初めてこの映画のことを知ったのは6月14日の読売新聞における映画評だ。そこに1枚の写真が掲げられていた。目が釘づけになった。即座に映画を見に行くことに決めた。後にそれがチラシやポスターにも使用されていることを知ったが、小さな白黒写真でも充分に迫力は伝わる。
封切りを見るのは久しぶりのことだが、前売り券を買うのを忘れてしまい、映画が始まってからは当日券でしか入ることが出来ず、1700円を支払って見た。1時間ほどの映画でこの価格は納得が行かないが、内容がよかったのでその思いも吹っ飛んだ。京都みなみ会館は随分長い間行っていなかったが、会期中、上映は不規則でそれがまた困った。見たのは先月30日で、最終日より1日前であった。ちょうど近くで親類の集まりのパーティがあり、午後の数時間、しこたま飲み倒した後でひとりで映画館に行った。9月中旬まで神戸や大阪の十三に巡回するし、十三で上映される映画館には何度も行ったことがあるので、最悪の場合、そこで見てもよいかと考えたが、どうにか地元で見ることが出来た。さて、今こうして書きながら、ようやく6月14日の新聞記事を引っ張り出して読み終えたが、映画にしても展覧会にしても、筆者はなるべく前情報を得ないようにしている。その方が変な考えに染まらずに見られるからだ。また、この映画のチラシはすでにみなみ会館にはなく、残念な思いをしていたが、昨日京都駅に出て伊勢丹でチェコ絵本とアニメの展覧会を見た時、そこに100枚以上の束が置いてあった。京都ではとっくに終わっているのにこれはどうしたことか。実は今月2日にも同じ場所に行ったが、その時は大きなポスターだけが貼ってあって、チラシは1枚もなかった。それはいいとして、気になっていたチラシを入手し、早速裏面の文章も読んだ。これも映画を見る前でなくてかえってよかった。後で読んだ方が理解も深まる。となれば筆者がここでこうして感想を書くのも、映画を見た人のためとした方がよいだろう。新聞での紹介は難しいもので、記事を読んで見た気になってしまえばそれは成功とは言えないし、どうにか映画館に足を運んでもらえることを念頭に置く必要がある。だが、正直なところ、筆者には記事はどうでもよく、前述したように、映画のワン・シーンを捉えた1枚の写真に魅力のすべてが端的に表われていると即座に思えた。だが、今記事を読み終えてなるほどと思うのは、映画とは直接に関係のない情報が書かれていることだ。それはこの映画の監督である川本喜八郎が、チェコのアニメーション作家のイジー・トルンカに師事しているという事実だ。実は昨日伊勢丹の美術館でトルンカの作品を少し見て来たばかりなので、記事に改めて驚いている。出会いのつながりといったものが、このようにして芋蔓式に目前に登場して来る様子が面白い。人生の楽しみはそんな出会いにある。
川本喜八郎の名前は知らなかった。寡作の人らしく、今回の上映に合わせて、過去の短編作品がまとめて公開されるようだ。だが、目下のところ、見る気はない。それは、構想から30年を費やして作り上げたというこの『死者の書』のみで充分この監督の力量がわかることと、そのあまりに圧倒的な余韻を他の作品でぶち壊されたくないからだ。結論をもう言ってしまったが、それほどにこの映画は素晴らしかった。人生でそう何度も出会いがないような作品だ。今思い返しても何だかはらはらと涙が出て来そうになる。実は映画に合わせて原作の小説も読んだ。その差をここで書くことはせず、小説については別の日に書く。これまた結論から言えば、この映画を見てから小説を読んだ方がよい。小説から視覚イメージがはっきりと想像出来るからだ。だが、映画の映像が小説を読みつつ浮かび上がって仕方がなかったということはない。小説は小説で、映画とは全然関係なく、独自の映像世界が眼前に広がった。それではこの映画はあまり成功していないことになりそうだが、そうではない。映画は監督独自の個性の表現であるし、人形アニメでしか表現出来ない象徴性があって、それはこの小説の視覚化の場合にはきわめてふさわしい手段と言ってよい。話は変わるが、ドナルド・キーンが長らく読売新聞に長文の連載記事を寄せていて、つい先日の分に、三島由紀夫は能や歌舞伎は愛したが、文楽は田舎芸術として賛美しなかったとあった。三島の貴族趣味からしてこれはよく想像出来ることだ。だが、上方文化を田舎と呼ぶのはどうか。むしろ上方から見れば、江戸の方が遙かにそうで、三島よ何をほざくという気がする。また、仮に人形浄瑠璃が田舎芸術として、それで何か芸術的に二、三流と言えるかどうかだ。筆者は歌舞伎は見たことはないが、何となく見る前から下町芸術に思えている。それでもそれが二、三流のものでつまらないと断言する気はない。出会いがただないだけの話であることを知っているからだ。これは昨日だったか、八王子で独自の人形浄瑠璃が根づいていて、若い人が携わっていることをNHKが紹介していた。その時映った男と女の人形の頭は文楽人形と同じ表情で、八王子という場所で演じられるその人形芝居は、それこそいかにも田舎じみてあまり感心しなかったが、それでも一応は人形浄瑠璃であって、女の頭の顔などを見ていると、文句なしにそこに独特の色気を感じて背筋がぞくぞくとした。こういう思いを現実の女性で筆者はもう何年も感じたことがない。人間の女に魅力がなくて、かえって文楽人形の女にそれを熱烈に感じるというのは、どこか倒錯しているかもしれないが、事実だから仕方がない。だが、こんな思いは女性も抱くのだろうか。きっとそうだと思う。人形は単純な顔をしていて、漫画的と言ってもよいが、そこにひとつの永遠の個性が凍りついたまま宿っていると感じる心が人間にはある。歌舞伎はいずれなくなっても、おそらく永遠に人形芝居はなくならないだろう。
筆者は仮面好きだが、そのつながりもあってか、人形アニメも好きで、イギリスの『ウォレスとグルミット』などはとても感心して見る。人形アニメを連想させるようなコンピュータ・グラフィックスによるアニメ映画も好きで、たとえば『ファインディング・ニモ』なんかはひとりででも映画館に見に行った。そういう筆者であるから、日本にも同じような人形アニメ映画があって、しかもそのワン・シーンが新聞記事に載っているのを見た時にはショックを受けたのだった。その写真はひとりの奈良時代の若い美女が縫い物をしている様子を伝えるもので、顔が実によい。前述した文楽人形の若い女の顔に通ずるような独特の色気が漂っていて、気品がある。実際この女性は映画の主人公で、20歳になる姫なのだが、そう言われなくてもその様子が伝わる。そこで思うのだが、川本監督は小説に登場するこの姫を、自分が想像するとおりに目に見えるようにしたく考えて、執念を燃やし続けてようやくこの映画を作り終えたのではないだろうか。そうとしか思えないほどこの映画におけるこの姫の表情はよく出来ている。いや、しかしそう言えば、ほかの登場人物はあまり意味がないように聞こえるが、そんなことはない。どの登場人物もそうでしかあり得ない表情で作り上げられていて、実際の人間より人間らしいことに誰しも驚くに違いない。そうなのだ。この映画の最大の魅力は、小説ではある程度の古代のさまざまな知識がなくては想像出来ないことを、ほとんどそうであったに違いない状態で視覚化をなし遂げていることにある。小説はすぐに読んでしまえる短編だが、1時間ほどの人形アニメ作品にまとめ上げるには、多過ぎる部分もあれば、また逆に大いに不足していることもある。そのため、映画は小説のすべてのシーンを映像化していないし、また小説には書かれていないことの大胆な視覚化をふんだんに試みてもいる。そしてこの後者の点において、知識を豊富に持つ人ほど舌を巻くことだろう。30年をかけてこの映画を作り上げたということがうなずけるのもそんなところからだ。それにはまず、奈良時代の生活のあらゆることを詳しく知っていた折口信夫の天才と呼んでいい才能を最初に認めるべきだが、おそらく折口がこの映画を見ても唸るほど、映画は折口と同じように奈良時代のさまざまな知識を吸収したうえで撮影に挑んでいる。そして筆者はそれに要した監督の年月や努力を思うが、監督は折口に、そしてこの小説、そこに登場する人物たちへと無限の共感を抱いたこともよく伝わる。この映画を見ることは、その精神の伝達という神聖な行為の一連の輪の中に参加することのように思うが、そのように理解するには、ある程度の大人でなければならないだろう。人形アニメとはいえ、これは文楽同様、完全に大人が鑑賞するものだ。しかも、文楽における世話人情ものよりもまだ一段高いところにある精神性と呼べばいいようなものをテーマにしているだけに、なおさらこの映画は一時的に一般受けするようなことにはならないと思える。
文楽を最初に意識したのがいつか忘れたが、20年ほど前か、ドイツ文化センターで英語字幕の文楽映画『曾根崎心中』を見たことを強く記憶する。それは浄瑠璃のお囃子は同じで、実際の文楽人形を舞台ではなく、現地においてロケ撮影したものだ。その分、実際の人物が演じたような雰囲気があったが、クローズアップで見る人形の美しかったこと、人間が演じたのでは決して出ない色気がぷんぷんしていた。その後俳優が演じた『曾根崎心中』の映画を見たことがあるが、ほとんど記憶に残らなかった。これは人形であるからこそ、よく表現し得る人間の心があることを示すのではないか。だが、まだ舞台が江戸時代ならばまだしも、奈良の大仏が出来た当時の話となれば、文楽は参考にならないどころか、邪魔ものだろう。人形の表情や衣装など、すべて一から新たに考え出す必要がある。この点にこのアニメ映画の最大の見所がある。人形アニメは、文楽人形のような人間が操るものをそのまま撮影するか、あるい粘度細工したものをコマ撮りするか、さまざまな方法があるが、この作品ではどうしているのだろう。操り糸は見えなかったし、コマ撮りしているのは確実だが、文楽人形のように目や口元が動いて表情を作るのではなっかたから、表情や動作毎に別の人形を作ったのだろうか。全体に人形の動きは少なめで、それがへたをするとアニメ作品としての技術的な拙さを示すると思われがちだが、時代が奈良であるので、時間はゆったりと過ぎていたと思わせるから、乏しい動きはほとんど気にはならなかった。だが、画面のすべてが人形アニメの手法には頼らず、描画アニメの部分もあって、それが若干白けさせる原因でもあった。だが、それも作品側に立って見れば、物語の内容が姫と死者との霊的交流がテーマであるので、現在では容易に利用出来るコンピュータによる処理がいろいろと見られてもそれはそれで作品全体としては調和を保つ方向に働くと思える。人形それぞれの表情による性格づけが見事なことは書いたが、それに加えて各人物の声の担当がよく吟味されていた。たとえば姫すなわち藤原南家の郎女(いらつめ)は宮沢りえが担当していて、これは人気女優の起用でヒットにあやかりたい思いが見え見えの気にさせるが、実際のところ、宮沢りえ以外は考えられない適役であった。また當麻の語り部の媼が登場するが、このしわくちゃ婆さんは黒柳徹子が担当していて、これまた絶品と思わせるはまり役で、この映画の面白味を倍加させていた。
映画は全体で70分だが、最初の10分は人形アニメ映像ではなく、実写による時代背景の説明に費やされる。寺田農によるナレーションで、まるでNHKの硬い教育番組を見ているような気分になったため、かなり飲んでいた後の筆者はすっかり寝入ってしまい、どういう内容であったかほとんど記憶にない。小説にはもともとそうした冒頭の10分に相当する部分はない。そうした歴史的背景を知ればなお物語が深く味わえるのは確かだが、仮に知らなくても充分に楽しめるような内容をしていると言ってよい。かえって親切な教育番組的配慮は、この映画全体を堅苦しい内容であると宣言してしまうようなものだ。アニメ映画としての正味60分間に何かそこはかと感じるものがあれば、誰しも小説を読む気になるし、また場合によっては奈良時代のあれこれの文献を繙くことになるはずで、この映画は確実にそうした気を生じさせるものと断言出来る。細部を楽しむところにこの映画の面白味はあるが、そうした例は枚挙にいとまがないにしても、そもそも前知識がなければ見落としてしまうことだらけのはずで、監督の労苦をはっきりとわかる人々は少ない観客の中でもまたごくわずかであろう。たとえばこんなシーンがあった。大伴家持が恵美押勝の家を訪れて、それぞれに脇に侍女をはべらせて食事をする。その時の酒器は正倉院にある有名な紺瑠璃坏で、それに口をつけながら家持は袖で口元を隠し、押勝からはやや斜めに向いて飲み干す。この仕種は儒教社会では目上に対する当然の作法であるし、奈良時代の有名貴族の家に西アジアから来ていたガラス器が日常に使用されていたとする設定も妥当なものだ。また両者の衣装文様をどう表現するか、部屋はどういう構造をしていたかなども含め、小説には書かれていないそうした細々としたことをすべて監督は観客の目に見えるように決定し、そしてモノとして作り、照明を当てて1コマずつ撮影して行かねばならない。たったワン・シーンでもそれであるから、どのカットも印象に強く残ると言ってよい仕上がりで全体を作り上げるとなると、どれほどの長い年月を要するか想像にあまりある。そんな息の長い作業に人生を費やすだけの小説に監督が出会ったというのも僥倖だが、この映画に出会うというのもそう言える。監督が費やした何倍も何十倍もの長い間、記憶され続け、繰り返し見られ続ける価値のある作品と締め括っておく。