●『オリバー・ツイスト』
ランスキーの映画を見てから半年ほど経ったのだろうか。ともかく本を読み終えた。文庫本のカヴァーにはいくつか種類があったが、映画のチラシの写真をそのまま使用した最新のものを買った。



d0053294_18502098.jpg帯には「2006年正月第2弾全国ロードショー」とある。1年未満の間に本を読んだことになるが、年内に取り上げておくのがいいだろう。本はいつも何冊かを並行して読んでいるが、小説は何かのきっかけがなければなかなか読む気になれない。次に読む長編小説は決めてあり、数か月後にはまたここで書くことになると思う。さて、秋が深まっている。ここ数日また例年どおりジェスロ・タルのCD『クリスマス・アルバム』を引っ張り出して聴き始めている。まだクリスマスには早いが、寒さを想像してタルの音楽を聴くのは楽しい。あまりにも隅々まで知り尽くしているので、聴く前から聴いている間の楽しみがわかる。それがいささか退屈だが、それでも聴きたくなる。まだ一度も聴いていないCDをたくさん所有するので、それらを先に聴けばよいようなものだが、新しい音楽を聴くのはちょっとした勇気が必要で、機が熟さなければ聴くことにはなれない。『クリスマス・アルバム』で好きな曲は、前にも書いたように、「Jack Frost AndThe Hooded Crow」で、そのへんてこりんな5拍子のリズムを耳にするたびにホームレスの姿を思い浮かべ、心はロンドン辺りの裏ぶれた下町の夜をさまよう。それは同じジェスロ・タルの名作とされる『アクアラング』のジャケットの、ホームレスを描いたイラストそのものの光景なのだが、文明がいくら発達しても貧富の差はなくならず、たとえば悲惨な事件も続発して、ディケンズがこの『オリバー・ツイスト』で描いた内容がそのまま今でも通用することを思ってしまう。いつのことだったか忘れたが、ある人はそうしたホームレスはただの怠け者で、その気になればどんな働き口でもあるはずだと言っていた。またこんなことを言った人もあった。通常の生活より路上生活の方が気楽だと思っている人が必ずどの時代にもいるので、ホームレスは絶対になくならないし、真剣に手を差し延べる考えなど起こす必要はない。どちらの意見もそれなりに真実を含むが、前者はずっと恵まれた人生を歩んで来たゆえの意見を感じさせ、何となく鼻白む。「Jack Frost…」の歌詞には、人生は蔦のように絡まって、いつ神がその人の運命を悲惨なものに変えるかわからないという下りがある。であるので、みんなクリスマスの季節には寒い夜空の下にいる「頭巾を被った烏のようなホームレス」に少しでも手を差し延べようと言外に歌うわけだ。実際タルはアルバムの売り上げをホームレス基金に寄付しているから、歌で主張することと行為は一致している。
d0053294_12141750.jpg ディケンズが描いた少年オリバー・ツイストの人生もまさに絡まる蔦そのものだ。それはディケンズの少年期の境遇がかなり反映している。D.H.ロレンスもそうであったが、筆者は貧しい家庭に育った作家は好きだ。人間は貧しさに押し潰されてしまう場合が多いが、それにめげずに才能を開花させる人物もある。これは生まれ持った素質の差なのか、それとも同じ貧困でもその度合いの差なのか、一概には言い切れない問題だが、運命というものが人間にはあるのだろうとは思う。ディケンズは1812年生まれで、完全な19世紀人だ。両親は揃っていたが、子だくさんな家庭に生まれ、父親が経済観念に乏しかったこともあって、一家全員が負債者が収容される監獄に入ったこともある。また現在のように公立の学校制度がない時代のこと、ディケンズはろくに学校で学ぶことはなく、スラム街に住んで10歳前後から工場に働きに出た。その傍ら図書館で読書をして独学したが、20歳までには人生に必要なことはみな世間から学んだ。国民の大半が大学卒があたりまえになっている日本の現在からすれば、ディケンズ以上の才能が数十万人いて当然に思えるが、その正反対の実情からすれば、国が豊かになって長く学校で学ぶことはどういうことなのかと考えさせられもする。ディケンズと同じような境遇にある少年は当時のロンドンにはごまんといたはずだが、ディケンズのように健気に勉強に精出し、才能を開花させて行ったのは、やる気が人並み外れてあったことであり、それを誰にでも求めるのは無理と見る向きがある。また、ディケンズが貧困家庭ではなく、経済的に恵まれた環境に生まれ育っていたとすれば、現在の名声あるディケンズが生まれたかどうかはわからないし、貧困と才能の発露がどう関係するのかはそう簡単に言い切れる問題ではない。だが、貧しかった少年期があったためにディケンズがもがき苦しみながら社会に浮上しようと思ったことは確実であるだろうし、その意欲、勇気というものは人間として讃えるべきものだ。とはいえ、それを同じ程度にみんなに期待して押しつけることは出来ない。前述したように、ホームレスになることをよしとする人もあるだろうからだ。それにそんなホームレスの中にも哲学者と言ってよい人がいたとして不思議ではない。
 小説を読みながらポランスキーの映画との差がいろいろとわかった。ポランスキーは文庫本で言えば下巻はほとんどそっくり割愛している。つまり、小説には登場するが、映画では登場しない人物がいろいろとある。また、小説の前半で登場した人物が後半で思いもかけずに躍動的になったりもするので、映画はその点でもこの小説の半分しか描いていない。だが、小説の後半はオリバーを中心とはせず、オリバー以外の大人たちの世界を描くので、オリバーの人生を眺めるのであれば映画で充分だ。また、映画では監督の思いがフェイギンに向けて肩入れされていたが、そのことは小説を読むとよく納得出来る。小説ではフェイギンはほとんど「ユダヤ人」と表現されることが多いが、ポランスキーはそこに注目したのではないだろうか。同じユダヤ人であるポランスキーにしてみれば、悪党として紋切り型で描かれるフェイギン像を、映画でどうにか人間味を持たせたかったに違いない。映画の最後には、独房に収監されているフェイギンをオリバーが見舞うシーンがある。この点は小説と同じだが、比べてみると映画の方が感動的だ。フェイギンのオリバーに対する優しさというものがより的確に示されるからだ。映画ではフェイギンはオリバーが将来紳士になる器であることを見抜く場面があるが、それは人を正確に見定めるフェイギンの能力を示すと同時に、オリバーをあたかも自分が心を許すことの出来る、つまり愛すべき存在であると思っている、そしてそういう人間的な心をフェイギンがまだ持っていることを伝えるうえでとても重要なものとなっている。ポランスキーは小説の中にあるフェイギン像を巧みに自分の狙う方向に作り上げたわけで、それは簡単に言えば、ユダヤ人の守銭奴フェイギンにも一抹の人間味があるのだと主張したかったことに尽きる。この思いはよくわかる。ディケンズが実際はユダヤ人のことをどう思っていたかは知らないが、この小説を読む限り、19世紀のイギリスにおいて、ユダヤ人の悪人を小説に描くことで市民の喝采を浴びていたのは事実であり、そうした偏見が現在どこまで少なくなったかと言えば、ポランスキーがわざわざこの小説を元にフェイギンをあたかも主人公として描きたかったことを思えば、想像にあまりある。千年以上の歴史の間に培われた偏見がそう簡単に解消するはずがない。たとえば、日本では江戸時代はずっと朝鮮とは友好関係にあって、偏見を持つなどあり得なかったが、明治以降の国策や教育によって、すっかり蔑視が定着した。日本人自身がそれを払拭してまた江戸時代やそれ以前の正しい状態に戻すにはまだ数百年かそれ以上は必要だろう。それほどに一旦定着した蔑視は容易に拭い難い。小説を読みながら、ポランスキーがどう読んだかをふと考える場面がよくあったが、それでもなおポランスキーがこの小説を映画化したいと考えたのは、おそらくフェイギン像にわずかでも人間的優しさが見られると判断したからだ。そのため、監督が違えば、この小説のフェイギン像は全く違ったようになる。つまり、監督の人種偏見度が試される。つい最近、廉価盤のDVDで、戦前だろうか、この小説を映画化したものを最近見つけた。ポランスキーの映画とどのように差があるのか機会があれば確認したい。
 小説は映画とは違ってかなり込み入った物語になっていて、その点かなり強引な御つごう主義を思わないでもない。特に意外であったのは、オリバーに異母兄がいる設定だ。オリバーの父は別の若い女性との間にオリバーをもうけるのだが、遺産相続が絡んで、異母兄は母と結託してオリバーの財産を奪う。この兄は父親とは全然性格が違って、勉強や真面目に働くことが大嫌いという放蕩者として描かれる。この設定はそれだけでも別の小説が仕立て上がる内容を持っているが、悪人の詳細な描写はたとえばフェイギンやビル・サイクスで充分なので、そこは深く追求されることはない。また、父親がいわば不倫で生んだオリバーを主人公に仕立てている点で、この小説はキリスト教社会では珍しいような、なかなか大人向きの、「愛こそすべて」の状況を呈しており、20代半ばで書かれたものとは感じさせない老成ぶりがある。それほどにディケンズが大人びていたと言えばそれまでだが、早く社会に出て働いたので、大人をよく観察出来たのだろう。これは言葉を変えれば、それだけ早くすれっからしになって、ませてしまうので、良家の人々からは好ましいとは思われない資質と言える。だが、ディケンズが貧しい家庭で育ってスラム街の現実をよく知っていたことはこの小説ではきわめてよく活用されている。結局成功したディケンズだが、映画でもこの小説でも、わくわくさせられるのは、汚濁にまみれた人物や世界の描写だ。そういうものを描くにはそういう生活を間近でよく知っている必要がある。その意味で、この小説は金持ち育ちの坊ちゃんには絶対に書けないものだ。トルストイが『アンナ・カレーニナ』の冒頭で書いていたように、幸福な家庭はみな似ているが、不幸な家庭はさまざまな様子を呈し、それだけに小説になりやすい。明るく清潔で部屋の中が整頓されたような生活をオリバーは送ることになるが、一時フェイギンのもとに舞い戻ったオリバーはみんなからその洒落た服装を揶揄される場面がある。それはある程度はディケンズ自身の含羞の思いも混じっている気がする。ディケンズは自分が金持ちで有名になったとしても、少年期の生活を忘れることはなかったはずだし、また自分がいかに成功したかを振り返って考えるほどに、貧困に対しての援助の大切さを思ったことであろう。だが、この小説にもあるように、貧しい者がみなオリバーのように幸福になれるとも、またなろうと努力するとも限らないし、逆に恵まれた環境にあっても根性の悪い人物はいるものだ。オリバーが貧困なのは周囲の悪人がそうさせたからで、実際は良家の坊ちゃんとして育つ運命にあった。このおとぎ話的な設定は、生まれながらにして貧困から逃れられないような無学の家庭に生まれ育った子女は、生涯浮かび上がる可能性がないことをいささか示唆もして、この小説からは夢を得られないと思う人もあるかもしれない。だが、どんな貧しい境遇にあろうと、努力する者はするし、それなりの努力は神がそっと見ている本人に課せられたの試練とも言えまいか。そのようにして成功した者が、いわば誇らしげに自分の経験を振り返る意味もあってこうした小説を書くことは許されてよいし、またキリスト教を信仰する社会ではそれは歓迎もされるだろう。あるいは『おしん』の例にあるように、これは世界に共通したこととも言える。
 フェイギンは本当によく性格描写がなされているが、20代までのディケンズがモデルになるようなそうした人物に実際に出会ったことがあるのかとも思ってしまう。ディケンズの最も有名な小説『クリスマス・キャロル』では、フェイギンそっくりのがめつい老人が主人公になっている。ところが絞首刑になるフェイギンとは反対に、最後は改心して貧しい人々に手を差し延べるという筋立てだ。この筋立てからそのまま触発されたのが先の「Jack Frost…」の歌詞と言ってよいが、ここには脈々と受け継がれるイギリスの慈善的精神といったものが見られるだろう。それはたとえばジョージ・ハリソンの慈善コンサートやその後のバンド・エイドの活動といったことにも続くが、同じロックでもアメリカでは様子がかなり違う。世の中の矛盾をどうにかしたいと思う時、世の中の仕組み自体をどうにか変えねばならないと考えるのがアメリカ的であると言えばかなり語弊もあるが、たとえばザッパが常々口にしていた意見を思い出すとよい。だが、音楽をやりながら政治に積極的にかかわることで世界が変わると考えるのもどこか呑気なところがあると見られて仕方のない所があり、ぴったり同時代のロッカーでありながら、イアン・アンダーソンがザッパの音楽をさして評価しないのも、こうした根本的な国民性の違いのようなものを抜きにしては見えて来ない。この小説に話を戻せば、ディケンズはかなり辛辣なことを救貧院の人物たちに適用しており、一見貧しい人々を救う立場にある慈悲深い人々が実際はそうではなくて、いかに冷酷かを告発している。これは聖人ぶる職業にある人間が実際はそうではないことを主張したいかのように思わせ、ディケンズの少年時代のある種の決定的な経験を想像させる。そうした経験を元にこの小説では決定的に復讐したのではないか。これはある意味では国策に楯つくことであり、左翼的と見ることも出来るが、ディケンズが社会派の活動を積極的に行なったことはなく、こうした権力にある人々に対する揶揄も、ちょっとした皮肉や風刺程度にしか見られないものだ。豊かな人々がほんの少し貧しい人々の立場になって援助の手を差し延べればまさか死亡するまでには至らなかったのに、ディケンズの時代では貧しい人々がいとも簡単に死んで行った。このことは小説からは間接的によくわかる。映画では特に力を入れて描かれていたが、親のない貧しい子どもたちは救貧院でまるで奴隷のように働かされ、ごくわずかな食料した与えられなかった。そして役人たちはぶくぶくと太っていた。この小説では最後に救貧院にいた役人が救貧院の世話になるほど落ちぶれるが、そこには免許や何かの権力といったものに頼らずに生きようとしたディケンズの誇りが見え隠れもしている気がする。オリバーは獄中のフェイギンを助けてあげてと言うほど心の優しい子どもであったが、そこにこの小説が言いたかったすべてがあるだろう。ポランスキーが映画化しようと思ったのもそれに尽きると思う。善悪がはっきりと描き分けられた小説だが、現実はそう簡単に割り切れるものではないことを、20代のディケンズはしっかりとよく知っていた。人を貧富で見てはならないし、豊める人はせめてクリスマスの寒い冬にはホームレスに思いを馳せてなにがしかの寄付をすべし。人生は蔦のように絡まっていて、神はいつあなたを不幸のどん底に落とすかわからない。
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by uuuzen | 2006-10-25 18:51 | ●本当の当たり本 | Comments(0)


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