神戸には中華街があって、台湾料理店も見られるが、この展覧会はそうした神戸でこそ開催されてよかった。副題の「台湾の女性日本画家」とは、「台湾在住の日本の女流画家」か「台湾人女性の日本画家」なのか紛らわしいが、あえてどっちつかずの思いを伝えるためではないだろうか。
陳進(1907-98)という名前からは即座に後者だとわかるが、だが、そう断定するのもどこかおかしい。陳進は台湾が日本の統治下にあった時代に育ったから、台湾人でも国籍は日本だ。ちなみに韓国の併合は1910年で、台湾の場合は日清戦争の勝利によって1895年に譲渡があった。だが、中国人や山岳系住民の激しい抵抗が続き、武力鎮圧の結果、全土を支配出来たのは1915年のことだ。陳進は新竹(シンチュー)県の裕福な家庭に生まれた。同県は台湾北部の東側、つまり中国本土に近い方に位置する。父は有力者で、香山小学校を設立し、陳進はそこを卒業した後、台北第三高等女学校で日本画家の郷原古統に絵を教わった。卒業後25年に女子美術学校(現・女子美術大学)へ留学して本格的に日本画を学び、在学中の27年、第1回台湾美術展覧会に19歳で入選した。25歳で台湾東洋画部審査員になり、松林桂月、藤島武二などともに審査員を3回受け持つなどし、卒業後は鏑木清方門に入って清方や伊東深水、山川秀峰に学んだ。34年の第15回帝展に台湾女性として初入選、その後も帝展や文展で入選を重ねた。39年から深水が組織した青襟会展に参加したが、戦後台湾に戻った。46年に結婚、そして出産後も創作は続け、58年に第1回個展をし、その直後に胃病を患って仏画を描くようになる。96年に行政院文化賞を受賞し、後進の育成に努めたが、98年に台北で没した。概略は以上のような具合だが、日本の画家でも戦争を挟んで活動している場合は一筋縄で行かないのに、ましてや台湾、しかも女性はとなると、なおのことその生涯と制作は波瀾に富んでいるはずで、評価における難しい問題も孕んでいる。それをごく簡単に言えば、日本から見れば統治下における日本に学んだ才能ということで、日本画史の傍流として片づけらたり、統治側に学んだことが理由で、戦後の中国からは国辱的と無視されかねない事情があることだ。台湾は中華人民共和国に属していないため、後者の評価はまだ公ではないが、今後もし台湾が中国に復帰した場合、陳進の栄光が崩れ去らないとも限らない。そこから見えて来るのは政治の問題で、日本の外交も絡む。
芸術を政治問題に巻き込んではならないという見方があって、それはごく当然なことと思えるが、その一方で画家たちがたとえば帝展や文展という官制の公募展に応募して画家としての権威を身につけようとする場合、それは政情の動きと無縁ではいられない。陳進の父親はきっと親日的であったのだろう。そのためにも娘を日本にやってまで学ばせることにした。陳進の写真が何枚か展示してあったが、キモノ姿で銀座を歩く写真を見ていると、日本人女性と何ら変わらない。では陳進は台湾人としての自覚を失っていたかと言えばそうではない。描く美人画や風俗画はみな中国服を来た人物で、もっぱら日本画の技術のみをそっくり習得して中国人の生活を描いた。これは明治に渡仏した日本人洋画家とほとんど同じ位置にあったことになる。より進化している文化に学び、成果をそのまま自分の属する民族の文化発展に役立てる。これはあらゆる場面で見られることであって、ほとんど普遍的なことと言ってよいが、絵画における技術と、その表現されたものとが、完全に分離可能かと言えばこれは問題がある。ある技術はそれを生む限定的な地域と密接につながっているし、技術のみを抜き出してそれを無国籍的なものに位置づけることはほとんど出来ない相談だ。実際陳進の絵を見ていると、中国人の衣装や調度などを描いてはいても、同時に日本のどういう画家に学んだかが見えて仕方がない。これは師と崇める才能があれば当然のことであるし、それほどに陳進が学んだ戦前の日本では個性ある日本画家がたくさんいて、感化や影響を避けることが不可能であったためだ。さて、日本政府は1927年10月に第1回台展を開催し、東洋画と西洋画の二部に分けて作品を公募した。台湾の風土の特色を描いた地方色彩豊かな作品が求められる傾向があり、36年の10回展まで続いた。戦後は台湾は台展や府展の制度を踏襲して省展を開催し、東洋画部を国画部と改称したが、日本画的な作品はやがて大陸から戻って来た画家と論争になった。そして一時期東洋画の出品は不可となる。これも充分に想像出来ることだ。現在の台湾には親日派が多いとされるが、そうでない人もあるはずで、東洋画という言葉にかつての統治国日本の影を見る人は少なくないだろう。そこで77年になって林之助が油彩に対して「膠彩画」という名前を編み出した。81年には陳進、林玉山、林之助が「台湾膠彩画協会」を設立することになる。これは、日本画の技術だけをそのまま抽出するための格闘の歴史であったとも言える。「膠彩」つまり、膠と顔料という日本画の基本材料を名前にそのまま適用すれば、誰しも日本画との関連は言いにくくなる。膠と顔料で描く絵は日本画だけではないからだ。実際それはむしろ古代の中国やヨーロッパですでに使用されていた技術であり、油絵よりも歴史が古いと言ってよいかもしれない。そのままでは紙や布に固着しない顔料をどのような媒体で固着させるか。絵画制作の最も基本的なそうした原理に遡っての「膠彩画」の命名は、かつて日本から教えてもらった作画の技術を今一度さらに普遍的なものに高めようとの思いがあったゆえであろう。
今の日本画は顔料の厚塗りが主流になっていて、油彩に負けないようなマチエール感を求めている。顔料を膠でくっつけるということだけが日本画の特色と断言してしまえば、これは予想出来た帰結だ。だが、陳進の描く絵は戦前の日本画にそのまま連なるものだ。戦後は中国本土にあるような水墨に淡彩を加えたような作品も描いたが、基本は20代で学んだことをそのまま守った。どの絵も輪郭線がはっきりとしていて、その内部に平面的に着彩されている。題材は母親としての優しい眼差しを示すものや、またさらに中国的なものに傾いたが、それでも「日本画的な日本画」の感覚が見失われることはなかった。そこから見えることは、若い頃に学んだ憧れの日本や、そして厳しいながらも立派な絵を描いた師や先輩たちの後へ連なりたいといった、一種の望郷の念に似た思いだ。それを見ていて美しくも悲しくなる。陳進がもし日本生まれの日本人ならば何ら問題はなく、単に女流画家のひとりとして位置づけられた。だが、繰り返すように、陳進は台湾が独立した後も戦前の技術や作風をそのまま用い続けた。日本画を捨ててなぜ日本が統治する以前の中国絵画を学び直そうとしなかったのかという疑問も生ずるが、そこには台湾と本土中国との複雑な政治状況も絡むし、一方で日本には何の恨みもなく、むしろ絵の先達はみな素晴らしい才能を持っていたという虞れの感覚をただただ抱いていたからではないだろうか。これは日本のことを贔屓目に見過ぎと思われるかもしれないが、実際戦前の日本画の名作群は今となってはますます生み出せないものとなって来ているし、それは作品を見ればすぐにわかることだ。だが、一方で陳進は日本画の技術を用いながらも中国の美術がどうあるべきかを絶えず考えていたことであろう。それもまた絵からわかる。「膠彩画」は日本画よりもむしろ歴史の古い中国の絵にこそふさわしい言葉で、そのことは日本の絵というものが中国の存在がなければ生まれて来なかった事実からも言える。日本は江戸時代になってもまだ中国から脈々と影響を受け続けていた。あたりまえのことだが、陳進はそのことを知っていた。線描と着彩に関しても、たとえば清の皇帝の数々の朝服像の絵にも例があるし、わざわざ日本に来て学ばなくても中国にすべてがあったと言ってよい。だが、それらはほとんど材料的な面に限ってのことで、江戸時代以降、明治大正昭和初期とつながる日本画の独自の遺産を吸収するには、今とは違って情報が発達していないこともあって、やはり実作品を眼前にたくさん見、しかも直接な教えがなければ、つまり同じ空気を吸う場所にいなければどうにもならないものだ。だが、ここが難しいところで、陳進は学び過ぎたかもしれない。若い頃に受けた圧倒的な影響はその後の生涯をいやでも左右する。台湾の人物や風俗を描いていても、それは本物の日本画家が台湾に取材して描いた絵とどこが違うかわからないと言ってよい。それははたして陳進の望むところであったのだろうか。あるいは筆者の色眼鏡に過ぎないのだろうか。何となく台湾の現在の位置が象徴されているようで、見るのがつらいところもある。
17日に3つ目の展覧会として見たが、阪神の岩屋駅からでも10数分かかった。この館に関してはいつも文句を書くが、とにかく大きく、敷地に入ってからも最初の展示作品を見るまでに数百歩は歩かねばならない。館内はガラ空きで、他の日は知らないが、知名度のない画家でもあり、黒字は難しかったろう。5時10分から見始めたので、閉館まで50分しか時間がなかった。そのため後半の『陳進滞日時代の日本画』はほとんど小走りで見た。これだけでも足を運ぶ価値があったのに残念だ。前期と後期に分かれているものの、全部で48点で、1「陳進の帝展入選とその時代」、1「師たち」、3「陳進と同時代の女性画家たち」、4「異国へのまなざし」、5「陳進滞日時代の日本画-人物画を中心に」の5つに分けられていた。めぼしい名前を挙げると、北沢映月、北野恒富、寺島紫明、橋本明治、伊東小坡、中村大三郎、伊東深水、鏑木清方、松林桂月、山川秀峰、結城素明、上村松園、梶原緋佐子、木谷千種、島成園、三谷十糸子、山口蓬春、中村貞以などだ。筆者が知らない画家がちらほらいて、もっと時間がほしかった。また、どの作品もみな保存がとてもよく、今描いたかと思わせるものばかりで、絵具の剥落など陳進のやや古びた状態に見えることとはとても対象的で、なおさら陳進の作が田舎じみて見えた。だが、これは前述したように国策として日本政府があえて台湾色豊かな絵を奨励したところから仕方のないところがある。その点においても陳進がいかにも女性であることを認識させる。島成園のような突っ張ったところがあればどうであったかと思うが、そういう島成園も陳進が女子美にいる頃に夫と上海に暮らして中国人をモデルにした陳進のような日本画を描いているから面白い。陳進の顔写真を見ると、美人とは言えないが、品がよくて従順そうな感じがよく伝わる。息子を育てたが、理想的な母親であったことと思う。息子が成長してアメリカに赴任していた60年代末から70年代初頭、陳進も同地を訪れ、そして小品を描いている。これらは輪郭線を用いた格調の高さを目指した作品とは違って、もっと自由なタッチだ。それがいかにも絵を楽しんでいるようでとてもよかった。
陳進の展示は78点で、チラシに印刷されているふたつ折り屏風「合奏」(1934)のような大きい作品は30年代の5点のみだ。そのほかはたいてい縦横が1メートル以内に充分収まる額装作品だ。掛軸も5点あったが、それらは日本を題材にしたものが主で、例外的だ。今や日本でもそうだが、戦後の台湾の生活習慣からして掛軸はあまり求められなかったのだろう。戦前と戦後すぐとはほとんど作風に変化はない。だが、この時期の作は10数点であり、かなり物足りない。作品が失われたのか、持って来られなかったのか、どちらかはわからない。1950年以降の作品は50点強もあって、これでは滞日時代の日本画家の作品群と比べて見劣りするのはやむを得ない。人物画は台湾版の小倉遊亀といった感じの母子像や深水の美人画を思い起こさせるものがほとんどで、ほかにはさまざまな蘭を描いた作品や、蘭と女性を組み合わせたものが目立った。蘭は中国の文人趣味の題材だが、古典的な春蘭にはこだわらず、ピンク色のカトレアやローズ色の胡蝶蘭もあった。熱帯に近い台湾ではこうした蘭は珍しくないのだろう。ほかにサボテンの白い花や葡萄、黄菊も描いていた。若い頃は野外での写生を元にした作品もあったのに、やはり胃病のためか、60年代以降は室内で得られたモチーフが目立つ。玩具で遊ぶ男の子を描いた「みどりご」(1950)は迫力のある力作だが、ギターを弾く女性を描く「ギター」(1989)はどこかわざとらしさがあり、また人物の背後には琴を弾く日本人形がはっきりと描かれていて、台湾人が主であるとはいえ、その後方に日本の影を意識している様子が伝わる。掛軸の「華厳の滝」(1976)は、鳥瞰図的な視線が見えて面白い。シンメトリカルな構図で中央に白い滝の流れを描くが、なおそのうえに湖と山が見えている。ほかの掛軸も同じように左右対称を強く意識した構図になっていた。額装ではそうした構図はないので、掛軸だけは特別の思いがあったと見える。総括すれば、野心的な作品は戦前にあり、戦後は母として安定した生活の中で描く楽しみを味わいながら身近な題材を選んだ。そして日本やアメリカを訪れた時にはまた違った作品を生み出していて、これはさらにそうした自由が許せばもっと多彩な展開をしたであろうことを思わせて惜しい。陳進の台湾における影響力を何も知らない筆者としては、今の若い画家たちがどのような絵を描いているのかに関心がある。まさか現在の日本画にあるような100号や150号サイズの絵具の厚塗り画面を歓迎しているのではないことを願う。