モリス展はもう珍しくないので見に行かないでおこうかと思ったが、結局見た。先月1日のことだからもう1か月以上になる。ここで取り上げるつもりはなかったのに、先日富本憲吉展を見て考えが変わった。

いつものように筆者の手元にある資料を紹介すると、モリス展の図録は1989年4月の梅田大丸、97年3月の京都国立近代美術館での2冊がある。後者の方が展示数は断然多く、図録内容も詳細を極めている。今回は会場の広さの関係もあってそれほど大規模なものは期待出来なかった。会場に入ってすぐの説明パネルに、モリス展がすでに日本各地で開催済みであることに触れ、まだ行きわたっていない地方のために今回の企画がなされたことが書かれていた。筆者が所有するモリス展のチラシを見ると、先の2回のほかには2004年9月(梅田大丸)、2005年10月(東京の松下電工汐留ミュージアムのものがあるが、ほかにも開催されたかもしれない。97年展はモリス没後の生誕100年記念としてロンドンのヴィクリア&アルバート美術館で開催された大規模な展覧会の出品作を中心にしたもので、日本での知名度を一気に高めた。筆者がモリスの名前を知ったのは日本の民芸運動への関心からであったと思うが、染色を本職としていることもあってモリスのテキスタイル・デザインには昔から少なからず興味があった。今図録を開くと、茶色に変色した新聞のサンヤツ(3段抜き分で新聞紙の幅8分割の面積を占める)の切り抜きが出て来た。「ウィリアム・モリスのテキスタイル」という本の広告だ。いつ頃のものかと思っていると、その本の宣伝チラシも図録に挟んであった。1988年9月出版とある。つまり、筆者が初めてモリス展を見たのとさほど変わらない時期に日本ではモリスの作品が豪華本で出たわけだ。この本は1万円近くしたので当時買わなかったが、図書館で何度か借りたことがある。モリスのテキスタイル・デザインを見ていると、今でもそうだが、どのようにしてあのようなカラフルな連続模様が完璧に表現出来るのかと思う。型を反復捺印させると、必ずつなぎ部分にわずかなズレが出て、そこが目立って何となしに安物を感じさせるが、モリスの作品ではそれがほとんどわからないため、どこまでも高貴で高価なものに見える。また、日本の型紙を使用しての捺染とは違って木版を使用するため、隙がないと言おうか、仕上がりに強固さが感じられる。びっしりと詰まっている模様は息苦しいようでいて職人の手仕事の辛さのようなものを伝えずにからりとしている。

古いイギリス映画を見るとわかるが、ちょっとした家やホテルの部屋では壁紙が貼られていて、日本の住空間とはかなり違う独特の雰囲気がある。寒さを防ぐために壁を広く取る必要のある国ではそのように壁を美しく飾るという意識が出て来たのは当然だ。ステンドグラスがフランス以北で発達したのも、イタリアとは違って寒さが厳しく、教会の壁を大きく取る必要があって、せめて小さな窓から色鮮やかな光が差し込むようにとの思いからだ。日本では開閉が自在な襖に同じように模様をつける方法が発達したが、畳部屋が激減した結果、もうそうした伝統の占める位置は特殊なものになりつつある。欧米風の家屋がどんどん建てられるようになってはいても、日本では壁紙を貼るところまでは行かず、白っぽいクロスが貼り詰められることをモダンさだと思っているふしがある。それはいいとして、壁紙の意識はたとえばパソコンが登場した時にも見られた。スイッチを入れて最初に現われる画面に連続模様を用意し、それを壁紙と呼ぶことになったが、その考えを遡ればヨーロッパにおける部屋の壁紙に行き着くのではないだろうか。確かにパソコン画面の壁紙は連続模様でなくてかまわないが、小サイズの画像を連続的に表現出来る機能が優先的に設けられているところは部屋の壁紙の感覚に由来しているだろう。もし日本がパソコンを発明していたならば、そうした壁紙機能の思いつきがあったであろうか。そこに現代文明の欧米における主導を見ないわけには行かない。ちなみに、筆者のホームページやこのブログの文章の地となる部分には、絹の反物の連続模様を模し、「宝珠散らし」の文様を独自に作ったが、この意識のどこかに、モリスに対抗とまでは言わないが、つながりは想定している。それは表現の基礎には壁紙的なものが必要との思いがあるからで、ホームページを作る時に真先に考えたことは、シンボルすなわちイコンとなるようなものを設け、それを使用して壁紙も作ることであった。ホームページでは文章も画像など、画面で見られるあらゆるものが当人を示すが、最も見落とされがちな地模様が案外全体の雰囲気を大きく左右する。イギリスのホテルに泊まった時に壁紙が貼り詰められていることに異国へやって来たことを実感するが、そのことに似て、壁紙のような雰囲気の基礎的要素は人をもてなす意味では最重要な道具と言ってよい。モリスが壁紙をデザインして有名になったと言えば語弊もあるが、あくまでも部屋の脇役として徹する壁紙のデザインひとつで世界的に著名であるモリスを思う時、いかに日常的に見るものがデザイン的に質が高くあるべきかを納得する。
モリスのテキスタイル・デザインは花が主流だ。この点は後に登場する画家デュフィの壁紙やテキスタイルの仕事とは大きく違う。軽快さよりも厳格さを伝えるモリスのデザインは、今ではあまりに古風で、イギリスでもどの程度実用的であるのかどうか知らないが、たとえば京都の唐長のあの襖などに使用する江戸時代の琳派風模様の模様紙が今でも充分通用することを思えば、モリス・ファンというのも根強く存在していると思える。それはいわゆる花鳥をモチーフにしているので、園芸好きのイギリス人の自然愛好心をくすぐって、ユートピアへの憧れといった思いを喚起するからであろう。そうとすると、モリスは突然変移ではなく、長いイギリスの伝統の中からしかるべきして登場して来た才能と言える。実際そのとおりで、モリスはロセッティやバーン=ジョーンズなどラファエル前派の画家との交遊もあったし、また建築からステンドグラス、家具に至るまで住空間にまつわるあらゆる分野で才能を発揮した総合芸術的家としての風格があった。そういう人物の代表作が、本や図録の表紙に必ず取り上げられる壁紙やテキスタイル・デザインの植物模様であることが筆者には面白い。そこには自然に発しながら文様に終始して充足する造形態度があるからだ。芸術と見栄を切って、たとえば絵や彫刻などの展覧会用の作品を作らずとも、名を後世に伝え得ることの代表的仕事と言ってよく、日常的に消耗されるようなものの中にも個性を宿せ得るという好例がある。そこには芸術家と職人の厳密な区分の意識はないように見えるが、これは日本も少なくとも民芸運動が盛んな頃まではそうであったろう。だが、民芸運動の中から人間国宝になる者が登場したように、モリスも自身の作品を職人が作りはするが、芸術家としての意識は高かった。モリスの壁紙や染織のデザインのそのあまりに稠密な仕事に感服するが、モリス自身はあくまでも芸術としてデザインし、それを実際の製品に作り上げるのは雇った職人たちの仕事であった。つまり、モリスはデザイナーが優れた手工芸家であることは稀だと考えていた。だが、『デザインを行なっている仕事の状況や必要や限界について直接的な知識を持っている方がはるかによい』というラスキンの考えに賛同していたので、たとえばステンドグラスでは全工程を自身が入念に管理したという。どの時代でもあらゆる工芸家はこのモリスの考えを大なり小なり噛みしめることになる。工芸家は作品を販売して生計を立てる必要があるが、絵画や彫刻とは違って工程は多く、また作品は大体ある程度量産するものであるので、ひとりの力ではどうにもならない場合がしばしばある。筆者のことを言えば、誰も雇わずにひとりで作るが、そのために毎日10時間以上座り込んで仕事に根を詰めても、1点の作品が完成するのに3か月近く要する。筆者とは違ってモリスのように工房をかまえて、商品を量産する作家は多いが、それには商才や作品に対する割り切った考えが必要だ。モリスには天才的なそうした才能があった。
見慣れたモリスの作品だが、せっかく京都駅まで出かけたのであるからとばかりに会場ではたくさんのメモを取った。ふと気がつくと、終了時刻が過ぎて会場には誰もいなかった。それでも係員は出て行けとは言わなかったのには感心した。時間が足りなくなったので、最初のふたつのコーナー以外ほとんど素通りした。せっかくのメモなので、それにしたがって書くと、会場は「WALLPAPER」「TEXTILE」「STINED GLASS」「TILES」「FURNITURE」「LAMPS」「BOOKS」と分かれていた。まず最初の「壁紙」だが、図録や本で見るのとは違って実物はさすがによい。絵具のデカルコマニー的なよじれや盛り上がりがいかにも手で刷ったことを感じさせ、温かみを覚える。ちょうど日本の木版画を見るような感じだ。色も落ち着いてよい。1836年、イギリスは壁紙業界に課していた税金制度を撤廃し、そのことによって壁紙制作のの本拠地はフランスからイギリスへと移った。機械導入によって安価で粗悪なものが出回り始めたが、モリスはデザインを練り、手仕事の復活を追求し、捺染の生地と同様、木版と天然染料による手刷りによって製品を生み出した。この当時もそれ以降もイギリスの工芸家はふたつの立場があって、モリスのように手仕事を重視する場合と、機械を使用する新技術を拒まず臨機応変にデザインを調整する作家がある。手で刷るのは贅沢なことで、それだけ価格もはね上がるが、消費者に階層がある限り、これらふたつの派はどちらも生存が許されるだろう。話は変わるが、モリスは40を越えた時から社会主義思想を抱き、マルクスの著作を読みもしたが、モリスの仕事を考えるうえで、この行動は一度深く考えてみる価値がありそうに思える。今回はモリスのそうした思想面には全く光は当てられることはなく、あくまでも自然をもとにさまざまな花や鳥を文様的に描くデザイナーとしての姿を捉えていた。1861年モリス・マーシャル・フォークナー商会設立の1年のうちに「ひなぎく」「果実」「格子垣」をデザインし、最初はエッチングした亜鉛板と透明水彩絵具で刷りを試みたが失敗、製造を当時ジェフリー社のマネージャー代理であったメットフォード・ワーナーに託した。何でも自分でやってしまわないで、駄目とわかれば専門家に依頼する考えがその後の成功を導いたと言ってよいだろう。「格子垣」は花はモリス、鳥はフィリップ・ウェッブのデザインで、それをうかがわせるように、デザイン的に花と鳥とは違和感があるが、そうした共同作業によっていい作品を生み出そうとする考えは独善的にならずにかえってよいかもしれない。これらの壁紙はだいたい多くて9色、少ない場合でも3色は使用されていて、手の込んだものを見ると、よくぞ木版で量産出来たものだと思う。色違いが簡単に生み出せる点が強みで、また紙の色を工夫することで、思わぬ効果も上がっている。「ぶどう」「マリーゴールド」「るりはこべ」「ひまわり」「ぜにあおい」「小鳥とアネモネ」「すいかずら」「柳」「やぐるまぎく」「やぐるまぎく」「ゴールデン・リリー」など、どれも見惚れる作品が続いた。
モリス同様、手仕事に忠実であったウォルター・クレイン(1845-1915)の作もあった。彼は子ども向けの絵本挿絵画家として成功し、その分野で培った様式で子どものために壁紙をデザインしてほしいと1874年にジェフリー社の社長メットフォード・ワーナーから注文を受けた。初期のものは安価な機械刷りが多かったが、1876年フィラデルフィア万博で初めて木版刷りの壁紙を発表して以降、質の高いものを生み続けた。「オレンジ色の樹」「孔雀」など、明らかにモリスとは違って、もっとモダンな感覚が見られる。もうひとりチャールズ・フランシス・アンズリー・ヴォイジーは、バーン=ジョーンズやモリスの作品に出会って大きな影響を受け、フィリップ・ウェッブの様式を探究して自己のスタイルを確立したが、1890年にはヨーロッパからアメリカまでそのモダン・デザインの名声が広まった。「ふくろう」(1899)や「小鳥と樹木」のシリーズ(20世紀初頭)は、省略が行き届いて余白が多く、ほとんどアール・デコを思わせる。さて、次は「テキスタイル」のコーナーだが、長くなっているので簡単に済ます。19世紀初頭、技術の進歩によって、乾燥の早いアニリン染料が登場した。これによって捺染の工程に画期的な変化があったが、モリスは植物、動物性染料の使用を復活させ、定着剤は合成のものを使用してブロック捺染を行なった。また、インディゴ抜染による生産を1882年に開始したが、この技法でも目ざましい作品を生み出した。これは一旦藍で染めた布地を色抜きで模様を表現し、白くなった箇所にさらに別の色を刷り込む方法で、現在でもよく行なわれている染色技術だ。植物、動物性染料の使用はインドやインドネシアの更紗において昔から使用されていたが、モリスはそれらを応用しながら、独自の精緻なデザインの染色品を生み出した。また織物にも手を染め、蒸気動力のジャガード織機の開発を妥当と考え、手動のものを外国から取り寄せ、1876年に製作を試み始めた。大口注文は他社に委託して生産し、小口や新規デザイン、モリス商会のショー・ルームの見本品は4台の手動織機を使用して織った。「小鳥」(1878)は、インディゴ染料によるプリント・テキスタイルが挫折した後、織物作りに意識を集中させる中で生まれた。中世のかけ布の理想に最も近いもので、鳥の織物パターンは中国やイタリアの古典的な源泉に由来する。「いちご泥棒」(1883)は内装用ファブリックで、木綿を木版で多色刷りする。インディゴ染料に赤や黄を加えた初の作品で、モリス商会で最も高価だが最も人気があった。以下、壁紙のコーナー同様にたくさんの凝った模様の作品が並んでいた。