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●『小川信治展-干渉する世界-』
月に国立国際美術館に行った時のことを書こうと思いながら、もう3か月近く経ってしまった。それで天気のよかった昨日、また国立国際美術館に行って来た。年内にもう一度行く予定でいる。



●『小川信治展-干渉する世界-』_d0053294_1561645.jpg7月に行った時、いつも地下1階の突き当たりにヘンリー・ムーアの「エッジ」と題する彫刻が地下2階の奥にあった。照明が違っていたうえ、広々とした空間の中央に置かれたので、いつもとは別の重厚感があって驚いた。毎回この美術館に行くたびにこの彫刻を写生するつもりでいたのが、何回かさぼってしまって、その時は久し振りに描いた。そう言えば昨日は閉館の5時まで見たので、また写生することが出来なかった。ムーアの彫刻はまたいつもと同じ地下1階に戻っていたが、あのような大きなブロンズ製のものをどのように動かして階下に持って行くのかがわからない。これまたそう言えば、昨日は夜に地下2階でデュオ・コンサートの予定で、エスカレーターを下りてすぐ右手にグランドピアノが置いてあった。コンサート用ではなかったためかもしれないが、広い展示空間ではいかにも小さく見えた。近くで見ると、胴体部分にベーゼンドルファーの文字が金色で入っていた。さすがとの思い。4時過ぎから調律が始まり、4時半頃に日本の女性ピアニストがそのピアノでガンガン練習し始めたが、館内中に大きく鳴り響いていて、ちょっとしたBGMで気分はよかった。音響は思ったよりよく、この美術館がちょっとしたコンサートに使用される意味がわかった。コンサートは5000円だったと思うが、どれほど客がやって来るのだろう。ヴァイオリニストのジャン・ジャック・カントロフがにこにこしながら案内の女性係員に引率されながら、そそくさと駆け足で今夜取り上げる小川信治展の会場を回っていた。秋のよい季節に来日し、各地でコンサートを開催するのだろうが、小さな楽器ひとつで世界中を回れるのは何ともいい仕事だ。カントロフの練習は聞こえなかったが、みんなが出て行った後にピアノと合わせてやるのだろう。
 小川信治展のチラシは7月に行った際にすでにあったが、表面に印刷される作品を見ると、写真か鉛筆で描いたものかにわかに判断しにくい。ところが裏面を見ればすぐにこの画家のやろうとしていることがわかる。ダリも大絶賛したフェルメールの『牛乳を注ぐ女』から、その牛乳を注ぐ女を取り去って、残りをそのまま模写した作品や、ヴェラスケスの『ラス・メニーナス』の、これまた中央の小さい王女だけを取り去って描いたものなど、誰しも知る名画から人物を除去した模写作品を出している。だが、人物を取り去った後、その人物がいた背景は自分で想像して描く必要があるから、完全な模写とは言えない。とはいえ、そうとうな時間を費やし、また原画と同じような緻密な描写能力が必要なので、その手間を考えると目が眩む思いがある。だが、こういう絵は誰しも思いつくものだ。もう20年ほど前になるが、広重の東海道五十三次の浮世絵55点から人物を取り去ってペンで模写した作品の個展が京都であり、新聞に寸評が載った。見に行かなかったのは、新聞の写真でも充分と思えたからだ。そこにある人物のいない浮世絵は、あまり気味がよいものではなく、また、単なる悪趣味の思いつきに思えた。実は筆者も10代の頃に、たとえばムンクの『叫び』中のあの叫んでいる人物が見ている風景を想像して描こうとしたことがあるし、ほかにも似たような、名画をベースにしながら、それを改変する絵のことをよく考えたものだ。だが、考えるのは誰でもする。小川氏のように、それを実際にやり続けるのは大変なことだ。芸術とは、誰しも思うことを誰もやらない地点までやり続けることであり、誰しも思わないようなことをやっても誰も感嘆はせず、世間からはずれているということで無視される。その意味で、芸術家はごく普通の人の感覚を身につけている必要がある。なぜなら、大半の芸術はごく普通の人々のためにあるもので、今回の展覧会にしても、より多くの人に見てもらうために企画されたはずであるし、作者もそうした人に見せることを前提にしているから、普通の人にそれなりにわかってもらえる着地点を作者が予め知って制作もしているだろう。となると、芸術は簡単に言えば人を感嘆させる見世物かということになるが、これはかなりの部分でそうだ。ところが、人を感嘆させることにも種々あって、感嘆の次が問題だ。簡単にいえばそれがより長く持続するかどうかだ。ここには大芸術とそうでない芸術の分かれ道がある。
 で、大芸術作品を模写して一見全く同じように描けたとして、それが大芸術になるかどうかは話が別で、模写は模写に過ぎないと人々は思う。あるいは、大芸術にもろ負っている分、むしろ辛辣な見方もされる。大芸術に内在する1回限りのアウラと呼ぶべきものがそこには見られないからだ。『牛乳を注ぐ女』から、牛乳を注ぐ女を取り去って克明に描いたとしても、大抵の美術通は人はオリジナルの『牛乳を注ぐ女』を知っているから、何だか聖なる存在が馬鹿にされたようにも感じる場合もあるだろう。大芸術に見られる聖なる雰囲気は写真や模写では伝えられないものだ。それを題材にいかように描いても同じことだ。となれば、小川氏の描く『牛乳を注ぐ女』から牛乳を注ぐ女を取り去った絵はどういう聖なるものを獲得し得るか。小川氏の『牛乳を注ぐ女』がそれなりに奇妙な感覚を与えること確かだ。だが、1点で充分という気がした。ある方法を見つけると、それを使用してたくさんの作品を作ることは芸術家にすれば当然の行為だが、小川氏の名画を素材にした絵は、ある思いつき元にして、後は長大な時間を費やして描いたもので、そこには職人仕事の名にふさわしい根気と丹念さのみが感じられると言おうか、名画にある「いいものを見たな」という感動とは全然違う、作者の執念めいた意図が感じられて、あまり気分はよくない。いい感動がないのだ。つまり、最初から聖なるものがどうのといったこととは関係のないところから出発した絵で、いわば秀逸な贋作技術を目の当たりにした感じと言えばよい。作者の内面の苦悩がないと言えばまた違うが、その苦悩は「根気よく描く辛抱」と言ってよいものであり、その奥で作者はみんなをびっくりさせてやろうと、ただその一事を思っているといった、何だかあまり格好よくない姿を感じてしまうのだ。もちろん画家は誰よりも技術的に素晴らしいものを見せたいという思いを抱いている存在であるから、小川氏の執念がこもったような作品は抜群の技術力の点でまず評価されるべきものだが、諧謔精神が強いあまり、むしろすっきりきっぱりとした職人仕事とは違って、悪夢的な印象がまとわりついた作品になっている。それこそ小川氏が求めているものだとすれば、これは大いに成功しいる作品であろう。だが、その意味では、国立の美術館で開催されるという芸術の表街道ではなく、むしろ街中のあまり知られない小さな画廊でのみ個展を重ねるか、あるいはいっそのこと全く作品を発表せず、没後に仕事が全部見出されるといった一種の見せ方としてのドラマが必要だろう。そうなっていない点において、夢魔的芸術の文脈でも大芸術にはなりにくいものと言える。
 小川氏が何歳かを想像してみたが、チラシを見ると予想どおりであった。筆者より8歳年下だ。コンピュータを使うことには馴れてもいるので、自然と作品がそれを意識したもの、応用したものにはなる。後者の属する作品は今回ふたつあった。まず「ChainWorld」。20分ほどの作品で、モノクロのある絵はがきがまず大きな画面に写し出される。その中のある小さな部分がゆっくりズーム・インされるが、それが行き着いて今度は逆にズーム・アウトされ始めると、最初の絵とは違った別の絵はがきの一部になっていることがわかる。またその絵はがきの別の極小部分がズーム・インされ、またズーム・アウトによって別の絵はがきといったように、順々に絵はがきがあるひとつの細部でつながっている状態が示される。これは、古い絵はがきの風景の一部を引用して別の絵はがきに描き加えることで、全然別の絵はがきにそれぞれ共通項を持たせたシリーズだ。作者の緻密な描写能力を発揮した点では先の名画から人物を消して模写したシリーズと同じだ。このつながった絵はがきの世界から即座に連想したのは、たとえばバルザックの小説だ。バルザックにあっては同じ登場人物が別の小説に登場するが、これはたとえばあるひとつの世界を持った番組に、特別ゲストとして別の番組の主人公がそのままのキャラクターで登場することを思えばよいが、たとえばビートルズの曲にもあるものだ。ある曲の一部のフレーズを別の曲にそのまま使用することをビートルズはしばしばした。そういうことに馴れている筆者としては、「Chain World」で使用されている、見知らぬ景色を撮影した異国の古い絵はがきは、どのように細部を変更してもそれが少しもわからない点で、別に面白味も感じなかった。だが、ここには、先の誰でも知っている名画とは違って、いわば誰も知らないに等しい風景を作り変えている点においては、より面白味があった。だが、何が本当のことかないわからない、何も本当のことがないといった、これまたビートルズのジョン・レノンが歌ったことを想起させる点において、作品づくりの最初の衝動さえも何となく借り物でうすっぺらいものに思わせた。もうひとつの映写作品は「干渉世界」だ。これもモノクロの絵はがきを題材にして、それを横に3枚並んで大きく写し出されることから始まるが、次第に各絵はがきの要素が隣のはがきにに移動したり、また当の絵はがき自体も背景の建物が底に沈んで消失して行ったりする。絵はがきの人物、あるいは背景の建物、その奥の森といった遠近のレベルで描き分けた、あるいはコンピュータによってそのように分解した各々の「面」を下方にあるいは左右にずらして行くことで、眼前にある最初の風景が最後には全く異なった廃墟に変貌する様子を表現している。この作品から何か人類の滅亡や文明の衰退を感じ取れることも確かだが、今後はわからないにしても、現在のところはそうした社会的メッセージ性はこの作者にはひとまず希薄と考えてよい。
 コンピュータ使用の作品を作るということは、見るという行為を「見えている」という行為に還元して考えていると言ってよい。それは作品が居間までとは違う新たな見方を示すことでもあるが、名画でも絵はがきでも、とにかく平面上に見えているものは何でも描くことが出来るという一種の自信と、そして見えているものに対する信頼のようなものがあるため、作画は具象からは外れることを嫌うはずだ。その点において小川氏の作品は抽象画家には我慢のならないものとも思える。だが、小川氏は具象に絶対の信頼を置いているのではない。とりあえずそれは見えているだけのものに過ぎない。見えているものは描けるし、たとえ実際には手前の何かで被さってその奥に見えない状態であっても、想像を補えば妥当なあり得るべき形で全体を描くことも充分出来るというだけの話で、その見えているものが名画であっても無名の何かであっても、人に何か判別出来るものでさえあればよい。逆に言えば作者は他人に何かわからぬものは積極的には描かない。そして、絵画が見えているものだけで構成されていると考えるのは、しごくもっともなことなのだが、そこに描かれるものはみなその時代と地域の画家が選んだものばかりであるから、それらをそっくりそのまま引用や追加をして描くのは、何だか遺伝子操作に似て、聖なるものをあえて侵そうとする悪徳めいた行為にも思える。だが、どんな画家でも先人のどこかに心酔するなりしてそこからあらゆるものを汲んで自分の作風を作り上げるものであると言ってよいから、小川氏のような行為が出現するのも現在の文化では当然の帰結でもあるかもしれない。今回はヨーロッパの古い絵はがきがずらりとたくさん並んでいるコーナーもあった。これが何を意味するかわからず、係員に訊ねると、小川氏が絵はがきのどこかに何かを描き足しているとのことであった。それで1点ずつじっくりと見て行ったが、サインのほかはどこに何を描き足したのか全くわからないものがあった。しかし、すでにあったものに何かをつけ加えて、その全体がすでにあったものそのものとして見えるのであれば、つけ加えた行為は無意味とも言えるから、小川氏のこれら絵はがき作品は単なる徒労かもしれない。その徒労は最初からわかり切っているとする、いわば白け世代であるので、せめて聖なる存在に落書きをしてやれというパンク的な発想がそもそもあったとも思える。抜群の描写能力を持っていたとしても、それをもって描いたとしても古い名画のような聖なるものを絵が獲得できないことを小川氏はよく知っているのだろう。緻密な描写能力が空回りするしかない白けた現在にあっては、せいぜい人をあっと驚かせることくらいしか描き手に楽しみはないと言える。だが、小川氏の作品も最初に書いたムーアの作品同様、置き場所が変わるなどすると、また違った風に見えるかもしれない。そして時代が経てばなおさらかも。ま、まだまだ書き足りないが、このくらいで。
by uuuzen | 2006-10-09 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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