色だが、これも単に写生ではない別の何かを表現しようとしているのだろう。さて、最後にカッツのところに戻って、その奥のコーナーにあってベルナール・フリズ(Bernard Frize)を見た。1954年フランス生まれでパリ在住だ。今これを書きながら、この画家がフランス人であることを知ったが、いかにもそんな作風だ。簡単に言えば大きな刷毛にカラフルな絵具を塗って、そのまま画面を一筆描きのように軌跡を作った絵を思えばよい。それが編み物の拡大図のようであったり、本棚やカーテン、屋根あるいは迷路、格子のような模様であったりする。デカルコマニーに関心を強く持っていたようで、その奥にはたとえば自然が作り出す木目や大理石の模様といったものにつながる、偶然と必然が拮抗した美に魅せられる資質があるのではないだろうか。それは抽象と具象の間の表現を目指すことにもなる。キャンヴァス上を絵具がぐにゅぐにゅと自在に流動している様子は、通常の油彩の絵具では表現出来ないと思えたが、やはりアクリル絵具を使用している。この点は上記の画家ではミッシェル・マジュリュスと同じだ。まとめてたくさんの個展を見たような気分だったが、このような珍しい作家の展覧会はぜひとも定期的にどんどんやってほしい。退屈な日常に驚きをもたらしてくれるのは、新鮮な絵画以上にはあり得ない。
by uuuzen | 2006-12-28 01:56 | ●展覧会SOON評SO ON
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