深まる秋、何となく夏が懐かしくもあり、また冬が楽しみでもあり、はたまた思いはもう来年の桜、そして夏と、何だか先のことがもうみんなわかってしまってつまらないような、それでもやっぱり秋がいいかなとか、めまぐるしく思いが駆け巡る深まる秋です。
この『おにおにっ記』は愛も変わらず書き続けていますが、最終回をどうするかは先日決めました。そこに向かってまっしぐらです。でも途中がどうなるかわからない。これ何となく人生そのものですか。途中がわからないから面白くてやり続けられるのです。でもそんな面白味がわからなくなった時は人生やめたくなるのでしょうね。秋から冬になってまた春がきて夏が来て、同じことの繰り返しでつまらないなあと思うか、その同じサイクルの中でも変わったことがいろいろあるよと考えられるか、そこが分かれ道。で、『えー、みなさながた、わたくしは全くアホらしい限りのこの『おにおにっ記』を毎日書きながらですね、同じことの繰り返しのようでいて何か変化がつけられないものかと、ささやかながら考え続けておる次第であります。よしんば他人から見ればどうでもいいようなことでありましても、えー、本人が万事よければ何事もそれでよしでありましてですね、そうしたことをばずっと長い間続けているうちにですな、たまにはわずかな閃きの瞬間にといったことにも出会えもするわけであります。そして、それがその個人にとっては実に楽しくまた貴重な体験でありまして、こればかりは考えているだけでは駄目なのでありましてですね、えー、実際にこうして文章に書くといった行為がなければ得られないものなのであります。しかるにそうした閃き体験が行間にうまく反映されるかどうかは保証がないのでありますが、あー、それにです、また閃きが文章にうまく表現されていましても、それは他人には読み取れないものかもしれませんが、「いいじゃないか、中村くーん」という昔の流行歌にもありましたようにですな、魔、いいではないですか、みなさまがた。先のことがよおわからんつうことがよろしかばってん。人生とはそげなもんですが。わかっとるのは秋の次には冬が来てまた春があって夏が来よるということくらいだげじゃげがな、わっははははは』 で、話は変わって、前にも書きましたが、『おにおにっ記』は17日分ずつをファイルに保管しています。だいたい12000字になるので、ちょうどいい分量と思ったからです。今日からはその5つ目の投稿が始まりますが、もうすぐ8つ目を書き始めるので、このブログでの『おにおにっ記』は来年まで続くのは確実です。

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2006年08月24日 ●第 69 話
先日マニマンはオニオニッビを10個ほど買いました。オニオニッビはマニマン語で、ホオヅキ、ホオズキのことです。昔々、マミー・ママンは夏の夜店でマニマンにオニオニッビを買ってくれたものです。ホオヅキは花が咲いた後、萼がキミドリ色にふくらみ、お盆の頃に目立つ朱色になり、内部に朱色の丸い実がひとつ出来ます。それが鬼の灯火のように見えるので、ホオヅキは「鬼灯」と書きます。実は揉みほぐし、皮を大きく破らないように種子をうまく取り出せば、頬の中でうまく音を鳴らせる遊び道具になります。マニマンはマミー・ママンがそうして遊んでくれたことを覚えていますが、小さかったので自分では作ることが出来ませんでした。そう言えば、昔は夜店でウミホオヅキもよく売っていました。マミー・ママンはこれもよく鳴らしてくれました。半透明の黄色で、小さな飾り岩のうえにたくさん並べられ、チロチロと水が注がれていました。とても涼しげな光景でした。それから40数年、ウミホオヅキは生きられない汚れた海になってしまいました。変わらないのは元気なモスキートだけ。