とっくに終わったと思っていたが、チケットの半券を確認すると、今月18日まで開催されている。先月のお盆の日に息子の車で家族3人で滋賀県立近代美術館まで訪れて見た。
さて、このカテゴリーに書くべき展覧会は現在10ある。1週間に一日だけの長文ならばその大半は感想を書かずに終わるが、会期終了後あまりに日が経ったものは印象もうすれているし話題性がないので、なるべく現在開催中のものを取り上げたい。その意味でもこの展覧会はちょうどよい。イサム・ノグチの大規模な展覧会は、数年前だったか、京都国立近代美術館で見た。図録を買わなかったが、理由は大好きな作家でもなかったからだ。その理由はと言えば、何となく作品の印象がうすく、捉えどころがないと思えたからだ。であるので、今回もあまり期待せず、いわばほとんど動かさない車をたまに走らせる必要を感じ、また夏休み中の家族小旅行のつもりもかねて出かけた。会場には思った以上に人が多く、この作家の人気度をよく示していた。そして、筆者も初めてこの作家の持ち味がよくわかる気がした。それは一言すれば、引き裂かれかねない人格をどうにかうまく接合しようと終生考え続け、晩年に至るにしたがってそれがひとつの幸福な方向で結実した様子が確認出来たことだ。藤田嗣治は日本の画壇からは嫌われ、苛められもしたが、その伝で言えばイサム・ノグチはもっと過酷であったはずだ。1904年生まれで88年に亡くなったが、父が日本人、母がアメリカ人という混血は、戦前では想像出来ないほどあちこちで差別も受けたことだろう。そうそう、思い出した。筆者が大阪に住んでいる頃、近所に夏休みになると枚方から遊びに来る、色白で青い目、金髪の同年令の男の子がいた。どこから見てもアメリカ人であったが、母は在日韓国人、父は進駐軍の兵士であった。父はその男の子が生まれてすぐにアメリカに帰って音信不通になった。その男の子は片足がひどい小児麻痺で、勉強もあまり出来なかった。在日と体が不自由という二重のハンディを負ってその後どのようにして生きたかと思う。イサム・ノグチも鼻が高くて日本人離れした顔をしていたが、会場にあった土門拳が写した大きな顔写真はかなり日本人っぽくて、日本の血の方が濃いように思わせた。だが、そのことがアメリカでは差別の対象になった可能性はあろう。にもかかわらず、十代にしてすでに本人がなりたいと思った彫刻家の道をまっしぐらに進み、そして大成した。これは意思の強さと才能があれば、思いどおりの人生が歩めることの好例になるだろう。
今回は70点が「顔」「神話・民族」「コミュニティーのために」「太陽」という4つのキーワードによって分けて展示された。大きいもので高さ2メートル少々、小さいものは簡単に持ち運び出来るサイズで、この中間の大きさのものが最も多かった。また、モダン・ダンスの先駆者マーサ・グラハムのためのオリジナル舞台セット「暗い牧場」(1946)からいわば目玉的に特別展示があった。図録はやはり買わなかったが、作品の大半はスケッチをして来た。それをスキャンして掲げてもいいが。面倒なので文字だけにする。以下順にセクションを見て行く。まず1『「顔」と「身体の変容」』。イサム・ノグチは最初ロダンに憧れた。高校卒業後、アメリカを代表する肖像彫刻家ガッツォン・ボーグラムに師事し、イタリア出身の彫刻家オノオリ・ルオートロのもとでアカデミックな彫刻を学んだ。ほどなく抽象彫刻に関心を抱き、1926年に見たブランクーシの個展を機にパリに留学した。この時肖像彫刻の腕があることが生計の助けになった。また、ガーシュウィンや、マーサ・グラハム、バックミンスター・フラーなど著名人と出会いもしたが、この若い頃にすでに後の国際的活躍の萌芽が見られるかのようだ。肖像彫刻の腕前を示すものとしてまず「ジョエラ・レヴィの肖像」(1929)があった。レヴィはニューヨークでシュルレアリスム美術を紹介するうえで大きな役割をした画商で、イサム・ノグチがおそらくこの人物を通じてシュルレアリスムに影響を受けたことは作品がよく示している。1931年には来日し、投宿した伯父宅のお手伝いさんをモデルにテラコッタ作品「ツネコさん」を作った。ロダンにも通ずるような東洋人独特の風貌への関心がうかがえる。面白いのは、この滞日期に盛んに日本の立体造形を見たことが伝わる作品群だ。「えらいやっちゃほい(金太郎)」(31)もテラコッタで、一見して伏見人形の影響が明らかだ。「無題」(52)は緑釉の勾玉風の陶製仮面で、そのユーモラスな表情はたとえば60年代末期以降の元永定正を先取りしている。「リトル・ストレート」(45)はブロンズ作品だが、角の丸い四角の板に3本の縦筋が入り、そこに同じく金属板をくり抜いた突起が嵌め込まれている。紙細工のようなこの薄い板の組み合わせ技法は、茶色のブロンズ「追想」(44)やステンレス鋼と銀を用いた「ぶら下がる男」(45)、そして「グレゴリー」(45)や「化身」(47)など、その後さまざまに変奏され、大型化するが、ピカソやゴーキーの絵、あるいはダリがしばしば描くつっかえ棒のイメージの立体化にも見え、シュルレアリスムの影響が強い。鋳鉄による「おかめ」(56)は同じ手法に立脚しながら、赤塚不二夫の漫画に登場しそうなキャラターぶりで、その独特のユーモアはこの作家の独壇場に思える。鋳鉄の「おんな(リシ・ケシュ)」(56)は、大きな楕円形の弁当箱のあちこちをくぼませたような形の2段重ねで、前衛生け花に使用すれば似合いそうな花器だ。真鍮製の「レダ」(28)はブランクーシを意識しての作品であろうか、この思いは「マイ・アストラ、ブランクーシへのオマージュ」(71)という大理石の大きなトーテム・ポール風の作品につながって行くのだろう。
セクション2は『神話・民族』で、別の切り口で作家の作風の変遷を概観する。『彼はアイデンティティに揺れていた。第2次世界大戦時には日系人収容所の環境改善計画に携わり、戦後は世界の古代遺跡や聖域を訪ねて、「世界はひとつであり、有史前の芸術はどこのものでも似通っている」との結論を得た』といった説明があったが、ここには混血としての痛々しさもある一方、強みと言ってよいものもある。作品はセクション1と同じように、まず金属の板をさまざまに切り抜いてそれらを立体的に組み立てたものが目立ち、その傍ら日本的造形のユーモラスさを狙ったものもある。前者としてはブロンズの「三位一体」(48)や「クロノス」(48)、後者は素焼きの「かぶと」(52)、鋳鉄の「典礼(祝日)」(52)がある。また、「オルフェウス」(58)は日本の折り紙に触発されたようなうすいアルミニウムを折り曲げて立たせた衝立状の作品で、先の両者の中間的なものと位置づけてよい。ブロンズの「夢想国師のおしえ」(62)は、5つの黒い岩のような塊の点在で、明らかに枯山水を念頭に置いている。30年代中期からはマーサ・グラハムの舞台美術を手がけ、今回は「十字架」と「蜜蜂の巣」(46)など4点が来ていた。素材に木、キャンヴァス張り、そして塗装、プラスティックを使用し、インディアンの造形とアレキサンダー・カルダー(コールダー)を足して割ったような簡素な美しさと楽しさが見られた。彼にしては珍しい白を基調として赤や黄色、ピンク色を使った作品で、さらに作風をカラフルに進めればどう展開したかといろいろと想像させる。セクション3『コミュニティーのために』では、先のふたつのセクションとはかなり異なる作品が展示された。イサム・ノグチは芸術を通じてコミュニティーに貢献したいと若い頃から考え、芸術が人々に根づき、精神生活の支えとなることを芸術が「生きる」と言った。彫刻家として活躍し始めた30年代は世界的不況、ファシズムの時代で戦争の脅威がふたたび高まっていたが、そのことが作品に影響を与えている。「死(リンチを受けた人体)」(34)は、金属製で等身大の黒い人体が枠から吊り下げられた不気味な作品で、表情の不明なその人体はもがき苦しんだまま硬直しているように見える。「英雄たちの記念碑」(43、78)は骨やプラスティック、木、糸を使用した同じく枠からオブジェを吊り下げた作品だが、各オブジェには糸が縦横に絡まっていて、物事、あるいは思考の複雑な関係を表現しているかのようだ。これら2点とも風刺が強く、作家の反骨の姿を示すものと言ってよい。ブロンズの「黄色い風景」(43)はアメーバのような平たい不定形で、突起が3か所と、凹みが1か所あり、将来どうなるかわからない不安と希望を抱えているようだ。「仏陀の記念碑」(57)、「ニューヨーク国連本部のプレイグラウンド」(52)、「ブラック・スライド・マントラ」(66、88)はいずれも石膏模型で、大規模な記念碑になるべきものだ。建築に隣接したこうした仕事は、たとえば1970年の大阪万博での噴水などに通ずるものであったろう。筆者にとってイサム・ノグチの捉えどころのなさはこうした規模の大きい仕事が存在することにもよる。
セクション4は『太陽』だ。また会場にあったイサム・ノグチの言葉を引用する。『芸術の課題はイメージの背後にあるリアリティ(見えざる現実)を明らかにすること。リアリティは世界のどこでもいつでも変わらない。変わるのは芸術のあり方で、芸術家は各時代に応じた有効なコンセプト立てねばならない』。この言葉と「太陽」がどう関係するのかよくわからないが、とにかく太陽に向けて造形が収斂して行く様子が提示される。まず「球状体」(28)は鏡面仕上げのブロンズで、ブランクーシの単純な造形を意識したものだ。「球状体」と言いながら、球ではない。ひよこ饅頭や卵が成長して一部が突起状になった形を思えばよい。生命の成長過程に関心があるかのような作家の精神が宿る。同じ感覚は「赤い種子」(28)にも見られる。この作品は石の円盤土台のうえに曲面にくぼみを持った木の塊を斜め向きに置くことで天に向かう動きを表現し、さらに木に取りつけた金属の曲がった棒によって、その木の塊の運動の軌跡ないし木に対抗する力の動きを示しているように見える。一見するとイサム・ノグチらしからぬ作品だが、力学や天文学に関心を抱いているかのようなところはそのモダニズム的な造形イメージと相まって面白い側面を伝える。バックミンスター・フラーの影響を思ってもいいだろう。また、あらゆる素材に関心を示す点でもこの作品は価値がある。「接吻」(45)はタイトルからしてブランクーシの影響が強いが、白いアラバスター製で、それぞれ凹凸を中央に持ったふたつの円盤が重なろうとしている形を表現する。蓋物の容器の蓋を外して容器の縁に置いた状態をうえから眺めた形を思えばよい。「種子」(46)は3枚の丸みを持った金属片が相互に溝で組み合って一体化したもので、同じ手法の作品は前述したように同時期に盛んに作られた。「奇妙な鳥」(45、71)はアルミを使って同手法をもっと複雑かつ大型にしたものだ。「プラス・イコール・マイナス」(45、79)はブロンズ製の壁かけ作品で、ひしゃげた紙箱ないしピラミッドと言おうか、そのひとつの面に丸い凹みがある。「ひまわり」(52)は岡本太郎の世界を思わせる。あるいはミロか。四角い板状の土台の中央に先細りの木が1本立っていて、その先端に角が6本周囲に生えた中空の円が突き刺さっている。これは陶製で艶のあるベージュ色をしているが、ユーモラスかつ温かみがある。日本の陶芸家でも似たような作品がありそうで、取り立てて言うほどのものでもないようだが、イサム・ノグチの生涯に置けばそれなりに意味を持って来る。
鋳鉄による「無限の連結」(57)はブランクーシの影響を如実に伝える。動物の骨の関節部分をごく単純に造形化したようなふたつの組み合う形を縦方向につなぐ。これはさらに多数を積み上げることも可能だ。「細胞有糸分裂」(62)はブロンズで、形がやや異なる胴のくびれた瓢箪の上半分を切り取って口部分を接続したような形をしている。柔らかい餅をふたつにちぎろうとしている様子と言ってもよい。「黒い太陽」(65)は国立国際美術館にあるもので昔から見慣れているが、スウェーデン産の花崗岩を使用し、まるで自動車のタイヤのような形を表わす。「キューブの生命#5」(68)は閃緑岩で斜め方向にひしゃげた菱型の塊を削り出し、それを松材による井桁のうえに置いた作品だ。晩年は金属を使用したものから石の使用に傾いたことがわかるが、鏡のように磨き上げられた面は作家の顔を思い浮かべるとよく理解出来る気がする。「下方へ引く力」(70)は、チケットに使用された。アリカンテ産とマルキニア産の色の違う茶色と黒の大理石を使用して大きな閉じない輪を表現する。2種の石は接着剤でくっつけられていると思うが、つなぎ目がわからないほど研ぎが完璧で、技術的にも高度であることが素人目にもわかる。「真夜中の太陽」(89)は没年1年後に遺言によって完成したのだろうか、制作年号からはそうとしか考えられないが、「下方へ引く力」の閉じない輪を完全に閉じて輪を立たせたもので、よく見ると接着剤のはみ出した跡が見えていた。日本の「茅の輪くぐり」の風習の輪を連想させる造形だが、筆者にはイサム・ノグチがこの作品によって自らのアイデンティティをついに肯定的に捉え得たと見たい。赤と黒のスウェーデン産の花崗岩が交互につなぎ合わされているのは、日米の血の象徴であり、それが完璧な真円と化していることは、両方の血についに等しく納得が行った内心を示しているのではないだろうか。生の涯に最も単純な造形で最も大切なことを言い切ったのだ。筆者にとってようやくイサム・ノグチの芸術がわかった気になれた機会であった。館に入ってすぐのホールには「広島の原爆死没者慰霊碑(5分の1模型)」(52、99)やその他2点が置かれたが、どんな素材を使用しても独自の温かい血の通った作品を作り上げた才能があったことがよく伝わった。展示の焦点を変えればまた別の作家像が浮かび上がるだろうが、それは今後の企画展のお楽しみということだ。