約束より2週間遅れでこの展覧会について書くことになる。所有する古いデジカメの電池をネット・オークションで入手したので、早速充電してこの展覧会を見た日に何枚か撮影した。その成果の1枚は前に京都国際マンガ・ミュージアムについて書いた時に掲げた。
当日はここ数日同様、雨模様であったが、帰り道の暗くなって霧が立ち込めた御池通りは、車のランプやら店の電飾などが濡れた歩道に反射してとてもきれいだった。写真を撮ったが、目で見た感じのように明るくは映らなかった。これがとても不満で、かなり画像を加工してムードを近づけてみたが、それでも思ったような雰囲気が出ない。カメラのレンズが問題なのか、何か原因なのか、いまもってカメラのことはよくわからないでいる。夜の美しい写真を撮りたいと昔から思っているが、そのためにはかなりいろいろとカメラの光学について学ばねばならないようだ。そんなことを思いながらもう2、30年も経つが、相変わらずこの調子でこれからも行くことだろう。さて、会場で簡単なメモをして来たので、それを元にどうにか思い出して書く。裏表カラー印刷のチラシが作られていて、展覧会タイトルの副題として「表現の未来に挑むマンガ-その限りない可能性を探る」とある。そして展示内容は、1『海外マンガ』(欧米・アジアほか1000冊以上の特選マンガと世界を魅了する翻訳版日本マンガも大展示)、2『日本のマンガ』(日本最古のマンガ「鳥獣人物戯画」から現代に至るマンガとメディアの潮流を。「絵巻物と戯画の世界、「近代マンガの誕生」、「戦後の赤本マンガブーム」「貸本マンガの時代」、「マンガ誌創刊号コレクション」、「伝説のマンガ雑誌」)、3『風刺マンガ』(過去の入選作品で展望する「京都国際マンガ展」の歩み)の、3部構成だ。このうち3はほとんど記憶にない。京都国際マンガ展は読売新聞の主催で続いているが、たまにその展覧会を見る。今回はその受賞作品の中から傑作を展示しているようだが、数が少なかったのか、目立たないところに展示されていたのか、はたまたごくわずかしか見なかったので覚えていないか、とにかくこの現在の「風刺マンガ」と言える部分だけでも独立した企画展が充分に出来るはずで、今回の3部構成は盛りだくさんな内容と言うべきだ。にもかかわらず、あまりそういう気がしなかった。前にも書いたと思うが、それは展示されているマンガの大半が歴史時代に入っておらず、古書店ではまだごく普通に入手出来るもので、ありがたみをあまり感じないことによる。悪く言えば、個人のコレクションでいくらでもあるようなものを並べて入場料を徴収している気がするからだ。
ところがそう思うのは、筆者が50代半ばで、戦後のマンガ・ブームをそのままリアル・タイムでよく知って来たからであって、今の大学生には珍しい展示として映るだろう。何でも自分を基準に考えがちで、その意味でこうしたブログに書く意見は独断的になるが、それでも人がみな自分を基準にして書くことによって、その集合である総体、つまり世論やブログ世界には各世代の思いが提示されるから、独断的になるのはいっこうにかまわないと言えるし、また人はそういう立場でしか実際のところは物が書けないのではないだろうか。いきなり理屈っぽいことになってしまったが、結論から言えばこの企画展があまり面白くなかったのは、総花的な展示内容であることとともに、これまた前に書いたが、筆者は小学生を卒業すると同時にきっぱりマンガを卒業したので、それ以降の、つまり1960年代半ばのマンガにはほとんど関心がないことにもよる。筆者より数歳年長の大学生がたとえば60年代後半から70年代初頭にかけて少年マガジンの連載マンガに熱を上げていた姿がどうにも理解出来ずにいたが、その思いは今も変わらない。当時マンガに没入ないし同感していた大学生の中からは、その後の日本文化のあらゆる面をリードして来た人々が表にも陰にもたくさんいるはずだが、そういう人々と筆者は考えが重なる部分もあるが、微妙にずれている部分もまたあるように予想する。当時の大学生はとにかく大人が作った社会の仕組みに対して意義を唱えることを行動で示したが、筆者はそういう大学生にもまた内心意義を唱えたい思いでいたし、それでいて大学生から揶揄される大人たちに与するという気もなく、とにかく奇妙に捩じれていたのかもしれない。そのまま今に至っている筆者だが、捩じれているのかどうか自分ではよくわからず、またそんなことはどうでもよくなってしまっている。反体制を叫んだ者が反体制の声に晒されるのは道理であり、今の若者は本当は今の社会に意義を唱えて暴れるのが正常の姿だ。だが、現実はどうか。昔のように学生運動で暴れるのはダサイとばかりに、すっかり昔反体制であった人々に洗脳されているようなものだ。だが、捩じれた若いエネルギーは直接的な行動でなければ別の形でほとばしり出るしかない。それが今の日本の社会によく見られる、かつての日本にはなかったようないじめや自殺などと言えば反論はあろうが、独断を承知で言えばそういう見方をしてみる必要はある。子どもや若者の間にあるいじめは大人社会の反映、縮図であろうし、それはかつた暴れ回った学生たちが内ゲバで身近なものをいじめたり殺したりした事件の遠い反響に思えなくもない。そしてそういうかつての大学生世代が先頭に立って「くくむむ」、つまり京都国際マンガミュージアムを作った。出来るべくして出来た、なるべくしてなった施設だ。そのため、先に書いたように、筆者はあまり諸手を上げて賛同したくない思いがある。
話題を変えよう。今、チラシと一緒に新聞の切り抜きが出て来た。先月29日の読売の夕刊だ。「コミック館」という4段組みの文章に目をとめて切り抜いておいた。その右には5段抜きの「マイ・ヒーロー&ヒロイン」というコラムがあり、岩明均の「寄生獣」が採り上げられている。筆者はこのマンガを息子が小学生だった頃、たまたま目にとめて単行本を全部買ってリアル・タイムで読んだ。終盤に向けて内容が急速につまらなくなって行った記憶があるが、そんなつい昨日のように感じる作品が、もう半ば歴史時代に入ったかのように語られることに年月の経過の迅速さを思う。で、4段組みの文章は「現代漫画博物館1945-2005」と題する、日本初の現代漫画事典が発売されたことを伝える。戦後60年間を代表する700作品が図版つきで紹介されている内容とのことだが、60年間で700作では「厳選」の感じがする。作者側から収録を断られたケースもあったそうだが、筆者はその断った人にむしろ興味がある。こうした事典があれば後の研究には役立つが、一種の権威のようになって、漫画家の間でヒエラルキーが出来てしまう恐れも思う。誰もがよく知る漫画家がある一方で、ごく少ないファンしかない漫画家もあるので、ある程度の序列や、掲載欄の大きさの差が出ても仕方がないが、そういう十羽ひとからげを無意味と思う漫画家もまたいるはずで、その考えは尊重すべきだ。もし出版社が内心漫画家に対してこうした大きな本に掲載されるのでありがたく思えと、おこがましくも思っているとすれば、それは大きな間違いで、金を積まれても掲載されるのを拒否するという反骨、あるいは単に捩じ曲がっているだけかもしれなが、とにかくそんな人があってよいし、筆者がマンガに期待するのはむしろそういう姿勢だ。どうせ出版社は慈善事業でこうした事典を出しているのではあるまいし、せいぜい研究家におんぶにだっこだろう。切り抜きには「『漫画学』は、もてはやされる割には底が浅い」とも書かれているが、それは地道な研究家が少ないからだ。そういう研究家がひとまずこういう事典を作り上げたがら、見上げたものだ。フランスではラルースが「世界漫画事典」とも言うべきものを1998年に出しているというから、それに比べると、日本はマンガ発進の先進国の割におそまつな話だ。だが、マンガは日々生産され続けられているから、こうした事典類は出来た途端にすぐに風化が始まって、ものの数年もすればかなりの部分を書換えなければならないだろう。同時代的な事象を事典にすることは難しい。いや、古く時代のことも同様だ。古い時代についての事典を作っても、それは今この時点で見た過去の姿であって、過去のあった姿と同一どころか、恐ろしく歪なものでしかない。結局事典などたいして意味がないという考えに落ち着くが、ある限られた世界の様相を一大パノラマのように把握したい人はいつの時代にもいるから、事典は出版社の永遠の商売道具だ。
『日本のマンガ』のコーナーではまず便利堂の商品である「鳥獣人物戯画」のコロタイプの複製があった。場所が狭いので、広げられている箇所はごくわずかであったが、係の人と話を交わしながら、秋草がよく見える箇所を巻き出してもらった。「北斎漫画」もあったが、このふたつの日本の古典は近年マンガの歴史を言う時、必ず持ち出される。筆者はそれをあまり快く思わない。「鳥獣人物戯画」に匹敵するものを今の漫画家が作れるだろうか。それに「鳥獣人物戯画」の作者は広い大衆を思って描いただろうか。近年はマンガが美術の文脈で語られ始めることが目立って多くなって来たように感ずるが、まだまだ論じなければならないことは非常に多い。にもかかわらず、まるで「鳥獣人物戯画」や「北斎漫画」が日本の現代マンガの祖のように言われるのは、マンガを寄ってたかって高尚なものにしようという魂胆からか、あるいは、逆に古典美術などもたいしたことはない、せいぜいマンガ・レベルであると引きずり下ろしたいからか。聖なるものが無視、あるいは曖昧にされ、何事も笑いと冗談の場に出して比較するというのを筆者は好まない。漫画は慢心から出た絵という意味であったと思っているが、それをマンガと言い換えることで、微妙に作為が働き、あるいは真実がぼかされて、人々の間にマンガが美術をも覆うほどの大きな言葉になって行くかもしれないことを筆者は好まない。マンガが慢心から出たどうでもいいものと言うつもりはないが、大衆を相手にするものである以上、ほとんどそういうもの、つまり消費されてそれでおしまいというものもたくさん混じるのは必然であるし、マンガの言葉で何もかもが笑顔で許されてしまうかのような風潮を冷静に見つめておく必要はある。では何か良質でそうではないかとなると、これまた難しい。「鳥獣人物戯画」のような絵巻物が今の漫画家が描けたとして、それはきっと大衆には歓迎されない。つまり、出版には馴染まない。それゆえ「鳥獣人物戯画」をマンガの元祖のように言う人はあまりにも無責任で、表現内容の上っ面だけを照らし合わせているに過ぎない。良質ではなく、むしろその反対のエロやグロ、ナンセンスにこそ漫画の存在価値があると筆者は思っているが、そういったものにもまた良質のものとそうでないものがある。また、子どものマンガ、大人のマンガといったように、マンガがある程度住み分けをしていることも考えねばならない大きな問題で、『日本のマンガ』のセクションを今回のように6つに分けることのほかに、もっともっと違う切り口で語られるべきことは多い。それは今後の企画展のテーマになるだろうが、そういう問題意識の立て方の一方で人々は相変わらず日々の楽しみやうさ晴らしにマンガを求めるし、結局のところ「くくむむ」が今後どういう問題意識を掲げて進むのかそうでないのか、前途は多難な状況にあるように思える。マンガの熱い世界を後追いで分析、理論づけて行くのが役目なのか、あるいはその先導を担うのか、それさえもはっきりとしていない。いや、先導を担うなどおこがましいだろう。マンガは野のものであるから、そのまま放っておけばいい。であるならば、誰が分析や理論づけを好むだろう。
せっかくのメモを少し活かそう。「近代マンガの誕生」のセクションでは、明治7年(1874)に出たマンガを売り物にした雑誌「絵新聞日本地」や、自由民権運動を支持する立場で編集された「団団珍聞(まるまるちんぷん)」(明治10年)の実物がまず最初に展示されていた。つい先日のことだが「団団珍聞」の創刊号以降数十冊の合本の美本がネット・オークションに3万円ほどで出ていた。余裕があればほしかったが、そうした資料が民間にあることを思うと、今回の展示はいささか霞む。さて、京都では「我楽多珍報」(明治12年)、「時事漫画非美術画報」(明治37年)、「ポテン」(明治40年)が発刊されたが、これら明治期の漫画を主にした雑誌の名前は、今でもまねの出来ない過激さが露になっていて驚くが、内容はもちろんそれに比例している。極端に言えば、日本の漫画の頂点はこの時期にあった。いい悪いは別にして、現在のマンガはもはや全然別物の娯楽と言ってよい。さて、明治22年、大日本帝国憲法発布による自由民権運動の終焉に伴って漫画雑誌は停滞期に入るが、それを宮武外骨が大阪で刊行した「滑稽新聞」で打ち破る。噂を聞いた北沢楽天は大阪に行き、やがて明治38年に「東京パック」を創刊するが、このふたつが日露戦争期から明治末にかけて漫画雑誌ブームを生み、「大阪パック」「笑」「少年パック」などが出る。だが、こうした動きは明治44年の大逆事件によって水をさされ、漫画の風刺力は弱まり、休刊が相次ぐ。大逆事件の恐ろしさはもっと学校で教えられてよいはずだが、簡単に言えば、戦争をやる国家に楯突くものは死刑になるということだ。大正デモクラシーによって漫画雑誌ブームは復活するが、北沢が主宰する「時事漫画」(大正10年)に見られた「鋭い風刺」というのも大逆事件以前に比べてどの程度であったのか、筆者は内実は知らないものの、かなり後退したものではなかったかと想像する。大正時代は岡本一平の「トバヱ」(大正5年)、外骨主宰の「赤」(大正8年)、それに武井武雄、竹久夢二、小川治平、麻生豊が寄稿した「子供パック」(大正13年)が世に出て、いかにも華やかな感じがするが、昭和の戦争が終わった後ではまたこれが一段と変化し、現在にそのままつながるようなマンガが登場する。政治風刺や時事風刺では名手が出なくなったのか、あるいは政府がそう仕組んで来たのか、とにかく牙がすっかりなくなったも同然に思えるほどだ。それは戦争反対を唱えても表向きは殺されることはない安心感があってのことかもしれないが、そう簡単に問題ないとばかりも言っておれないことをよく知っておくべきだ。マンガがいつでもまた為政者に対して風刺の鋭い牙をむけるように遺伝子を保っておくに越したことはないし、おそらくそうであるはずだろうが、マンガが国家の財政にも重要なほどの金を生む産業になった現在、権力に対峙する姿勢ということ自体がもう時代遅れの考えであるのかもしれない。がっぽり儲けてせいぜい有名になることしか、国家も会社も今のマンガ家志望の人も考えていないとすれば、そこにはただ退屈な光景しか広がっていない気がする。
今夜はもっと別のことを書こうと2週間前から決めていたのに、いざワープロの前に向かうと全然別のことを長々と続けてしまった。書きたいと思っていたのは『海外のマンガ』のコーナーで見つけたスイスのマンガ家トーマス・オット(Thomas Ott)の作品集だ。5冊ほどあったと思うが、その中で『Cinema Panopticum』が最もよかった。ラテン語風のこの題名は『映画全光学』とでも直訳出来るだろうか、ある少女が遊園地にひとりで遊びに行って、小遣いが足りないため、テントの中で小銭で見られる短い映画を次々と楽しむという、独立しながら関連する6編からなる内容だ。エロ・グロ・スリラー、そして笑いといったジャンルに分けられようか、ともかく紙質、造本、印刷とも申し分ない。幸いアマゾンでほとんどの本は安価で買えるし、実際の印刷はもっと鮮明で衝撃的だが、『映画全光学』に関しては一部内容が拡大して見られる。ストーリーを詳しく言えば種明かしになるので、ここでは書かない。1コマずつ綿密に計算して作られていて、作品の完成度の高さはさすがヨーロッパを思わせる。また大きな特徴は、吹き出しがいっさいないことだ。つまり、絵のみのマンガだ。そのため限界もあるが、その限界を逆手にとって読者に自由に想像を羽ばたかせようともしている。何しろセリフがないから、世界中に同じ本が売れるから強みだ。音楽で言えば、インストゥルメンタルか。コマ割りは日本のマンガと同じだが、当然本は左閉じであるから、日本のマンガ雑誌とは反対方向にページをめくる。内容は簡単に言えば日本のかつての、たとえば『ガロ』にあったような暗くて静かなもので、心理描写はまるで日本人の手になるもののように感じる。おそらくオットは日本のマンガをそうとう読み込んでいることだろう。もうひとつ決定的な事柄は、黒地に白で描いていることだ。つまり通常のマンガとは反対だ。そのため、いったいどのようにして描いたのか、ひょっとすれば木口木版画かと思ったりしたが、どうもそうでもない。別の本のインタヴューを読んで氷解したが、黒地のボードに日本製のカッター・ナイフで刻んで白地を浮かび上がらせている。そのため紙にペンで描くのとは違って何倍もの時間がかかるが、それだけの緻密な仕事をしているから、とにかく印象は強烈で、一度見れば忘れられない。オットがどういう顔をした男かと思えば、腹が開かれ、内蔵がすっかり引っ張り出された子牛を吊るした横に笑顔で立っているモノクロ写真があった。ちょうどイギリスの歌手のトム・ジョーンズの若い頃といった男臭い感じだ。これが意外かと言えばそうでもない。両親と同居して独身のようだが、女性恐怖性が多少あるのか、作品にはそういう題材が見受けられる。また、視力を酷使するせいだろう、目にまつわる話もよく出て来る。子牛と並んで写る様子は、当然レンブラントとの対比をもくろんでのことだ。光の画家であったレンブラントとオットがなぜ並ぶのかと言えば、真っ黒な画面にナイフでこつこつと光を差し込むように刻み描き込んで行くその技法は、ある意味ではレンブラントがやった光の表現を、ナイフの一カット毎に自動的になし遂げていることであって、オットこそ光の画家と呼んで差し支えないからだ。それゆえの先の『映画全光学』であって、技法と内容が全く合致していて、そこにも極上の芸術性とでも呼ぶべき作法がある。画風は幻想的恐怖とでも呼べばいいか、きわめて現代的な人間関係を扱う内容である一方、濃厚に20世紀初頭のダダイズムの画家の作品の空気も伝える。日本のマンガを参考にする傍ら、ヨーロッパの版画などの造詣が深く、そうした古典や問題作からかなり多くの閃きを得ている点が、この作家の美術的な文脈で論じ得る価値のあるところで、また強みにもなっているが、同じスタイルを日本のマンガ家が採り得るのかどうか考えてみると、これはほとんど絶望的な気がする。底に何もない、からっぽ、そういうマンガを今の日本は目指しているのか、あるいは必然的にそうなっているのか、溢れるばかりの歴史的素材を抱えて、それを惜しみなく外国に提供しながら、それらを摂取してもっと芸術的なマンガを生もうとしているのがたとえばオットに代表される外国のマンガ家のような気がする。たまたま知った作家だが、それだけでも雨の中、時間潰しに足を延ばしたのがよかった。