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●リチ・上野=リックス
い先日『真美』という古い雑誌を入手した。本当はそれはどうでもよかったが、目当てに買った本のおまけとしてつけてもらったのだ。



●リチ・上野=リックス_d0053294_2103288.jpgところが目当ての本は帰宅して中を見ると、その昔勤務していた染色工房に置いてあって、当時よく繙いていたものであった。拍子抜けした。せっかく重い本を安値で買えたと思っていたのに、これなら置き場所に困るだけのようなものだ。それで、今度はどうでもよかったおまけの雑誌を開いてみたが、これがいろいろと面白い。今夜はそこから思いつくまま書く。この古雑誌『真美』は昭和3年(1928)10月の発行だ。もう70年近く前だ。だが、本の状態はとてもよい。染みはあちこち出ているが、とても70年前のものとは思えない。簡単に言えば、呉服問屋が発売していた染色関係の記事や論文、それに新しいキモノの展示会の報告などを載せた雑誌で、業界誌だ。発行していた呉服問屋はつい10年ほど前に廃業したと思うが、それも時代の流れだ。キモノ離れが著しく加速化し、この35年で京都におけるキモノの生産高は確か200分の1に激減したと新聞が伝えていた。分業を旨としていた友禅染め、特に捺染めはなおさらで、シルクスクリーンの型を起こして同じ柄を量産することなどほとんど行なわれなくなった。それでも一部の企業だけは残るから、そうした型染めの安価なキモノは、もっぱら成人式の振袖生産で安泰の状態にあるはずだ。全工程を人手に頼る手描き友禅はまだ不況にはあまり関係ないと言えるが、それでもこの30年間、染価はほとんど上がっていないも同然で、しかも注文が激減してどの作家も生活は思わしくないだろう。それはいいとして、『真美』からはまだのんびりとした感じが漂う京都の呉服業界の空気が伝わって、雑誌1冊丸ごとの中に妙にいとおしさを覚える。印刷にしてもコロタイプと3色版とが別々の印刷会社が担当し、さらに本文やオフセット印刷はまた別の会社がやっているから、なかなか大変なものだ。印刷の違いに応じて趣も当然変わるが、それらが60ページほどに同居している。表紙は銀を使用した木版画調の味わいで、今ではかえってこうした印刷は割高になるだろう。雑誌の前半は新作キモノの紹介で、ページ毎に題名やちょっとした説明を印刷したうすいハトロン紙が挟まれ、豪華さが演出される。だが、どのキモノもまるで時代遅れでセンスがないように見える。実物はそうではないかもしれないが、それでも柄が大ぶり過ぎる。平均身長が現在よりはるかに低かった女性がよくもまあという気がする。
 前半はいいとして、後半はさまざまな論文やエッセーだ。ページを順に繰って、いろいろ面白いことにぶつかったが、あまりに専門的かつ私的なことになるので、今回はひとつだけ触れよう。それは雑誌のちょうど中央、つまり前半の新作キモノ紹介が終わったすぐ後、この雑誌の本文が始まるという体裁で扉のページがある。その中央はモノクロでハガキより一回り小さい図版が印刷されている。図版上部には「真美」、その下は右から「第五巻・第三號」とある。それもどうでもいいのだが、図版は見た一瞬記憶が蘇った。キャプションは「DESIGNED BY LIZZI UENO-LIX」とだけある。この人物は誰か。どの国の人間か。昭和3年10月に発売された京都の一企業が発行した染色雑誌にこの横文字は一種違和感を持って迫る。昭和3年と言えば、壺井栄の『二十四の瞳』の時代だ。戦後間もなくして撮られた映画を見ても、その自然がまだ汚染されずにそのまま残る田舎ぶりに驚かされたが、小説が舞台となったその時代の京都では、すでにヨーロッパで最先端のデザインが紹介されていたわけだ。『二十四の瞳』では女学校出立ての大石先生がモガと村民からささやかれて敬遠される場面があったが、この『真美』を見れば、モダンさが田舎にも波及していたであろうことはよくわかる気がする。さて、LIZZI UENO-LIXは、名前が英語読みでは「リジー」で、これはビートルズが歌う「ディジー・ミス・リジー」のあの「リジー」だ。モノクロ印刷であるのでよさがあまりわからないが、それでもこの雑誌の中では飛び切り別世界の図案であることは現在の目から見てもよく実感出来る。70年前のデザインとは到底思えないと言えばよいか、あるいは当時のヨーロッパ、特にウィーンのデザインは本当に芸術味が溢れていたと言うしかない。ウィーンの世紀末芸術は日本でもここ2、30年は何度も展覧会が開催され、大抵の美術ファンはどういう内容かは知っている。だが、リチ・上野=リックスの名前を知る人はあまり多くはないのではないか。
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 筆者が彼女の名前を知り、展覧会を見たのは1987年10月のことだ。もう20年近く前のことになる。その時の衝撃はよく記憶する。京都の比燕荘という、その後再度訪れてはいない場所で展覧会が開催されたが、図録はなかなか洒落たデザインで、表紙は銀色で微細な立筋がたくさん入った紙に、リチさんのデザインしか花柄模様がエンボス加工されている。これだけでも高価な雰囲気がありありとしていて、この図録を何年かに1回手に取りつつ、いい気分に浸れる。表紙込みでも5ミリほどの厚さで、1000部限定、筆者のは316と番号を振ってあるが、5000円した。買おうかどうか迷ったが、古書では絶対に出ないと踏んで買った。買うか買わないか迷った時は絶対に買うべきなのだ。で、そのぱらぱらとページを繰るだけで、リチさんの素晴らしいデザインに心がほぐれる。どうしてこんな素敵なデザインが出来るのだろう。この思いは20年間変わっていない。だが、驚いたことに、筆者が感心するそのデザインと全く同じものが、昭和3年に発行された『真美』に1点使用されていたのだ。昭和3年と言えば、まだ筆者の母親は生まれていなかったが、すでにリチさんは今も人を打つ斬新で温かいデザインをしていたわけで、本物の芸術家の永遠なる仕事を思わないわけには行かない。だが、昭和3年の京都の呉服業界のどれほどがリチさんのデザインに感服したであろう。いや、感服はしたが、それを日本のキモノに応用することは出来なかったのだ。それほど異質であったと言ってよいし、今でもそうだ。リチさんの芸術はウィーン生粋のものであり、それを多少改変したところで、日本風のものは作り得ない。ここで、富本憲吉の模様から模様を造らずという戒めの言葉を思い出す。ヨーロッパにわたった富本はリチさんのようなデザインはたくさん見たことだろう。そして歯ぎしりしたと思う。そんな格闘の中から富本は独自の模様を生み出した。だが、今富本とリチさんの模様を並べて思う時、時代を越えているのはリチさんの方に思える。それは好き嫌いに根ざしたものであるかもしれない。だが、そもそも好き嫌いを起こさせて区別する精神が生まれて来るところに、芸術の持つ力の差のようなものがあるだろう。
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 リチさんは不思議な存在だ。女性であるからよかったのかもしれない。1989年11月にセゾン美術館で開催された『ウィーン世紀末』と題する展覧会で彼女の作品が少し紹介されたが、その時はFelice Rix(-Ueno)と英語風の名前が記された。彼女は1893年ウィーン生まれ、1967年京都で亡くなった。同図録から少し引用する。「…ウィーン工房のメンバー。何度か日本に滞在し、1935年より定住。1949年から63年まで京都市立芸術大学の教授をつとめる。上野伊三郎とインターナショナル美術専門学校を創設。また群馬県高崎の工芸試験場で試作する。…ウィーン工房では陶磁、テキスタイル、ガラス彩色及び陶磁器の装飾、真珠工芸、彩色された木箱小箱などを製作…」。同図録ではリチさんの師のひとりヨーゼフ・ホフマンの作品が大きく紹介されていることもあって、リチさんの作品はほとんど目立たない。また選択もよくない。だが、87年の比燕荘での展覧会で買った図録は彼女の魅力をあますところなく伝え、『ウィーン世紀末』といったような総花的な展覧会がいかに細部に光を当てずにつまらないかを示してくれる。筆者が買った『真美』が発刊された頃、リチさんは日本にいたのかどうかわからない。だが、当時すでに上野氏とは結婚しており、上野氏が『真美』の同号に原稿を寄せているところから、彼女も日本にいたことだろう。同号の編輯後記にはこうある。「扉の冩眞は上野伊三郎夫人上野LIZZIさんの圖案です。…ウィンに於ける有名な圖案家の一人で、とても豊かな明るい色彩と、流れる微風の樣な美しい線との持主です。描かれる花や、蝶などの夢幻的な形態も、非常に透徹した實相の顴照から生まれたものと思はれます。…寫眞萬能の日本染色圖案界へ何か貴い暗示を與へるものではないでせうか」。上野氏の文章は「新時代の圖案」と題するもので、5ページにわたる内容は、リチさんのことにも触れつつ、和服姿がまだ男女ともによく見られた時代らしくありながら、今でもそのまま通用するものとして非常に興味深い。「…一般に現代の圖案は昔のものに捉はれ又、他方には外國の形に捉はれすぎている。即ち模倣に堕している。…模倣は如何程上手に行はれてもその作品は藝術とは申されない」「藝術といふものはその作家の心から滲み出るものでなければならない。或藝術品を見ればその作家の面影がほうふつとして浮んで來るものであります」「圖案構成の材料に就きましても現在では古典から取るか、自然物模冩かの二つしかないようですがもつと創作的な自由な圖案を造るように心掛けてほしいものだと思ひます」などとあって、大体苦言に近いが、この70年間、少しも事情は変化していないことを思い知る。むしろ、京都の染色業界における図案というものはほとんど新しいものを何も生めなくなっているほどだ。
●リチ・上野=リックス_d0053294_2135163.jpg

 リチさんの図案は線の繰り返しを生かしたものが目立つが、色彩感覚も優れている。昨今の絵本でもいくらでも見るような感じの色合いや形をしたものも多いが、派手さを抑えた渋い色合いのものは、日本の利休好みと言おうか、深い味わいをたたえて見飽きない。また色だけではなく、独特の模様の形態感も一見してリチさんのものと認め得るものがあり、これが並みならない才能を思わせる。『真美』のわずか1ページの小さな図版が即座に彼女の作品とわかったのであるから、際立った個性を持ったデザイナーと言わねばならない。図録によれば、彼女は日本各地の建物で壁画を担当している。現存していないものもあると思うが、東京の日生劇場地下レストラン「アクトレス」はどうなのだろう。1962年に描いたもので、時代に則した古いデザインと言えばそれまでだが、かわいい花畑を描きながら、何という高貴な気品が漂っていることか。それにしても彼女は日本に長年住んで日本的デザインをどう思っていたことだろう。『真美』に掲載された彼女のデザイン画を見て、当時キモノ図案に変化を来したことはまずなかったであろう。また、彼女が亡くなるまで若い頃と同じ感覚の絵を日本で描いていたならば、住む国を変えても芸術家に影響を与えないことになり、これは何だか不幸なことに思える。富本憲吉が結局日本のさまざまな伝統を吸収して表現したように、芸術家は自分の血にしたがって、その範囲内でしか創作出来ないものなのかもしれない。リチさんの芸術は今日のウィーン人が見ても同じように印象を抱くと思うが、案外そうしたウィーンらしさを生涯保ったまま日本で生を終えたため、彼女の仕事が日本ではあまり紹介されることがないのかもしれない。もし、彼女がずっとウィーンにいたままであれば、日本人はその芸術をよりありがたがったと思う。おかしな話だが、それだけ日本ははまだまだ欧米のものに劣等感があるということか。それにしても70年という年月では一級の芸術は何も変わらないことを痛感する。
by uuuzen | 2006-09-25 23:58 | ●骨董世界漂流記
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