予定を変更してこのアルバムについて書く。新聞に目を通す時間がないほど忙しい師走の入ったが、先日アマゾンから届いてからは毎日楽しんでいる。
このCDの存在を知ったのは新聞の週刊誌広告の見出しだが、その短い文句の中に「冒涜」の言葉があって、内容をけなしているようであることがわかった。早速ネットで調べると、世界同時発売で出たばかりであることを知った。すぐに注文したが、1週間ほどした頃、到着まで1、2週間遅れるとメールが来た。それほど注文が殺到しているろのだう。それでも数日して先月下旬に届いた。DVDつきの2枚組みも出ているが、最も安い輸入盤を買った。映像はCDのブックレットを見ればだいたい予想がつく気がしている。届いて直後に正座してじっくりと通して1回聴いたが、曲目やその順序をあえて見ないようにした。その方が衝撃が大きいからだ。いつも最初の1回でその後繰り返して聴く内容かどうかを判断するが、9割以上のアルバムが1回聴けばそのまま棚に並ぶのに対して、今回はえらく気に入ってもう20回ほど聴いた。アマゾンでの評を見ると、どちらかと言えば反対意見が多いが、ま、どう聴こうが人の勝手なので、筆者がここで目くじら立てて反対意見に反論することもない。ただ、楽しめない人はかわいそうとだけは言っておこう。これはもう何度も書いているが、ビートルズを13歳の1964年から聴き続けて来ている筆者は、自己の創作表現のさまざまな面でビートルズ音楽の影響を受けている。これはそうではないと否定する人も本人が認識していないだけの話であって、20世紀後半以降に生まれた人は誰しも大なり小なり同じことではないかと思う。それほどに20世紀文化のあるゆる側面に大きな影響を与えたのがビートルズであった。ディケンズの『オリバー・ツイスト』を文庫本の後書きに、イギリスは100年毎に偉大な人物を世に送り出すといったことが書かれていた。19世紀はディケンズというわけだが、ビートルズの登場を知らずに亡くなったその人がもし今も生きていたならば、ビートルズをどう考えたことであろう。現時点で見て、イギリスが20世紀に生んだ天才はビートルズ以外にはなかったと断言出来るが、100年後にどう思われているかは誰にもわからない。だが、おそらくますますビートルズは20世紀の突出した存在として考えられているのではないかと予想する。そしてそのためには、たとえば本作のような新しいCDがどうしても作り出される必要がある。
40年以上もビートルズを聴いている筆者は、実際の話ビートルズの曲のすみずみまで聴き知り過ぎて、飽きたというのではないにしろ、どこか退屈と思わないこともない。これはレコード音楽はいつも同じ音しか発しないからであって、たとえばザッパの音楽であってもクラシック音楽であっても同じことだ。同じ音しか鳴ってくれないレコード音楽は、本来的にみなやがて退屈なものになってしまうベクトルを持っている。これはどうしようもない真実だ。そうであるから、たとえば80年代だったか、スターズ・オンとかいうバンドだったか、ビートルズそっくりに楽器も声色もまねしてそれらをメドレーでつないだディスコ・リズムのアルバムが登場した。その時の楽しい衝撃は今でも新鮮に記憶するが、個々の演奏はビートルズのレコードに限りなく近いのに、景気のよいダンスのリズムと、始終なり響く手拍子の伴奏に彩られて、当世風をよく演出していた。つまり、過去のビートルズ音楽の新解釈と言ってよい点が面白かったわけだ。その世界的ヒットを意識したのは見え見えだが、早速EMIはビートルズの映画に使用された曲から選んで曲を抜粋してつなぎ、『リール・ミュージュック(REEL MUSIC)』というタイトルを付してシングル盤を出した。ところが、正直な話、スターズ・オンに比べてさして面白くもないシロモノに仕上がっていテたいして話題にもならなかった。そのためCD化はされていないはずだ。『リール・ミュージュック』は、古い過去となっているビートルズの音源をいくら今までに誰も聴いたことのない順序でメドレー形式につないとしても、それだけで新鮮な何かが生まれるほど事は単純ではないことを見せつけた例であったが、ビートルズが過去の存在である以上、ビートルズを使って何か新しいことをするということ自体がパロディの枠組みから離れることはないのは自明の理であって、たとえば90年代になって急速にEMIスタジオのマスター・テープの音源をコピーした海賊盤が世に頻出するにしたがって、ついにEMIはそれに対抗する意味も込めた『アンソロジー』のシリーズを公にするに至った。海賊盤には公式なものに対するパロディ的意味合いが本質的にあるが、そのことに公式側が逆にまたパロディ的に仕返しをするという行為が確定し始めたわけだ。ここに見えるのは、誰しも知るように、レコード会社が表向きはファンが期待するものを良質の音で提供するというもっともらしい意見を持つとしても、裏では海賊業者だけに儲けさせてはなるものかという商売上の理由が強くあることだ。しかし、これは現代では当然のことでもはある。ディケンズの時代でも商売は当然あったし、その面から彼の小説を分析する必要もあろうが、通常は歴史的な古典文学や音楽をそういうふうにはまず見ない。だが、ビートルズはまだ著作権があってそういう古典にはなっていない。現在の世界標準ではその保護期間は70年だったろうか、ともかくEMIはまだビートルズの音源で稼げる間はあらゆる手を使って新作アルバムを世に送ることは間違いない。おそらく著作権が切れる寸前にマスター・テープをそのままデジタル化して大全集として発売するだろうが、そうなった暁には小中学生でもビートルズの音源を使用して、たとえば本作のような「創作」を試みる「趣味」が流行するに違いない。そしてそんな時代が来た時に、ひとつの模範となっているのが本作だ。
正味わずか7年間という短い活動時期であったビートルズは、現在のようなデジタル録音時代を経験しなかったが、アルバム毎にトラック数を増して行き、音楽を変質させた。それは全く過不足のない、見事な開花の各段階を踏んだと言ってよいもので、相互に類似したアルバムがないことは他のどのミュージシャンにも成し得なかったこととして第一に記憶しておくべきことだ。筆者のようにビートルズのほとんど登場から同時代的に熱心以上に聴いて来た者は、すべての曲の細部、そしてどの曲がアルバムの中にどういう順序で並んでいるかを知悉しているあまり、たとえば「イエスタディ」を聴くと、即座に次の「ディジー・ミス・リジー」が脳裏に鳴り響く。それは今となっては案外不自由なことでもあって、そうしたがんじがらめの網の目をどうにか打ち破りたいと思わないでもないが、記憶がそのようにすっかり固定されてしまっているのでどうしようもないところがある。だが、ビートルズが解散して以降ファンになった世代や、また熱心ほどではない人にとっては、たった7年のビートルズの活動は初期も晩期もごちゃ混ぜに記憶していることもあろう。EMIがビートルズの音源から新作アルバムを作る時、いつも問題になるのは、筆者のような長年ファンでいる者から、ごく近年に聴き始めたファンまでをそこそこ満足させる必要性についてだ。たった1枚の新作が数十億円単位の売り上げをする可能性を持つのであるから、EMIの熟考具合はそうとう綿密なものであるはずで、また受け手にとってもその点を見つめなければ新作の面白味もない。アナログ録音のビートルズ音楽をデジタル世代の心にも古風なものとしてではなくマッチさせるには、単にデジタルに置き換えて音を改良しました程度では間に合わないことは明白で、何か新しい試みは求められる。それが出来るのは、あるいはやっていいのはビートルズだけと思う人は本作を否定するだろう。だが、ビートルズの才能が偉大であったのは言うまでもないが、ビートルズ4人だけでは世界的名声は獲得出来なかったことは確実だ。いい音楽が必ず世界的に有名にはならず、世界的有名になったものが必ずしもいいものとは思えないことは誰しも知る。ブライアン・エプスタインのマネイジメント、ジョージ・マーティンのアドヴァイスや編曲、オーケストレーションなど、ビートルズ音楽を成立させた「他人」の貢献度は決して少なくない。それらは通常はさほど表立って評価はされないが、決して無視は出来ないものだ。
今回の新作はジョージ・マーティンの名とともにその息子ジャイルの文章がブックレットの最初を飾って、制作事情を明らかにしている。ジョージ・マーティンはまだ許せるとしても、なぜ息子が登場するのかといぶかる向きが少なくないんだろうが、新しい時代にはその空気を敏感にすっている新しい世代が必要だ。ビートルズの音楽が今後も人気を確保し続けて行き、そして本当に100年に一度の天才となるには、またEMIががっぽり儲けるには、常に新しい才能に登場願って、仕事を委ねる必要がある。これはたとえばベートーヴェンの交響曲が新しい指揮者によって次々と演奏、録音されることと似ている。レコード音楽もまたそうした楽譜に書かれた音楽と同じようにある程度自由な解釈が出来る余地があることを見出して行くためには、「他人」の介在によって新たに作り変えられる必要がある。それは素材、つまりビートルズが録音した音はそのまま使用するのであるから、ビートルズの音楽と言って間違いはない。ビートルズの4人が確認していないからそうとは言えないと考える人もあろうが、そうなれば、たとえば発売されたばかりのザッパの『MOFO(The Making Of Freak Out)』もザッパが生きていたならどう思ったかわからない、単に「素材」を寄せ集めたようなアルバムだ。死人に口なしであって、その点まだビートルズはポールとリンゴのふたりが生きていてこのアルバムにゴー・サインを出したのであるから誰も文句は言えない。それに、ごく一部のマニアしか知らないような人物に編集を任せるのではなく、EMIのビートルズ時代を最初から最後まで見て来たジョージ・マーティンと、そしてその息子が担当するのであるから、公式の意味合いではこれ以上の適任は考えられない。自分の方がもっとうまくやれると自惚れる人も多いと思うが、悔しいならば公式的人間の部類に入るしかない。あるいは、EMIのマスター・テープ音源が誰でも自在に加工出来る時代が来るのを待つかだ。また、ブックレットにジョージ・マーティンが書くように、このアルバムの最初のアイデアはジョージ・ハリソンがガイ・ラリベルテという男と友人になったことに遡る。ジョージ・マーティンはビートルズの音源を使用した1時間半ほどのサウンド・スケープの制作を依頼され、そして息子の助けを求めたのだった。ふたりはEMIが保存するすべてのビートルズのテープを聴き、3年を要して今回のアルバムを作り上げたが、それだけの重みは確かにあって、筆者には細部のひとつずつが単なる遊び以上の意味を持って迫って来る気がする。アルバム・タイトルの「LOVE」はえらく大味だが、これはラス・ヴェガスのミラージュで今年6月に始まった同名のショーを踏まえたものであるし、本アルバムの最後が「愛こそはすべて」で締め括られていることにも通じて違和感はすぐに失せた。
デジタル録音時代以降に作られた音楽は技巧が見えすいて全般につまらなくなった気がするが、それはずっと以前の多重録音の原理とその成果が発展する中においてすでに予想されて来たことを大きく内蔵している。そのため、今の音楽をたとえば今の70代、80代の老人が聴いても、「やっぱり」と思うだけでさして驚かないことに思える。テープを逆回転させたり、早く回したりすることはテープが出現した時からみんな知っていたことであり、その延長がたとえばダブやサンプリングの手法に連なっているだけであって、素朴と複雑の程度の差の問題に過ぎない。ビートルズが初期の単純なステレオ録音から晩期のマルチ録音へと変遷したのは歴史的に見てちょうどよい時期に位置したと思われることだろう。そしてアナログをデジタルに置き換えればさらにそれらのマスター・テープからは複雑な音の加工、編集が出来る。簡単に言えばこのアルバムはそうした成果のひとつで、時代をよく体現している。その意味でも「現在」のビートルズ、古い過去の中から新たに蘇ったビートルズなのだ。デジタル時代特有の最先端と思われている流行音楽に伍しても決して劣らないものをビートルズがそもそも内蔵していたことを証明するに充分なアルバムと言ってよい。だがそれを言えば本当はビートルズが偉大であったのではなく、録音技術の成果であろう。録音に携わった技師たちのおかげだ。であるから、こうしたアルバムがジョージ・マーティンが手がけるのは理にもかなっている。そのことをたとえばジョン・レノンがあの世から文句を言うだろうか。決してそうではないと思う。むしろジョンならば面白がるに違いない。その理由はたとえばこうだ。ジョンは「愛こそはすべて」の最後のリフレインで「シー・ラヴズ・ユー」の歌詞を叫ぶ。また「グラス・オニオン」では「フール・オン・ザ・ヒル」を文句を歌い込む。こうした他曲との関連の発展したものが本アルバムと思えばよい。それでも混ぜ具合があまりに節度がなさ過ぎると、それこそ「冒涜」になるが、ここではベスト・アルバム的性格を基本に踏まえつつ、また完成度の高い曲はメイン部はなるべく加工せずにミキシングで目立たなかった音を際立たせる程度にし、あくまでイントロや最後のリフレイン部分でサウンド・スケープ的実験を行なっている。その程度の具合は曲毎に差があるが、どれもビートルズの音楽を知り尽くしている者を充分に納得させるだけの配慮がなされている。これはビートルズの音楽の完成度が高いことと、その音楽に対するマーティン親子の愛情を示す。1枚のCDとしては盛りだくさんな80分近い全26曲が収録されるが、1曲で2曲が合体したものがあり、さらにはいちいち書かれていないが、「ピッギーズ」や「ペニー・レイン」など、ごくわずかのみ使用される断片も含めると、この2倍の曲数になるのではないだろうか。1曲ずつ詳細な検討を加えて以下に列挙する気持ちも大きくあるが、それをするのであれば別に稿を改める必要がある。そのため少しだけ触れる。
最初の「ビコーズ」は『アンソロジー3』のディスク2の最後近い場所に収録されたが、完全なア・カペラ処理にも思えるそのヴァージョンでは、開始から40秒ほどの箇所のヴォーカルの合間に、ごくわずかに楽器の音が忍び込んでいた。ところが今回は曲冒頭に鳥たちの声を置くことで「アクロス・ザ・ユニヴァース」の引用をし、そしてつまりこのアルバムがビートルズ音楽の世界横断であることを宣言する。それが10秒ほど小さく続いた後、おもむろに「ビコーズ」の歌声が始まるが、『アンソロジー3』のヴァージョンにはあったごくわずかな楽器音は、鳥の一斉の羽ばたき音によってかき消される処理がうまくなされていて、微部の処理へのこだわりをよく示している。同様のことは枚挙にいとまがない。全体にジョージ・ハリソンの曲に光が大きく当たっているが、ビートルズ時代、ジョージはアルバム毎に2曲程度した自曲を提供出来なかったことから異常と言ってよい。これは前述したように最初にこのアルバムのアイデアの発端が彼の存在にあったからであろうし、今は亡きジョージへの追悼の意味もあるはずだ。特筆すべき曲は「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」で、ここではジョージ・マーティンが新たに書き下ろしたオーケストレーションが加えられている。この点は重要なことを示唆する。今後ビートルズのマスター・テープに別の録音が足されるヴァージョンが続々と登場する予感だ。14曲目はジョン・レノンの「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」の伴奏にジョージの「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」の歌声を重ねて度胆を抜かせるが、前者はもともと千人の僧侶のお経を唱える声を伴奏にしたいとジョンは思っていた宗教色の濃い曲であるから、この2曲合体はその思想に連なった処理と言ってよい。同じような論理的組み立ては他の曲においても見られる。たとえば9曲目の最後にはジョージの「ブルー・ジェイ・ウェイ」のイントロが鳴りわたるが、その背景にジョンの「ノーウェア・マン」の歌声が小さく被る。「ブルー・ジェイ・ウェイ」が『マジカル・ミステリー・ツアー』のフィルムでどのような映像を伴って披露されていたかを知る人には、まさにジョージがどこにもいない男のように異空間でひとりすわって架空の鍵盤を弾いていた姿を思い浮かべることだろう。また、こうした複雑な音の組み合わせの処理は、ザッパが「Xenocrony」と呼んで盛んに試みた方法であって、多重録音曲を使用することで可能になるから、このアルバムがどうしても『リヴォルヴァー』以降の、ビートルズ後期の曲目に傾くのは仕方がない。例外は「抱きしめたい」だが、そこではバックに観客の叫び声がずっと鳴りわたる。それならばライヴ・ヴァージョンを収録すればよいものを、そうはしていない。だが、正直な話、筆者はこの曲には笑った。実はビートルズが来日した時、TVで武道館のステージを録音した筆者は、その観客の声だけのテープを作って、それを流しつつ「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」のレコードをステレオで鳴らして、もう1台のテープ・レコーダーでそれらの混合音を録音して疑似ライヴ演奏テープを作って楽しんでいた。当時、それほどにビートルズのライヴ演奏を聴くすべがなかったのだった。『ビートルス・ストーリー』という2枚組みLPには、ごく短い「ツイスト・アンド・シャウト」の本当のライヴ・ヴァージョンが収録されていて、それを14歳の筆者は飽かずに繰り返し聴いて想像を膨らませ、そして疑似ライヴ演奏まで作ったのだった。それと全く同じテイクが今回のアルバムには収録されたわけだ。つまり、40年も前の筆者が実際にやったこと、あるいは頭で想像していたことが今回アルバムとなって登場した。その点において、ようやくビートルズ音楽はファンの空想に限りなく近づいた時代が到来したことになる。つまり、筆者にすれば自分がやりたかったことが40年にして目前に現われたから、少々聴き飽きて退屈であったビートルズ音楽の世界に大きな可能性の衝撃を与えてくれたように思えて嬉しい。ビートルズをほとんど知らない人が聴いてもお徳用盤として価値があり、また知り尽くしている人でも今後のビートルズ音楽普及を考えるうえでどういう戦略が繰り広げられるかの見本となる点において大いに意義あるアルバムだ。それをこのカテゴリーで紹介するのはそれこそ冒涜だと言う人もあろうが、骨董的なビートルズのマスター・テープが新鮮な驚きを持って登場することは、すなわち骨董の優品との出会いと同じようなものなのだ。