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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『藤田嗣治展 生誕120年』
日から広島県立美術館で開催される。筆者は京都で先月23日の最終日に見た。NHKが盛んに宣伝したためもあって混雑を予想したが、全くそのとおりで、雨天にもかかわらず超満員であった。



●『藤田嗣治展 生誕120年』_d0053294_19203398.jpg藤田嗣治の名前は中学1、2年の時に初めて意識した。当時、美術の先生が同じ名字であったことにもよる。その先生は授業のたびに名簿順に数人をみんなの前で何かを発表させた。人前での自己表現と度胸をつけさせるためであった。クラスは40数名であるから、10数週ごとに番が回って来る。とにかく何をやってもよかったが、1960年代半ばのこと、今のように人前で余興をやることに抵抗のある者がまだまだ多く、1回ならまだどうにかなるが、また番が回って来た時に出し物に困る者もいた。筆者はビートルズの歌を歌ったり、新聞の記事を読み上げたりした。その記事内容は藤田嗣治に関するもので、どんな内容かはっきりとは覚えていないが、1964年、藤田78歳の時であったはずで、年譜を見ると、その年に藤田はパリや日本のあちこちで作品展をしているので、そんなことを報告するひとつであったと思う。とにかくまだ藤田はフランスでレオナール・フジタとして生き、しっかりと制作していた。小さな新聞記事が中学生の目にもとまるほどであるから、フランスでも日本でも人気のある画家であったのだろう。美術の先生と藤田との関係を言えば、先生はよく黒板にチョークですらすらと生徒の似顔絵を描き、今思い出せばその流麗な線は藤田のものとよく似ていた。そんなきれいな迷いのない線で似顔絵が描けるのがとても信じられなかったが、先生は筆者のことを学年を代表する美術の才があるとし、しきりに美術への道を進むことを勧めた。今どうされていることかと思う。さて、そんな思い出につながる藤田嗣治の絵をまとめて最初に見たのは、77年2月13日、大阪の阪神百貨店のことだ。その次が87年2月2日、京都の大丸で開催された生誕100年記念展だ。どちらも訪れ、図録が手元にある。後者だったと思うが、藤田の未亡人の許可を得ていないということで裁判になり、図録はしばらくして販売が停止になったと思う。その時に感じたのは、藤田展はややこしい事情が絡み、日本ではまともな評価が下されにくいという、日本の閉鎖的な画壇やそれに関係する美術関係団体のあり方だった。日本とフランスの両方で人気のあった画家となれば、日本の画壇からはやっかみも相当きつかったはずで、これは今でも、いや今後も半ば永遠に島国日本人の独特な性格として温存されて行くだろう。よそ者やそれに類する活動をする者を、徹底していじめるか無視するわけだ。
 藤田の絵が好きかどうかとなると、筆者はあまり関心がない。独特の個性や達者な筆使いは文句なく認めるが、たとえば絵がほしいかとなると、そうは思わない。藤田は非常に賢く、また優しく面白い人柄だとは思うが、絵の生理的なものが肌に合わないのだろう。そうした好悪の感情が先立つと、以下の文章も自ずと色合いが定まって来そうだが、なるべくそうはならないようにしたい。京都展が始まる2週間ほど前の読売新聞に、展覧会の4段抜きの紹介があった。「没後最大規模の回顧展 理想美から現実へ」という大きな見出しのある文章とは縦線で区切り、もうひとつ「バランス欠く出品」との見出しのある文章が並んでいた。まずこっちの方に目が行った。NHKでは連日大宣伝を繰り広げて見逃してはならない展覧会のごとく紹介していたが、だいたいいつもNHKが一枚噛む展覧会では誇大広告が多く、かなり割引きして考えてちょうどいい加減で、今回もさほど関心がなく、長らくぐずぐずしていた。それには「バランス欠く出品」という文句も少しは影響していたが、そんな内容であるのは当然予想出来た。中途半端でけちがついたような生誕100年展から20年経って事情が急に好転しているはずもないことは、ある程度美術に関心のある人ならも誰でも予想出来る。日本、フランスで没後最大規模はわかるとしても、だからと言って決定的な内容を盛った展覧会である保証はない。では、バランスを欠いていたのはどういう点かだが、新聞記事を引用すると、『…1918年以前の無名時代の作品17点に対して、サロンで脚光を浴びた19~22年の作品はわずか3点。サロン出品の裸婦は見慣れた開催館所蔵の「五人の裸婦」(23年)のみ。この時期の名作は画業展開を確認する上で欠かせないものは考えるが、どうしてこういう選択になったのか。…(笹木繁男)』で、藤田33から36歳までの作品がとても少ないということだ。この時期の藤田はサロン・ドートンヌの年度会員、そして会員、審査員と毎年推挙され、画商や収集家が競って絵を求めたという、パリ画壇での成功時代の幕開けに相当する。多作の藤田のことであるし、若いことも重なって精力的に描いたはずだが、案外日本では紹介がない。その理由がなぜかはわからない。作品の大半の所蔵先が不明ということはないと思うが、借りて来られない特別の事情があるのかもしれない。
 今回は資料は別にして出品は96点で、77年と87年展とは同規模だ。77年展は、秋田県の平野政吉コレクションとアメリカ人シャーマンのコレクションを並べたものだが、平野は昭和9年(1934)、シャーマンは昭和21年にそれぞれ藤田に会ってコレクターになっていて、両者ともに藤田との個人的なつき合いを通して作品を入手したため、他では見られない趣向のものを所蔵する。今回は平野政吉コレクションからは10点が出品されたが、藤田展では欠かせない作品を所蔵することを意味するだろう。87年展は油彩と水彩・デッサンが50余点ずつの出品で、個人蔵が目立つ。その意味で今回の出品とだぶりが少なく、図録の図版は価値があるかもしれない。また、前記の「19~22年の作品はわずか3点」についてだが、77年展では出品はなかった。平野コレクションは藤田と出会った年以降のものであり、シャーマンは10年代や20年代の作品も多少所蔵するが、水彩やデッサン、版画が主体であることも理由だ。19~22年期の作品を特別に豊富に所蔵するコレクターがいるのかいないのか知らないが、もしいたとしてフランス在住人以外には考えられない。その点がこうした回顧展での作品貸与を難しくしているかもしれない。87年展ではそんなフランスの所蔵家から作品が借りられたこともあって、1918年以前の油彩は25点、19~22年では6点と、今回よりもやや初期の作品に重点が置かれていた。だが、全体にやはり19~22年期が少ないことには変わりがなかった。それで、この時期の絵がその前後と比べてどう違うかだが、顕著に特定出来る差はない。藤田は1913年に渡仏し、写実的などこか暗い空気が漂うフォーヴ的なタッチの風景画を17年頃まで描くが、その頃には明確にモジリアニの影響を受けた人物画を始める。アール・ヌーヴォー的な装飾性、象徴性、それに色彩を用いながら、画面から漂う気配は静謐や可憐さが支配している。18年になると、風景画はどこか国吉康雄の先取りを思わせるような画風になり、人物画は金箔を使用して聖人をテーマにするものが登場する。そして白い壁面の前に置かれた陶磁器の花瓶に生けた花を描く静物画も描かれ始めるが、白を基調とした画面や細い線描にはすでに滑らかに下塗りされた白地キャンヴァス上の裸婦のイメージがちらついている。そんな意味でこの1918年はとても重要な年度に思えるが、19~22年はそれをさらに開花させた時期で、たとえば23、4年頃の作品を見ることで、ほとんど作風は予想がつく。そのことから考えて、19~22年の作品はあったに越したことはないが、あまりなくてもさほど全体の画業を見わたす妨げにならないように思える。
 渡仏後、無名時代の作品はピカソの青の時代を見るようでそれなりに面白いが、まだ才能が全開している感じはないし、田舎であった日本の味噌臭さがどこか漂っている。これが87年展に出た「私の部屋、目覚まし時計のある静物」(21年)に至ると、もうはっきりとその後の藤田の絵を特徴づける要素が出て、チーズの臭いに変わる。この絵は左右対称性を主軸として、身の回りの細々としたモノを描き混むが、そこには何でも絵の素材になるという見方がある一方、それらを独特のマチエールで包み込んで、誰にも描けない個性をまとわせることに成功している様子がよく伝わる。自信を得た藤田はこの絵とよく似た構図で何枚もの作品を描くが、今回は「室内、妻と私」(23年)がそれに相当する。この絵は静物画に自画像と妻を題材にした肖像画を足したもので、藤田と妻の大きさのバランスがよく描けてはおらず、ふたりの関係がどこか空疎なところが伝わるが、そうした目でたとえば別の「自画像」(21年)を見ると、藤田の両手の大きさが意識のうえからそうでないか不明だが、釣合いが取れておらず不自然に見える。絵は写真ではないから、そうした形の現実との差はさほど問題にはならないが、それでも藤田の絵によく見られるこのような微妙なバランス感の崩れは何に由来するのか、気にはなるところだ。それは眼鏡をかけているため、視力がよくなかったことがひとつの原因とも思えるが、それよりも、次々と作品を仕上げて行く筆の走りの中で、細い線を引くことには念入りであっても、全体の形に関しては常に最大の注意が支払われなかったからではないかと思ったりもする。これは絵を雑に仕上げて行っても頓着しないということを言っているのではない。線を引くのに慣れ過ぎたために生じた癖のなせる技だ。それを通常は個性と呼んで、画家の見所と捉えるが、筆者には藤田のその慣れ過ぎた技巧やそれに起因する絵の仕上がりが、時としてどうにもありがたみが感じられない。そのために、たとえばキリストやマリアなどを描く宗教画にもほとんど聖なる感情が見出せない。あらゆるモノに感心のあった藤田は充分に伝わるが、モノを通じて心を表現するという段になると、果たして藤田は何か真剣に考えたことがあるのかどうか疑問に思う。何でも自在に描ける才能を持っている者が、何世紀を隔てて世界のあらゆる地域の人々に共感を得る絵をものに出来るかどうかは別の問題で、厳しく言えば藤田の絵は表面的な巧みや楽しさは溢れてはいても、それだけにとどまるものを感じさせる。だが、日本がよくぞ20世紀に藤田を生んだことの意味は、今後ますます深くなることはあっても減少することはない。
 今回は、1章「エコール・ド・パリ」(1「パリとの出会い」、2「裸婦の世界」)、2章「中南米そして日本」(1「色彩の開花」、2「日本回帰」、3「戦時下で」)、3章「ふたたびパリへ」(1「夢と日常」、2「神への祈り」)と分けて展示があったが、最も面白く見たのは2章だ。そこにはコスモポリタンとしての藤田の面目がある。1931年、経済恐慌のパリを離れてブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルー、エクアドル、キューバ、パナマ、メキシコへと2年にわたる旅をしたが、インディオの工芸品や民族衣装に打たれたところは、モノに関心の強い性質からすれば当然のことであった。インディオを描いた作品は、サロンで人気を博した白人の裸婦とは対照的な力強いものばかりで、どんな場所に赴いても即座に環境に順応して作品をものに出来る性質があったことをよく示す。メキシコではパリ時代に知り合ったディエゴ・リベラの大壁画に刺激を受けたが、これが後に日本各地で大画面を描く契機になった。36年に描かれた「我が画室」は日本を新たな目で見つめる中で生まれた作品で、畳部屋に座る自身を描くが、背後には障子や筒描き藍染の大きな木綿壁掛けがあり、お膳にはエダマメ、魚、キュウリ、芋、茶碗など、日常の食卓のあらゆるものを描き込んで、パリ時代、南米時代と本質的には何ら変化がないことをよく示す。38年には沖縄に行き、そこでも染織品を初め、島の風俗を素材に盛んに取り上げたが、目にした珍しいものを描かずにはおれない様子を伝える。これら西欧以外を題材にした作品群は、まるで同族を見るような熱い眼差しがあって、筆者としては藤田の最も面白い絵の時期と見たい。また、同年には海軍の嘱託画家として中国に行くが、そこにしかない事物を描くことはやはり同じだ。そして、ついに戦争画がやって来る。藤田の戦争画がGHQに接収されてからようやく日本に戻って来たのは20年ほど前だったろうか。東京国立近代美術館に無期限に貸与され、東京でのみ展覧可能な状態になっているが、今回京都では4点が出品された。それが目的で訪れたようなものだが、結論から言えば、描く対象が変わっただけで、それ以前の藤田のままであることに感心した。日常の細々としたモノがここでは戦地で見られるものに変わっているだけの話だ。「神兵の救出到る」(44年)はよく整えられた映画のセットの一場面をそのまま描いたような作品で、立派な家具が置かれた洋間に兵隊が入り込もうとしていて、それに驚いた黒人女の使用人、床に転がるジョニ赤やオールド・パーの洋酒瓶、それに猫もいるなど、パリ時代のさまざまなモノを描き込んだ静物画とはそう遠くない。戦意高揚など藤田は眼中にはなく、とにかく新しい刺激を受けて、今までに描いたことのないものが描ければそれで満足であったはずだ。しかし、そのためには戦地にまで赴くという根性がやはり並みではない。戦後にフランス人に帰化してからは、子どもをよく描いたり、また宗教画をふたたび手がけるが、それらは緻密さの点で若い頃より一段と画業に専念していることを示す。だが、どこか硬直化した感じは否めない。妙な不気味さも内蔵しているようにも見える。藤田は何でも見てやろう、描いてやろうという精神の塊のような存在で、あらゆる事物に興味を抱いていた。確かに画家だが、崇高な芸術家と言うよりも、むしろ昔の画工の印象が強い。つまり描く職人だ。
 藤田は1937年に国際映画協会の依頼で日本文化を海外に紹介する映画「風俗日本」5巻を監督した。会場ではその中から現存する「子供編」(SONS AND DAUGHTERS OF THE RISING SUN)が繰り返し上映されていた。田舎の床屋でバリカンで丸刈りにされる子、チャンバラごっこや紙芝居、人形を背負って遊ぶ女の子など、みんなキモノ姿で今では古き日本だが、当時でも「しみじみとしたノスタルジーが感じられる」あるいは「日本が歪められて描かれ国辱的」の賛否の声があった。そうしたところからも、いかに藤田の人気が日本では別れていたかがわかるが、この短編映画で国際社会にどういう日本の姿を伝えたかったのかを改めて考えると、日本は世界から見れば一田舎ではあっても、独自のものがあるという思いであったろう。8分半ほどの短さでは監督としての才能を云々することは無謀だが、紙芝居の場面では三味線の伴奏がいたり、またチャンバラごっこでは最後に切腹の場面があるなど、外国人が見れば面白いものに仕上がっているだろう。最後に将来かなりの美人になると思える10歳ほどの可愛い女の子が妹や弟と手をつないで、「面白かったわね」と言うシーンがあるが、その一言が藤田の思いを代弁しているように思う。おそらく藤田は自分が面白いと思えるものしか表現しなかった。それが時としてあまりに無節操に見えるところが、日本で批判に晒されるひとつの理由でもあったのではないか。そんな藤田は人種差別主義者ではなく、どんな国のどんな人間にも関心を抱いたように思えるが、そういう開かれた考えの人間を戦前の日本は許容することは出来なかった。今もほとんど同じだが。ある意味では藤田を真に評価出来る日本になった時、日本の国際化が本物になり始めることではないだろうか。
by uuuzen | 2006-08-02 19:22 | ●展覧会SOON評SO ON
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