兵庫県立美術館で昨日見た。今日は終日雨が降ったので、昨日見に行ってよかった。もうひとつ『オルセー美術館展』を三宮に出て見たが、これは後日取り上げる。
今回のジャコメッティ展は「20世紀美術の探究者」や「矢内原伊作とともに」といった副題がついている。ジャコメッティ(以下ジャコ)の作品を初めてまとめて見たのは、1973年のちょうど今頃だ。会場は同じ神戸西灘にある兵庫県立美術館であった。何度も書くように、この美術館は筆者のお気に入りで、企画展のたびに訪れたものだが、阪神大震災以降いつの間にか浜辺に建った兵庫県律美術館に地位を譲った。最寄り駅からの距離が数倍になってすこぶる便利がよくないが、日本で最も鑑賞者に不便な設計ミスがはなはだしい美術館でもある。これも前に書いたが、企画展の時に使用されるいくつかの部屋に入るたびに係員が近寄り、手にしたものがボールペンでないかどうか訊ねて来る。昨日もそうで、頭に来た筆者は次の部屋に入った時は、係員に「このシャーペンでメモします」と言って自主申告した。そんなにボールペンの使用をやめさせたいのであれば、メモしたい人には入館前に専用の、たとえば軸が真っ赤で目立つ鉛筆を貸すようにすればよい。何百何千と入って来る人々の中でメモする人を見つけるたびに声をかけて鑑賞の気分を害するとは、不親切きわまる。最低の美術館だと思っていたが、それを再確認した。数千もの展覧会を今まで見て来たと言えば自惚れに聞こえるだろうが、そうした経験のある筆者がボールペンや万年筆を使って、作品にインクを飛ばす恐れをしてならないくらいは重々知っている。人は見かけによらないと言うから、筆者も疑いの目で見られるのだろうが、その一方で傍若無人に振る舞うような鑑賞者には文句も言わないのだから、係員もいい加減なものだ。駐車禁止の取り締まり員が先日あるおじさんに文句を言われていた。「あんたら、車に乗っているもんがヤクザみたいな連中やったら、取り締まりもせんとそっと逃げてしまうがな…」。となると、美術館の係員からすれば、筆者は優しく弱々しそうに見えるため、とかく近寄って注意でもしてやれという気になるのかもしれない。ま、そう思っておくことにしよう。だが、次にこの美術館に行って相変わらず同じ調子で何度も同じ注意的質問をされると、責任者を呼び出してやろうかと思う。
アホらしい話を多く書き過ぎた。ジャコの作品は美しいの一言とはそぐわない。名前からして、干からびたジャコ(雑魚)が滅酊している感じがあり、意味不明の難解さが漂う。だが、筆者は折りに触れてジャコの作品はよく思い出す。そして好き嫌いを越えて、真実と感じる。もう33年前になるが、1973年のジャコメッティ展はよく記憶している。当時筆者も若かった。昨日はそのように若い人々が目立った。よいことだ。特にジャコのような渋い芸術家に注目するのは。3人で訪れたが、券が1枚あまっていたので、美術館を出た後、出会う若者の誰かにそれをあげようと思った。結局お金に余裕がない様子が明白の20歳くらいの男に声をかけて手わたしたが、とても喜んでいた。当日券は1200円するから、食事代か交通費は浮いたであろう。若い頃はその程度の金額でも大きい。筆者も1973年はそうであった。当時ジャコ展の図録は買わなかった。買えなかったのかもしれない。ずっと気になっていたその図録を古本で安く買ったのは1992年のことだ。もう14年も経つ。その図録があるので、昨日は2500円の図録は買わなかった。それは、73年展よりもあまり内容が充実しているように思えなかったことにもよる。それはいいとして、もう33年経つと筆者はちょうど88歳、つまり米寿になる。その頃ジャコ展はきっとまたどこかでやっているはずだが、この不便な美術館であれば、よぼよぼした体を引きずってまでは出かけられない。また恨み節になってしまった。矢内原とジャコの交遊を示すメモや落書き、簡単なスケッチ類が今回はたくさん展示された。ナプキンに描かれた同じような小さな顔のスケッチは、数点見れば充分なもので、それが今回はとてもたくさんあって、いかに広い館内を埋める必要があるとはいえ、内容のうすい展示であったと言わねばならない。そんないわばどうでもよいものに属するメモ類の中、矢内原が「米、八十八」と小さい筆跡があった。その下には77やriceといった文字もあったが、米寿の米が八十八に分解出来ることを矢内原はジャコに説明したのかもしれない。
哲学者の矢内原(1918-1989)がパリでジャコ(1901-1966)に面会を申し込んだのは、矢内原とは一高で知り合った宇佐見英治(1918-2002)がジャコ論を雑誌に発表し、表向きはそれを見せるためであった。1955年11月のことだ。それをきっかけに矢内原とジャコは親しくなり、矢内原はジャコのモデルを務めるために58年を除く57から61年にかけて毎年パリに行った。その間矢内原をモデルにした20数点の油彩と2点の彫刻が出来たが、今回はアトリエに残されていた未公開作品を含む油彩2点や石膏彫刻、数々の素描が紹介された。一方、矢内原は生涯に大小60を越えるジャコに関する文章を書いたが、日本でジャコと言えば必ず矢内原の名前が登場するほど両者はつながりが深い。当然73年展の図録にも矢内原の文章はある。「実存」「現実」「観念」「空間」「虚無」「危機」「極限」「困難」といった言葉がよく目につくが、こういった語句からだけでもジャコの作品の印象は伝わるだろう。矢内原が単なるモデルではなく、ジャコとは深いところで意思を通わせることが出来る存在であったからこそ、何年にもわたって交遊が続いたが、両者はどこか顔も似通っていて、そのこともジャコがモデルに使おうと思った理由かもしれない。ジャコのモデルを使用した細長い彫刻は、どれも一見似ているが、顔の部分はモデルの特徴を実によく把握している。そして男女を問わずどの顔もみなどこかジャコに似た雰囲気がある。見たまま、ありのままの姿を表現しようとしたジャコの絵や彫刻が、みな異様なたたずまいの一様な色合いや極限に削った量感をしているが、そこにはモデル毎の特徴がよく捉えられつつ、ジャコの姿もだぶって見えるところに、ジャコの作品の深さが露になっている。これはどういうことを表現するのだろうか。存在は等しくみなフラジャイルで、しかも個としての差異も限りなく少ないが、また歴然と個性は存在するという逆説も含み、さらに客観的に対象を見て表現しようとしてもそこには絶対に自身が投影されるという矛盾のようなことも説明しているかもしれない。
73年展で筆者が最も印象深く感じた作品は「歩く男」の彫刻だ。ジャコの彫刻はみな針金のように細い、しかも直立して立つ姿で表現されていると思いがちであった中、それが足を大きく踏み出して歩いている形を見るのは、人間の存在というものをあたかも禅の閃きのように新鮮に感じたものだ。時々自分の歩く姿がジャコの「歩く男」だなと思える瞬間があるほどで、それだけこの「歩く男」は気に入った。それを期待して今回は出かけたのに、簡単な素描1点にそれは認められただけであった。それはさておき、ジャコが静止した人体を表現すると同時に「歩く男」をも作ったのは、人間が人間であることを再確認させはしまいか。静止はある意味では死を意味するが、歩行は生物の根源的エネルギーの表現とも言える。もはや歩かなくなったジャコだが、ジャコの「歩く男」を見ると、相変わらずジャコが精力的に制作している姿を想像してしまう。「歩く男」のいかにも前向きにぐんぐん進む姿勢は、死をまだ意識しない、生をいとおしく思う情感を秘めて筆者に迫って来る。人間の余分なものをはぎ取って行くと、ちょうど干し果物の格好がそうであるように、きっとジャコの彫刻のような芯棒的存在に行く着くだろう。その意味でジャコの彫刻はミイラみたいなものと言えるが、ジャコはエジプト美術を見ていたし、案外そんなところに細長い彫刻の源泉があるかもしれない。ジャコ時代のフランスの実存主義哲学について、矢内原はいいとして、ジャコがどこまで関心があって理解していたかはわからない。そうした時代の流行と呼んでよいものから影響を受けると言うよりも、ジャコはもっと古いあらゆる造形芸術を見つめていたのではないだろか。今回は最初に北斎の「うばがえとき」と題する版画のペンや色鉛筆による、10歳の時の模写があった。そして10代半ばの水彩画「山岳風景」はホドラーを想起させる作風で、アルプスの村の生まれであることを納得させた。実際年譜によると、ジャコの弟のひとりはホドラーが名づけ親になった。芸術的環境の恵まれた中からジャコは登場し、やがて名声を得るためにパリに出た。その動きは「歩く男」そのものではなかったか。また、ジャコが大股で歩む姿の写真をかつて見たことがあるが、そこにも「歩く男」はだぶっていた。
今回は1「初期/キュビスム、シュルレアリスムを経て」、2「モデルたち」、3「矢内原とともに」、4「空間の構成と変奏-人物、静物、風景、アトリエ」の4つの章に展示分けされた。1は珍しい作品ばかりで面白かった。「林檎のある静物」(1915年頃)のフォーヴ風の画面、故郷の家で弟を描いた「スタンパの居間に立つディエゴ」(1922)におけるどこか晩年のムンクを思わせる赤やえんじ色の目立つ作品など、カラフルな画風からは後年のジャコはとても想像出来ないが、21歳で初めてパリに出てからは彫刻を学び始め、その後20数年は絵画に手を染めなかった。パリに出る前はイタリア各地でエジプト美術を初め、ルネサンス絵画などを見ているし、パリに出てからはアフリカやオセアニアの美術の展覧会にも接した。またアンリ・ローランスなどの現代彫刻家のアトリエを訪れてギュビスム的彫刻を作り始めたが、当然シュルレアリスムに接しているので、作品が同時代の色合いを強く帯びている。30年代半ばまでの作品はどこかイサム・ノグチに似た感じもあって、まだ独自の作風を獲得していないもどかしさはあるものの、それがまた面白いものにはなっている。「頭蓋骨」(34)は石膏の白さをそのまま本物の頭蓋骨になぞらえたようなところのある作品だが、キュビスム風にあちこち角ばって表現されている。「不快なオブジェ」(31)は、まるで人参か大根のような丸い棒状の先端に粒が3つ4つ張りついていて、何を表現したものかわからないが、タイトルがジャコの何か気に食わなかったものをたとえているようで、思いどおりに作れないもどかしさを表現したものかと思わせられる。「歩く女1」(32-6)は、エジプト美術からの影響が明確な作品で、細長いトルソに長い足がついているが、片足をわずかに前に出した格好で表現している。これが後年の「歩く男」に変化したとも考えられるが、実際はジャコが38年に自動車事故で足を轢かれたことが歩く意味を考えたきっかけかもしれない。「静物・薄浮き彫り」(35-9)は、額縁に入った絵画をレリーフとして彫刻表現したものだ。後年のアトリエを題材にした素描群に連なるだろう。
2「モデルたち」は、ジャコが最もよくモデルに使った人物たちの紹介だ。父はごく早い段階から絵や彫刻にしばしば使用したが、その後は母アネッタ、妻アネット、弟ディエゴ、そして晩年は37歳年下の娼婦カロリーヌが加わった。ジャコの彫刻で面白いのは、「歩く男」にしても、台としっかり接続するために、いわば物理的な構造上の問題から足の踵部分が大きく表現されることだが、そうした理由とは無関係にこの大きな足元の表現は特別の意味を持って迫って来る。これと同じものとしては、たとえば「アネットの小さな胸像」(46)がある。まるで直方体の台座部分が胸像に比べると重量があり過ぎるようにも見えながら、あたかも風呂から上半身を出した女性像となっているために、人間が大地からぬっと出て来た印象を覚える。これは粘度アニメーションを想像すればよい。何もない四角い箱からにゅるにゅると女性が涌き起こって来るのだ。だが、実際の人間もそうした存在でしかないと言ってよい。そのため、大き過ぎるように見えるこの彫刻の土台も存在の本質を意識させるものになっている。同じことは第4章のコーナーにあった「台座上の男の小像」(39-45)というごく小さなブロンズではさらに言える。まるでマッチ棒に見える男がバターの箱の中央からにゅっと突き出ている。男は時間が来ればジャコがよく表現する立像になり、また歩き始めもするだろうが、やがてまたバターの中に溶解してしまいそうでもある。台座が単なる台座でないことは、「檻」(50)といった作品からもよくわかる。ここでは細長い女性立像や男の胸像は、透明な箱を表現したかのような四角い檻の中に置かれる。額縁入りの絵画をそのままレリーフ的作品としてブロンズで表現するのであるから、ガラスケースに入った彫刻をそのままケースごと表現したかのようなこの作品は当然予想出来るものだが、作品から伝わるものはそうした別の素材による現実の作り変えではない。檻が単なる入れ物としての檻表現であるだけならば出来合いの金属で作った檻で充分だ。だが、ジャコはその檻も人物像と一緒に鋳造していることもあって、ある区切られた世界の象徴表現として見えて来る。生の領域を表現したものと言えば的外れかもしれないが、そうとも言えないものも感ずる。ジャコの彫刻は見る者それぞれの感じを許容するだろう。それは生と死をどう考えているかによって見え方にも段階があるもので、謎めいているとすれば、生や死、実存が謎めいているからだ。ジャコの彫刻や絵画はどれも未完成と言ってよい。完成を求めなかったからでもある。未完成が完成で、それは途上にあるどの姿もその時点で完成していることと同義で、そのため筆者には「歩く男」の大きく踏み出している足やその大地に接する一際大きな台座的踵がとても逞しく、また懐かしく、同時に希望も持てるものに思える。