松岡正剛の『千夜千冊』でこの書のことを初めて知った。2年ほど前のことだ。氏の大絶賛の意味がわからなかったが、今では筆者も全く同調する。それほどの読書家ではない筆者だが、生涯に出会う最上の10冊のうちに入り続ける書物と確信している。

先週はこの小説を元にしたアニメーション映画のことを書いたが、今日は原作について書く。折口信夫の名前は師の柳田国男とともに20代からよく知っているが、著作を読む気になれなかった。柳田の民俗学のどこからどう分け入ればよいのかわからないことと、柳田が日本の初源を主に南方に求めたことによる。日本文化のルーツはよく議論されるが、大陸や半島伝いにもたらされた稲の文化や仏教文化の大きさは計り知れないものがあり、それを過少視してのは民俗学は大きく偏ったものになるはずとの思いを今も筆者は強く抱く。柳田の民俗学の内容をほとんど知りもしないのに、何となく明治日本の国策にどこかうまくかなった歪なものに思え、それゆえ弟子の折口も似たところがあるのだろうと考えていた。だが、どうも事情は違うようで、たとえば「夜這い」に関して研究しなかった柳田だが、折口はこの本の中でもそんな風習が奈良時代にはすでに起こって来ていたことを書いている。また、折口は朝鮮語を学んでもいて、古代日本を深く知るには大陸や半島のことも知らねばならないと考えていたことがわかり、それには大いに好感が持てる。一方、天然資源に乏しい島国の日本は明治になって列強に伍する思いから、何かを勘違いして大陸や半島に侵出することを考え、実行したが、そんなことを折口はどう思っていたことかと興味もある。国土の大きさによって国の大きさが決まるとはとうてい言えないが、たとえば今の中国との関係を見ていると、どっちがどう侮っているのかよくわからないままにも、ここ100年ほどで力をつけた日本がどうにか中国を見下し、今後も負けないぞといった、何だか目の敵にしたような思いが増して来ているような気にさせられる。アメリカがさっさと中国を向いて日本を無視する時代が来ないとも限らないし、そうなれば、日本はたちまちアジアの弱小国家に過ぎなくなるだろう。そんな先の心配はどうでもいいが、今日この小説を取り上げる気になったのは、死者を拝むということがテーマになっていることと、昭和14年(1939)に書かれたということによる。当時は日中戦争がすでに始まり、やがて真珠湾攻撃を仕かけるという戦争まっしぐらの時代であったが、内容が補訂されて本として出版されたのは昭和18年9月で、この時には日本軍はもうぼろぼろの状態で各地で全滅していた。
靖国問題がかまびすしかった今年のお盆だが、そこには国内と国際の問題をごっちゃにし、しかも戦争責任を真剣に思って来なかった日本人の独特の物の考えが大きく関係している。死者に手を合わして拝むのは日本人に限らず、古来から人間に共通した素直な思いによる行ないであるし、死者が等しく神になるというのは日本人には納得出来る考えだが、太平洋戦争は日本が諸外国を巻き込んで戦ったものであって、その終結に際して調印された条約は日本の国内問題のみではあり得ず、したがって日本が戦争で死んだ人を靖国に祀って弔うのは、完全な内政問題とは言えないのではないか。もしヒトラー・ドイツが戦争に勝っていれば、ヒトラーは英雄として廟に祀られていたはずだが、負けてしまえば潔く戦った相手の条件を飲むしかないし、そのようにしてたとえば国境は変化して来た。負けた日本が戦争指導者を、国際的には犯罪人であっても、日本のために尽くしてくれたことで英霊と思うのは、たとえばドイツ人がヒトラーを英雄として讃えるのと似たようなものとして外国からは好戦的と捉えられかねないだろう。それに、そうした戦争指導者と一緒に祀られることをありがた迷惑と考える人がいる事実や、祀られている魂の半数ほどの人骨がまだ南方各地で野晒になったままであるという何ともお粗末な話をどうするかだ。遺骨の収集は生き残った兵士や有志の人が私的に行なって来たが、それからしても国が死んだ者には冷淡で、経済的反映の裏には無慈悲があることを再確認させる。戦争を起こすのは民族的憎悪よりも、しばしば一部の人の経済的な理由であることが多い。アメリカがそのいい例だろう。とにかく軍需産業が潤い続けるには武器を他国に売りつけ、しかもそれをどんどん消費してもらわねばならない。自国での戦争はまっぴらだが、たとえば隣の国で勝手にやってくれて、そのことで自国が経済的に潤うのは大歓迎というのはたいていの国益を云々する政治家の考えでもあるだろう。朝鮮戦争の特需で戦後の不況を脱した日本もそのいい例だが、同じようなことは戦争がある限り世界各地で繰り返される。そこで思うのは、たとえば北朝鮮のミサイル問題を契機に、どうにか半島で戦争が起こってくれればと思う連中があるかもしれないことだ。マスコミで報じられることの裏側には、おそらく何重にも込み入った政府の思惑がある。TVや新聞で大きく取り上げる記事は作為があると思っていていい加減だ。
話を戻して、折口信夫が戦争中になぜこうした小説を書いたのか。戦争でなければ書いたかどうか。折口が当時戦争にますます突入する日本をどう思っていたかはこの小説からは読み取れない。そのため「死者の書」という題名を戦争で死んだ人と捉えることは出来ない。しかし、実在した謀略によって殺された大津皇子と藤原豊成の娘(藤原南家の郎女)をうまく結びつけることで、無念にも死んだ人に寄せる弔いの思いといったものをうまく表現していて、そこには折口の戦争で死んだ人々に対する思いが重ねられている気にもさせられる。とはいえ、やはりそれは深読み過ぎるだろう。この小説では大津皇子は首をはねられた瞬間に恨みを消え失せて、ただひとつ心残りとなったのは、死ぬ間際に見た耳面刀自(みみもとのとじ)という美しい女性の顔であるという設定になっている。大津皇子のその執心は、やがて100年後の藤原南家の郎女(いらつめ)に伝わるが、その時空を越えた恋愛の情とでも言うべきものは、この物語が十五年戦争で死んだ兵士へのはなむけに書かれたかもという考えを退ける。大津皇子は今の桜井市のとある池の畔で首をはねられたが、折口は當麻(たいま)寺西のふたつの峰を持つ二上山の男岳頂上に葬られたという事実と、當麻寺に奈良時代から伝わる有名な中将姫伝説を持つ曼荼羅図を結びつけて巧みにこの物語を織り上げた。そのことが戦時中にふさわしい行ないとみなされたかどうかだが、古代日本の独特の精神を美しく描き出した点において、軍部も文句を言う筋合いはなかったはずだ。だが、「死者の書」とは思い切ったもので、どうしても戦争で死んだ人々の連想を誘わずにはおれない。この小説は亡霊が出て来るところ、どこか上田秋成の影響も思わせるが、そう言えば折口の生まれは大阪のど真ん中で、秋成とは同郷と言える。また、この小説における独特な色気は近松ものに源泉があるかもしれない。藤原南家の郎女すなわち中将姫の伝説のすべてをこの小説が用いているわけではないが、自分の子孫を残すことがなかった大津皇子が耳面刀自のような美人を求めてついに郎女の夢に現われるという設定は、うがった見方をすれば、折口自身の経験がある程度元になっているのではないかと思わせる。つまり、戦争でたくさん死んで行った兵士ではなく、もっと個人的な恋愛感情に重きを置いているところが、物語をより普遍的なものに仕立て上げている。そしてその恋愛は死者と生者との間で交わされるものであり、生者はただ死者が裸で夢に出て来ることに対し、せめて寒くないようにと衣を作ってやろうと考えるのだが、郎女のそうしたひたむきな行為はとかく男は弱い。筆者がこの小説を今思い出して涙がただちに溢れそうになるのは、一心不乱に衣を織り、そして縫い、そして曼荼羅を描く郎女の姿だ。物語は全20章で、これは伝説とは違って主人公の郎女の年令と確か合致していたと思うが、内容を簡単に言えば、郎女が夢枕に立つ大津皇子の霊の呼び声に引き寄せられるようにしてある日写経を始め、千巻を写し終えた春分の日の嵐の夜、ひとりで当麻寺に赴くが、女人禁制の寺からは結界を侵した罪をとがめられる。郎女は自らの意思で秋の暮れまで寺にとどまり、やがて大きな布地を織り上げ、そこに曼荼羅図を描くという話だ。このほかに大友家持も登場し、当時の貴族の娘がどういう境遇にいたかが間接的に描写される。そうした細部がみな光り輝いていて、それらを深く理解するには、奈良時代の歴史や文化に対し、そこそこの造詣があり、しかも當麻寺を実際に訪れたことや、山越阿弥陀図や当麻曼荼羅図を見たことがあるのが望ましい。この小説は短編ながら込み入った話の筋のため、途中で読むのをやめる人が少ないというが、筆者は全くそれはなかった。
本の表紙のエジプト絵画は初版本では左右の向きが反対で、絵も少し違うものが紺色の紙に銀の箔押し加工で表現された。エジプト絵画の使用は、折口が当時エジプトにも関心を広げていたためのようだが、この本がエジプトに言及したものと錯覚される恐れがある。だが、実際はエジプトのエも出て来ない。初版本では「死者の書」のみの収録で、扉には京都の金戒光明寺蔵の「山越阿弥陀図屏風」の白黒図版が1枚掲げられている。この図版は現在入手可能な文庫本にもそのまま挿入されているが、文庫本では昭和19年に書かれた「山越しの阿弥陀像の画因」という美術論文的な文章も収録され、それによって「死者の書」がどういう経緯で書かれたものかがよくわかるようになっている。つまり、「死の書」は折口が「山越阿弥陀図」を見たことによって成立したもので、その「山越阿弥陀図」は折口の文章から引用すると、「渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝へてゐると思はれながら、いつか内容は、我が国生得のものと入りかはってゐる。そうした例の一つとして、日本人の考へた山越しの阿弥陀像の由来と、之が書きたくなった、私一個の事情をこゝに書きつける。」とあって、この言葉の中に折口の根本的な思想がすべて詰まっているように思える。ついでに最後も引用すると、「私の女主人公南家藤原郎女の、幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた幻想であった。そうして又、仏教以前から、我々祖先の間に持ち伝へられた日の光の凝り成して、更にはなゞなと輝き出た姿であつたのだ、とも謂はれるのである。」とあり、さらに折口の考えが端的にわかる。「山越阿弥陀図屏風」上部には色紙が貼られ、そこに「弟子天台僧源信」と題して七言律が書かれていることから、「山越阿弥陀像」は比叡の横川で源信僧都が感得したものと伝えられていると折口は続け、「山越阿弥陀図屏風」に描かれる山が比叡山かと書いているが、いずれにしても京阪神に住む者にとっては何だか鼻が高い気分にさせてくれる。
筆者が當麻寺を意識したのは10代終わりのことだ。実際に訪れたのはそれからさらに10年経った1979年4月、遅い桜が咲いている頃であった。染色工房のみんなを引き連れた春の遠足みたいなもので、どういうわけか當麻寺に行くことにした。その時の記憶は、実に素晴らしいの一言に尽きる。まだ花が咲かない牡丹園であったが、天国とはこんなところだという気がした。90年代にも友人にそそくさと連れて行ってもらったことがあるが、境内は少し変わっていたし、季節が悪かったのか、あまり感動はなかった。當麻寺に行くのは、大阪からの方が京都よりからはるかに便利だ。奈良市街からは南西20キロに位置し、二上山を越えれば大阪の南河内で、大阪芸大がある。二上山は500メートルほどで、境内のすぐに背後に見える。折口はこの寺を夕日が二上山の背後に沈む頃に訪れるのがいいとしているが、それはまさに「山越阿弥陀図」そのままを連想させる光景だろう。境内南側に丘があって、国宝の三重の塔がふたつ並んで建っている。初めて訪れた時、東塔のすぐ際の地面に筍の頭が見えた。それを掘り起こして持って帰って煮て食べたのを記憶しているが、折口が同じ場所に立って「死者の書」の物語を構想したことを今になって思い、さらには結界を侵した郎女の姿を思い重ねると、よくぞ桜咲く天気のよい朝に同寺を訪れたことと思う。その気になれば明日にでも行って来れるが、何事も初めての時の印象が最も強い。寺に曼荼羅図があるのは知っていたが、それは拝観出来なかった。「死者の書」にあるように蓮の茎を割いて織ったものではなく、実際は絹の綴織であることがわかっているが、ボロボロになったので、欠けたところは描き足しし、また何度も模写されたものが各地に伝わっている。今回のアニメ作品では平成版の模写をし、それをアニメ映像に加工したが、映画のごくわずかの場面でもそうとうな労力を費やしていることがわかる。映画のことをもう少し書くと、大津皇子の亡霊は裸で金髪姿として登場するが、これが郎女の前では典型的なガンダーラ仏に変化し、そして郎女が織り上げた布地にその面影を描き始めると、実際の中央に座する阿弥陀如来の顔にさらに変わる。大津皇子が西洋風の顔をしたガンダーラ仏になり、それがまた相撲取りのような丸い顔の阿弥陀如来に変化するところに、アニメーョン独特の映像変化効果を発揮していたが、もちろんこうした細部の表現は折口の原作には一切書かれておらず、川本喜八郎の創作になる。
また思い出した。小説では郎女は春分の日の夜に西へ西へと歩き、そして當麻寺の東側にある山門に至ったとあるが、藤原南家は小説では今の平城京遺跡のどこかにあったはずで、実際は南に随分歩き、そして西に方角を取る必要がある。また藤原豊成の家は今の帯解あたりにあったとされるが、それにしても同じことで、當麻寺は南西にある。だが、折口にすれば、西へ西へと向かったという表現が重要であった。それは沈む日を追っての歩みであるからだ。この小説の重要な主題のひとつに、春分の日と秋分の日に、古代の女性が一日中、太陽を追って山を巡り歩いたという風習がある。郎女が写経を始めた日を春分の日としたのも、太陽を巡っての物語ということを強調する意味もあるだろう。夜の雨の中を西に向けてどんどん歩き続ける郎女に向かって、映画では猪がぶつかるシーンがあった。それは小説にはない創作だが、実際問題としてそういうことがあってもおかしくない田舎のことであるし、鄙びた雰囲気は現在でもあまり変わっていないだろう。筆者が當麻曼荼羅図や山越阿弥陀図をまとめた見たのは1983年5月、奈良国立博物館で開催された『浄土曼荼羅-極楽浄土と来迎のロマン』という展覧会であった。同展は筆者が今までに見た数千の展覧会のベスト10に入る。あまりに衝撃的で、今もその時のことをよく記憶している。折口は「山越しの阿弥陀像の画因」において山越阿弥陀図と阿弥陀来迎図との関係を少し書いているが、同展ではどちらもたくさんの作品が展示された。日本のシュルレアリスムと言ってよい幻想的なそうした仏教絵画に筆者は今なお何かを汲み出せないものかと考え続けている。金戒光明寺蔵の「山越阿弥陀図屏風」はシンメトリカルな構図をしていて、中央には山から越えてこっちに向かう阿弥陀如来の上半身が見えている。そして両手の結印部分には本物の紐が通してあり、死に向かう貴族たちはその紐を自身の手指に絡ませながら極楽浄土を願った。當麻曼荼羅図はもっともっと込み入った緻密な絵で、おそらく唐で作られたものだろう。「死者の書」には、盛んに大陸の文物が日本に入って来ていたことが書かれている。インド生まれの仏教が中国や半島を通じ、そして日本で独自の山越阿弥陀像を生み、それが「死者の書」の誕生にまで影響を及ぼしているのは面白い。死者にもそれなりの意思があって、それを生きている者に伝えているとしか思えない。生者は必ず死者になる。折口の「死者の書」も文字どおり死者の書となって、今生きている人々にさまざまな感動を与えている。無念の思いが残らないように、生きている間に死者の仲間入りの準備をしておくべきか。